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世界遺産 サンタ・マリア・ディレ・グラツィエ教会および修道院のレオナルド・ダ・ビンチによる「最後の晩餐」1980年     イタリアの地図


サンタ・マリア・ディレ・グラツィエ教会のダビィンチの「最期の晩餐」

 ミラノはイタリアの経済的な中心都市。
 第二次世界大戦では、ここにムッソリーニがいたため、ずいぶん連合軍の爆撃を受けたという。
 訪れたのは日曜日だったため、人々が教会へミサな行くのと安息日ということで道路はすいていた。プラタナスの落ち葉の街並みが美しい。
 イタリアンファッションの街。「最期の晩餐」とドゥオモ(教会)そして、ミラノ・ファッション。が、街の様子はパッと見にはあまりファッションセンスは感じられない。

 この教会の左の建物が修道院の食堂への入り口になっている。残念ながら食堂の写真、ダ・ビィンチの「最期の晩餐」の写真は不可。
 「最期の晩餐」は、北イタリア・ルネッサンスの大パトロン:ミラノの当主ルドヴィーコ・イル・モーロの依頼で、レオナルト・ダ・ビンチが描いた。フレスコ画ではなく油絵で描いた。修復が必要なのに放置されていたため、全体に色が薄くなってしまい、傷みが激しい。現在にいたるまで数度の修復がされたということだが、写真で見るのと実物とではずいぶん印象が異なる。


教会の中に入るのも大変、事前の予約が必要で、指定時間に遅れると入れてもらえない。中に入っても一定の集団ごとに時間待ちをしながら進む。

 「汝らの一人、我を売らん!」とイエスがいったため、食卓が騒然となっている様子だが、キリスト教徒でない者が見てもイエスを囲んで大騒ぎで食事をしているだけのようにしか見えない。遠近法が見事で修道院の食堂の壁を飾るにはふさわしい。それにしても立派な食堂だが、長方形の食堂には窓がほとんどない。修道士の食事風景は外からうかがえないし、食堂の中もずいぶん暗い。日中でも火を灯さないと食卓も見えなかったのではないか。中世世界で知識と文化を占有していたのは貴族と僧侶だけだったが、彼らもその中の一人だったはず。名画「最後の晩餐」を見ながらの食事は悪くはないが、こんな暗い穴蔵の中で蝋燭の下での食事は神に仕える身とはいえつらかったのではないか。当時としては最高に文化的で伝統にのっとった荘厳で格調高い食堂だったのだろう。

 第二次世界大戦では、ミラノは連合軍の爆撃を受けたが、人々はこの壁を鉄壁と砂嚢で囲って守ったという。爆撃で食堂はほとんど破壊されてしまったが、この壁は人々の想いにより奇跡的に破壊を免れた。巨匠ダ・ビンチの「最期の晩餐」はこうして守られた。感動的な話である。
 閲覧時間は監視員に厳重に守られ、いまひとつ納得できなかったが、ミラノ市民の芸術への熱い想いは伝わってきた。

ビットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア

 アーチ型のガラス天井のアーケード。

 中世風の石の建築物に、シックな現代的なセンスのお店が並んでおり、不思議な世界が現出している。
 1877年に完成したアーケードでガラスの天井で覆われている。絵画やモザイクのエレガントな通り。
 ここを抜けるとスカラ広場がある。左の写真の突き当りがドゥオモの前に広がる広場になっている。


ミラノ城の入り口。

スフォルツァ城

 通称ミラノ城。1466年。現在は市立博物館になっている。
 1395年よりミラノ公国としてヴィスコンティ家と続くスフォルツァ家の支配を受けた。 この城はスフォルツァ家の居城だった。

 ロンバルディア平原の中心に位置するミラノは、ヨーロッパの南北と東西を結ぶ中心であり商業・経済都市として発展するが、同時に歴史の荒波の中で栄枯盛衰を繰り返してきた。
 ローマ帝国の崩壊、西ローマ帝国、ゲルマン民族の侵入、ゴート族の侵入、自治都市の共和制、十字軍、ルネサンス、新大陸発見、イタリア自治都市の衰退、ドイツ・フランス・スペインによるイタリア分割支配、そして1870年イタリア統一。 イタリアにはなんでもあり、すべて面白い。


ドゥオモ

 教会の正面は残念ながら工事中。後ろからの写真。典型的なイタリア・ゴシック様式で35本の尖塔があり、14世紀後半に着工、完成はナポレオンにより19世紀初めになった。美しく、エレガントな教会で、中世ゴシックのような暗さとおどろおどろしさはない。

photo by miura 2004.4 mail:お問い合わせ
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