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「野ざらし紀行」の「野ざらし紀行絵巻」の跋に次の文がある。
「此の一巻は必ず紀行の式にもあらず。ただ山橋野店(さんきょうやてん)の風景、一念一動をしるすのみ。・・・他見恥づべきものなり。
芭蕉散翁書
たび寝して我句をしれや秋の風」
「野ざらし紀行」は芭蕉41歳の時の作品である。37歳からの深川隠棲と言われる時代から5年、芭蕉は迷いを吹っ切るかのように旅にでる。芭蕉は「野ざらし紀行」で多くの秀句を残した。列挙すると。
野ざらしを心に風のしむ身哉
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜
砧打つて我に聞せよや坊が妻
露とく/\心みに浮世すゝがばや
秋風や藪も畠も不破の関
死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮
明ぼのやしら魚しろきこと一寸
狂句木枯の身は竹斎に似たる哉
海くれて鴨のこえほのかに白し
春なれや名もなき山の朝霞
山路来て何やらゆかしすみれ草
辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて
命二つの中に生きたる桜哉
いざともに穂麦喰らはん草枕
白げしに羽もぐ蝶の形見哉
夏衣いまだ虱(しらみ)をとりつくさず
どの句も令和の時代になっても秀句として評価されるような句ばかりだと思う。何がよい句なのかは人により評価の基準は異なるが、自然の景物に触れた時の芭蕉の心を震わせた思いが言葉として表現されている、その芭蕉の思いに多くの人が共感するからだろう。自分の思いや主観性の濃い句を嫌う向きもあるが、自然そのものも、主観性も、主観性を通しての自然も、ともに句の対象となるものとしては同等、優劣の差はないのではないか。
「ただ山橋野店の風景、一念一動をしるすのみ」として、「たび寝して我句をしれや秋の風」という芭蕉の句が効いている。「山橋野店」というのがよくわからないが、「芭蕉俳文集」(堀切実編注 岩波文庫)によると、杜甫の詩の「野店山橋」や「或るは山館野亭の夜の泊、或るは海辺水流の幽なる砌(みぎり)にいたるごとに、目にたつ所々、心とまるふしぶしを書き置て」などを参考にした表現のようだ。
芭蕉は、旅をして、自然の四季に触れ、「一念一動」する心の思いを句にする。そして自然の中で裸の自分の立ち位置を想い、自分自身を知りなさい、といっている。自身の未熟さや愚劣さを悟りなさいといっているのかも知れない。「我句をしれ」という表現が怖い。
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