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仙台から松島へ


  鐙摺(あぶみずり)、白石の城を過ぎ、笠島の郡(こほり)に入れば、藤(とおの)中将実方(さねかた)の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「これより遥か右に見ゆる山際の里を蓑輪・笠島と云い、道祖神の社(やしろ)、かたみの薄(すゝき)、今にあり」と教ふ。このごろの五月雨に道いと悪しく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、

  笠島はいづこ五月のぬかり道

岩沼に宿る。
歌枕の笠島
歌枕の笠島の墓標へのアプローチ。竹藪の緩やかな坂を進むと下の写真のような木の囲いがある。
私が初めて笠島を訪ねた時、案内板も整備されていなかったせいか笠島を探し当てるのに苦労した。2度目はカーナビと案内板が整備されていたためすぐにみつけることができた。

 

笠島はいずこ [地図]

笠島はいづこさ月のぬかり道

 藤原実方は、藤原一門のなかでも由緒ある家柄の生まれで、美貌と風流を兼ね備えた貴公子、源氏物語の光源氏のモデルともいわれている。「歌枕見て参れ」との勅命で各地の名所旧跡を訪ね歩いた。名取郡笠島道祖神の前で落馬し、それがもとでこの地でなくなったと伝えられている。
 小山が田のなかへ入り江ように入り込んでいる地形で、笠島の場所は分かりにくい。写真は笠島の入り口となっている竹やぶ。
 芭蕉は、五月雨のぬかり道の中で、とうとう歌枕の笠島を探し当てることができなかったようだ。

中将実方朝臣の墓
中将実方朝臣の墓と言われる場所。歌枕ではあるが、小さな盛り土があわれ。墓の周りはよく整備されている。だが、どうも句をつくるような気分にはなれない。 芭蕉の笠島の風情を楽しむ。

 現在は案内板も出ていて、整備されているので探しやすいが、中将実方朝臣の墓は写真のような、小さな盛り土でしかない。木の囲いがあるからそれとわかるが、案内と囲いがなければ何がなんだかわからない。当時は竹やぶやすすきに覆われていたのではないか。これでは見つけられない。仕方ないので、芭蕉も「いずこさ月のぬかり道」と調子のよい句をひねった。
 西行もこの塚を訪ね、つぎのような歌をうたった。西行も塚を探し出せたのかどうかこれではわからない。

ちもせぬその名ばかりを留め置きて、枯野のすすき形見にぞ見る 西行

 芭蕉の句のせいで、案内板もできて、塚はよく整備されていて、雰囲気は楽しむことができる。入り口には西行の歌に寄せて、気持ちばかりのススキが植えられていた。

「あやめ草」のイメージ
「あやめ草」のイメージ 。薬師堂の境内ではなく別の場所で撮ったもの。

 

宮城野

名取川を渡って仙台に入る。あやめふく日なり。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。ここに画工加右衛門というものあり。
紺の染緒(そめお)をつけたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、ここに至りて其の実を顕わす。

あやめ草足に結ばん草鞋(わらじ)の緒

薬師堂の境内
薬師堂の境内。こんな碑がたっていた。
仙台でどういうつてか画工の加右衛門と知り合った。画工加右衛門は書店を営みながら俳句をやり仙台の歌枕もよく調べていたようだ。彼は
芭蕉達を仙台の歌枕を案内した。

 

 芭蕉は仙台にて、画工の加右衛門に案内されて、歌枕や名所を案内してもらった。国分寺跡に建つ薬師堂やつつじヶ丘の天満宮を訪れた。
 薬師堂の境内に句碑が立っている。

あやめ草足に結ばん草鞋の緒

 句碑の横に池らしいものがあるが水がない。下の写真のように完全に乾いていた。池にはあやめ草があった。
 あやめは端午の節句の菖蒲に縁があり、独特の6月の風のようなスッキリとした香りがあり、邪気を払うといわれる。あやめを草鞋の染め緒にして、旅の無事を祈るという趣向に、芭蕉は感激した。蚤と蚊の侘しい旅が続くなかで、このような仙台の「風流のしれもの」に出会って芭蕉は大いに喜んだ。「ここに至りて其の実を顕わす」、やや大げさだがなんという面白い表現なのだろう。「おぬしできるな」、あるいは「おぬしやるのう」といったところか。

薬師堂の境内にある「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」の石碑
薬師堂の境内にある「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」の石碑

 ここに水がありあやめが咲いていたなら、あやめ草足に結ばん草鞋の緒 の風情も最高だろうが、おしい。
 旅にあって、「風流のしれ者」風狂の士に出会えた感動を胸に、芭蕉の足は多賀城・壷碑から塩竃に向かった。
多賀城跡の南門のあたりにある壷の碑を囲ったお堂
多賀城跡の南門のあたりにある「壷の碑」(=多賀城碑?)を囲ったお堂。
青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、ここには「日本の中央」と記された石碑がある。だが、坂上田村麻呂は青森県の東北町のあたりには来なかったという。

壷の碑(つぼのいしぶみ)

壷碑 市川村多賀城に有り。

 多賀城跡の南門のあたりに、「壷の碑」を囲ったお堂がある。現在は公園になって整備されている。
 芭蕉がたずねた時は、覆いもなく苔むした状態で立っていたようだ。
 高さ2m、横1mの立派な石碑だが、文字の刻みがやや浅く、かろうじて読める程度。芭蕉はそれをなんとか判読して、  四方の国境からの距離を「里」であらわしている。多賀城の存在と位置を明確に宣言したかったのだろう。ここに確かに多賀城があった動かぬ証明にちがいない。「里」は4Kmではなく別の尺度のようだ。「壷の碑」とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で「日本の中央」の旨が記されているという。「多賀城碑」とは別物のようだが、江戸時代から「壷の碑」と信じられてきた。

多賀城跡の南門のあたりにある壷の碑を囲ったお堂
多賀城跡の南門のあたりにある「壷の碑」を囲ったお堂
「おくのほそ道」ではつぎのように書いている。
(去京一千五百里、
去蝦夷国界一百里、
去常陸国界四百十二里、
去下野国界二百七十四里、
去靺鞨国界三千里)
「此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍(藤原)恵美朝臣朝狩修造而。十二月朔日(ついたち)」

 この石碑の内容は、多賀城の四方の国境からの距離を表し、724年に大野朝臣東人が築いたものを、762年に蝦夷征伐府長官の恵美朝臣朝かりが修復して石碑を建立したという。芭蕉はこの碑を読んでやや大げさなくらいに感動している。

むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑ひなき千載の記念(かたみ)、いま眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労を忘れて、泪も落つるばかりなり

 白川の関や笠島など歌枕のはかなさを身にしみて感じていた芭蕉には、この物証は感激ものだったのだろう。
そこで私も一句。

みちのくの哀しさつたえよ壷の碑

[地図]

「壺の碑」
この「壺の碑」=多賀城碑は国の重要文化財に指定されている。贋作説もあったが書体等の分析から762年頃の作であることが証明されたという。
多賀城の記念碑としては間違いないようだが、「壺の碑」かどうかは別のことのようだ。
「壺の碑」の拓本 拓本
クリックすると拡大する。
 この拓本は、 このあたりで案内をしてくれたボランティア・ガイドさんからいただいたもの。市役所の職員さんだという。ご苦労様です。
多賀城跡
多賀城跡。礎石が点在する広場があるだけで、他には何もない。

多賀城跡

 多賀城について芭蕉は何もいっていない。
「壷碑 市川村多賀城に有り」とだけ書いている。
 「山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、其の跡たしかならぬ事のみ」のなかで多賀城も草に埋もれていただろう。現在は発掘もすすんで、官庁跡も輪郭がわかってきて整備が進められている。多賀城跡は何度が訪れたが、最近ではボランティアのガイドさんがいる。頼めば、いっしょに案内してくれる。上の壷の碑の拓本は、市(区)役所職員のガイドさんに分けてもらったもの。多賀城と仙台の人の熱い思いに感謝。

歴史とは草にうずもるパンドラの箱
奪われて蝦夷の涙か多賀城の雨
アテルイも坂上も見たり壷の碑


歴史の叢に沈んでいた多賀城。 今はよく整備されたオープンな草原になっている。

 芭蕉が多賀城を訪ねたときには、「多賀城跡」は草むらに隠れていたのだろう。
 多賀城は、大和朝廷が蝦夷を制圧するための軍事的拠点として、8世紀初めから10世紀頃まで存続したといわれている。蝦夷と大和朝廷の勢力の拮抗点に設けられたため、多くの争いの舞台となったのだろう。
 802年(延暦21年) 坂上田村麻呂の蝦夷討伐に伴い戦線もさらに奥地に移動し鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移された。そのころから多賀城は兵站的機能に変わり、歴史の表舞台から退いていったようだ。

 「壺の碑」の生々しい物証とは対照的に、多賀城跡の草原には真夏の熱い風が吹きわたっていた。

「すえの松山」
「すえの松山」
末の松山  [地図]

 多賀城市の海に近い丘にある。その昔、ここは海岸べりの松林だったのだろう。
 芭蕉の時代と同様、今も墓地の中に2本の松がたっているばかり。風情はあまりないが、芭蕉は「末の松山は寺を造りて末松山(まつしようざん)」「野田の玉川・沖の石」を訪ねた。

君をおきて あだし心をわがもたば すえの松山波もこえなむ (古今和歌集 東歌)

ちぎりきな かたみにそでをしぼりつつ すえのまつ山なみこさじとは (後拾遺和歌集 清原元輔)小倉百人一首に収められた有名な歌。

 芭蕉は、「松のあひあいみな墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝を連ぬるちぎりの末も、終(つひに)はかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相(いりあひ)のかねを聞。」といっている。墓の原に立つ松をみて、「ちぎりの末も、終はかくのごとき」と、人の世の恋の約束のはかなさの終の姿として描いている。
 「野田の玉川・沖の石」は、何を指しているのかもよくわからない。その痕跡が認められない。探し当てられず。

和泉三郎が寄進した神灯篭
和泉三郎が寄進した神灯篭。

灯篭の扉の部分を拡大したもの。「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」と読めるようだ。

 

塩竈神社 [地図]

 芭蕉は、塩竃神社に詣でて、和泉三郎の「勇義忠孝」と並んで、そのたたずまいの美しさを「吾が国の風俗」として、最大級の表現でほめている。
 「国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仭(きうじん)に重なり、朝日あけの玉垣(たまがき)をかがやかす。かゝる道のはて、塵土(ぢんど)の境(さかひ)まで、神霊あらたにましますこそ、吾が国の風俗なれと、いと貴けれ。」

 本殿の左右に神灯篭がある。その右側の灯篭が和泉三郎が寄進したもの。
五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そぞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。
 藤原秀衡の三男和泉三郎は忠衡といい、父の秀衡が死んだあと、一族がことごとく反逆して義経を攻めたのに対して、ひとり義経について高館で戦死した。芭蕉は、父の秀衡の遺命を守って義経を捨てなかったのは「孝」、よく義経に従ったのは「忠」、兄に従わず義経に従ったのは「義」、終に戦死したのは「勇」として「勇義忠孝の士」として和泉三郎をたたえた。
 もともと義経びいきの芭蕉は、その義経に殉じた和泉三郎をせいいっぱい誉めている。

松島の雄島
松島の雄島

 

松島 [地図]

 芭蕉は、塩竃神社参詣を終えて、船で松島に向かい、雄島の磯についた。
 序文で「松島の月まず心にかかりて」と旅に出る前から芭蕉にとって松島は憧れの地だった。夢にまで見た松島の月だった。

 芭蕉は、「松嶋は扶桑第一の好風にして、凡(およそ)洞庭・西湖を恥ず」と重厚な漢文調の最大限の言葉で松島をたたえている。だが、本命の句は作らなかった。

写真は雄島。

抑(そもそ)も事ふりにたれど、松島は扶桑第一の好風(かうふう)にして、凡(およそ)そ洞庭(どうてい)西湖(せいこ)を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江(せつかう)の潮(うしほ)をたゝふ。島々の数を尽して、欹(そばだ)つものは天を指し、伏すものは波に匍匐(はらば)ふ。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風に吹きたわめて、屈曲おのづからためたるが如し。其の気色よう然として、美人の顔を粧(よそほ)ふ。ちはやぶる神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆を揮(ふる)ひ詞を尽さん。
 雄島が磯は地つゞきて、海に出でたる島也。雲居(うんこ)禅師の別室の跡、坐禅石(ざぜんせき)など有り。はた、松の木陰に世を厭ふ人も稀/\見え侍りて、落穗・松笠など打けぶりたる草の庵閑に住みなし、いかなる人とは知られずながら、先づ懐かしく立寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階をつくりて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地はせらるれ。

 松島や鶴に身をかれ時鳥(ほとゝぎす) 曾良

 予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松嶋の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解てこよひの友とす。且杉風濁子が発句あり。

丘の上から見た松島。 松島は上から見ないと島の形が見えない。

4つの洞門をもつ鐘島。芭蕉は舟で湾内遊覧をしたのだろうか。

 芭蕉は、イメージどおりの絵のような風景を前に、句にしようもなかったのかもしれない。いや芭蕉ほどの達人が句の一つもひねられない筈はない。その気になれば、それなりの句は作れただろう。

松島や鶴に身をかれ時鳥(ほとゝぎす) 曾良

 この句は曾良の句としているが、芭蕉の句だろうといわれている。時鳥よ、松には鶴がよく似合うよ、といった挨拶程度の句である。松島を愛でる句としてはこれでもよいのだろうが、芭蕉の深い情趣をともなう風流ではない。
 芭蕉の松島における句としては、次のものがある。だが、この句も「おくのほそ道」には取り上げられなかった。

島々や千々に砕きて夏の海

 芭蕉の「おくのほそ道」における表現意識がどうしても納得せず、意図的に句を作らなかったのではないか。
 「野ざらしを心におもひて旅立ちければ」という芭蕉は、新しい俳句表現を生み出すことにすべてをかけていたはずで、松島ではその表現のとっかかりを見出せなかったのではないか。一言でいえば芭蕉俳諧の風狂趣味に合わなかったということだろうか。
 芭蕉の「風雅のまこと」を追い求める心は何をみていたのか。

雄島より見た松島
雄島より見た松島。訪ねた松島は雨にうち煙っていた。

 雄島には庵のあとは見えないが、写真のように 風光明媚。

 芭蕉が泊まったという熱田屋はなくなり、今は駐車場になっている。その横に「松島一景」というレストランがある。その二階でソバ定食を食べる。
 2階からの眺めは時代は変わって眼前にいくつかのお店や船乗り場が設けられている。芭蕉が泊まったころは海に面して松島の風景を一望することができたのだろう。

 晴れていれば、笑うがごとき美人の顔を堪能できたはず。残念ながら雨にけぶる松島で、象潟になってしまった。それにしても相変わらず観光客が多い。

photo by miura 2005.9    須賀川〜飯塚
石巻〜平泉