佛日山金福寺パンブレットより

洛東芭蕉庵再興記

四明山下の西南一条寺村に禪坊あり、金福寺(こんぷくじ)といふ。土人口稱(こうしょう)して芭蕉庵と呼。階前より翆微(すいび)に入こと二十歩、一塊の丘あり。すなわち芭蕉庵の遺蹟なりとぞ。もとより閑寂玄隠(かんじゃくげんいん)の地にして、緑苔(りょくたい)や、百年の人跡を埋むといへども、幽篁(ゆうこう)なを一爐の茶烟(さえん)をふくむがごとし。水行き雲とどまり、樹老鳥眠りて、しきりに懐古の情に堪ず。やうやく長安名利の境を離るといへども、ひたぶるに俗塵をいとふとしもあらず。鶏犬(けいけん)の聲籬(こえまがき)をへだて、樵牧(しょうぼく)の路門(みちもん)をめぐり。豆腐賣小家も近く、酒を沽(か)ふ肆(みせ)も遠きにあらず。されば詞人吟(しじんぎん)客の相往来して、半日の閑を貪るたよりもよく、飢をふせぐもふけも自在なるべし。
抑(そもそも)いつの比(ころ)よりさはとなへ来りけるにや、草かる童(わらべ)麥うつ女にも芭蕉庵を問へばかならずかしこを指す。むべ古き名なりけらし。さるを人其(その)ゆへをしらず。竊(ひそか)に聞(きく)、いにしへ鉄舟といへる大徳(だいとこ)、此寺に住給ひけるが、別に一室を此ところに構へ、手自(てづから)雪炊(せっすい)の貧をたのしび、客を謝してふかくかきこもりおはしけるが、蕉翁の句を聞ては涙(なみだ)うちこぼしつつ、あな尊(たう)と忘機逃禅(まうきたうぜん)の郷を得たりとて、つねに口ずさびたまひけるとぞ。其比や蕉翁山城(やましろ)の東西に吟行して、清瀧の浪に眼裏の塵を洗ひ、嵐山の雲に代謝の時を感じ、或は丈山(じょうざん)の夏衣に薫風万里の快哉を賦し、長嘯(ちょうしょう)の古墳に寒夜獨行の鉢たたきを憐み、あるは薦(こも)を着てたれ人いますとうちうめかれしより、きのふや霍(つる)をぬすまれしと、孤山(こざん)の風流を奪ひ、大日枝(おおひえ)のふもとに杖を曳ては、麻のたもとに暁天の霞をはらひ、白河の山越して、湖水一望のうちに杜甫が眦(まなじり)を決(さき)、つゐに、から崎の松の朧朧(ろうろう)たるに一世の妙境を極め給ひけん。
されば都径徊(けいかい)のたよりよければとて、おりおり此岩阿(がんあ)に憩ひ給ひけるにや。さるを枯野の夢のあとなくなりたまひしのち、かの大徳ふかくなげきて、すなはち草堂を芭蕉庵と号(なづ)け、なほ翁の風韻をしたひ、遺忘にそなへたまひけるなるべし。雨をよろこぼひて亭に名いふなど、異(とつ)くににもさるためし多かるとぞ。しかはあれど、此ところにて蕉翁の口号(こうごう)也と、世にきこゆるもあらず。ましてかい給へるものの筆のかたみだになければ、いちじるくあらそひはつべくも覚えね。住侶(じゅうりょ)松宗師の曰、さりや、うき我をさびしがらせよと、わび申されたるかんこどりのおぼつかなきは、此山寺に入おはしてのすさみなるよし此ころまで世にありし耆老(きろう)の、ふみのみちにも心かしこきが、物語し侍りし。されば露霜(つゆじも)のきへやらぬ墨の色めでたく、年月流去水(ながれさるみず)くきの跡、などかのこらざるべき。さるを無功徳の宗風こころ猛(たけ)く、不立字(ふりゅうじ)の見解(けんげ)まなこきらめき、佛経聖典もすてて長物とす。いかでさばかりの物たくはへ蔵(をさ)むべきなんど、いとそうぞうしき狂漢のために、いたずらに塵壺(ぢんこ)の底にくち、等閑に紙魚(しみ)のやどりとほろびにけん、びんなきわざなりなどかなしび聞ゆ。よしや、さは追ふべくもあらず。ただかかる勝地に、かかるたとき名ののこりたるを、只にうちすてをかたむこと、罪さへおそろしく侍れば、やがて同志の人々をかたらひ、かたのことくの、一艸屋(いっそうおく)を再興して、ほととぎす待卯月(うづき)のはじめ、をじかなく長月のすゑ、かならず此寺に會して、翁の高風を仰ぐこととはなりぬ。再興發起の魁首(かいしゅ)は、自在庵道立子なり。道立子の大祖父担庵先生は、蕉翁のもろこしのふみ學びたまへりける師にておはしけるとぞ。されば道立子の此挙にあづかり給ふも、大かたならぬすくせのちぎりなりかし。
 天明辛丑五月下八日  平安 夜半亭蕪村慎識(つつしんでしるす)

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