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芭蕉の俳諧  「三冊子」を中心に


1.芭蕉の俳諧とは何か

 「三冊子」は、芭蕉と親しく接して教えも受けた伊賀上野の服部土芳(はっとりどほう)の随聞録だと伝えられている。土芳は伊賀蕉門の中心的な人物で、藤堂藩に仕えていた。土芳は仕官を辞退した後は蓑虫庵で、師芭蕉の俳論を整備して世に出した。「三冊子」は芭蕉死後82年を経て、翻刻本により初めて世に出たものらしい。
 「三冊子」は、芭蕉の俳論をうかがい知る手がかりとして評価が高い。さらに、向井去来は芭蕉俳論の聞き書きで、「去来抄」や「旅寝論」を書いている。これらの資料を導きの糸として、芭蕉俳諧の真髄(ちょとおおげさか)にふれてみたいと思う。

 芭蕉自身は俳論のようなものは書いていない。俳論どころか、句集にしても俳文にしても芭蕉自身が出板したものはほとんどない。唯一、俳諧師として世に出るための初期の「貝おほひ」くらいか。主著「おくのほそ道」でさえ芭蕉は出板する意志があったのかどうか、多くは門人が芭蕉の了解を得て、または死後に出板している。
 従って、芭蕉の俳諧の教えをもっと深く知ろうとすると、どうしても土芳の「三冊子」や去来の「去来抄」「旅寝論」に依らざるをえない。だが、これらから伝えられる芭蕉の言葉は断片的で、専門の研究者でないと解釈が難しい。
 伝統としての連歌や発句や俳諧の中からから芭蕉はどうして芭蕉俳諧をうみだすことができたのだろうか。どうして300年以上も前の芭蕉俳諧を、私が共感することができ、感動することができるのか。芭蕉の作品は、俳諧だけではなく俳文も紀行文も魅力的で面白いし、その生き方は現代においても考えさせられることが多い。
 芭蕉を生んだ時代は遠く、その芭蕉を理解することは私には困難が大きいが、先人の労作を頼りに私なりの芭蕉俳諧を考えてみた。
 もっとストレートにいえば、俳諧といえば芭蕉。現代の俳句においても手ほどきをうけるとすれば、やはり元祖の芭蕉先生から直接話を聞くのがよいだろうと考えただけのこと。で、どうなったのかといえば、案の定、いまだに道に踏み迷うといった体たらく。
  俳句初心者が、芭蕉先生の話、それも芭蕉俳諧の真髄の話を聞くとなると、やはり荷が重かった。それにもかかわらず、芭蕉俳諧には感動するし、俳論や作句態度には見習うことが多いし、その生き方は魅力的である。以下、こわさをしらない初心者の中途半端な芭蕉俳諧の理解の覚え書きということで、ご容赦願いたい。

 以下、「去来抄・三冊子・旅寝論」岩波文庫より抜粋した。

  もくじ
  2.芭蕉の俳諧
  3.万代不易と一時変化 風雅の誠
  4.高くこころをさとりて俗に帰る
  5.松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ
  6.新しみ
  7.今日の事、目前の事
  8.「しほり」と「ほそみ」、「寂び」と「侘び」
  9.「かるみ」へ
  10.うばはれて不叶
  11.俳諧の益は俗語を正す也
  12.謂いおうせて何か有
  13.虚実のこと
  14.芭蕉は自分の著作を出版したか
  15.「一念一動」の俳句

 

しろさうし(抜粋)

俳諧は歌也。歌は天地開闢の時より有り。・・・ 和国の風なれば和歌と云う。和歌に連歌あり。俳諧あり。 俳諧と云うは黄門定家卿(藤原定家のこと)の云、利口也。

物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付け、物いはぬものに物いはせ、利口したる体也。・・・ 俳は戯れ也。諧は和也、唐にたはむれて作れる詩を 俳諧と云。又、滑稽と云う有り。
・・・しかるに亡師芭蕉翁、此の道に出て三十余年俳諧初めて実を得たり。師の俳諧は名むかしの名にしてむかしの俳諧に非ず。誠の俳諧也。・・・師も此の道に古人なしと云り。
・・・我が師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。・・・
春雨の柳は全体連歌也。田にし取鳥は全く俳諧也。五月雨に鳰(にお)の浮き巣を見に行くといふ句は、詞にはいかいなし。浮巣を見にゆかんと云所俳諧也。 水に住む蛙も、古池にとび込水の音といひはなして、 草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付けたり、見るに有。聞に有。作者感るや句(作者が感ずる句)と 成る処は、則俳諧の誠也。・・・
旅、東海道の一筋もしらぬ人、風雅に覚束なしとも云りと有。

 

2.芭蕉の俳諧

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 「俳諧は歌也。歌は天地開闢(かいびゃく)の時より有り。・・・
和国の風なれば和歌と云う。和歌に連歌あり。俳諧あり。

 俳諧は歌で、歌は天地開闢の時よりある。日本の風雅であるから「和歌」という。和歌には連歌と俳諧がある(もちろん、短歌や長歌もある)、といっている。 連歌の最初の句を「発句」といい、「発句」が独立したものを俳諧とすることもあるようだ。俳諧は大きくは和歌の流れを汲むものであり、そこに源を発しているという認識を示している。芭蕉が本当にそういうことを言ったかどうかはさておくとして、俳諧が和歌と連歌に出発点をおいており、その歴史の流れのなかに位置づけられる風雅であるという思いは、俳諧革新を唱える芭蕉の、俳諧に対する思いの中心的なテーマのひとつとなっている。だが、芭蕉は風雅の伝統を踏まえながらも、「俳諧は名むかしの名にしてむかしの俳諧に非ず。誠の俳諧」であり、新しい俳諧を求め続けた。それが「蕉風」として結実することになる。
 ここには芭蕉俳諧の核心ともいえる、伝統文化の継承と革新、あらたな俳諧の創出という課題がある。芭蕉は晩年、究極の「かるみ」の境地に至るまで、いや「軽み」をとなえながら同時に伝統的で正統的な重い俳諧もうたっていて、継承と革新の間を揺れ動くことになったように思う。

 「俳諧と云うは黄門定家卿(藤原定家のこと)の云、利口也。物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付け、物いはぬものに物いはせ、利口したる体也。
俳は戯れ也。諧は和也、唐にたはむれて作れる詩を俳諧と云。又、滑稽と云う有り。
・・・しかるに亡師芭蕉翁、此の道に出て三十余年俳諧初めて実を得たり。
・・・師も此の道に古人なしと云り。
・・・我が師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。


 俳諧は「物をあざむきたる心」 であり、「心なきものに心を付け、物いはぬものに物いはせ」る。これを定家の言葉として伝えている。「利口したる体」は、巧言や軽口のことで、内容がないのに口が巧みなこと。このような私意的な俳諧表現は、芭蕉の否定するところである。「物をあざむきたる心」と定家がいうなら、短歌も連歌もその伝を甘受せざるをえないのではないか。俳諧はとりわけ「物をあざむきたる心」が目立つということだろうか。芭蕉は俳諧の「物をあざむきたる心」を否定したのだろうか。芭蕉は、俳諧表現についてまわる虚・実を、ともに俳諧特有の属性として引き受けているように思われるのだが。

 「俳は戯れ也。諧は和也」、なるほど。 「戯れ」「和」さらに「即興」「滑稽」「挨拶」といった性格は江戸時代だけでなく今日でも俳句のひとつの側面として残っている。だが、芭蕉はそれでは納得しない。「我が師は誠なきものに誠を備へ」、俳諧の真髄は「誠の俳諧」であり、名前は俳諧で昔と同じだが、中身は新しい俳諧である、としている。「此の道に古人なし」である。
 俳諧は、和歌や連歌の下にみられていたが、芭蕉の俳諧は古人の俳諧ではない。芭蕉は、俳諧を和歌や連歌と同等のものにしようと努めた。何をどのようにしてか。ここに芭蕉俳諧を解くカギがある。

 「春雨の柳は全体連歌也。田にし取鳥は全く俳諧也。五月雨に鳰(にお)の浮き巣を見に行くといふ句は、詞にはいかいなし。浮巣を見にゆかんと云所俳諧也。
 雅語(がご)と日常語・俗語の違いか。「五月雨に鳰(にお)」だけでは俳諧でもなんでもない。五月雨の中わざわざ「浮き巣」を見に行くという風流心が表現されているのが俳諧なのだという。雨の中、鳰(にお)の浮き巣が見たい、見に行こうという、私的で詩的な、日本的な表現では風流と感じる感性や欲求や心情が、ストレートに表現されるところに俳諧の醍醐味があるということである。芭蕉は、雅語ではなく日常語や俗語を使って平易な言葉で句を作ることを勧めているが、その時の表現意識が問題だというのだ。言葉での表現を超えて「心の色」が出ていなければならない。

水に住む蛙も、古池にとび込水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付けたり、見るに有。聞に有。作者感るや句(作者が感ずる句)と成る処は、則俳諧の誠也。
 「作者が感ずる句」が俳諧なのだという。「作者が感ずる」とはどういうことなのか、その句とはどういう句なのか。芭蕉の表現を使えば、心が「物に入てその微の顕れて情感るや、句となる所」、「物の見へたるひかり」といった物と我一つになったところの表現というとこになろうか。芭蕉の「物我一如」、心が物に入ってそこから顕れ出た情感、このような芭蕉の俳諧の説明的な表現は理屈で考えると難しい。和歌では蛙はその鳴き声が詠まれるものであるとしていたが、芭蕉はそのような約束ごとやきまりではなく、池に飛び込む音を聞いて感ずるところを句にした。そこに俳諧としての独創、風雅がある、とされる。定型的な表現に依存したり、理屈で考えたりしたものは、俳諧表現としてつまらない。俳諧は考えるものではなく、感じるものなのだろう。しかし「感ずる」とは何をどう感じることなのか。古池の句は、日本人誰もが知る句だが、「飛び込む水の音」に何を感ずるかは人によって異なるだけでなく、蛙飛び込む水の音の背後にある芭蕉の表現意識は深い。単に静寂、閑寂な心ではない。「わび・さび」の深い心をさりげなく、平易な言葉で表現しているところに芭蕉の凄さがあるように思う。

東海道の一筋もしらぬ人、俳諧に覚束なし」。

 芭蕉の俳諧は旅と密接に結びついている。芭蕉の旅は、深川隠棲の袋小路からの脱出であったが、同時に人生は旅のように日々移ろい行くものであるという思いもある。芭蕉は、自然に身をさらし、変化してゆくものに身を委ね、病身をいとわず苦難に耐え、人々に出会って喜びや希望を見出し、その旅のなかから「変化」や「流行」の俳諧の心を会得してきた。だから、東海道を歩いたこともないような人に、俳諧の風流はわかるまい、というのだ。旅をすればいいというものでもないが、旅は「乾坤の変」を感じるもとになり、心動かされるよい句ができるきっかけになることが多いのは事実である。
 「吟行」ということばがはやりだが、日常から抜け出し異郷や自然に身をさらすことにおいて、芭蕉の旅への思いといくらか重なるものがあるのかも知れない。私も芭蕉の言葉を友に吟行の旅に出よう。

あかさうし(抜粋1)

師の風雅に万代不易有。一時の変化あり。この二ツに究り、 其本一也。その一といふは風雅の誠也。不易をしらざれば 実の知れるにあらず。不易といふは新古によらず、変化流行にもかかわらず、誠によく立たる姿也。 代々の歌人の歌を見るに、代々その変化あり。又新古にもわたらず、今見る処むかし見しにかはらず、あはれなる歌多し。 是先不易と心得べし。
また、千変万化するものは、自然の理なり。変化にうつらざれば風あらたまらず。是に押移らずと云は、一端の流行に口質時を得たる計にて、その誠をせめざる故也。せめず心をこらさざるもの、誠の変化を知ると計云事なし。唯人にあやかりて行のみ也。
せむるものはその地に足をすへがたく、一歩自然に進む理也。 行く末いく千変万化するとも、誠の変化は皆師の俳諧也。かりにも古人の涎(よだれ)をなむる事なかれ。四時の押移如く物あらたまる。皆かくのごとしとも云り。
師末期の枕に、門人此後の風雅をとふ。師の曰、此道の我に出て百変百化す。しかれどもその境、真草行の三ツをはなれず。その三ツが中にいまだ一二をも不盡と也。生前折々のたはむれに、俳諧いまだ俵口をとかずとも云出られし事度々也。


3.万代不易と一時変化 風雅の誠

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 これは芭蕉俳論の中心的な思想といわれる。一般に「不易と流行」といわれるが、芭蕉は直接にはこの言葉を使ってはいない(「去来抄」の「修行教」のなかで去来が「不易流行」という言葉を使っている)。「不易と変化」とはいっている。」土芳「三冊子」の「あかそうし」では、「風雅に万代不易有。一時の変化あり。この二ツに究り、基本一也。」とある。「万代不易と一時変化」ということか。「一時変化」は「変化流行」「千変万化」とも言い換えている。「不易と流行」の二つはその基本においては一つでなくてはならず、それが「風雅の誠」であるという。
 「不易」とは、「代々の歌人の歌を見るに、代々その変化あり。又新古にもわたらず、今見る処むかし見しにかはらず、あはれなる歌多し。是先不易と心得べし。」ということである。
 「流行」とは、「千変万化するものは、自然の理なり。変化にうつらざれば風あらたまらず。」ということであり、「是に押移らずと云は、・・・その誠をせめざる故也」ということである。「流行」は「自然の理」のようなもので、変化しないということは「自然の理」に反するばかりか、「風流」(風雅)を改め推し進めることはできない。俳諧の誠を責めることにならない、というのである。自然の理である変化を受け入れること。ふぅぅぅぅむ。
 「変わらないもの」と「変わるもの」。変わらないものを踏まえつつも、変わり行くものを追い求めなければ、俳諧に新風を吹き込むことはできない。
 「風雅の誠」は、「不易流行」を一つのものととらえ、常に「その誠をせめる」ところにあり、それを怠けて「かりにも古人の涎(よだれ)をなむる事なかれ」というのである。やや表現が生々しいが、これが古人の表現を踏襲し模倣するばかりで変化しないこと、風雅の誠を責めないことへの、芭蕉の侮蔑的表現である。
 だが芭蕉は、風雅の誠を責め悟ることは難しいことだともいう。「此道の我に出て百変百化す」、「俳諧いまだ俵口(たわらぐち)をとかず」。事実、芭蕉の後には芭蕉はいない。現代にいたるも「百変百化」している。いまだ風雅の誠をせめ悟ってはいないということになる。
 もともと芭蕉の「風雅の誠」の思想には、風雅の道を志す人に、それを厳しく責め続けることを強いているところがある。「風雅の誠」のいわば永久革命に身を投じろというのだ。「かりにも古人の涎(よだれ)をなむる事なかれ」である。また、「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」(許六離別の詞)ともいっている。古人のまねをするのではなく、その求めたることろのもの、その心や志を見よというのだ。
 「俳諧の誠」は「不易流行」の誠を責め続けることにある。不易と流行を一つのものとして、その表現の革新に精進し続けろ、「常に風雅の誠をせめさとれ」という芭蕉の言葉は、この一筋「俳諧の誠」求道者である芭蕉の言葉にふさわしい。伝統文化を継承しようとする者の要諦である。ちょっとえらそうか。
「不易」は普遍的なもの、「流行」は個別的なもの・特殊性と言い換えることができると思う。普遍的なものは特殊個別性なものを通してしか顕現しない。平易な個別的な言葉を通して普遍的なものを射程にいれようと務めるところに「俳諧の誠」が顔を出す。江戸時代の芭蕉師弟はこんなことを議題にしながら俳諧の道を精進していた。
 芭蕉は、俳諧に「道」を求めているようなところがある。俳諧求道者としての生き方をしいている。書道や茶道や華道などが中世、鎌倉・室町時代に盛んになった。中世的な心象をもっていると言われる芭蕉には、彼は否定するだろうが、彼の俳諧には俳諧道といったにおいがついてまわる。教訓くさい俳諧は気持ちのよいものではないし、貧しさや侘び寂びが鼻に着くのもいかがかと思うが、嫌味が残らなければ、それはそれでよいのではないか。特に、芭蕉が説く俳諧道なら、私は是非ご指導を受けたいと思う。弟子の末席にでも連なりたいが、才能がない私には、師の下働きがふさわしい。

あかさうし(抜粋2)

高くこころをさとりて俗に帰るべしとの教なり。 常に風雅の誠をせめさとりて、今なす処俳諧に帰るべしと云る也。常風雅にゐるものは、おもふ心の色物と成りて、句姿定るものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば、外に詞をたくむ。是則常に誠を勉るといふは、風雅に古人の心を探り、近くは師の心よく知るべし。
其心を知らざれば、たどるに誠のみちなし。その心をしるは、師の詠草の跡を追ひ、よく見知て則わが心のすぢ押直し、こゝに赴いて自得するやうに責る事を、誠をつとむるとは云べし。師のおもふ筋に我心をひとつになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門をゆく と心得顔にして、私の道を行事有り。門人よく己を押直すべき所也。


4.高くこころをさとりて俗に帰る

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 「常に風雅の誠をせめさとる」という生き方は、「高くこころをさとりて俗に帰るべし」ということに帰結する。これは、四字熟語的に簡潔に言えば、「高悟帰俗(こうごきぞく)」ということになる。
 芭蕉のいう「こころ」とは何か、それを「さとる」とはどういうことか。「こころ」は俳諧の心であり、「俳諧の誠」である。俳諧の誠を責めさとれ、ということになる。俳諧の誠をせめ、そのこころをさとり、志を高くかかげて、「俗」としての日頃の俳諧・生活に戻るということである。俳諧の生きる場は、この時間、この場所しかないのだから。
 「高くこころをさとる」ということが、「常に風雅の誠をせめさとる」ことであり、「俗に帰るべし」とは、「今なすところの俳諧にかへるべし」と言うことである。今なすところの俳諧に帰るということは、俳諧の出発点である挨拶や即興や滑稽などの「俗」に、生活の場に帰ると言うことでもある。

 「笈の小文」に「見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし」という有名な一文がある。「高くこころをさとる」ならば、「俗」にあっても見る物に花を見、思うところに月を思うことができる。なにげない日常の自然や事物に美を見出し、詩興を感じて、句にすることができる。
 だが、 芭蕉のいう「高くこころをさとる」、「風雅のまこと」を追い求めるといった数寄は、凡人には遠いことのように思う。芭蕉のような「この一筋」といった生き方ができない、迷が多く、考えなければならないこと、生活のためやらなければならないことが多いからである。俳諧の心はなんとなく分かったにしても、俳諧の誠が責めきれない。その俳諧への志がなかなか高揚して行かない。やはり芭蕉はすごいなと思ってしまう。私のこのような状態では「俗に帰る」ことなどいつのことか。「高悟帰俗」といった作詩態度は、天才か老成した人のものかも知れない。

 「常(つねに)風雅にいるものは、おもふ心の色物と成りて、句姿定まるものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば、外に詞をたくむ。是則(すなはち)常に誠を勤ざる心の俗也」。
 自然や事物の現象に接して心に感ずるものが生じた時、それが句というかたちとなり、対象や素材の取り合わせが自然で、言葉や表現に私意による作意がない、素直なよい句が生まれるというのである。それとは反対に、少しも心に感ずるものがないのに秀句や新規味を出そうとすると、「外に言葉をたくむ」、つまり言葉をこねくり回してもっともらしい表現を取り繕うとする。私意による作意である。私意的な作意をもって作られた句は、俳諧の誠をせめるという姿勢からは遠いものである。難しいことだが、要するにうまい句を作ろうと下心をもってしては、風雅の心から遠いということだろう。「おもう心の色」が大切で、それが物の形となって表出され、句の姿が定まる。心の色を美しくすること。

 思う心の色が物となる、芭蕉はさらっといっているが、これができそうでできない。句の姿が定まらない。心の色がうるわしくないからだろうか。そうすると言葉に技巧をこらし工夫して表現をとりつくろうとする。俳諧の誠を責めていない人や心の色が麗しくない人は、こうである。煩悩の凡夫、己の心の色が定まらず、いくつになっても心の揺らぎがとれない。取物を見ているようで何も見えていない。これはつまり誠を勤めない、心の俗である。これでは、まだまだ修行がたりないか。

 「常に誠をつとむる」というのは、「風雅に古人の心を探り」ながらも、師芭蕉の心をよく理解しなければならない、ということである。
 和歌や連歌の伝統にのりながらも、常に心を高くさとって、「俳諧の誠」とは何かを追い求め、俳諧における新しい表現を生み出す努力を怠ってはならないという教えである。
 「不易流行」と「俳諧の誠」と「高悟帰俗」。芭蕉の心を探り、よく理解すること。これは俳諧の作り方というより、生き方が問われることになるのだろう。芭蕉の俳諧の道は、やはり険しく厳しい。

あかさうし(抜粋3)

松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のありしも私意をはなれよといふ事也。此習へと いふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習 へと云ふは、物に入てその微の顕れて情感るや、句となる所也。たとへ物あらはに云ひ出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば、物と我二つになりて其の情誠にいたらず。私意のなす作意 也。

巧者に病あり。師の詞にも、俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれなどなど、たびたび云ひ出られしも、皆巧者の病を示されし也。 実に入り気を養ふと、ころすあり。気先をころせば、句気にのらず。先師も俳諧は気にのせてすべしと有。

 

5.松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ

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 芭蕉の「笈の小文」の初めで、「造化にしたがひ造化にかへれとなり。」といっている。「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」とは、「造化にしたがひ造化にかへれ」ということである。それは「私意をはなれよ」ということに他ならない。 「習う」ということを自分かってに解釈して、ついには本当に「習う」ということがない人が多いのだという。そうではなく、「私意をはなれよ」、私意による作為を離れよと芭蕉は繰り返し説いている。

 松や竹に習うということは、人から習うより難しい。松や竹は、そのままでは何も話してくれない。聞く耳を持たない人には何も話してくれない。ではどうすれば松や竹は語ってくれるのか。

 「習へと云ふは、物に入てその微の顕れて情感(じょうかんず)るや、句となる所也。
 これは、「自分が物(自然)の中に入っていって、その物の中に息づいている幽かな動き、いわば「生命の呼吸」を自分の心に感じること、その物と我が一つになることであって、そのとき、句は作意なしにおのずから生まれてくるものである。」ということである。(「芭蕉と生きる十二の章」大野順一著より)
 だが、 「物に入てその微の顕れて情感(じょうかんず)る」とは理解の難しい表現である。私意を離れて、物に入り、その微の顕れて情を感ずるとはどういうことなのか。詩心が動き句が生まれるとき、詠む人とその対象、取り物とはどういう関係、状態にあるのだろうか。「物に入る」とは、どういうことをいうのだろうか。この「物に入る」ということが、芭蕉俳諧のキーになる言葉であるように思われる。私意を捨てて「心の色」が「物に入り」、物の語ることばに静かに耳を傾ける。物は語り、我はその情を感ずる。その時、句は成る。だが、はたして句は成るものなのか。巧まずして成る句はあるのか。
 「芭蕉ハンドブック」(三省堂)では、「土芳のいうところは、私意を払い捨て、対象に肉薄することによって見えてくる対象固有の生命(誠)と作者の内なる誠とが感合する時、句がおのずから結晶することを述べたもの。この考えには、万物は造化の本質である誠を分有しているとする宋学の思想が基盤となっている。」ともある。これは抽象的でわかりにくい。「対象固有の生命(誠)」も「作者の内なる誠」、さらに「万物は造化の本質である誠を分有」などの表現は観念論くさく理解の及ぶところではない、と思う。芭蕉の俳諧は観念論ではない。だが、芭蕉の句は天才のものである。

 「内をつねに勤めて物に応ずれば、その心のいろ句となる。」(抜粋4より)
 「内をつねに勤(つと)め」るとは、芭蕉に従えば、不易流行を意識し、 私意をはなれて造化にしたがい、乾坤の変を風雅のたねとして、常に新しみをせめるという心の持ち方である。 そのような心を勤めて自然の対象に応じれば、その心の色が句となる、ということか。
 心の色が自然対象物に入り込み、あるいは反映して、それが自ずと句となって現れる。 心の色と物が一つになるとき、そこに句が生まれる。句ができても、自然に現れ出た感情や心でなければ、物と心が二つに分かれ、風雅の誠には至らない。それは私意から出た作意に過ぎない。

 巧者の病ということがある。「俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれ」である。私意を離れ、私的な思いや執着を捨て、無心に初心に帰ること。うまい句を作ろうとする作意や邪念からよい句が生まれるはずはない。「捨身無常」。「胸中一物(いちもつ)なきを尊しとし、無能無智を至(いたれり)とす。無住無庵、又其次也。」(「芭蕉を移詞」より)という芭蕉の生き方と俳諧づくりが重なる。

 芭蕉の「笈の小文」に有名な一文がある。
 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は、一なり。しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」(笈の小文)
 「造化」とは造物主が創った自然のこと。その造化に従い、造化に帰ること。見る心の色は花になり、思う心の色は月となる。大きくは「造化にしたがひて四時を友とす」 る心なしには、俳諧の誠を勤めたことにはならない。

 「俳諧は気にのせてすべし
 去来抄の同門評に「俳諧ハ季(気)先を以て無分別に作すべし」とある。「句を作るには、余計なことを考えずに、気迫を込めて一気に作れ」(「芭蕉」中公新書 田中善信著)。
 気迫を込めた、才気のきらめき、ほとばしり。無分別に一気に作る。

 俳諧は、作意・私意を排し、気迫を込めて、一気に無分別に作る。これは芭蕉の「かるみ」に関連してくのだろう。

 だが、作句にさいして「無分別」ということがあるのだろうか。いい年をした大人であればどうしても分別が邪魔をしてしまう。芭蕉は私意・作意を嫌うが、作意なしに句ができるものなのかどうか。芭蕉も作句においては、1000回口に出して推敲する(舌頭千転)といっている。「無分別」に句を作るために、どれだけの分別を重ねなければならないことか。

あかさうし (抜粋4)

新ミは俳諧の花也。ふるきは花なくて木立ものふりたる心地せらる。亡き師常に願にやせ給ふも新みの匂(にほ)ひ也。その端(はし)を見しれる人を悦びて、我も人もせめられし所也。せめて流行せざれば新みなし。新みは常にせむるがゆへに、 一歩自然にすすむ地より顕(あらわ)るる也。・・・

師の曰、乾坤(けんこん)の変は風雅のたね也といへり。静なるものは不変の姿也。動るものは変也。時としてとめざればとどまらず。止るとい ふは見とめ聞とむる也。飛花落葉の散りみだ るゝも、その中にして見とめ聞きとめざれば、おさまることなし。その活きたる物だに消て跡なし。 又、句作りに師の詞有。物の見へたるひかり、 いまだ心にきえざる中にいひとむべし。 句作になると、するとあり。内をつねに勤めて物 に応ずれば、その心のいろ句となる。内をつね勤めざるものは、ならざる故に私意にかけてする也。

 

6.新しみ

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 「新しみは俳諧の花也」。花なくしては枯れ木も同じ。師芭蕉はこの「新しみの匂い」のために身も細る思いで勤めてきた。「せめて流行させざれば新しみなし」。常にせめ続けて、一歩前に進み出たその地から、新しみは自然と現れてくるものである、という。
 芭蕉は、古今変わらない不易の心を大切にするが、同時に、今・ここの新しみの変化、新しみの匂いをせめつづけることを各所で説いている。変化・流行は「新しみ」であり、常にそれをせめ続けること。不易と流行の基本をひとつとして見て、私意による作意から離れて、新しみの創出に勤めなければならない、とする。芭蕉は、和歌や連歌の伝統に依りながらも、それを守ることよりも「新しみ」に力を入れている。「新しみ」を追い続け、一歩前に出る努力を続けなければ、伝統を守ることさえできない。

 「乾坤の変は風雅のたね也」である。乾坤の変とは、天地自然の変化のことで、俳諧の対象、素材になるものであるということ。その自然の変化を「見とめ聞きとめる」ところに俳諧がある。花が飛び葉が落ちるのを、それと一体になって「見とめ聞きとめ」なければ、風雅には至らない。

 「物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし。
 「物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中」、つまり内=心をつねにせめて物に応ずれば、その心の色は句と「なる」。内を勤めない人は、私意による作意で句を作ろうと「する」。自然と句に「なる」場合と私意をもって句を作ろうと「する」場合がある。「物の見へたるひかり」、これがなかなかわからない。「内をつね勤めざる」からだろうか。

 芭蕉の生き方や俳諧について、きわめつきの言葉がある。
 「問曰、上手になる道筋たしかに有り。師によらず、弟子によらず、流によらず、器によらず、畢竟、句数多く吐したるものの、昨日の我に飽ける人にて上手にはなれりといへり。」(去来『旅寝論』より)
 許六「篇突(へ んつき)」の中で許六が芭蕉の言葉としてあげている表現で、去来もそれを肯首している。俳諧に上達するためには「昨日の我にあける人」になることが肝要としている。生活においても俳諧においても常に「新しみ」を求め続けた芭蕉らしい言葉だとはいえるが、かなり激しい表現で、慄然として心揺さぶられるものがある。
 「昨日の我に飽」は「新しみ」を求め続けることの表現であるが、それはまた、「新しみは俳諧の花也」ということにつながっていく。物と心との関係性の新しい表現こそが俳諧の花、面白みなのだという。

  「花」といえば、世阿弥は「風姿花伝」の第七「別紙口伝」で、能について次のように言っている。
 「一、この口伝に、花を知ること。まづ仮令(仮に)、花の咲くを見て、万(よろず)に花とたとへ始めし理をわきまふべし。そもそも、花といふに、万木千草(ばんぼくせんそう)において、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそぶなり。申楽(さるがく)も、人の心に珍しきと知るところ、すなはち、面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。能も住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余(他)の風体に移れば、めづらしきなり。」
 
 「面白きと、珍しき」「住するところなき」花は、芭蕉俳諧の「新しみは俳諧の花也」と同じことである。一つの所にとどまらず、常に新しい表現を追い求めるから、珍しく面白い花になる、というこである。
  世阿弥のこの文の続きに、有名な「秘すれば花」のくだりがある。これは、能の花は安易に人前にさらすものではない、必要に応じてたまに繰り出すから珍しく面白い花なのである、ということであり、「秘すれば花」であるという芸能や武芸、特に能の秘伝の心構えのことを言っている。この「秘すれば花」は上で引用した 「面白きと、珍しき」「住するところなき」花の扱い方、秘伝のことをいっている。芭蕉俳諧には、世阿弥の「秘すれば花」という「秘伝」のセンスはない。

 芭蕉の「新しみ」や一所不住、過行くもの、散りゆくものの思いは、乱世である室町時代を生きた世阿弥の中世的な芸能観に近いものを感じさせる。世阿弥は実践的な芸能観を持ち、観客である貴族・武家の好みに合わせて、世俗的な猿楽能に幽玄美を表現した。根拠のない私見だが、芭蕉には、能における「花」を俳諧における「花」と見立てるようなところがあるのではないか。

 それはさておくとして、芭蕉が 「昨日の我に飽」といえば様になるが、凡人が云うと、単なるB型の気まぐれだとか、能のない人間がすぐに飽きて次の新しいものを求めるだとか、終わりのない自分探しだとか、とにかくこらえ性がないだけと見られてしまう。当たっているだけに、凡夫の哀しさ。なにしろ昨日作った俳句みたいなものに、まったく満足していないのだから。これでは俳句の上達は望めないどころかそれ以前、まだまだ修行が足りない。ただ、師芭蕉のスゴさだけはわかる。


7.今日の事、目前の事

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 「芭蕉と生きる十二の章」大野順一著 のなかで、おそらく作り話だろうとしながら、氏は素丸の「説叢大全」(明和九年、1772年)の中の仏頂和尚と芭蕉の伝説を紹介している。

 「芭蕉参禅の師仏頂和尚は、つねづね芭蕉が俳諧に勤めていることを制していた。・・・仏頂は、芭蕉に向かって
「俳諧はリ語狂詞、何の益ありや」
と問うた。俳諧というものはまったく真実に遠い、飾り立てた、あやしげな虚言の業ではないか、いったい人生に何の益、何の効用があるのかという、単純ではあるが同時に重大な問いかけを発したのである。
すると芭蕉は、
「俳諧はただ今日の事、目前の事にて候」
と答えて、即座に「道のべの槿(むくげ)は馬にくはれけり」の句を示したところ、仏頂は「善哉善哉、俳諧もかかる深意あるものにこそ」と感じ入り、それ以降は俳諧を制することはなかったという。」
 「芭蕉の答えは、俳諧の益は、いま・ここに、ありのままに、自然のままに、つまり何の飾りもなく無造作に、赤裸々に在るものの真実の姿を見ることである、という意味であろう。そしてそれはまた、こうして生きてある己れ自身の命を体得することに他ならない」(大野順一) 。

 「俳諧の益は」に対して、「ただ今日の事、目前の事」と答える。禅問答のような話しだが、芭蕉俳諧のひとつの回答である。
 禅からみれば言葉は妄語であり、文筆詩歌は仏の教えに背く狂言綺語ということになる。芭蕉にとって俳諧は、「今・ここ」という世界と向き合っている実存のことだという。よくできた作り話ということだが、芭蕉俳諧の真髄にふれる部分もあるように思う。

くろさうし (抜粋1)

発句の事は行て帰る心の味也。たとへば、山里は 萬歳おそし梅の花、といふ類なり。山里は萬歳おそしといひはなして、むぬは咲るといふ心のごとくに、 行て帰るの心、発句也。山里は萬歳遅といふ計のひとへは平句の位なり。先師も発句は取合ものと知るべしと云るよし。ある俳書にも侍る也。

或人の句はしほりなし。しほらんずるが故にしほりなし。又、或人の句は過ぎて心の直を失ふ也。心の作はよし、詞の作好べからずと也。

師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶、物を見て取所を心に留メて不消、書写して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもう所 しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。

俳諧は平話を用ゆ。

師のいはく、俳諧の益は俗語を正す也。つねにものをおろそかにすべからず。此事は人のしらぬ所也。大切の所也と伝へられ侍る也。

 

8.「しほり」と「細み」、「わび」と「さび」
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 「或人の句はしほりなし。しほらんずるが故にしほりなし」 。唐突にさりげなく「しほり」という言葉が使われているが、次のような文もある。

野明曰、句のしほり、細みとは、いかなるものにや。去来曰、句のしほりは憐(あはれ)なる句にあらず。細みは便りなき句に非ず。そのし ほりは句の姿に有り。細みは句意に有り。 是又証句をあげて弁ず。
  鳥共も寝入て居るか余吾の海   路通
此句細み有りと評し給ひし也。

  十団子も小粒になりぬ秋の風   許六
先師曰、此句しほり有りと評し給ひしと也。惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭 に應しがたし。只先師の評ある句をあげて語り侍るのみ。他はおてしらるべし。
(「去来抄」の「修行教」より)

 「しほり」(しをり)は全訳古語辞典では、「作者の繊細で情趣をもった心が、句の余情としてかもしだされること」として、「単に「あはれ」な句ではなく「あはれ」と思う心のはたらきが句に表れる」こととしている。「曲折ある撓(しな・たわむ)った表現の意。」「憐(あはれ)なる句にあらず」、「しほりは句の姿にあり」。つまり「しほり」とは、余情を醸し出した、しなった句の姿であり、「あはれ」と思う心のはたらきが表れている句、ということになろうか。
 「あはれ」は多義的な言葉であり、平安時代からの日本人の美的表現である。「ああ」という感動詞に始まり、しみじみとした情趣、寂しさ・悲しさ、愛情・人情・情けなどの意味があるようだ。芭蕉は、「あはれ」の俳諧的美的表現として「しほり」という言葉を使っている。
 「しほらんずるが故にしほりなし」。ここでも私意による作為が嫌われる。
 芭蕉は、 「十団子も小粒になりぬ秋の風 許六」の句が、「しほりありと評し」ている。 この頃団子が小粒になったように感じられて寂しい、といった句のどこが「しほり」なのか。どうも「あはれ」に「おかしみ」、滑稽の味付けが効いているようだ。
しかし芭蕉は「しほりは句の姿に有り。細みは句意に有り」といっている。「句の姿」とは何を指しているのか。

 「ほそみ」(細み)という言葉がある。同じ古語辞典では「句が、内容的に深まり、繊細でしみじみとした趣が表現されたもの」としている。
 「しほりは憐なる句にあらず。細みは便りなき句にあらず。そのしほりは句の姿にあり。細みは句意にあり。」 やはり、芭蕉が例としてあげた句を鑑賞するしかない。
鳥共も寝入て居るか余吾の海   路通
先師、此句細みありと評し給ひし」 とある。

 同じ「去来抄」の「修行教」で、次のようにも云っている。

野明曰、句のさびはいかなるものにや。去来曰、 さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば、老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有るがごとし。賑やかなる句にも、静かなる句にもあるもの也。今一句をあおぐ。
  花守や白き頭をつき合せ   去来
先師曰、寂色よく顕はれ、悦べると也。
(「去来抄」の「修行教」より)

 
 「しほり・ほそみ・さび」 までくると、芭蕉ワールドと呼ばれる俳諧の真髄に近くなるが、かなりマニアックな領域に踏み込むことになり、素人の手におえるものではなくなる。直感的には、とても私のレベルの作句の枝折になるものではない。
  さらに芭蕉が試みた「かるみ」という作句方法がある。眼前のことをわかりやすい日常語でストレートに表現しようとすることだが、「高く心を悟る」ことなしには至りえない境地であり、この芭蕉の「かるみ」の境地は、理解はできても作句においては、私にはほとんど別世界の高みのように思われる。その高みには容易には到りえないが、芭蕉が目指した俳諧世界がどういうものなのかは感ずることができる。

 芭蕉は「侘び」という言葉が好きだが、「寂び」という表現はあまり使っていない。現代においては「侘び」も「寂び」もほとんど区別がつかない。がセットが使われることが多いようだ。去来は「さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば、老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有るがごとし。」といっている。「さび」は単に「閑寂なる」をいうのではない。晴れやかや賑やかな中もに「老い」の姿があるがごとくである。
芭蕉の句はすべて「わび・さび」の世界ともいえるのだが、取り分けて句をあげるとすると、
 「侘てすめ月侘斎がなら茶歌
 「芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞夜哉
 「あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉
 「世にふるもさらに宗祇のやどり(しぐれ)哉
 「我宿は蚊のちいさきを馳走かな
 「憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥」(「嵯峨野」)
 「さびしさなくば住み憂からまし 」(西行)
 「わび・さび」は、死すべきものとしての人間のもう少し本源的な在り方のように思う。避けようもないエントロピー、連続性の崩れ、老いと病と死と、そして貧しく孤独な生活の中にあって、なんとか心の充実と行為の内的な充足に美を見出そうとする生き方。

  「わび・さび」については、茶や和歌などにいろいろ歴史的な見方があるのだろうが、まあそのようなものとして、個人の側に引き寄せて理解しておくしかない。ただ、老人には「わび・さび」の世界が近しく感じられ、その美しさにうっとりしてしまうのは、やはり枯れてきたせいだろうか。生きとし生けるもの、逃れえぬ「老・病・死」に、あわれみといとおしみを感じるのは日本人特有の仏教的心象のせいだろうか。

 私の「わび・さび」の気分としては、私としては、志し破れて閑寂に沈んでいても、そのような自分を自己嘲笑や諦念のうちに、その境遇もまたよしとして楽しむような心のもちよう、といったところだろうか。若い時の蹉跌、遂げられなかった思い、告げられなかった言葉、見失った希望のようなもの。まあ、そういう気分を引きずりながら生きていくしかないと観念して、その寂しさのようなものを胸に抱くのはきらいではない。だが、芭蕉のように、漂白風狂の世捨て人という立ち位置に居直って生きるほどの才能も度胸もない。

 芭蕉の心象は平穏・繁栄の「近世」ではなく、人の死が日常的であった戦乱・無常の「中世的」だといわれる。芭蕉が尊敬する宗祇、西行も、明日をも知れぬ戦乱の世を生き抜いていくなかで己の表現を磨いてきた。芭蕉の漂白の思い、捨身無常の思いも、それに連なっていくものなのだろう。

 「わび・さび」や「捨てる」という芭蕉の生き方に、人はなぜ惹かれるのか。経済活動優先、企業文化、拝金主義、効率化・合理化、快適さや豊かさの欲望追求社会。そのような社会のなかで生活に疲れ果てた人々は、立ち止まってふっと振り返る。そういう生き方ではない、人としての別の生き方があるのではないか、自分の内の自然性はそうではない生き方を求めているのではないか。

しかし、現代社会のなかで「わび・さび」の俳句は可能なのだろうか。挫折や失敗や失望や、うまくいかない人生における連続性の崩れ、無常感や死すべきものの観念が、何かの転機になることもある。
晩年の芭蕉は、「わび・さび」などの重い句から「かるみ」に移ろうとしていたように思う。

 

9.「かるみ」へ

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 「木のもとハ汁も鱠(なます)もさくら哉
この句の時、師の曰く、花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也。 」(「三冊子」の「あかさうし」より)
木のもとハ汁も鱠(なます)もさくら哉」。芭蕉はこの句を「かるみをしたり」という。何が、どの表現が「かるみ」なのか、わかかったようでわからない。
 「しほりは句の姿、細みは句意、さびは句の色」とすれば、「かるみ」は句の何になるのだろうか。
 「かるみ」は芭蕉晩年の句境である。季語を入れて17文字で表現するだけなら、俳句は現代のように誰でも作って楽しむことができる。だが、何事か人生を掛けた表現を為そうとすると俳句はてき面に難しくなる。日頃縁のない季語を入れたり、読めないような難しい漢字や意味不明の難解な言葉を使ったり、さらに才能を見せようと奇を衒った表現をするのは、俳句表現としていかがなものか。芭蕉が嫌うのは俗に膾炙した作為である。「かるみ」という作句態度ないし境地は、必ずしも和歌の雅語や古典的表現にとらわれるものではない。日常的な「眼前のこと」を平易な表現や俗語を使って、なおかつ気迫を込めて一気に無分別に作る、ということである。
 平易な言葉で、5・7・5のリズムに乗せ、軽快に心地よく、それでいて心と対象と言葉が一つになったような表現、芭蕉はそのような「かるみ」の俳諧を目指したのではないか。
 しかし、芭蕉には、「高くこころをさとりて俗に帰るべし」という姿勢がある。この姿勢なしに、俗にあって「かるみ」の句をつくることは芭蕉の「かるみ」ではない。「高くこころをさとる」ことなしに、ただ俗にあって、眼前のことを俗語を使って口から出まかせのような、いいちらかすような表現、奇をてらったり人を驚かしてやろうというような表現は、芭蕉の俳諧ではない。
 私のような凡人は、うまい句をつくろうとしてあれやこれやと迷ってしまう。「無分別」に「私意や作意」から離れて、ということが難しい。

 「木のもとは汁も鱠(なます)もさくら哉」の他、芭蕉の「かるみ」をしていると、私が思う次のような句がある。

 

かれ朶(えだ)に鳥のとまりたるや秋の暮
あさがほに我は食くふおとこ哉
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
山路来てなにやらゆかしすみれ草
古池や蛙飛こむ水のをと
よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな
二日にもぬかりはせじな花の春
ほろほろと山吹散るか滝の音
梅若菜丸子の宿のとろろ汁
ひやひやと壁を踏まえて昼寝かな
むめがが(梅が香)にのつと日の出る山路かな
前髪もまだ若草の匂ひかな
世を旅にしろかく小田の行戻り
我に似な二ツにわれし真桑瓜
清滝や波にちり込青松葉
秋ちかき心の寄や四畳半
蕎麦はまだ花でもてなす山路かな
行く秋や手をひろげたる栗のいが

延宝八年 37歳
天和二年 39歳
貞亨元年 41歳
貞亨二年 42歳
貞亨三年 43歳
貞亨五年 45歳
貞亨五年 45歳
元禄四年 48歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳
元禄七年 51歳

 日常生活の中でも、よくみれば新鮮な発見や驚きがあり、詩情を見出すこともあり、それをストレートに余計なことを考えずに?、句に詠む。それが「かるみ」の句となる。
 ただ日常で目にしたことを、ぱっと俗語や擬語を使って句にすればよいというものでもない。ありきたりでつきなみな表現やパターン化された感性では、心から楽しむことができない。芭蕉の句の場合は、和歌の伝統的な心や漢詩・故事・古典に依るところがあり、格調や品格がでてしまう。句はどうしても「心の色」が形になって表出してしまう。どのような「心の色」か、どのような表現の世界を意識しているのか。まっ、あまり難しく考えずに、俳句が楽しめればよいのだが。

 俳句は、文学性をもつものなのか、高尚な習い事か、はたまた老人のなぐさみか老後の楽しみか。芭蕉が提唱した「かるみ」は当時としては画期的だったのだろうが、現代においては空気のように自然で当然のことになっている。新聞や雑誌に載っている現代の多くの俳句は十分に「かるみ」していると思うが、芭蕉が目指した「かるみ」俳諧とは違うように思う。それは表現しようとする「心の色」が、芭蕉が目指したものと現代人とではことなるからだろう。芭蕉は和歌につながる古人の心をイメージしていただろうし、現代人はそれこそ多様な美意識、感性と価値観のもとに作句している。だが、「高く心をさとる」ということにおいては芭蕉の時代でも現代という時代でも同じではないかと思う。不易にかかわることや生き方への何事かの思いを詠んだ芭蕉らしい重い俳諧に比べ、「かるみ」は分かりやすいがつまらないところがある。だが、芭蕉が師とする西行の歌は「詞あさきに似て、心ことに深し」と評される。分かりやすい平易な日常語を使いながらも、その表現するものの心はことに深い。芭蕉はそれを「心の色」とよんでいる。どのような「心の色」を句に表現するのか。それが問われるのだと思う。

 「かるみ」をしている俳諧と、古典や伝統を踏まえた格調高い、やや重い俳諧が、芭蕉の中にも存在しているように思う。
  田中善信著の「芭蕉 「かるみ」の境地へ」(中公新書)のなかに、「おくのほそ道」の句と晩年に芭蕉が唱えた「かるみ」の句の間の差異について、興味深い分析がある。芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出たのは、46歳 元禄二年、 だが完成させたの5年後の51歳 元禄七年だった。晩年の芭蕉は、「炭俵」などて「かるみ」の句を作っていながら、平行して「おくのほそ道」の格調高くやや重い句を推敲していたことになる。田中善信氏は、「おくのほそ道」は芭蕉の個人的な趣味や好みであり、「かるみ」は芭蕉が「この一筋」とする俳諧の方向性であり、その違いだとしている。俳諧の方向としての「かるみ」を志向しながらも、芭蕉の個人的・感性的な好みは伝統を踏まえた風雅ということか。「かるみ」をしながら俗に流れず、古人の伝統に繋がりつつ格調をもって作句することができたのは、芭蕉にのみ可能な境地だったのかも知れない。
 それにしても、「おくのほそ道」の中の俳諧と「かるみ」の俳諧の間で、芭蕉自身も揺れる思いがあったのではないか。その揺らぎの中で、新しい俳諧の姿を求め続けたのではないか。俳句って何なんだろう。

10.うばはれて不叶

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 「絶景にむかふ時は、うばはれて不叶」。風景に心を「うばわれて」、句にならないこともある。芭蕉は、「おくの細道」で、「松島の月まず心にかかりて」あれほど松島への憧憬の思いがありながら、実際に松島を訪れてみると、その絶景に心うばわれ句をものすることができなかった。その時の反省か、「物を見て取所を心に留メて不消、書写して静に句すべし」といっている。物を見てその感動を心に留め、書き写して静かに句にするべしとしている。 「物の見へたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」である。
 風景を見るとき、それが絶景であれどこにでもあるような風景であれ、心の内に何事かを呼び起こさないこともあれば、大げさに言えば感動に打ち震えることもある。 心が物と一体となって、物の光が見えたら、それがこころから消え去らないうちに、いいとめ、書きとめて、静かに句にしておかなければならない。

 ぼっ−として、風物を眺めていてるだけでは、何も出てこない。風物に心奪われたからでもない。句をひねり出そうとしたら、それなりの事前の心構えと準備と、ことに臨む時の意気込みや心意気といったものが必要なのだと思う。やはり、ぼっ−としていては、ぼっ−とした句しかできない。

 芭蕉は、「絶景にむかふ時は、うばはれて不叶」とか、体調が悪くてとか、疲れてとかいって句をつくらないことがよくある。だが、表向きは句をつくらないといっていながら、裏ではしっかりつくったりしている。だが句の出来が気に喰わない。これはなんなのだろう。そういうこともあるということか。芭蕉は自分の句に対して厳しい。

11.俳諧の益は俗語を正す也
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 芥川龍之介は「芭蕉雑記」の中で、芭蕉の「俗語」について触れている。
 「芭蕉はその俳諧の中に屡(しばしば)俗語を用ひてゐる。たとへば下(しも)の句に徴(ちよう)するが好い。

  洗馬(せば)にて
梅雨ばれの私雨(わたくしあめ)や雲ちぎれ

「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉(ことごとく)俗語ならぬはない。しかも一句の客情(かくじやう)は無限の寂しみに溢(あふ)れてゐる。芭蕉のみづから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語したのも当然のことと云はなければならぬ。「正す」とは文法の教師のやうに語格や仮名遣ひを正すのではない。霊活(れいくわつ)に語感を捉へた上、俗語に魂を与へることである。
 じだらくに居れば涼しき夕(ゆふべ)かな 宗次(そうじ)。
猿みの撰の時、宗次今一句の入集を願ひて数句吟じ侍れど取(とる)べき句なし。一夕(いつせき)、翁の側(かたはら)に侍りけるに、いざくつろぎ給へ、我も臥(ふし)なんと宣(のたま)ふ。御ゆるし候へ、じだらくに居れば涼しく侍ると申しければ、翁曰、これこそ発句なれとて、今の句に作(つくり)て入集せさせ給ひけり。
 この時使はれた「じだらくに」はもう単純なる俗語ではない。紅毛人の言葉を借りれば、芭蕉の情調のトレモロを如実に表現した詩語である。これを更に云ひ直せば、芭蕉の俗語を用ひたのは俗語たるが故に用ひたのではない。詩語たり得るが故に用ひたのである。すると芭蕉は詩語たり得る限り、漢語たると雅語たるとを問はず、如何なる言葉をも用ひたことは弁ずるを待たぬのに違ひない。実際又芭蕉は俗語のみならず、漢語をも雅語をも正したのである。」  (芥川龍之介「芭蕉雑記」の「六 俗語」より)

 「じだらくに居れば涼しき夕(ゆふべ)哉
さるミの撰の時、 一句の入集を願ひて、数句吟じ来れど取べきなし。一夕(いつせき)先師のいざくつろぎ給へ。我も臥(ふし)なんとの給ふに、御ゆるし候へ。じだらくに居れば涼しく侍ると申。先師曰、是ほ句也。ト、今の句につくりて、入集せさとの給ひけり。
」(「去来抄」の「先師評」より)

 俳諧の効用は、俗語・日常語を詩語として高める・昇華させることにある。
「「俗語を正す」の「俗」は、「心の俗」である。したがって「俗語を正す」とは、「心の俗」を「正す」ということに他ならない言葉を巧もうとして焦心する「巧者の病」を治癒せしむるということに他ならない。」(「芭蕉と生きる十二の章」大野順一著)

 「俗語」は「公式な場面、文語、公文書、学術文書などの改まった場面では用いられないが、くだけた場面のみに使うことを許される言葉の総称であり、品のない言葉遣いとされる」。隠語・スラング・若者言葉・ギャル語など。俗語の反対語あるいは関連語は「雅語」というということになる。「雅語」は、和歌などに用いる主として平安時代の言葉とされ、洗練された上品な言葉という意味もある(Wikipedia)。
 現代では、「雅語」 を俳句に使用する方が難しい。「俗語を正す也」とは、俗語を正しくするということではなく、俗語のなかに雅語のもつ心と同質の表現を見出したり、高雅なものを見出すということである。それは「心の俗」「心のいやしさ」を「正す」ということにほかならない。俗語を使って何かを表現しようとする時の心の在り様を正しくする、ということである。だが、「心の俗」を「正す」ことがまた難しい。俗な心が自身の俗を正すということが難いからである。芭蕉の作句態度は、芭蕉的生き方とも深くかかわっている。やはり、どこまでいっても芭蕉は遠い。

 「蕪村句集」(玉城 司訳注 角川ソフィア文庫)にある「解説」で、玉城司氏は「春泥句集」序にある蕪村の俳諧観を紹介していて興味深い。
 「俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尚(たつと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ
 「詩を語るべし」
 これは「離俗の説」といわれるが、やはり一筋縄にはいかない。



12.謂いおうせて何か有

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 「下臥につかみ分ばやいとざくら
先師路上にて語り曰、此頃其角が集に此句有。いかに思ひてか入集しけん。去来曰、いと櫻の十分に咲きたる形容、能謂おほせたるに侍らずや。先師曰、謂応せて何か有。此におゐて肝に銘ずる事有。初てほ句に成べき事ト、成まじき事をしれり。」(「去来抄」の「先師評」より)

 芭蕉翁が路上でいった。この頃其角の句集に、この句がある。何を思ってこの句を入れたのだろう。それを聞いて去来がいった。いと桜の咲いた姿を十分に表現しきっていると思います。芭蕉翁はいった。「言い尽してしまって何になる」。
 俳諧は17文字のわずかな言葉の表現形式である。表現された言葉の後ろには、多くの言葉にならない沈黙があり思いがある。俳諧はそれらの言葉にならない思いを醸成するものである。読者が余情を楽しめるように、言葉少なめに、言い過ぎないことが肝要である、ということである。

 俳諧の「俳」はもともと「滑稽」といった意味がある。「諧」は、皆が言い合いながらも調和していることを言うようだ。俳諧は作者ひとりの世界ではない。読む人といっしょになって楽しめる世界でなくてはならない。読む人の想像をかきたてるものでなくてはならない。

 芭蕉は生涯、自分では句集を出していない(初期の「貝おおい」は別)。芭蕉七部集といわれる 「冬の日 ・ 春の日 ・ あら野 ・ ひさご ・ 猿蓑 ・ 炭俵 ・ 続猿蓑」などはすべて連句集で門人たちが出したもの。俳諧は、連中といわれる人たちが集まって、連句を楽しむところから出発している。芭蕉の俳諧は、連句の「発句」から出たもので、句を続ける人や鑑賞する人といっしょに作り上げるようなところがある。独りよがりはいけないよ、ということか。

 

13.虚実のこと

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 俳諧は、どうしても「虚実」が交差するところがある。支考の偽作なのではとされる「芭蕉翁二十五箇条」では、師芭蕉は、「万物は虚に居て実に働く。実に居て虚に働くべからず」、他にも「詩歌、連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。・・・虚に居て虚をおこなふべし」といったとか。この表現は禅問答のように難しいが、言語表現とくに文芸的言語にはどうしても虚実の問題がついてまわるのは事実である。
 しかし、「虚」「実」とは何か。人生は「虚」である。そう悟って詩歌に逃れ、仏門に入ったり、人里離れて隠棲したりする人の生き方がかかわっているようだ。何で生計をたてているのかよく分からないような生き方がある。生活を離れたところで生きる生き方が「虚」といえるかもしれない。「実」は、それにもかかわらず、人は生きるためには生活とそれに伴う生業を含めた雑事に耐えなければならないという宿命を背負っている生き方、ということになる。「実」の生き方といっても、多くの人はその虚しさを隠して生きているのだが。
  芭蕉は深川隠棲により、俳諧師としての「虚」の生き方に入ったようだ。生活ははとんど弟子や門人の善意や喜捨に委ねた。自分は、生活を離れて詩人の魂に生きようとした。俳諧の誠を追い求めた。
  芭蕉は、支考の同じくだりで「虚に居て実をおこなふべし」と「虚に居て虚をおこなふべし」と2つの異なったことをいっている。この世の本質を虚とみ、そこに生息する自分も虚と感じる。そのなかで行う俳諧表現活動は虚か実か。俳諧とは、この世は実に見えて虚しいものだという思いのなかで行う、虚構であるという。しかし、もはや中世の戦国・戦乱の時代ではない。この世を一概に虚しいものとしてしまうわけにもいかない。虚実のあわいの中で虚実の表現活動をしていくしかないという思いが芭蕉のものではないだろうか。しかし芭蕉の軸足は、俳人としてあくまでも「」に置いている。

何が虚・何が実かもよくわからないのに、私のなんとなくの虚実イメージ。
  実に居て実に働くのは・・・普通の人・生活者・写生句?
  実に居て虚に働くのは・・・普通の俳句を楽しむ人、遊び人か詐欺師か
  虚に居て実に働くのは・・・普通の俳諧師・表現者・平易な言葉の句
  虚に居て虚に働くのは・・・かなり飛んだ風狂の俳諧師・芸術家、超人

虚・虚の芭蕉句(私の独断)
  侘(わび)てすめ月侘斎がなら茶歌
  年の市線香買に出ばやな
  蛸壺やはかなき夢を夏の月
  俤(おもかげ)や姥ひとり泣月の友
  田一枚植えて立ち去る柳かな
  五月雨の降りのこしてや光堂
  病雁の夜さむに落ちて旅寝哉
  何に此師走の市にゆくからす
  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 芭蕉の句は基本的に虚・実= 「虚に居て実をおこなふ」であると思う。芭蕉の師西行の歌は「詞あさきに似て、心ことに深し」で、虚・実をしている。
 「虚」は、現世を虚しいとする思いであると同時に、「造化にしたがひて四時を友とする」態度でもある。「見るところ花にあらずということなし、思うところ月にあらずということなし」といった風流・風雅の心であるだろう。「虚」とは「風流の心」といえるようだ。
現代人にとって、いや芭蕉の時代でもそうだったのかもしれないが、芭蕉のように「虚」に生きることは難しい。「虚」に居て「実」や「虚」の句をつくるという態度は難しい。「風流」や「風雅」といわれる生活意識や美意識の中に生活の軸足を置くのは、生活者としては辛い。「実」に居て「虚」に遊ぶのがせいぜいか。



<続くかも> 少し続いた

 
  by miura 2009.12
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