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西行 小夜の中山と奥州の旅



小夜(佐夜)の中山は、日坂と菊川を結ぶ峠道で、箱根・鈴鹿とともにその険しさで東海道の三大難所といわれていた。現在は牧之原台地の一角にあり一面の茶畑となっているが、平安末期はどうだったのだろう。かなり寂しく険しい、山賊でも出そうな山道だったのだろうか。

命なりけり小夜の中山  [地図]

 1143年、西行26歳、最初の奥州の旅に出る。23歳で出家してから3年が過ぎていた。西行はなぜ奥州の旅に出たのだろうか、その理由ははっきりしない。尊敬する能因法師など先輩たちの歌枕を訪ねる旅だったといわれているが、目的もさだかではない漂白の旅だったともいわれる。

 1186年、文治二年、西行69歳、2回目の奥州の旅である。二度目の旅の目的ははっきりしている。東大寺の大仏建立のための勧進の旅だった。 東大寺再興の沙金(砂金)勧進のため、奥州平泉への旅に出発し、鎌倉にて源頼朝と会談した(吾妻鏡)。頼朝に旅の趣旨を説明し了解を得るためだったといわれている。頼朝は西行に歌道や弓馬についていろいろ尋ねた。西行は歌についてはほとんど話さなかったが流鏑馬については、夜遅くまでしっかりと教えたようだ。

 西行の佐藤家は、平泉の藤原家と遠縁の関係にあって、1回目の旅でも平泉を訪ねていただろう。2回目の旅でも、西行は平泉で藤原秀衡に会い、東大寺再建の勧進の目的を果たすことができた。秀衡は砂金を鎌倉に届け、鎌倉はこれを後白河政庁に届けた。


掛川市小夜鹿字小夜鹿、小夜の中山峠の道路沿いにある小さな公園。その入り口に写真のような西行の「としたけて・・・」の句碑がある。

 小夜の中山の峠道沿いに、すぐに眼につく「西行歌碑」がある。写真の碑の向こうの家は「子育て飴」という水飴を売っている扇屋で、江戸時代には峠のあっちこっちにこのような茶店があったという。
 この茶店の道路を挟んだ正面に「西行歌碑」があり、「小夜の中山公園」へと続いている。

 東海道が開かれるのは鎌倉幕府が鎌倉に開かれてからで、その前までは鈴鹿峠より東はほとんど未開の地だったようだ。西行が東国に下ったときには東海道は、かなり心細い道中であったことが予想される。
 この小夜の中山の峠道は、西行にとってもつらいものだったようだ。2回目の奥州行は69歳の時であり、ほとんど死を覚悟しての旅だった。その西行にとって、生きてふたたびこの峠を越すことになろうとは、感慨ひとしおだったのだろう。


字が大きく読みやすい歌碑。達筆で何と書いてあるかわからない碑が多い中で、とても好ましい。

 西行は、小夜の中山で次のような有名な歌を残している。

あづまのかたへ相識りたる人のもとへまかりけるに、小夜の中山見しことの昔になりたるける思ひ出でられて
年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山 (「西行上人集」475)
風になびく 富士のけぶりの 空に消えて 行方も知らぬ わが思ひかな  (「西行上人集」346)

 この2つの歌はとも西行きっての秀歌といえるだろう。「年たけて」はいかにも69歳の西行だが、「行方も知らぬ わが思ひ」は、出家時23歳の西行の歌だといってもおかしくないほど、青年のようなういういしい不安と諦念のような思いが詠われている。


西行の「行方も知らぬわが思い」の歌碑。

 「小夜の中山公園」へと続く坂道の途中には、年季の入った石の五輪塔や地蔵さんがころがっている。このあたり一帯は経塚と言われており、この近くにある久延寺が戦火で焼失した時に、多数の経典が灰になりここに埋められたと伝えられている。
 丘を上りつめたところに左の写真のような歌碑が2つ立っている。
  一つは 「風になびく 富士のけぶりの 空に消えて 行方も知らぬ わが思ひかな」であり、もう一つは、為仲が掛川市の小夜の中山で詠んだ和歌
旅寝する 小夜の中山さよ中に 鹿ぞ鳴くなる 妻や恋しき」である。
 歌碑の文字が達筆すぎて何と書いてあるのかよくわからない。こういう書体は現代人にはつらい。分かる人にしか分からない。なんとかならないものか。


芭蕉の「命なり」の句碑。

芭蕉の「命なり」

 小夜の中山公園を後にして、日坂方面に向かって旧東海道を1.5Kmほど進んでいくと、芭蕉の「涼み松」があったといわれる場所がある。
そこに芭蕉の句碑がある。

命なりわずかの笠の下涼み 

 「のざらし紀行」の中にはないが、小夜の中山で詠んだといわれる句である。
 「命なり」は、芭蕉が師とする西行の「年たけてまたこゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山 」の「命なりけり」によるものとされる。
 西行は老体に鞭打っての峠越えに、芭蕉は暑い盛りの小さな涼みに、ともに「命」を感じている。表現者がストレートに命を詠うのはすっきりとしてよいものだ。いや芭蕉の句がすっきりしているためか。


「涼み松」から見た風景。整備された茶畑が美しい。

 碑の傍に松の木が2本植えられている。まだ小さくて下涼みできる状態ではないが、かって大きな松の木があったのだという。芭蕉がその松の下で涼んだのだのだろう。

 私は、お昼のおにぎりをほおばりながら、句を読み返す。さわやかな天気のせいだろうか、なかなかに、西行の「命なりけり」の感慨が身にしみてこない。芭蕉の笠は自分で「笠はり」したものだろうか。芭蕉の「命なり」は、「わずかの笠」の下にあって涼んでいて、俳諧のいい味を出している。
 日差しは強いが渡る風が快い。

芭蕉の「野ざらし紀行」へ


鴫立沢の西行庵。西行の像が安置されている。
心なき身の鴫立沢 

秋、ものへまかりける道にて
心なき 身にもあはれは しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮 (470)

 鴫立庵は、神奈川県大磯町大磯1289にある。JR大磯駅から、国道1号線沿いに二宮駅方向にあるいて10分程のところ。
 鴫立庵は、寛文4年に、西行のこの歌にちなんで昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの大磯の地にあり、そこに鴫立沢の標石を建てたのだという。
 西行の「心なき身」とは、無常観や空しい心象というより、出家して世俗への執着を断ち切ったような、断ち切ろうとして断ち切れていないような、そんな心象をいうようだ。しみじみと、身にしみていい歌だと思う。

「西行の鴫立沢」へ


「江の島弁財天道標と西行もどり松」

西行戻り松

 湘南モノレールの終点。湘南江ノ島駅の近く、本蓮寺の前の通りに面して「西行戻り松」がある。平安・鎌倉時代の話にしては、松の木が細く小さい。
 案内板には次のようにある。
「江の島弁財天道標と西行もどり松
杉山検校が建てた道標のうち、この道標には「西行もどり松」と刻まれています。もどり松は、見返り松、ねじり松とも呼ばれ、枝はが西に傾いているのが特徴です。昔、西行法師が東国に下った際、この松の枝ぶりの見事さに都恋しくなり思わず見返って枝を西にねじったと伝えられています。また、法師がこの松で出会った童に行く先をたずねたところ、「夏枯れて冬ほき草を刈りにいく」と麦刈に行くことを歌で答えたので、恐れをなした法師は歌行脚をやめて都へ引き返したともいわれています。もとは本蓮寺の門の脇にあったものです。
平成五年二月   藤沢市教育委員会」

 「枝はが西に傾いているのが特徴」というが、この松はとてもそんな風には見えない。ただ幹が途中で左に傾いているが、この方向が西なのだろうか。
 この看板の説明では、都が恋しくて帰りたがっている西行と、童の歌に恐れをなして都へ帰った西行とがいる。これは何を意味しているのだろう。
 松が西に曲がっていてどうして西に帰りたいとなるのか、童のどうでもよいような歌で西行ともあろう人がどうして恐れをなして引き返さなくてはならないのか。この種の言い伝えは、よくわからないことが多い。
 都から来たそれなりの貴人の流離・流寓にまつわる話、地方の土着民と都から来た異人との関係の話、これらには何かドロドロした深い関係性が潜んでいるようだ。この話の続きは、「松島の西行戻し松」で。

 


鎌倉・鶴岡八幡宮の鳥居。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 鶴岡八幡宮の鳥居のあたりでうろうろしていた老僧は、何をしに鎌倉にきたのだろうか。東大寺沙金勧請のため奥州藤原氏を訪ねることの報告と道中安全の保証のためだったはず。それなのに、頼朝との会談の席での西行の対応が、なんともつっけんどんで、ほとんどけんか腰になっている。もらった銀猫も遊んでいた子供に投げ捨てるようにあげてしまう。
 西行は、優柔不断で煮え切らない態度の反面、ふてぶてしい、「たてだてしい」(強情で腹を立てやすい。かどかどしい。)といった態度をみせることもあったようだ。文覚上人との出会いや頼朝との会談も「たてだてしい」西行が出たのだろうか。それにしても「吾妻鏡」の記述が実にあやしい。


鎌倉にて頼朝と会談

 西行の源頼朝との出会いは、なんとも不思議な感じがする。
 西行は頼朝や鎌倉については何も語っていないが、鎌倉幕府の歴史書である「吾妻鏡」には次のようにある。
 頼朝が鶴ケ丘八幡宮に参拝しているときに、鳥居のあたりに怪しい老僧が徘徊していた。「佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行云云。」だという。頼朝はこれを御所に招いて歓談に及んだ。頼朝は、歌道と兵法(弓馬)について詳しく尋ねたいといった。すると西行は、秀郷以来の家伝の兵法書についは、罪業の因縁を作る要因となるので出家したときに全て焼き払ってしまった、心に残っていたことも全て忘れ去ってしまった、と答えた。また歌道については、奥義などというものはない。ただ花や月を見て心に感ずるままに三十一にまとめて書き連ねるだけのことで、人に教えるほどのものは何もない、と答えた。しかし熱心に頼朝が聞くので、兵法についてはつぶさに話し、これを俊兼に書き取らせた。この歓談は夜遅くまで続いた。
 翌日午前十一時、西行上人は、引き留められたが、退出した。頼朝はお礼に銀の猫を西行上人に賜った。ところが西行はこの猫を通りで遊んでいた幼子に与えて去った。西行上人の今回の旅に付いては、重源上人の願いを引き受けて東大寺の沙金勧請のために奥州に向かうためで、その途中で鶴岡八幡宮に寄ったようだ。

 西行の頼朝への受け答えがなんとも怪しい。西行は鳥羽院の北面の武人上がりであり、平清盛ともそれなりの関係をもっていた。郷里の田仲の荘も平氏の庇護を受けていた。当然に、平家により近しいものを感じていた。それに対して、源氏については木曽義仲など、西行の毛嫌いのようなものが感じられる。頼朝についても源氏の元締めとして、積極的な好感はなかっただろう。
 陸奥守秀衡は、西行法師の遠戚の一族であるが、源平の争いには関わらず、また頼朝とは距離を置いていて、対立的な関係にもあった。
 西行は、平泉の藤原秀衡とは遠戚であり、かっては北面の武人であり、崇徳院や鳥羽院に仕え、平清盛とも親交があった。新興の関東武士勢力より、朝廷や平家に近しいものを感じていたはずだ。それでも鎌倉を訪ねたのは、誤解のないように、平泉への東大寺沙金勧請の報告と道中の安全の保証と鎌倉・平泉関係の現状認識のためだったのだろう。「吾妻鏡」の記述があやしいのは、西行と鎌倉幕府との微妙な関係を反映しているためだろうか。
 西行が頼朝に教えたことは唯一弓馬の事だったようだが、頼朝は翌年、鶴岡八幡宮に流鏑馬を奉納したという。

 晩年の西行は、高野山での争いの調停(失敗したが)や東大寺沙金勧請など、漂泊の旅とか隠遁とか数寄の歌人とかいうだけでなく、社会との関わりも引き受けようとしていたことがわかる。西行は決して草庵隠遁、漂泊行脚の歌人だけだったわけではない。自らに降りかかる社会的・政治的関係性はしっかりと受け止めている。頼朝への面会・挨拶の場面でも、西行が個人的な思いや感情を抑えて、けなげにも必死に職務を遂行しようとしているように見えて、ほほえましい。

 


遊行柳の遠景。


道の辺の遊行柳
 [地図]

 「遊行柳」は、奥州街道の芦野から田のあぜ道を約200m入ったところにある。 みちのくの歌枕の情景として最もぴったりする景色のひとつである。稲穂の波の中に大きな柳の木が2本たっている風景は、すがすがしく美しくしい。今も昔も変わらぬ東北のいや日本の原風景のひとつにちがいない。
 「遊行柳」の風景は、芭蕉の句のイメージが最も鮮やかに生きていて、私の好きな風景のひとつ。2年続けてこの場を尋ねた。

 遊行柳の根元の田のすぐ横に石碑が立っている。芭蕉の句である。

田一枚植えて立去る柳かな

 芭蕉のこの句は、西行の次の歌に基づいている。


西行の歌碑、「道の辺に 清水ながるる 柳蔭 しばしとてこそ 立ちとまりつれ」 (新古今集 262)

道の辺に 清水ながるる 柳蔭 しばしとてこそ 立ちとまりつれ (新古今集 262)

 芭蕉の「田一枚」は、西行のこの歌と謡曲「遊行柳」があってはじめて、この句の味がわかるというもの。
 謡曲「遊行柳」は、遊行上人(時宗の開祖、一遍上人のことか)が諸国巡歴している時、白川の関のあたりで老婆に呼び止められ、「道の辺に清水流るる柳かげ」と西行が詠んだ銘木の柳の前に案内され、そのあまりに古ぼけた様子に上人が10回念仏を授けると老婆は消えた。 夜更けに、上人が回向すると再び老婆が現れ、極楽往生できたことを喜び、そのお礼に幽女の舞を舞う、というもの。
 大きな柳の木が2本ある。何代目かの遊行柳なのだろう。

芭蕉の遊行柳へ


白河の関の入り口?

 

心を留むる白川の関 [地図]

みちの国へ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が「秋風ぞ吹く」と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
白川の 関屋を月の もる影は 人の心を 留むるなりけり (1126)

 西行もまた、能因をものすごく意識している。いや、能因の歌枕を追いかけての旅というのがあたっているようだ。

能因法師の歌
都おば霞とともにたちしかど
     秋風ぞ吹く白川の関

 そして芭蕉が「おくのほそ道」で西行の後を追う。さらに現代の野次馬たちが。


白河の関跡か
 

「心許なき日かず重なるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。・・・」(「おくのほそ道」)。芭蕉もいちおう、白川の関にたった感慨を名文調で表現したが、句はよんでいない。
曾良の「卯の花をかざしに関の睛着かな」をあげているだけ。
 江戸時代には、この関はなかったし、ここ以北を異境とする感覚はなくなっていただろう。ここでの芭蕉の句はない。
 「『白河の関いかにこえつるや』と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばわれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかいう思ひめぐらさず。」としながらも、
風流の初めやおくの田植うた
 曾良がうまい句を作ったが、芭蕉はなぜか「風流や・・・」と白川の関のあたりの田植歌を聞いて風流の旅のはじまり、と感じたままを詠んだ。芭蕉の風流心がみちのくと都とのありきたりの表現に納得せず、この句しか許さなかったのだろう。

 


芭蕉は「笠島はいづこさ月のぬかり道」と詠んだ。 芭蕉は五月のぬかり道の中で笠島を訪ねることができなかったが、西行はここを探しあてられたようだ。実際はどうだったのか不明だが。


その名ばかりの笠島
 [地図]

 

藤原実方は、藤原一門のなかでも由緒ある家柄の生まれで、美貌と風流を兼ね備えた貴公子、源氏物語の光源氏のモデルともいわれている。「歌枕見て参れ」との勅命で各地の名所旧跡を訪ね歩いた。名取郡笠島道祖神の前で落馬し、それがもとでこの地でなくなったと伝えられている。
 この辺りは小山が田のなかへ入り江ように入り込んでいる地形で、案内の看板がないと笠島の場所は分かりにくい。写真は笠島の入り口となっている竹やぶ。 芭蕉は、五月雨のぬかり道の中で、とうとう歌枕の笠島を探し当てることができなかったようだ。
 現在は案内板も出ていて、整備されているので探しやすいが、中将実方朝臣の墓は写真のような、小さな盛り土でしかない。木の囲いや記念石碑があるからそれとわかるが、囲いがなければ小さな盛り土でしかない。当時は竹やぶやすすきに覆われていたのではないか。これでは見つけられない。仕方ないので、芭蕉も「いずこさ月のぬかり道」と調子のよい句をひねった。

 


笠島・藤原実方の墓の入り口にある「かたみのすすき」。まことに残念な気配ではある。

 「みちのくににまかりけるに、野中に、常よりもとおぼしき塚の見えれるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すはこれが事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。そらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜枯れの薄ほのぼのと見え渡りて、後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて
朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 形見にぞ見る
」(800)

 この西行と芭蕉の句のせいで、塚はよく整備されていて、雰囲気は楽しむことができる。入り口には西行の歌に寄せて、ススキが植えられていた。左の写真だが、「かたみのすすき」という看板が立っていた。歌枕といわれるものの現実をみた思いがした。


松島の「西行戻しの松」 。西行戻し松公園の中にあり、ここからの松島の景色は一見の価値あり。
「西行戻しの松」は、地元の地霊との交流と和解のかたちか、うとまれる英雄の宿命か。


西行戻し松公園から見た松島。


松島の「西行戻しの
松」

 西行は平泉の途中、松島にも立ち寄ったのだろうか。松島海岸駅の裏山に「西行戻し松公園」がある。ここでも「西行戻し」の伝説があるようだ。
 案内板には次のようにある。

「西行戻しの松
歌人西行(1118〜1190)がこの地にて「月にそふ桂男(かつらおとこ)のかよひ来てすすきはらむは誰が子なるらん」と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて「雨もふり雲もかかり霧も降りてはらむすすきは誰れが子なるらん」と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業をしているのかと聞くと「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味がわからなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。西行に関するこのような伝説は各地にあり、古くから語り継がれている。(*桂男=美男子 *業=仕事 *冬萌(ほ)きて夏枯れ草=麦)
平成17年6月 松島町教育委員会 」

 歌聖とまでいわれる西行が、「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈りにいくといったような、歌とも戯言ともつかないような童のことばに、どうして恐れをなして引き返すといった伝説が残るのか。

 高橋英夫著「西行」(岩波新書)では、「西行伝説」の章で、柳田国男の「伝説」(岩波新書)の結びの記述を引いて、つぎのようにいっている。
 「たとへば宗祇戻りや西行法師閉口の歌のように、行脚の歌人が牛飼童、又はあやしの賤(しず)の女(め)と問答して、田舎にも知恵の秀でた者があるのに喫驚し、高慢の鼻をへし折られたといふ話などは、今でもその田舎の人が楽しんで聞いている。是は謡曲の「白楽天」が小国の文才を試みに来たという話も同系で、多くは土地の神祗が仮に児女老翁に姿を現じて、外の侮りを防いでくだされた・・・」とし、西行の場合は貴人というほどでもないので、貴種琉離譚の主人公ではなく「見る人」、「見者の流離」だった。笑われる西行は、地霊もしくはその化身としての土地の幼児や女から笑われることで、自らはかりそめに衆庶のレヴェルに立ち、土地との和解をもたらした、という。
 だが、西行は貴種でもなく地元の人々の側にもたっていない。西行はどちらからも自由である自由な見者、だというのだ。
 うぅーん、これはわかったようでよくわからない。
 そこでもうひとつ。

 吉本隆明は「西行論」・「僧形論」のなかで次のようなヒントを記している。
 「英雄の本質的な特性は、猛々しさにあるというよりも、<うとまれる>というところにあった。西行は、この系列の伝説では、鳥羽院の中宮に想いを懸けて、むくいられず出家遁世してしまう。中宮は、ただ西行が、勝手に自分に恋を寄せ、自滅してしまうのを惜しんで、西行に遇う機会を与えてやる。「盛衰記」(源平盛衰記)のなかでは、一夜だけの契りさえ与える。また、「お伽草子」では、後になって僧形の西行と歌の応答をとげることにもなっている。けれど、貴種の女から同情をよせられるという説話こそが<うとまれる>ことの本質であった。」
 うぅーん、やはりよくわからない。


高館より北上川を望む。右手に束稲(たばしね) 山が続く。


平泉 [地図]

 西行が出た佐藤家と平泉の藤原家とは遠縁である。
 西行の家系は、むかで退治で有名な俵藤太秀郷にさかのぼる。秀郷は左大臣藤原魚名の流れで、平将門の乱を平定した勇者である。
その秀郷の子に千晴・千常の兄弟がおり、前者の家系は、奥州平泉の藤原三代となって栄華を誇り、後者は鎮守府将軍に任ぜられて東国一円に勢力をのばした。西行は千常から八代目の孫に当たる。
 西行は、二度の奥州行で藤原秀衡を訪ねたものと思われる。二度目は東大寺再建の砂金勧進が目的で、 秀衡は西行の申し出を快諾したものと思われる。秀衡は砂金を鎌倉に届け、鎌倉はこれを後白河政庁に届けた。

 西行は平泉で次のような歌を詠んでいる。


北上川と束稲(たばしね) 山。高館より。

中尊寺の参道の途中にある西行歌碑「聞きもせず束稲山の桜花・・・」

「十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまはしたる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀(なぎさ)氷りてとりわけさびしければ
とりわきて 心もしみて冴えぞわたる 衣河見にきたる 今日しも」(1131)

「みちのくにに、平泉にむかひて、たはしねと申す山の侍るに、こと木は少なきやうに、桜のかぎり見えて、花の咲きたるを見てよめる
聞きもせず 束稲(たばしね) 山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは」(1442)

 衣川は、上の写真の左手より北上川に流れ込んでいる。当時の衣川がどのあたりを指していたのかはわからないが、高館より見た北上川がふさわしいように思う。
 最果て奥州衣川、その時、雪が吹雪いていた。雪にけぶる衣川をみた西行の心象風景は、心にしみていっそう冴えわたる。

 束稲(たばしね) 山は、当時は、吉野にも劣らない桜の名所だったようだ。吉野の桜を愛好してやまない西行は束稲山の桜に心動かされたようだ。白洲正子氏の話では、桜の木は山火事にあって、とうの昔に消え失せてしまったようだ。

 近年は、西行の桜を復興させようと植樹がおこなわれているとか。


中尊寺・金色堂への入り口。

 吉本隆明は、状況への人間の関与の仕方は3つある。
(1)相対感情揺れ動くルター型
(2)秩序を構成してそこに居座るトマス・アキナス型
(3)権力への加担を拒否し、積極的に秩序からの疎外者となるフランシスコ型(ちよっと違うような気がするが)
というようなことを「マチウ書試論」で言っている。若いころはかぶれたものだが、西行はさしずめ(1)相対感情揺れ動くルター型といったところか。西行は詩歌にも優れており、貴族的美意識への逃避や草庵隠者といった生き方もしている。その反面、出自は荘園領主であり、崇徳院とも深くかかわり、清盛ともコネクションをもち、高野山、奥州藤原氏とも姻戚関係にあり、頼朝にも一目おかれ、現実の政治にもずぶずぶの関係を持っていた。これらが、西行という生き方の不思議さや多様な面白さの魅力的な源泉になっているのだろう。

 

 奥州平泉の藤原氏の栄華をみて、西行は何をおもったのか。 俵藤太秀郷による平将門の乱の平定や前九年・後三年の役などにも、思いをはせたのだろうか。それとも暗雲が覆う鎌倉・平泉の関係にまた繰り返す戦役の惨禍を見ていたのだろうか。

 出家し世を捨てた西行には、平泉の藤原氏の栄華をみても、むしろ無常観を深くするばかりで心を動かされることはなかったのではないか。特に、金色堂のような西方浄土を願う人の願いの切なさとはかなさに、西行はただ口を閉じるしかなかったのではないか。

 二度目の平泉では、頼朝から逃れた義経が、西行と前後して、平泉に藤原氏に保護を求めている。西行は、ここで義経に会ったのだろうか。
 その可能性もないではないが、西行は何も語っていない。もし出会ったとしても平家贔屓の西行と平家を滅ぼし、ついには自分も権力から追われる身になった義経との間に、どのような会話が成り立ち得ただろうか。
  だが、西行は、しっかりと眼前の歴史の展開を見つめていたのではないか。西行はまたしても、茫然とたたずみ、黙って去っていくしかなかった。

photo by miura 2010.8
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