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「鹿島紀行(かしまきこう)」  
1687年 芭蕉44歳


深川の臨川寺
深川の臨川寺。芭蕉はここで仏頂和尚から禅の手ほどきを受けた。

「かしま紀行」

 「野ざらし紀行」を終えて2年後、芭蕉44歳。深川に移ってから、落ち込んでいた芭蕉が禅の手ほどきを受けてお世話になった人に、臨川寺の仏頂和尚がいる。その、鹿島の根本寺に戻った仏頂和尚から、月を見にいらっしゃい、という誘いの手紙が届いた。深川での生活を始めてから7年すぎた貞亨4年(1687年)、芭蕉は曾良、宗波を伴い、月見をかねて鹿島の根本寺の仏頂和尚を訪ねた。

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臨川寺の小さな庭
臨川寺の小さな庭

 鹿島の根本寺の住職だった仏頂和尚は、江戸に来ているときは臨川寺(上の写真)に住んでいた。当時は、寺というよりは臨川庵といった感じだったようだ。清澄公園の正門の近くにあるが、表通りに面している。
 仏頂和尚は足掛け9年に及ぶ鹿島神宮との裁判を闘っていた。芭蕉庵と臨川庵は小名木川を挟んですぐ近くにあり、芭蕉は禅を教えてもらいながら、俳諧を教えていたようだ。
 仏頂和尚は、鹿島の根本寺が徳川家康から鹿島神社の100石の所領をいただいたが、それが鹿島神宮に戻されていることを訴えていた。仏頂和尚はその裁判を勝ち抜いたあと隠居し、行脚の生活をしていたようだ。黒羽の雲厳寺の山居はいつ頃のことになるのだろうか。

芭蕉庵の近くの小名木川
芭蕉庵の近くの小名木川 。昔と変わらず?船着き場がある。

 芭蕉は、8月14日、芭蕉庵から船で小名木川を通って行徳へ向かった。行徳からは、八幡、鎌ヶ谷を通って布佐(我孫子)まで歩いた。布佐から利根川を舟で下り、佐原からは潮来を経て大船津で下船した。

 左の写真は小名木川の舟のりば。小名木川をたどって行徳までいけたようだ。周りにはビルやマンションが立ち並び芭蕉の時代の風情を楽しむことはできない。


 下の写真は、布佐付近の手賀沼と利根川を結んでいる水路。紀行文によると、芭蕉たちは、布佐の漁師の家で泊まろうとするが、生臭くてたまらない。月が隈なく照らしている夜、芭蕉たちは逃げ出して舟で鹿島に向かったとある。

布佐付近の手賀沼と利根川を結んでいる水路
布佐付近の手賀沼と利根川を結んでいる水路

 芭蕉が訪れた頃の利根川の雰囲気を残している?風の音がそぞろに寂しい。

鹿島の根本寺
鹿島の根本寺

 15日、鹿島の根本寺(茨城県鹿嶋市宮中)に仏頂和尚を訪ね、観月にのぞむも、曇りか雨。根本寺は、林を背景にこじんまりとした境内。左下の写真は本堂の右手にある句碑。

月はやし梢は雨を持ちながら ばせを

 根本寺のさっばりとした境内。裏山の上には現在は高校がある。ここから1.5Km先に鹿島神宮の鳥居がある。芭蕉はこのお寺さんで仏頂和尚と観月を楽しんだのだろう。

下の句碑は、「寺に寝てまこと顔なる月見かな」。

 「かしま紀行」は「鹿島詣」ともいうが、鹿島神宮に詣でることが目的ではなかった。芭蕉は1週間あまりこのあたりに滞在しているので、鹿島神宮にも詣でただろう。

「月はやし梢は雨を持ちながら」
「月はやし梢は雨を持ちながら」 ばせを
「寺に寝てまこと顔なる月見かな
「寺に寝てまこと顔なる月見かな」
句碑
鹿島神宮
鹿島神宮の参道。

鹿島神宮。
 芭蕉たちもここを訪れたことだろう。建物はそれほど大きくはないが、境内の林の規模が大きい。伊勢神宮のような森の広がりを感じさせるが、これが鹿島灘に面しているとは。

 鹿島神宮は、香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であった。ともに武芸の神様を祭っている。また、地震を鎮守する神様としても伝わっている。

 鎌足神社 根本寺の横にある小さなお宮さん。
「鎌足神社」とある。ここに藤原鎌足の生家があったのだという。に藤原鎌足の生誕地はここと奈良県橿原市の2つの説があるという。
   
photo by miura 2008.5
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