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マラケシュ

10.マラケシュ



 クトゥビーヤ・モスクにはミナレットがついている。旧市街のシンボルともなっている。異教徒は中に入れない。

 モロッコ中央部の都市マラケシュ。アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置し、「南の真珠」と呼ばれている。マラケシュは、ベルベル語で「神の国」を意味する。2012年の人口はおよそ90万人で、カサブランカとラバト、フェズにつぐモロッコ第4の都市である。
 アトラス山脈のうち最も険しい大アトラス山脈の北に位置する。マラケシュの南45kmには北アフリカ最高峰のトゥブカル山 (4165m) がそびえる。町の東側にはイシル川が流れ、大西洋に注ぐテンシフト川につながる。郊外にはオアシスが点在する。

 1147年、ムワッヒド朝の君主、アブド=アル=ムーミニーンが建てたクトゥビーヤ・モスクのミナレットは、77mでマラケシュの旧市街の象徴的な建造物である。


「死人の集会所」フナ広場

 マラケシュは東西2km、南北3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなる。新市街の西端にマラケシュ駅が位置する。旧市街は北アフリカでも最大の規模であり、王宮のほか、バイア宮殿、エルバディ宮殿、サアド朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などを含む。

 ジャマ・エル・フナ広場はかつて公開処刑場だった。昼間は大道芸人などがパフォーマンスを繰り広げ、夜ともなると食べ物を売る屋台が出て、まるで祭りのようなにぎわいが明け方近くまで続くという。

 2009年、無形文化遺産に登録されたジャマ・エル・フナ広場。夜の賑わいは格別である。特に目を引くのは食べ物のテント村。かなり本格的な調理場があり、しっかりと料理しているように見える。タジン鍋料理、クスクス、スープ、魚料理などだが、外見からは何の料理やスープなのかわからない。たくさんのモロッコ人や観光客が群がって食べていた。モロッコ料理やアフリカ料理などに自信のない人、私は残念なことに見ているだけでおなか一杯になってしまった。

  ここに来る途中のバスの中で、松田聖子のマラケシュの歌が流れていた。聖子さんがそんな歌も歌っているだという感じだが、 なかなかよかった。聖子さんが歌うくらいこの街が世界の人々から愛されているのがわかる。


アフリカ音楽?モロッコ音楽?ベルベル音楽?

 マラケシュの中心にある、ジャマ・エル・フナ広場。
昼間は大道芸、夜は屋台が出て大変な賑わいを見せている。ベルベル人のグループが太鼓音楽を演じていたが、土着性の強いアフリカ音楽で、いまひとつ良さがわからない。


フナ広場の一角のレストラン?のような場所。この複雑な建物の構造が何とも言えないモロッコ的な味か。

 昼間のフナ広場。昨夜の喧噪がうそのよう。立ち並んでいたテントの出店はすべてかたずけられ、そのあとは清掃されていた。


世界遺産 旧市街・バヒア宮殿

 バヒア宮殿は、19世紀末、宰相アリ=バハメットの私邸として建てられたという。広大な中庭庭園に4人の妃と24人の側室とかの部屋を配した建物。スペインのアルハンブラ宮殿とも比較されるようだが、当時はもっと豪華だったのだろう。

 中庭の植物に囲まれた噴水。これもイスラム建築のひとつの典型。砂漠の民にとって水の流れる庭園は住居としての理想だったのだろう。
 中庭の噴水だけでなく、柱から天井までイスラム風の幾何学模様のタイルや造形で埋め尽くされている。


竹林やサボテンなど世界各地の植物配置されており、鮮やかな色彩にあふれている。

マジョレル庭園

 イヴ・サンローランが愛した庭園としても有名で、庭園内にはサンローランの作品を見られる。1920年代にフランス人画家のジャック・マジョレル氏が造園。植物収集家でもあった彼は世界各地から植物を取り寄せて、異国情緒あふれる空間を造り上げた。マジョレル氏の死後、1980年にデザイナーのイヴ・サンローラン氏とピエール・ベルジュ氏が買い取って改修し、今に至っている。

 庭園に入ると目の前に広がるのは竹林。まるで日本庭園のような不思議な感覚。色の配置は奇妙な感じだが悪くはない。しかし、竹林とサボテンの林が同居ししている風景はどうもいただけない。青い住居も庭園とマッチしているとは思えない。


青一色の住居とサボテンの配置はいかがなものか。

竹林に差し込む光は、なるほどよい演出。

アルガンの木の乗ったヤギ
 

ヤギが木に登っている。
 アルガンの木の実はヤギが好んで食べるという。そのためアルガンの木にヤギが登って実を食べることもあるのだという。本当か嘘かはわからない。
  アルガンの木にヤギを無理やり乗せて、観光客に有料写真をとらせている。カメラを向けると係りの人が飛んできてDHを取られる。タバコを出してのもうとしても、周りの男たちが飛んできてオレにも1本くれ、という。1本上げたら男たちに取り囲まれてしまった。
 ヤギは、これが仕事とあきらめているようで、乗せられた木の枝の上でおとなしくしていた。観光のためとはいえ動物虐待のようにもみえるのだが、ヤギたちは殊勝にも勤めを果たしていた。

 

 

 

11.エッサウィラ 世界遺産 旧市街地



広く大きな白い砂浜がどこまでも続いている。

 エッサウィラの歴史は古く、沖合いのモガドール島からローマ時代のヴィラが発見されている。現在の町並みが形成されたのは1765年からで、その港は漁業、商業の中心地となっている。

  21世紀現在は世界遺産であるとともに、リゾート地としての側面と芸術の町という評価もあわせ持つ。
 ヨーロッパの影響を受けた白い町並みが美しい。
 なぜか、 1960年代から70年代前半かけて世界で流行ったヒッピー発祥の地たともいわれている。ヨーロッパの若者たちの避難先、逃避先だったのだろう。素行が悪く風紀が乱れたためか、ピッピー達はここから追い出されてしまったらしい。

 


比較的整備されていて上品な感じの旧市街地。

 旧市街地の中庭のようなところでは、レストランや喫茶店が店を開いている。いかにも海浜モロッコ風の街並みを楽しみながら観光客がビールを飲んでいた。


お店もやや上品な感じ。

 
  旧市街地の家の中には、古い建物の壁を何度も作り直していい感じになっているところもあった。
   

12.アル・ジャディーダ 世界遺産 旧市街メディナ



この街随一のカメラスポット。右端の新婚旅行?のカップルが写真をいっぱい撮っていて動かない。

アル・ジャディーダ 世界遺産 旧市街メディナ

 アル・ジャディーダは、モロッコ人、古代ローマ人、ポルトガル人などがめいめいに呼んできたため、いくつかの異称を持っている。マザガン(マサガン)もその一つ。この町の最古の言及者は、カルタゴの航海者ハンノらしい。
  時代が下ると、戦略上の重要性からポルトガル人がこの町を占拠した。彼らは、1506年頃にマサガン砦を築き、1542年には町自体が要塞化され、分厚い壁がぐるりと取り囲む堅牢なシタデル(城塞都市)となった。

 モロッコは長い間街からポルトガル人を追い出そうとし、2世紀の間、絶えず攻撃を仕掛けたが、都市はこれに抵抗した。
 1769年にシディ・モハメド・ベン・アブダラ によって都市は陥落し、ポルトガル人は撤退した。なお、最後の攻撃に先立って、現地責任者は都市から撤退するように命令を受けており、全ての城壁に爆薬を仕込んでいったため、城壁が壊れた際の爆発で多くの犠牲者が出た。この時期から19世紀初頭までは、アル・ジャディーダはマフドゥマという名だった。

 


ヨーロッパ風リソートの地だが、アフリカ土俗的土偶を売りにするお店も。面白そうなものがたくさんあったのでいくつか買おうと思ったのだが、モロッコのイメージとあまり結びつかないので止めてしまった。ちょっと後悔。

 1832年にスルタンのアブデラフマーヌが城塞の再建を決めるとともに、町の名前をアル・ジャディーダ(「新しいもの」)と改称した。
 19世紀後半にはアル・ジャディーダの旧市街にユダヤ人たちが押し寄せてユダヤ人街を形成したが、1950年代に退去した。


海に面した分厚い防壁

 フランスの保護下にあった1912年に、町は再びマザガンと改称した。その後都市は急速に膨張し、ポルトガル人が築いた城塞都市の外に新市街を形成していった。フランス人は、この美しい町、特に穏やかな気候と美しい砂浜に魅せられたので、町は海水浴場として賑わった。

 モロッコが独立した1956年に、町は再びアル・ジャディーダと改称した。

 今日のアル・ジャディーダはポルトガル人が築いた城塞都市を訪れる歴史愛好家、オーソン・ウェルズの足跡を辿る映画ファン、そして数え切れない避暑客たちを引き寄せる都市となっている。また、毎年8月には10万人以上の人出で賑わう祭り (moussem de Moulay Abdellah Amghar) が行われる。

 


城塞には古い大砲が当時のままのように残されていた。


 少年がウミネコと語らいながら餌をあげていた。


 モロッコの海浜レストランで食事やお酒を楽しみながら無駄に時間を過ごすというのが、ベストなモロッコの楽しみ方だとか。


「MAR」というレストラン。
 ポルトガル語の「Mar」は日本語の「海」。「氷川丸」など船名の「丸」はポルトガル語の「Mar」から来ているとか。

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