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須賀川から飯塚へ


 とかくして越え行くままに、阿武隈川(あぶくまがは)をわたる。左に会津根(あひづね)高く、右に岩城(いはき)、相馬(さうま)、三春(みはる)の庄、常陸下野の地をさかひて山つらなる。影沼といふ所を行くに、けふは空くもりて物影(ものかげ)うつらず。
須賀川(すかがは)の駅に等窮(とうきう)といふものを訪(たづ)ねて、四五日とどめらる。先づ「白河の関いかに越えつるや」と問ふ。「長途の苦しみ身心(しんしん)つかれ、かつは風景に魂(たましひ)うばはれ、懐旧(くわいきう)に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
  風流(ふうりう)のはじめやおくの田植(たうゑ)うた
無下(むげ)に越えんもさすがに」と語れば、脇第三とつゞけて三巻となしぬ。

「鏡沼」(影沼)
「鏡沼」(影沼)

須賀川

 須賀川市の国道4号線の案内板に従って、しばらく行くと「かげ沼」が田んぼの中に現れる。芭蕉は「影沼」と呼んでいるが、案内には「鏡沼」とあった。どうも同じもののようだ。

池の側にある芭蕉と曾良が並んで池を見ている石像
池の側にある芭蕉と曾良が並んで池を見ている石像。須賀川の芭蕉と曾良の石造はどれも似ていて愛らしい。同じ石工になるもののようだ。
 

江戸時代に作られた上の版画には「古沼跡」とある。池の側には芭蕉と曾良が並んで池を見ている石像がある。 上の絵は版画で江戸時代のものだがイメージは実際の風景のロケーションに近い。絵の中心に古沼が描かれている。江戸時代とあまり変わっていないのに驚いた。小公園の案内板には次のようないわれが書かれてあった。
 「源頼朝が急逝した(正治元年1199)あと、頼朝の妻と北条時政の度重なる奸計に謀叛した和田平太胤長(つねなが)は捕らえられ赦免されることなく、奥州岩瀬郡の二階堂行村に配流され、誅されました。天留夫人は、夫に逢いたい一心から、奥州への一人旅を決心し、幾山川を越えてこの地まてたどりつきました。もうすぐ夫に逢えるうれしさに、懐の鏡をとり化粧をし、身のつくろいを済ませ、夫の許へと急ぎました。かげ沼の近くで里人に、夫胤長はすでに誅されたことを告げられ、悲憤のどん底に泣きくずれ、鏡を胸に抱き、夫の後を追って沼に身を投げました。時に、胤長31歳、天留夫人27歳でした。

 

須賀川の芭蕉記念館
十念寺の立派な句碑 「風流のはじめやおくの田植うた」
十念寺の立派な句碑 「風流のはじめやおくの田植うた

 天留夫人と一緒にかげ沼に沈んだ鏡は、沼の底で照り輝いていたといわれそれから「鏡沼」といわれるようになりました。 」

 須賀川市役所の前に芭蕉記念館があり、そのすぐ近くに等窮(とうきう)の家や栗の花の可伸庵跡がある。等窮はこの地で問屋を営んでいて、江戸に出た折には芭蕉から俳諧をみてもらっていた。そういう関係で、等窮は奥州俳壇の宗匠としての地位にあったようで奥州の情報を芭蕉に提供していたようだ。
 その等窮から、「先づ白河の関いかに越えつるや」と問われ、芭蕉は 「長途の苦しみ身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさずとしながらも、

  風流のはじめやおくの田植うた


とうたった。
 白河の関は歌枕だが、俳諧の新風を起こそうとしている芭蕉には、この手の歌枕は苦手のようだ。時代も変わったのだから、いまさら都から遠く離れた白河を詠ってもしょうがない。
 江戸時代にあっては、米作りは主要基幹産業であり、田植え唄も日常だったのだろう。江戸下町住いの芭蕉には田植え唄がよほど新鮮に映ったようだ。
 左の写真は、十念寺の立派な芭蕉句碑。こんなに立派だとかえって気が引ける。

 

軒の栗庭園の芭蕉と曾良
軒の栗庭園の芭蕉と曾良。可愛い、愛きょうのある二人。奥州路行脚の青年の旅のようでほほえましい。

 等窮は問屋業を営みつつ田畑を持って耕していた。芭蕉たちが尋ねたときにも田植えの真っ最中だったようだ。田植えは奥州に限らず全国にあったはずだが、江戸住まいの芭蕉には、田植え唄がよほど新鮮だったらしく、その感動をそのまま句にした。芭蕉は、「田一枚植えて立ち去る柳かな」「早苗とる手元や昔しのぶ摺(ずり) 」「早稲の香や分け入る右は有磯海」など、田植えにちなんだ句を4つも残している。

 等窮の住まいは須賀川NTTの建物のあたりにあったというが、その近くの「軒の栗庭園」という 小公園に左の写真のような背の低いずんぐりムックリな芭蕉と曾良の石像があった。2人とも愛嬌があって可愛らしい。マンガちっくだがこういうセンスも悪くない。

旅に出た 青年2人に 栗花隠者
緑濃く にほい出ずるや 田植え歌
背低く 志秘めて 奥州路

栗の花可伸庵跡
栗の花可伸庵跡
此の宿の傍に、大きなる栗の木蔭(こかげ)をたのみて世をいとふ僧あり。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと間(そぞろ)に覚えられて、物にかきつけ侍る。その詞、
栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に便(たより)ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや。
  世の人の見つけぬ花や軒(のき)の栗(くり)
栗の花可伸庵跡にある「世の人の見つけぬ花や軒(のき)の栗(くり)」石碑
栗の花可伸庵跡にある「世の人の見つけぬ花や軒(のき)の栗(くり)」石碑
蕪村の 「奥の細道図巻」にある「栗の花可伸庵」
蕪村の 「奥の細道図巻」にある「栗の花可伸庵」。いくつかのバージョンがある。それぞれ味わい深い。

 等窮は友人で俳諧仲間の可伸という僧を芭蕉に紹介した。可伸は等窮の近くの大きな栗の木のある家に隠棲していた。左上の写真は可伸の家があったという栗の花可伸庵跡。
 世をいとう遁世者や隠棲者は、芭蕉好みの生き方。その場所は街の中でも山の中でもかまわない。僧の格好をした俳諧師が旅に出ると芭蕉になるのだろうか。可伸は、俳諧をする僧ということで、外見は芭蕉とそっくりだったとか。
  旅の途中でこのような隠棲者然とした可伸に出会って芭蕉はうれしくてならない。「世の人の見つけぬ花」として可伸の生き方を栗の花にたとえて称えている。

 写真は、小公園にある句碑。公園には何代目かの栗の木があった。句碑の右の木は松だが、これが栗の木ならと思う。
 その下の写真は、 須賀川市役所の前の芭蕉記念館にあった「奥の細道図巻」の模写品。蕪村の作だが、よく見慣れた「栗の花可伸庵」とはやや異なっている。栗の木が左側にあり、右の庵に可伸らしき人が正面を向いて座っている図柄はよく見る(下の図)。この絵は、構図の逆だが、可伸も後ろを向いていて、変化があって面白い。
 蕪村の 「奥の細道図巻」にもいくつかのバージョンがあるようだ。蕪村は同じ絵柄を増産したのではなく、1品1品工夫をこらし、変化をもたせる努力をしたようだ。

蕪村の 「奥の細道図巻」にある「栗の花可伸庵」

文智摺り石は安洞院の境内にある。
文智摺り石は安洞院の境内にある。
芭蕉句碑という案内板があったが、小山の上にあってどうやって登るのかよくわからない。
早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り」が刻み込まれているはずだが。

 

信夫(しのぶ)の里の文智摺(もじず)り
 「みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに」( 古今和歌集・小倉百人一首)
 信夫(しのぶ)の里の文智摺り(もじずり)というのがよく分からない歌枕。
 ねじれ乱れの模様のある石に、忍草の葉・茎からとった染め汁を塗り、布をあてて摺り、模様を染め付けたものといわれている。この乱れ模様が古来より思い乱れる恋心の例えに使われたようだ。
かって信夫文智摺りの染物が特産だったということだが、それがどんなものだったのかはよく分かっていないようだ。文智摺り石は安洞院の境内にある。
 寺の人の話しでは、文智摺りというものがどのようなものだったのかを実際にこの石を使って試してみたことがあったという。そして染物ができたという。

文智摺り石
文智摺り石。山から転がり落ちた時、乱れ文様のある面が下になってしまったという。
東北唯一の多宝塔

 その染物がどこかで展示しているのかと尋ねたが、はっきりした応えはなかった。やはり不思議な染物のようだ。
 上の写真は、東北唯一の多宝塔、左の写真は文智摺り石。この石の下になっている部分にちぢれ文様があるのだという。
 芭蕉は、「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り」の句を残している。

佐藤一族の菩提寺の医王寺
佐藤一族の菩提寺の医王寺

 

佐藤一族の墓所

佐藤継信・忠信の墓石

 芭蕉は、 月の輪の渡しで阿武隈川を渡り、信夫の里の飯塚を訪ねる。
 写真は、かって奥州南部の広域を治めていた佐藤一族の菩提寺の医王寺。上は佐藤継信・忠信の墓石。墓石の様子が異様で、背筋が凍るような戦慄を覚え、さっと鳥肌がたったのを覚えている。あれは何だったのか。

「笈(おひ)も太刀(たち)も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)」石碑
笈(おひ)も太刀(たち)も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)」石碑

 佐藤継信・忠信の兄弟は、平泉の藤原秀衡のもとにあった義経が平氏追討の挙兵をしたおり、義経の忠実な側臣として活躍した。継信は屋島の合戦で、忠信は義経が京を落ち延びる際に義経の盾となって戦死した。また、兄弟の妻たちは帰らぬ夫の代わりに甲冑をつけて姑を慰めたという。
 芭蕉は、継信・忠信の墓所を訪ね「勇義忠孝の士」 として称えるとともに感涙した。
 「寺に入りて茶を乞へば、こゝに義経の太刀、弁慶が笈(おひ)をとゞめて什物とす。 」
  芭蕉は、義経・弁慶の太刀や笈(おい)を見て「笈(おひ)も太刀(たち)も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)」と詠んだ。(左の句碑)

 佐藤兄弟やその夫人たちのものではなく、なぜここで義経・弁慶の太刀や笈なのか。ちょっと混乱もあるようだが、義経主従と佐藤一族の勇義忠孝の美徳を称えたいという趣旨に変わりはない。判官びいきの芭蕉にあっては、瑣末な事実よりも俳諧的真実が大切ということだろう。

 

其の夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入りて宿をかるに、土座に莚(むしろ)を敷きてあやしき貧家(ひんか)なり。灯(ともしび)もなければ囲炉裏(ゐろり)の火かげに寝所をまうけて臥(ふ)す。夜に入りて、雷鳴り雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤蚊(のみか)にせゝられて眠らず。持病さへおこりて消え入るばかりになん。短夜(みじかよ)の空もやう/\明くれば、又旅立ちぬ。猶夜の余波(なごり)こゝろ進まず。馬かりて桑折(こをり)の駅に出づる。遥なる行末をかゝへてかゝる病(やまひ)覚束なしといへど、羇旅辺土(きりよへんど)の行脚(あんぎや)、捨身無常(しやしんむじやう)の観念(くわんねん)、道路に死なん是(これ)天の命(めい)なりと、気力聊(いさゝ)かとり直し、路縱横(じうわう)にふんで、伊達の大木戸を越す

 

飯塚温泉での芭蕉の寝場所イメージ
飯塚温泉での芭蕉の寝場所イメージ 。風流な旅寝ということか。

 

飯塚の湯(今の飯坂温泉)[地図]

 芭蕉の旅は、弟子や門人の接待で結構いい旅なのかなと思いきや、飯塚の章では、土間にむしろを敷いて、蚤や蚊に食われながら寝ようとして寝られず、さらに持病も起きて気分も消え入るばかり、という最悪の描写になっている。
 「桑門の乞食」にふさわしい寝場所ともいえるが、それにしても表現がひどい。温泉の湯につかった後の宿としては、天国と地獄ほどの違いでいささか落差が大き過ぎる。
 「侘しさを楽しむ」という芭蕉の詫び趣味が出ていて笑える表現ともいえる。芭蕉はこのような侘びの旅を進んで求めようとしたのではあったが、実際にそのような旅寝だったかどうかは別だろう。「雷鳴雨しきりに降りて、臥せる上よりもり、蚤(のみ)・蚊にせせられて眠られず。持病さへおこりて」の表現は極端で、やや虚構じみている。
 芭蕉は下の写真の「鯖湖湯(さばこゆ)」という共同浴場で湯につかり、泊まったのは宿ではなく湯の番をする小屋だったらしい。

飯坂温泉駅前の芭蕉の像
飯坂温泉駅前の芭蕉の像

鯖湖湯(さばこゆ)
 芭蕉は「高く心を悟りて俗に帰る」ことをよしとしたが、俗に我が身をおく場合の表現は大げさだ。これは読者を楽しませようとする芭蕉の趣味的な表現、サービス精神ということにして、芭蕉の旅を楽しむことにしよう。
 死にそうな声を出していた芭蕉だか、夜が明けると、馬に乗って桑折に向かった。左の写真は福島交通飯坂線の飯坂温泉駅前の芭蕉の像。ここでの文章は暗いが、像の表情は明るく元気そう。

 

遥なる行末をかゝへてかゝる病覚束なしといへど、羇旅辺土(きりよへんど)の行脚(あんぎや)、捨身無常(しやしんむじやう)の観念、道路に死なん是(これ)天の命なりと、気力聊(いさゝ)かとり直し、路縱横(じうわう)にふんで、伊達の大木戸を越す
 辺鄙な奥州の田舎の旅、旅の途中で果てることがあってもそれは天命、もともと身を捨てる覚悟で出立したのだから。そう思い直したら、気力も出てきたといっている。これでようやく「旅心さだまりぬ」である。旅はいつもそうやって旅人に試練を課すのだろうか。

 写真は、立ち上る朝霧に朝日が差し込んだ瞬間のもの。何か荘厳な旅立ちを覚える。
もやもやに 日さし入りて ひらけゆく
朝日さし 金色の穂波 いざ奥州路

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