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1.モロッコの旅



モロッコの首都ラバトにある「ハッサンの塔」。世界最大のミナレットを目指していたが地震で半分になってしまったという。

  北アフリカに行ってみたいと思っていた。本当は、地中海に面した中東へ行ってみたいといいたいのだが、そこは戦火が絶えない。とてもノーテンキな旅行などしている場所ではない。
 モロッコ・アルジェリア・チュニジア・リビアは、北アフリカ・イスラム圏だが、地中海を挟んでEUとの関係も深い。この辺りの旅が面白くないわけがない。(エジプトの魅力はいうまでもないが、いつかもう一度訪ねたいと思っている。)
 2010年ころから始まった反政府抗議運動=「アラブの春」は混乱を極め、挫折したようにも見える。大規模な抗議運動が起きたアルジェリア、「アラブの春」のきっかけになった「ジャスミン革命」のチュニジア、政権が打倒されたリビア・エジプト。アラブ世界の民主化運動からスタートしたが、スンナ派とシーア派の対立やアルカイダ系の介入、さらにISの台頭など、この辺りでは民主化といっても容易なことではない。
 ということで、比較的政情の安定しているモロッコの旅ということになった。


フェスの旧市街地の入口ブージェルード門。フェズの旧市街は世界一の迷宮都市と言われる。「迷宮都市」、なんと魅力的で甘美なひびき。

 モロッコでも「アラブの春」は起きた。若者達数千人が、国王権限の縮小を盛りこんだ新憲法の制定を要求するデモを起こした。当初ムハンマド6世はデモに譲歩しない姿勢を明らかにしたが、最終的には国王権限を縮小し議会権限を拡大することに合意した。モロッコでは王政批判はタブーだが、強大な王政を制限しつつ王政を維持した民主化が緩やかに進んでいきそうだ。

 先史時代、モロッコのあたりにはベルベル人という民族が住んでいた。
 レバノンから到来したフェニキア人がカルタゴを建設すると、その後カルタゴのフェニキア人はモロッコ沿岸部にも港湾都市を築いた。内陸部ではベルベル人が王国を築いていた。

 旧市街地でよく見かけるケーキ屋さん。ギュッとした。店頭の展示用ケーキに虫か飛び回り、ケーキに群がっていた。聞くとハエではなくハチの一種で、ハチも群がるほど蜂蜜たっぷり、おいしいケーキということの証明になっているのだという。なるほどモロッコはケーキの宣伝でも飛んでいる。

 紀元前146年の第三次ポエニ戦争でカルタゴが敗れると、モロッコはローマの支配下にはいることになる。ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡ってアフリカに入ってきた。モロッコは再び東ローマ帝国の下に置かれた。

どこの街に行っても猫は愛されている。


アル・ジャディーダの海岸。ポルトガルの城塞、フランスの保護下の街としてヨーロッパ人の避暑地として有名。

 7世紀にアラビア半島でイスラーム教が成立すると、710年にアラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越えてイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。
 モロッコは、植民地ではないが保護領時代(1912年-1956年) 1912年にフランス保護領モロッコ、スペイン保護領モロッコ、タンジールの3区域に分割された。スルターンの形式的な主権の下で、各国による植民地支配が行われた。
 モロッコの独立後、1956年4月7日にスペインはセウタ、メリリャ、イフニの「飛び地領」とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄し、国際管理都市となっていたタンジールも10月にモロッコ領に復帰した。

 現在のモロッコは、ムハンマド6世の立憲王政。人口3,300万人。
 条件の良い平野部の土地を中心にアラブ人が暮らし、アトラス山脈の住民の大半がベルベル人である。2/3がアラブ人、1/3がベルベル人あるいはその混血がほとんどと言われる事が多いが、実際のところは両者の混血が進んでいる。外見的な特徴や違いはないようだ。 公用語はアラビア語とベルベル語。

 耕地面積は国土の21%を占める。世界第7位のオリーブ、第9位のサイザルアサ、世界シェア1%を超える農作物は、テンサイ(456万トン、1.9%)、オレンジ(124万トン、1.5%)、トマト(120万トン、1.0%)、ナツメヤシ(6万9000トン、1.0%)がある。主要穀物の栽培量は乾燥に強い小麦(304万トン)、次いでジャガイモ(144万トン)、大麦(110万トン)。

 西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)の領有権の問題。モロッコが実効支配しているが、世界の国はそれを認めていない。日本も認めていない。解決は容易ではない。

2.ラバト  

ハッサンの塔から見た城塞都市ラバト

 人口 100 万人を超えるモロッコの首都である。ローマ帝国は紀元40年に現在のモロッコにあたるこの地域をマウレタニア・ティンギタナ属州として帝国内に組み込み、シェラをローマ人の定住地に変えた。250年まではローマの植民市の状態が続き、その後この地を放棄した。
 その後ラバトは低迷期を迎える。ムワッヒド朝はイベリア半島の、次いでマグリブでの領地を次々に失い、13世紀には経済の中心もフェズに移った。
 1515年、この地を通ったムーア人の探検家は「ラバトには100世帯しか残っていない」と記しているほどラバトは衰退した。17世紀、スペインを追放されたモリスコたちが入植し、ラバトの復興の土台となった。


ムハンマド5世廟の外観


ムハンマド5世廟の内部

ムハンマド5世廟

 ムハンマド5世は、フランスの植民地となっていたモロッコを独立に導いた英雄である。
 廟はイスラム的なシンプルさでかっこいい。廟の四つの入り口と内部の四隅には衛兵が立っていて、これもまたかっこいい。見目麗しい好青年が選ばれているようだ。観光客は列をなして衛兵と並んで写真を撮っていた。


 内部は、廟にしては絢爛豪華。国王の力の大きさなのだろうが、お金の使い過ぎでは。王の施設は国内にたくさんあり、警察や軍隊などの多数が警護していて目立つ。税金をこんなところに使っていてよいものか。


ムハンマド5世廟の天井

 廟の内部も美しい。定時になるとコーランを詠む人が出てきて、荘厳な雰囲気の中でコーランが流れる。運よく、コーランの読経をきくことができた。何をいっているのかさっぱりわからない。面白くて5分ほど録音したが、まだまだ続きそうなので途中で打ち切った。


44mのハッサンの塔

ハッサンの塔

 12 世紀末に、預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫にあたるマンスールは、世界最大級のモスクの建設などにも着手し、世界最大のミナレットになる予定だったが、完成することはなかった。マンスールの死によっ世界最高のミナレットも完成せず「ハサン塔」として現存している。
 88mの世界一高いミナレットにする予定だったが、1755年のリスボン大地震により44mの高さになってしまったという。なにか古代ローマ遺跡のような雰囲気だが、四角い塔の威容はま違いなくイスラムのもの。

 ハッサンの塔の前の噴水が美しい。モザイクのデザインがすばらしい噴水。観光用に作られたものか。

 塔を写真で観たりすると小さく感じられるが、側によるとその巨大さがわかる。88mの予定が40mになってしまったということだが、虚飾を排した素朴な宗教的な威厳が迫ってくる。

   
photo by miura 2017.10 mail:お問い合わせ
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