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越後路・出雲崎・市振
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酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(はるばる)のおもひ胸(むね)をいたましめて、加賀の府まで百十里と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に到る。此の間九日、暑湿(しよしつ)の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡に横たふ天の河
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出雲崎 [地図]
芭蕉は、出羽の国(山形県)から越後路に入ってから、15日間ほどは何も記していない。「暑湿(しょしつ)の労に神をなやまし、病おこりて事を記さず」とある。暑さにやられたのと持病がおきたためといっている。
鼠(ねず)の関を出てからは、村上に泊まり瀬波に遊び、新潟を通って弥彦の明神にも参詣している。さらに寺泊をへて出雲崎に宿泊、その夜は雨が強く降ったと「曾良旅日記」にはある。
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出雲崎の良寛資料館裏の高台より。 |
海が荒れていたかどうかはわからないが、強い雨のなかで佐渡を望むことも天の川を見ることもできなかったはずだ。芭蕉は出雲崎で「荒海や佐渡によこたふ天河」と詠んだ。この有名な句は写実であるよりも虚構に近いものだといわれているが、実景以上に実景らしい。佐渡の流人の島としての悲しい歴史と旅情と乾坤の銀河。出雲崎で佐渡を眺めると、この句の絵画的イメージが実感でき、見る人を無条件に納得させてしまう。
地元の人に聞くと、夏のこの時期、佐渡海峡は風も吹かず、波もほとんどない穏やかな日が多いという。ただ、佐渡が見えてもいつも水蒸気にかすんでいて、島影程度しかみえないとのこと。また、天の川は夏の時期は芭蕉が云うように、本土から島の方に橋を渡すように横たわって見えるが、ただ、残念なことに町の灯りや街灯で昔より天の川が見えにくくなっているという。
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「芭蕉園」という公園のなかの俳文「銀河の序」を刻んだ句碑 |
現代人はすでに「乾坤の変」に出会うことも、「風流の誠」を実感する機会も失われてしまったのだろうか。
芭蕉園
新潟県出雲崎町住吉町、海岸から一本入った道に面している。1689年(元禄2)7月、芭蕉が奥の細道行脚の途中、この地に立ち寄り、「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を残した。芭蕉の俳文「銀河の序」を刻んだ句碑が立つ。
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「銀河の序」
北陸道に行脚(あんぎゃ)して、越後の国出雲崎といふ所に泊まる。彼(かの)佐渡がしまは、海の面(おもて)十八里、滄波(そうは)を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難(けんなん)の隈隈(くまぐま)まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此嶋は、こがねおほく出(いで)て、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度(めでたき)島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流(おんる)せらるるによりて、ただおそろしき名の聞こえあるも、本意(ほい)なき事におもひて、窓押開きて、暫時(ざんじ)の旅愁(りょしゅう)をいたはらんむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴(さへ)たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨(すみ)の袂(たもと)なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。
あら海や佐渡に横たふあまの川
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芭蕉園の芭蕉銅像。 なんだか子供に髭をはやして、老けさせたような感じの像。 |
芭蕉の「あら海や佐渡に横たふあまの川」は、おそらく芭蕉の優れた句の中でも、さらに秀逸と感じる人が多いのではないか。芭蕉ごのみのわびさびの世界とは一味違う、哀しい歴史を背景にした佐渡と大いなる宇宙的な「乾坤の変」(自然の変化)への現前を詠んでいる。しみじみとした味わいは少ないが、「荒海」と「天の川」に、桑門乞食の草枕の切なさと醍醐味がストレートに表現されているように思う。
私のささやかな経験でも、小さなテントの寝袋から顔を出して見上げた時の天の川は、いまでも震えるような感動を与えてくれる。そしてなぜか心細くて切なくて叫びたくなるものなのだ。
芭蕉は、「銀河の序」にあるように、黄金を産する佐渡が島ではあるが、「朝敵」流人の島の歴史により多くの思いを寄せているように思う。朝敵として配流された罪人が京に思いをはせて見上げた時の満天の星と天の川、その同じ星と天の川をみて芭蕉も涙するのだった。
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良寛資料館裏の高台にある良寛と子供たちの像。 |
出雲崎は良寛の古里である。
良寛資料館裏の高台にある良寛と子供たちの像。
良寛資料館は芭蕉園の後ろにある高台で、歩いて5分。出雲崎の町は、すぐ後ろに崖のような高台が続き、町は崖と浜の間に細長く伸びている。
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良寛資料館にある良寛の住んだお堂のイメージか。 |
町のたたずまいは江戸時代の漁業と宿場の町の面影をそのまま引きずっているように見えた。良寛も芭蕉もこの町とこの海をみていたのだろう。
良寛は芭蕉について次のようなことをいっている。「芭蕉の前に芭蕉なし、芭蕉の後に芭蕉なし」。良寛はまた、俳人であり歌人でもあった。
良寛堂
良寛堂は、良寛の生家である橘屋の屋敷跡に立っている。橘屋は、代々出雲崎で名主を務めてきた家柄で、1758年(宝暦8)この地に生まれ、光照寺に入るまでの18年間を過ごした。良寛の母の国、佐渡島を背景にして海に浮かんで見え、素朴で優美な建物。1922年(大正11)築。
良寛の母は佐渡・相川の人で、良寛は「たらちねの 母が形見と朝夕に 佐渡の島辺を うち見つるかも」と歌う。良寛の生家のあった場所に建てられている。
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良寛の生家の跡に建てられた良寛堂。すっきりしていてとてもかっこいい。 |
出雲崎を立った芭蕉は柏崎に入った。天候は朝まで雨が降り、しばらく止んではまた降り出すといった状態だった。柏崎の庄屋の「天や弥惣米兵衛」に紹介状が届いていたが宿を求めるとあまりいい返事をしなかったようだ。芭蕉は不快に思いその家を出てしまった。後で二度ほど引き留める人がきたが、芭蕉は戻らなかった。何があったのだろうか。
芭蕉は小雨のなか鉢崎まできて宿を求めている。 また、今町(今の直江津)でも紹介状を出して宿を請うたが忌中ということでいい返事がなかったので、芭蕉はまたも不快に思い、出てしまった。その話しを聞いた主人はすぐに人を出して詫びを入れ戻ってくれるように頼んだが、芭蕉は聞き入れない。再三にわたり人が来て是非戻ってほしいと頼み込んだようだ。また、雨も降り出してきた。曾良は気が気ではなかった。雨の中、次の宿を探さなければならならないのか。
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芭蕉は、越後・高田で数日宿泊し、歌仙もまいている。ここで、面白い句でもものしてくれるとよかったのだが、「おくのほそ道」での越後滞在の記録がほとんどないのが、越後人としてはかなしい。後世の越後・上越の人も後味の悪い思いをしなくて済んだのだが。
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芭蕉はここでようやく引き留めに応じたようだ。「幸ト帰ル」と曾良旅日記にはある。曾良のやれやれといった思いが伝わってくる。
日光で自分のことを「桑門の乞食巡礼のごとき人」といっている芭蕉なのに、さすがの芭蕉も切れた?それほど応対が悪かったのか、芭蕉の虫のいどころが悪かったのか。宿の主人が再三人を出して引き留めているのに芭蕉は戻らなかった。それほどの侮辱、屈辱だったのか、雨中の旅程に疲弊した芭蕉の精神に何かがおこったのか。「無知無分別にして正直偏固の者」「剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清貧」の者に対しては、「桑門の乞食巡礼のごとき人」として対応するが、そうでない人に対しては。さすがに俳諧の有力な師匠としての顔が出てしまうのか。芭蕉も人の子、さすがに人間的な素顔を出たような気がする。
結局、越後で は秀句「荒海や佐渡に横たふ天の河」のみが収穫として残ることになった。
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親不知の海岸線。国道・高速道路・北陸本線がもつれ合って通る。 |
親不知
北アルプス・飛騨山脈が日本海に落ち込むところに親知らずがある。数キロにわたつて山が海岸線にせり出し、波が来ると道もなくなってしまうようなところに越後新潟と越中富山を結ぶ街道があった。現在は国道8号線がとおり、高速道路の北陸道が海に橋を架けて続いている。JRの北陸本線も通っている。3本の線が数キロの間絡み合いながら続いているまことに奇妙な空間。日本の代表的な奇観のひとつにちがいない。
波が来るとなくなってしまう道、足を踏み外したら即日本海となる道、たしかにここは「親知らず子知らず」。
親不知を越え坂道を下ると、すぐ市振の街道松が見えてくる。芭蕉はここで宿泊する。
新潟県では最西端の集落で、富山県との県境は市振の駅の西1キロメートルほどのところにある境川となっている。
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今日は親知らず子知らず・犬もどり・駒(こま)がへしなどいふ北国一の難所をこえて疲れ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間隔てて面の方に、若き女の声二人ばかりと聞ゆ。年老いたるをのこの声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、此の関までをのこの送りて、あすは故郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白波のよする汀に身をはふらかし、蜑(あま)のこの世をあさましう下りて、定めなき契日々の業因いかにつたなしと、物いふを聞く聞く寝入りて、あした旅立つに、我々に向ひて、行方知らぬ旅路のうさ、余り覚束なうかなしく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍らん。
衣のうへの御情に、大慈のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給へ」と泪(なみだ)を落す。不便の事には侍れども、我々は所々にてとゞまる方多し、只人の行くに任せて行くべし、神明の加護必ず恙(つゝが)なかるべしと云ひすてて出でつゝ、哀れさ暫らく止まざりけらし。
一家に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば書きとゞめ侍る
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市振の宿の入り口。 松と手前の井戸が当時の宿場をしのばせる。 |
市振の宿の入り口。何もない日本海の宿場だが、芭蕉の句ひとつでその名を歴史に留めることになった。
「萩と月」というのがなんだが、わかったようでわからない。新潟の二人の遊女の名前だろうか、宿には萩の花咲き、月が出ていた夜のことだった、ということなのだろうか。
本当は、「一家に遊女とねたり萩と月」だったのではないかという人もいるようだ。 芭蕉も人の子、旅にもだいぶ疲れてきたことでもあるし、お酒でも飲んで、遊女といろいろなことがあっても、何も問題はない。旅は、どうしても人をそういう気分にさせてしまうものだ。
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蕪村の「奥の細道絵図」より、市振での若い女二人の図。新潟からお伊勢参りに出た遊女だという。 |
家並みはもちろん現代の民家だが、雰囲気は街道の宿場そのまんま。 写真は芭蕉が宿泊した桔梗屋の跡。バス亭といっしょに碑が立っているだけ。
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句碑のある長円寺の入り口 |
国道8号線を挟んで、山側に長円寺、海側に市振の家並みがある。長円寺には、「一つ家に遊女も・・・」の句碑がある。芭蕉の妄想か風狂の狂句か。はたまた・・・。
おくの細道の最後に越後のはずれの親知らずの先の市振の宿で、芭蕉は味な演出をしたということだろう。新潟の若い2人の遊女がお伊勢参りにいくという。ここまで送ってくた老人は新潟に引き返すという。
「白波のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、蜑(あま)のこの世をあさましう下りて、定めなき契日々の業因いかにつたなしと、物いふを聞く聞く寝入りて、あした旅立つに、我々に向ひて、行方知らぬ旅路のうさ、余り覚束なうかなしく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍らん。衣のうへの御情に、大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と泪を落す。」と芭蕉は記す。
下の写真は長円寺の「一家に遊女もねたり萩と月」石碑。
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長円寺の「一家に遊女もねたり萩と月」石碑 |
芭蕉はこの旅に先立つ「野ざらし紀行」の中で、富士川の渡しの捨て子について書いている。
「不便の事には侍れども、我々は所々にてとゞまる方多し、只人の行くに任せて行くべし、神明の加護必ず恙(つゝが)なかるべし」と云ひ捨てて分かれて出るのだが「哀れさ暫らくやまざりけらし」と憐憫の情を吐露する。
悲しげに泣く3つの子に、捨てた親を恨むな、自分の運命のつたなさを泣けとして、通り過ぎている。この話しも芭蕉的虚構と云われているが、市振の遊女の話と似ている。
捨て子を拾っても、遊女を連れ立ってもまっとうできるものでもないし、責任のもてることでもない。中途半端な情けをかけるより、黙って捨て去る。捨身無常の運命観か。
旅も終わりに近づいたのだから、「遊女も」を「遊女と」としたほうが面白いのではという意見もある。それでは即物的すきて風雅ではない。
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「市振の関」跡 |
芭蕉は「曾良にかたれば書きとゞめ侍る」とあるが曾良旅日記にはそのような記述はなく、その他の資料にもそれにふれた記述はないようだ。
芭蕉の妄想としかいいようがないが、風狂の趣向として面白い。俳句の風雅のためには、それが事実である必要はない。雨続きの越後の旅の最後に、ひとつの花を添えた感じだが、芭蕉の風狂の精神のなせるわざか。
宿場の外れ、校庭に食い込んで「市振の関」跡がある。
今年もまた8月15日がやってきた。日本はいまだ自分の歴史と真正面から向き合えないでいる。私の仕事の組み立ても、難しさを増し行き詰ってきている。
自力作善いいではないか煩悩凡夫
まためぐりくる8月の誰と語らん戦後61年
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photo by miura 2006.8
象潟へ |
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