8.「しほり」と「細み」、「わび」と「さび」
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「或人の句はしほりなし。しほらんずるが故にしほりなし」 。唐突にさりげなく「しほり」という言葉が使われているが、次のような文もある。
野明曰、句のしほり、細みとは、いかなるものにや。去来曰、句のしほりは憐(あはれ)なる句にあらず。細みは便りなき句に非ず。そのし
ほりは句の姿に有り。細みは句意に有り。 是又証句をあげて弁ず。
鳥共も寝入て居るか余吾の海 路通
此句細み有りと評し給ひし也。
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
先師曰、此句しほり有りと評し給ひしと也。惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭 に應しがたし。只先師の評ある句をあげて語り侍るのみ。他はおてしらるべし。
(「去来抄」の「修行教」より)
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「しほり」(しをり)は全訳古語辞典では、「作者の繊細で情趣をもった心が、句の余情としてかもしだされること」として、「単に「あはれ」な句ではなく「あはれ」と思う心のはたらきが句に表れる」こととしている。「曲折ある撓(しな・たわむ)った表現の意。」「憐(あはれ)なる句にあらず」、「しほりは句の姿にあり」。つまり「しほり」とは、余情を醸し出した、しなった句の姿であり、「あはれ」と思う心のはたらきが表れている句、ということになろうか。
「あはれ」は多義的な言葉であり、平安時代からの日本人の美的表現である。「ああ」という感動詞に始まり、しみじみとした情趣、寂しさ・悲しさ、愛情・人情・情けなどの意味があるようだ。芭蕉は、「あはれ」の俳諧的美的表現として「しほり」という言葉を使っている。
「しほらんずるが故にしほりなし」。ここでも私意による作為が嫌われる。
芭蕉は、 「十団子も小粒になりぬ秋の風 許六」の句が、「しほりありと評し」ている。 この頃団子が小粒になったように感じられて寂しい、といった句のどこが「しほり」なのか。どうも「あはれ」に「おかしみ」、滑稽の味付けが効いているようだ。
しかし芭蕉は「しほりは句の姿に有り。細みは句意に有り」といっている。「句の姿」とは何を指しているのか。
「ほそみ」(細み)という言葉がある。同じ古語辞典では「句が、内容的に深まり、繊細でしみじみとした趣が表現されたもの」としている。
「しほりは憐なる句にあらず。細みは便りなき句にあらず。そのしほりは句の姿にあり。細みは句意にあり。」 やはり、芭蕉が例としてあげた句を鑑賞するしかない。
「鳥共も寝入て居るか余吾の海 路通
先師、此句細みありと評し給ひし」 とある。
同じ「去来抄」の「修行教」で、次のようにも云っている。
野明曰、句のさびはいかなるものにや。去来曰、 さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば、老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有るがごとし。賑やかなる句にも、静かなる句にもあるもの也。今一句をあおぐ。
花守や白き頭をつき合せ 去来
先師曰、寂色よく顕はれ、悦べると也。
(「去来抄」の「修行教」より)
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「しほり・ほそみ・さび」 までくると、芭蕉ワールドと呼ばれる俳諧の真髄に近くなるが、かなりマニアックな領域に踏み込むことになり、素人の手におえるものではなくなる。直感的には、とても私のレベルの作句の枝折になるものではない。
さらに芭蕉が試みた「かるみ」という作句方法がある。眼前のことをわかりやすい日常語でストレートに表現しようとすることだが、「高く心を悟る」ことなしには至りえない境地であり、この芭蕉の「かるみ」の境地は、理解はできても作句においては、私にはほとんど別世界の高みのように思われる。その高みには容易には到りえないが、芭蕉が目指した俳諧世界がどういうものなのかは感ずることができる。
芭蕉は「侘び」という言葉が好きだが、「寂び」という表現はあまり使っていない。現代においては「侘び」も「寂び」もほとんど区別がつかない。がセットが使われることが多いようだ。去来は「さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば、老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有るがごとし。」といっている。「さび」は単に「閑寂なる」をいうのではない。晴れやかや賑やかな中もに「老い」の姿があるがごとくである。
芭蕉の句はすべて「わび・さび」の世界ともいえるのだが、取り分けて句をあげるとすると、
「侘てすめ月侘斎がなら茶歌」
「芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞夜哉」
「あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉」
「世にふるもさらに宗祇のやどり(しぐれ)哉」
「我宿は蚊のちいさきを馳走かな」
「憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥」(「嵯峨野」)
「さびしさなくば住み憂からまし 」(西行)
「わび・さび」は、死すべきものとしての人間のもう少し本源的な在り方のように思う。避けようもないエントロピー、連続性の崩れ、老いと病と死と、そして貧しく孤独な生活の中にあって、なんとか心の充実と行為の内的な充足に美を見出そうとする生き方。
「わび・さび」については、茶や和歌などにいろいろ歴史的な見方があるのだろうが、まあそのようなものとして、個人の側に引き寄せて理解しておくしかない。ただ、老人には「わび・さび」の世界が近しく感じられ、その美しさにうっとりしてしまうのは、やはり枯れてきたせいだろうか。生きとし生けるもの、逃れえぬ「老・病・死」に、あわれみといとおしみを感じるのは日本人特有の仏教的心象のせいだろうか。
私の「わび・さび」の気分としては、私としては、志し破れて閑寂に沈んでいても、そのような自分を自己嘲笑や諦念のうちに、その境遇もまたよしとして楽しむような心のもちよう、といったところだろうか。若い時の蹉跌、遂げられなかった思い、告げられなかった言葉、見失った希望のようなもの。まあ、そういう気分を引きずりながら生きていくしかないと観念して、その寂しさのようなものを胸に抱くのはきらいではない。だが、芭蕉のように、漂白風狂の世捨て人という立ち位置に居直って生きるほどの才能も度胸もない。
芭蕉の心象は平穏・繁栄の「近世」ではなく、人の死が日常的であった戦乱・無常の「中世的」だといわれる。芭蕉が尊敬する宗祇、西行も、明日をも知れぬ戦乱の世を生き抜いていくなかで己の表現を磨いてきた。芭蕉の漂白の思い、捨身無常の思いも、それに連なっていくものなのだろう。
「わび・さび」や「捨てる」という芭蕉の生き方に、人はなぜ惹かれるのか。経済活動優先、企業文化、拝金主義、効率化・合理化、快適さや豊かさの欲望追求社会。そのような社会のなかで生活に疲れ果てた人々は、立ち止まってふっと振り返る。そういう生き方ではない、人としての別の生き方があるのではないか、自分の内の自然性はそうではない生き方を求めているのではないか。
しかし、現代社会のなかで「わび・さび」の俳句は可能なのだろうか。挫折や失敗や失望や、うまくいかない人生における連続性の崩れ、無常感や死すべきものの観念が、何かの転機になることもある。
晩年の芭蕉は、「わび・さび」などの重い句から「かるみ」に移ろうとしていたように思う。
9.「かるみ」へ
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「木のもとハ汁も鱠(なます)もさくら哉
この句の時、師の曰く、花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也。 」(「三冊子」の「あかさうし」より)
「木のもとハ汁も鱠(なます)もさくら哉」。芭蕉はこの句を「かるみをしたり」という。何が、どの表現が「かるみ」なのか、わかかったようでわからない。
「しほりは句の姿、細みは句意、さびは句の色」とすれば、「かるみ」は句の何になるのだろうか。
「かるみ」は芭蕉晩年の句境である。季語を入れて17文字で表現するだけなら、俳句は現代のように誰でも作って楽しむことができる。だが、何事か人生を掛けた表現を為そうとすると俳句はてき面に難しくなる。日頃縁のない季語を入れたり、読めないような難しい漢字や意味不明の難解な言葉を使ったり、さらに才能を見せようと奇を衒った表現をするのは、俳句表現としていかがなものか。芭蕉が嫌うのは俗に膾炙した作為である。「かるみ」という作句態度ないし境地は、必ずしも和歌の雅語や古典的表現にとらわれるものではない。日常的な「眼前のこと」を平易な表現や俗語を使って、なおかつ気迫を込めて一気に無分別に作る、ということである。
平易な言葉で、5・7・5のリズムに乗せ、軽快に心地よく、それでいて心と対象と言葉が一つになったような表現、芭蕉はそのような「かるみ」の俳諧を目指したのではないか。
しかし、芭蕉には、「高くこころをさとりて俗に帰るべし」という姿勢がある。この姿勢なしに、俗にあって「かるみ」の句をつくることは芭蕉の「かるみ」ではない。「高くこころをさとる」ことなしに、ただ俗にあって、眼前のことを俗語を使って口から出まかせのような、いいちらかすような表現、奇をてらったり人を驚かしてやろうというような表現は、芭蕉の俳諧ではない。
私のような凡人は、うまい句をつくろうとしてあれやこれやと迷ってしまう。「無分別」に「私意や作意」から離れて、ということが難しい。
「木のもとは汁も鱠(なます)もさくら哉」の他、芭蕉の「かるみ」をしていると、私が思う次のような句がある。
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かれ朶(えだ)に鳥のとまりたるや秋の暮
あさがほに我は食くふおとこ哉
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
山路来てなにやらゆかしすみれ草
古池や蛙飛こむ水のをと
よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな
二日にもぬかりはせじな花の春
ほろほろと山吹散るか滝の音
梅若菜丸子の宿のとろろ汁
ひやひやと壁を踏まえて昼寝かな
むめがが(梅が香)にのつと日の出る山路かな
前髪もまだ若草の匂ひかな
世を旅にしろかく小田の行戻り
我に似な二ツにわれし真桑瓜
清滝や波にちり込青松葉
秋ちかき心の寄や四畳半
蕎麦はまだ花でもてなす山路かな
行く秋や手をひろげたる栗のいが
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延宝八年 37歳
天和二年 39歳
貞亨元年 41歳
貞亨二年 42歳
貞亨三年 43歳
貞亨五年 45歳
貞亨五年 45歳
元禄四年 48歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
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日常生活の中でも、よくみれば新鮮な発見や驚きがあり、詩情を見出すこともあり、それをストレートに余計なことを考えずに?、句に詠む。それが「かるみ」の句となる。
ただ日常で目にしたことを、ぱっと俗語や擬語を使って句にすればよいというものでもない。ありきたりでつきなみな表現やパターン化された感性では、心から楽しむことができない。芭蕉の句の場合は、和歌の伝統的な心や漢詩・故事・古典に依るところがあり、格調や品格がでてしまう。句はどうしても「心の色」が形になって表出してしまう。どのような「心の色」か、どのような表現の世界を意識しているのか。まっ、あまり難しく考えずに、俳句が楽しめればよいのだが。
俳句は、文学性をもつものなのか、高尚な習い事か、はたまた老人のなぐさみか老後の楽しみか。芭蕉が提唱した「かるみ」は当時としては画期的だったのだろうが、現代においては空気のように自然で当然のことになっている。新聞や雑誌に載っている現代の多くの俳句は十分に「かるみ」していると思うが、芭蕉が目指した「かるみ」俳諧とは違うように思う。それは表現しようとする「心の色」が、芭蕉が目指したものと現代人とではことなるからだろう。芭蕉は和歌につながる古人の心をイメージしていただろうし、現代人はそれこそ多様な美意識、感性と価値観のもとに作句している。だが、「高く心をさとる」ということにおいては芭蕉の時代でも現代という時代でも同じではないかと思う。不易にかかわることや生き方への何事かの思いを詠んだ芭蕉らしい重い俳諧に比べ、「かるみ」は分かりやすいがつまらないところがある。だが、芭蕉が師とする西行の歌は「詞あさきに似て、心ことに深し」と評される。分かりやすい平易な日常語を使いながらも、その表現するものの心はことに深い。芭蕉はそれを「心の色」とよんでいる。どのような「心の色」を句に表現するのか。それが問われるのだと思う。
「かるみ」をしている俳諧と、古典や伝統を踏まえた格調高い、やや重い俳諧が、芭蕉の中にも存在しているように思う。
田中善信著の「芭蕉 「かるみ」の境地へ」(中公新書)のなかに、「おくのほそ道」の句と晩年に芭蕉が唱えた「かるみ」の句の間の差異について、興味深い分析がある。芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出たのは、46歳
元禄二年、 だが完成させたの5年後の51歳 元禄七年だった。晩年の芭蕉は、「炭俵」などて「かるみ」の句を作っていながら、平行して「おくのほそ道」の格調高くやや重い句を推敲していたことになる。田中善信氏は、「おくのほそ道」は芭蕉の個人的な趣味や好みであり、「かるみ」は芭蕉が「この一筋」とする俳諧の方向性であり、その違いだとしている。俳諧の方向としての「かるみ」を志向しながらも、芭蕉の個人的・感性的な好みは伝統を踏まえた風雅ということか。「かるみ」をしながら俗に流れず、古人の伝統に繋がりつつ格調をもって作句することができたのは、芭蕉にのみ可能な境地だったのかも知れない。
それにしても、「おくのほそ道」の中の俳諧と「かるみ」の俳諧の間で、芭蕉自身も揺れる思いがあったのではないか。その揺らぎの中で、新しい俳諧の姿を求め続けたのではないか。俳句って何なんだろう。
10.うばはれて不叶
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「絶景にむかふ時は、うばはれて不叶」。風景に心を「うばわれて」、句にならないこともある。芭蕉は、「おくの細道」で、「松島の月まず心にかかりて」あれほど松島への憧憬の思いがありながら、実際に松島を訪れてみると、その絶景に心うばわれ句をものすることができなかった。その時の反省か、「物を見て取所を心に留メて不消、書写して静に句すべし」といっている。物を見てその感動を心に留め、書き写して静かに句にするべしとしている。
「物の見へたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」である。
風景を見るとき、それが絶景であれどこにでもあるような風景であれ、心の内に何事かを呼び起こさないこともあれば、大げさに言えば感動に打ち震えることもある。
心が物と一体となって、物の光が見えたら、それがこころから消え去らないうちに、いいとめ、書きとめて、静かに句にしておかなければならない。
ぼっ−として、風物を眺めていてるだけでは、何も出てこない。風物に心奪われたからでもない。句をひねり出そうとしたら、それなりの事前の心構えと準備と、ことに臨む時の意気込みや心意気といったものが必要なのだと思う。やはり、ぼっ−としていては、ぼっ−とした句しかできない。
芭蕉は、「絶景にむかふ時は、うばはれて不叶」とか、体調が悪くてとか、疲れてとかいって句をつくらないことがよくある。だが、表向きは句をつくらないといっていながら、裏ではしっかりつくったりしている。だが句の出来が気に喰わない。これはなんなのだろう。そういうこともあるということか。芭蕉は自分の句に対して厳しい。
11.俳諧の益は俗語を正す也
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芥川龍之介は「芭蕉雑記」の中で、芭蕉の「俗語」について触れている。
「芭蕉はその俳諧の中に屡(しばしば)俗語を用ひてゐる。たとへば下(しも)の句に徴(ちよう)するが好い。
洗馬(せば)にて
梅雨ばれの私雨(わたくしあめ)や雲ちぎれ
「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉(ことごとく)俗語ならぬはない。しかも一句の客情(かくじやう)は無限の寂しみに溢(あふ)れてゐる。芭蕉のみづから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語したのも当然のことと云はなければならぬ。「正す」とは文法の教師のやうに語格や仮名遣ひを正すのではない。霊活(れいくわつ)に語感を捉へた上、俗語に魂を与へることである。
じだらくに居れば涼しき夕(ゆふべ)かな 宗次(そうじ)。
猿みの撰の時、宗次今一句の入集を願ひて数句吟じ侍れど取(とる)べき句なし。一夕(いつせき)、翁の側(かたはら)に侍りけるに、いざくつろぎ給へ、我も臥(ふし)なんと宣(のたま)ふ。御ゆるし候へ、じだらくに居れば涼しく侍ると申しければ、翁曰、これこそ発句なれとて、今の句に作(つくり)て入集せさせ給ひけり。
この時使はれた「じだらくに」はもう単純なる俗語ではない。紅毛人の言葉を借りれば、芭蕉の情調のトレモロを如実に表現した詩語である。これを更に云ひ直せば、芭蕉の俗語を用ひたのは俗語たるが故に用ひたのではない。詩語たり得るが故に用ひたのである。すると芭蕉は詩語たり得る限り、漢語たると雅語たるとを問はず、如何なる言葉をも用ひたことは弁ずるを待たぬのに違ひない。実際又芭蕉は俗語のみならず、漢語をも雅語をも正したのである。」
(芥川龍之介「芭蕉雑記」の「六 俗語」より)
「じだらくに居れば涼しき夕(ゆふべ)哉
さるミの撰の時、 一句の入集を願ひて、数句吟じ来れど取べきなし。一夕(いつせき)先師のいざくつろぎ給へ。我も臥(ふし)なんとの給ふに、御ゆるし候へ。じだらくに居れば涼しく侍ると申。先師曰、是ほ句也。ト、今の句につくりて、入集せさとの給ひけり。」(「去来抄」の「先師評」より)
俳諧の効用は、俗語・日常語を詩語として高める・昇華させることにある。
「「俗語を正す」の「俗」は、「心の俗」である。したがって「俗語を正す」とは、「心の俗」を「正す」ということに他ならない言葉を巧もうとして焦心する「巧者の病」を治癒せしむるということに他ならない。」(「芭蕉と生きる十二の章」大野順一著)
「俗語」は「公式な場面、文語、公文書、学術文書などの改まった場面では用いられないが、くだけた場面のみに使うことを許される言葉の総称であり、品のない言葉遣いとされる」。隠語・スラング・若者言葉・ギャル語など。俗語の反対語あるいは関連語は「雅語」というということになる。「雅語」は、和歌などに用いる主として平安時代の言葉とされ、洗練された上品な言葉という意味もある(Wikipedia)。
現代では、「雅語」 を俳句に使用する方が難しい。「俗語を正す也」とは、俗語を正しくするということではなく、俗語のなかに雅語のもつ心と同質の表現を見出したり、高雅なものを見出すということである。それは「心の俗」「心のいやしさ」を「正す」ということにほかならない。俗語を使って何かを表現しようとする時の心の在り様を正しくする、ということである。だが、「心の俗」を「正す」ことがまた難しい。俗な心が自身の俗を正すということが難いからである。芭蕉の作句態度は、芭蕉的生き方とも深くかかわっている。やはり、どこまでいっても芭蕉は遠い。
「蕪村句集」(玉城 司訳注 角川ソフィア文庫)にある「解説」で、玉城司氏は「春泥句集」序にある蕪村の俳諧観を紹介していて興味深い。
「俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尚(たつと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ」
「詩を語るべし」
これは「離俗の説」といわれるが、やはり一筋縄にはいかない。
12.謂いおうせて何か有
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「下臥につかみ分ばやいとざくら
先師路上にて語り曰、此頃其角が集に此句有。いかに思ひてか入集しけん。去来曰、いと櫻の十分に咲きたる形容、能謂おほせたるに侍らずや。先師曰、謂応せて何か有。此におゐて肝に銘ずる事有。初てほ句に成べき事ト、成まじき事をしれり。」(「去来抄」の「先師評」より)
芭蕉翁が路上でいった。この頃其角の句集に、この句がある。何を思ってこの句を入れたのだろう。それを聞いて去来がいった。いと桜の咲いた姿を十分に表現しきっていると思います。芭蕉翁はいった。「言い尽してしまって何になる」。
俳諧は17文字のわずかな言葉の表現形式である。表現された言葉の後ろには、多くの言葉にならない沈黙があり思いがある。俳諧はそれらの言葉にならない思いを醸成するものである。読者が余情を楽しめるように、言葉少なめに、言い過ぎないことが肝要である、ということである。
俳諧の「俳」はもともと「滑稽」といった意味がある。「諧」は、皆が言い合いながらも調和していることを言うようだ。俳諧は作者ひとりの世界ではない。読む人といっしょになって楽しめる世界でなくてはならない。読む人の想像をかきたてるものでなくてはならない。
芭蕉は生涯、自分では句集を出していない(初期の「貝おおい」は別)。芭蕉七部集といわれる 「冬の日 ・ 春の日 ・ あら野 ・
ひさご ・ 猿蓑 ・ 炭俵 ・ 続猿蓑」などはすべて連句集で門人たちが出したもの。俳諧は、連中といわれる人たちが集まって、連句を楽しむところから出発している。芭蕉の俳諧は、連句の「発句」から出たもので、句を続ける人や鑑賞する人といっしょに作り上げるようなところがある。独りよがりはいけないよ、ということか。
13.虚実のこと
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俳諧は、どうしても「虚実」が交差するところがある。支考の偽作なのではとされる「芭蕉翁二十五箇条」では、師芭蕉は、「万物は虚に居て実に働く。実に居て虚に働くべからず」、他にも「詩歌、連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。・・・虚に居て虚をおこなふべし」といったとか。この表現は禅問答のように難しいが、言語表現とくに文芸的言語にはどうしても虚実の問題がついてまわるのは事実である。
しかし、「虚」「実」とは何か。人生は「虚」である。そう悟って詩歌に逃れ、仏門に入ったり、人里離れて隠棲したりする人の生き方がかかわっているようだ。何で生計をたてているのかよく分からないような生き方がある。生活を離れたところで生きる生き方が「虚」といえるかもしれない。「実」は、それにもかかわらず、人は生きるためには生活とそれに伴う生業を含めた雑事に耐えなければならないという宿命を背負っている生き方、ということになる。「実」の生き方といっても、多くの人はその虚しさを隠して生きているのだが。
芭蕉は深川隠棲により、俳諧師としての「虚」の生き方に入ったようだ。生活ははとんど弟子や門人の善意や喜捨に委ねた。自分は、生活を離れて詩人の魂に生きようとした。俳諧の誠を追い求めた。
芭蕉は、支考の同じくだりで「虚に居て実をおこなふべし」と「虚に居て虚をおこなふべし」と2つの異なったことをいっている。この世の本質を虚とみ、そこに生息する自分も虚と感じる。そのなかで行う俳諧表現活動は虚か実か。俳諧とは、この世は実に見えて虚しいものだという思いのなかで行う、虚構であるという。しかし、もはや中世の戦国・戦乱の時代ではない。この世を一概に虚しいものとしてしまうわけにもいかない。虚実のあわいの中で虚実の表現活動をしていくしかないという思いが芭蕉のものではないだろうか。しかし芭蕉の軸足は、俳人としてあくまでも「虚」に置いている。
何が虚・何が実かもよくわからないのに、私のなんとなくの虚実イメージ。
実に居て実に働くのは・・・普通の人・生活者・写生句?
実に居て虚に働くのは・・・普通の俳句を楽しむ人、遊び人か詐欺師か
虚に居て実に働くのは・・・普通の俳諧師・表現者・平易な言葉の句
虚に居て虚に働くのは・・・かなり飛んだ風狂の俳諧師・芸術家、超人
虚・虚の芭蕉句(私の独断)
侘(わび)てすめ月侘斎がなら茶歌
年の市線香買に出ばやな
蛸壺やはかなき夢を夏の月
俤(おもかげ)や姥ひとり泣月の友
田一枚植えて立ち去る柳かな
五月雨の降りのこしてや光堂
病雁の夜さむに落ちて旅寝哉
何に此師走の市にゆくからす
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
芭蕉の句は基本的に虚・実= 「虚に居て実をおこなふ」であると思う。芭蕉の師西行の歌は「詞あさきに似て、心ことに深し」で、虚・実をしている。
「虚」は、現世を虚しいとする思いであると同時に、「造化にしたがひて四時を友とする」態度でもある。「見るところ花にあらずということなし、思うところ月にあらずということなし」といった風流・風雅の心であるだろう。「虚」とは「風流の心」といえるようだ。
現代人にとって、いや芭蕉の時代でもそうだったのかもしれないが、芭蕉のように「虚」に生きることは難しい。「虚」に居て「実」や「虚」の句をつくるという態度は難しい。「風流」や「風雅」といわれる生活意識や美意識の中に生活の軸足を置くのは、生活者としては辛い。「実」に居て「虚」に遊ぶのがせいぜいか。
<続くかも> 少し続いた
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