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ピラミッドとは何か


ギザのピラミッド遠景
カフラー王の後ろの高台から撮った、左からクフ王・カフラー王・メンカウラー王のピラミッド。

ギザのピラミッド [地図]

 成田からエジプト航空で14時間。ようやくカイロについた。ホテルで休んですぐギザへ。
 写真左のビラミッドがクフ王のもので3つの中では最も大きい。次がカフラー王、メンカウラー王のピラミッドと続く。カフラー王の後ろの高台から撮ったために正しい大きさになっていない。ギザのピラミッドはどの位置から見るかで大きさが決まるため、実際どのピラミッドが大きいのかわからなくなる。近づいて見るとクフ王のピラミットが最大であることがわかる。
 大きい、だが桁違いの大きさではなく、想像していたのと同じくらいのほどよい大きさだった。ピラミッドはいまだに、何のために、どうやって造ったのか、謎の部分が多いという。しかし、およそ人の造った建造物でそんなことがあってよいものだろうか。ピラミッドはやはり、新世界七不思議、最右翼の名に恥じない。

ギザの第一ピラミッド
ギザの第一ピラミッド。クフ王が作ったといわれる。ピラミッドの下では観光客がうごめいている。指定の観光用の通路以外、ピラミッドに登ることは禁止されている。
高さ146m、傾斜角51度、底辺の一辺は232m、石段の数221段。

クフ王のピラミッドの前で写真を撮っていると、現地のいかにもあやしいといった感じのやたら親切な人が現れた。私のカメラを使ってピラミッドを背に記念写真をとってくれるという。カメラを渡すのはためらわれたがせっかくなので撮ってもらった。自分がつけていたスカーフを私に巻きつけてくれた。当然、それなりのチップを要求された。

 しかもこの幾何学的な美しい造形。4500年前の古代エジプト人が造ったという事実の前に、偉大な先人を畏敬し、感動せずにはおれない。それにしても、このような建造物を造りだした情熱はどこからきているのか。
写真はクフ王のピラミッドをキザ市街地区からみたもの。人は人知を越えたものを前にして恐れを感じるものだが、威圧感はない。逆光になっていたのでいっそう神々しい。
 ギザ第一のクフ王(古王国時代)ピラミッドは、四角垂の均整のとれた真正ピラミッドといわれるかたちをしている。底辺の一辺は232m、高さは138m、傾斜角度51度50分35秒、BC2550年頃に建造されたとみられている。頂上部分は崩れてしまい建設当初より9mくらい低くなっていて実際には147mの高さだという。頂上には塔が立ててありそれが当初の高さをあらわしている。研磨された外装用の石はすでに失われており、地の研磨されていない石灰岩がむき出しに積まれている。外装の石があれば白亜に輝いていることだろう。(「吉村作治の文明探検1超古代ピラミッドとスフィンクス」平凡社より)

ギザの第一ピラミッドの入り口
人がピラミッドの中に入ろうとしているが、そこは盗掘の跡。正規の入り口は上の穴だそうだ。ピラミッドの中は残念ながら撮影禁止。

ピラミッドの外側がれきは切りそろえられた立派な石だが、内部は升状の石の中に瓦礫の石を詰め込んで作られているといわれていいる。

 ピラミッドといういう名前は、現地ガイトさんの話しでは、BC300年頃ギリシャ人がつけたもので、当時ギリシャで作られていたパンの形に似ていることからそのパンの名前をとってピラミッドとつけられたという。神秘的な名前なだけにちょっと残念。それ以前は「メル」といわれていて、「上に登る」という意味だそうだ。

 ギザの台地の岩盤を細心の注意を払って水平にし、その上に石を積み重ねていったもので下段の石は大きく、上段になるほど石は小さくなっている。石は、ピラミッドの周りに造られた渦巻き型の斜路を使って石を運び上げる方法と直線的な斜路を使う方法が考えられるが、直線的な斜路を使ったとする方法が有力視されている。その場合、斜路の角度は常に一定にする必要があるため、頂上付近の石を積むためには1.5Kmも離れた位置から斜路をスタートさせることになったと予想されている。
 近年、ピラミットの作り方について新説が発表された。「内部トンネル斜路説」と「エレベータ説」の複合建造案で大変興味深い。これについては近日公開予定。

ギザの第一ピラミッドの下段の石

 重機のなかった時代においては大変な重労働であったことは想像に難くない。石はソリに載せられて移動したが、斜路は日乾しレンガや石で作られ、その上に石膏をまいたりして滑りやすくしただろう。木のコロを使う方法は、重い石を運ぶには木の消耗が激しすぎ、当時、貴重だった木材を浪費するような方法は考えにくいとされている。
 石はピラミッド近くの石切り場から切り出された加工のしやすい石灰岩で、内部の玄室などは遠く離れたアスワンから切り出された花崗岩で出来ているという。
 ピラミッドに使われている石は平均1立方mで、下の段の高さが1.5m、上段か55cmで、201段の階段状に積み上げられている。石の平均重量は2.5トン、230〜260万個の石が使われ、総重量600〜700万トンと見積もられている。10トン積みトラック70万台分ということになる。
左の写真は筆者。

クフ王のピラミッドの角
ピラミッドの下の角はだいぶ崩れてしまった。自然の崩壊か人為的なものなのか。建材として使われたのだろうか。

 石は近くの石切り場から切り出された加工のしやすい石灰岩で、内部の玄室などは遠く離れたアスワンから切り出された花崗岩で出来ているという。

カフラー王のギザ第二のピラミッドの頂上
カフラー王のギザ第二のピラミッド。頂上付近には化粧石が残っている。建設当初はどのビラミッドも化粧石で覆われ、白亜に輝いていたことだろう。

 それにしても、なんのために重い石を積み上げてこんな造形を造ったのだろう。現代人は超高層のハイテク摩天楼は作っても、決してこのような造形物は作らないだろう。いや造れないないだろう。そのピラミッドを造った古代人の意志、情熱はどこからくるのだろう。
 古代エジプトの神は太陽神ラーだった。神のもつ絶対性や超越性、世界の創造主や生命の根源、ファラオたちは神と一体なり、自分も神になりたいという根源的な欲求を持っていただろう。ファラオたちは自らが神であることを証明するためにピラミッドを造ったのだろうか、証明することによって神になったのだろうか。それとも死後の西方浄土を本気で願ったのだろうか。それにしても、建造技術は意志や情熱があればついてくるものだろうか。この超越性と絶対性、闇の中の意志と情熱、そこにある種の狂気を感じざるを得ない。古代エジプト人の狂気。だが、それを言うなら高度情報社会とやらに生きる現代人の病理や狂気もありそうだ。

ギザ第三のピラミッド
メンカウラー王のギザ第三のピラミッド。側で見ると小さく感じられない。横に3つの衛星ピラミットをもつ。

なぜピラミッドは造られたか

 最初にピラミッドの記録を残したBC5世紀の古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの「歴史」によると、ピラミッドは奴隷社会によって墓として造られたもので、ファラオを中心とした階級社会の中で人々は抑圧されていたというのが、後の歴史家の解釈であった。
 しかし、2000年NHKで放送された「四大文明@そしてピラミッドがつくられた〜エジプト」の中で、ピラミッドはナイル河の氾濫により失業した人々のために行われた公共事業であったと、今までの説を覆す考えを話していた。
 その理由は、
(1)1990年にピラミッドの建設に従事した人々の住んでいた遺跡が、クフ王の大ピラミッドの南1Kmで発見された(ワークマンズ・ビレッジ)。ピラミッドの建設に使用された道具と共に1,000体もの人骨が出てきたが、その人骨には頭蓋骨手術や骨折の治療の跡が見られ、奴隷であればこのような手間のかかることをしない。


クフ王のピラミッドの横にある博物館。出土した船の実物大模型が展示されている。出土したときには、折りたたまれていたという。

(2)子供を身ごもった女性の遺骨も出てきたため、1000体あまりの遺骨の男女比率を調べると男女半々であることが分かった。奴隷であったら男性だけが連れて来られたはずであるのに、男女が家庭を営んでいたことの分かる遺物も出てきた。
 このようなことから、ピラミッドの建設に従事したのは奴隷でなく普通の人々であったのでないのかとの仮説が立てられ、パピルスなどの文章からその当時の人々の記録を調べて行くと、古代エジプトはファラオを中心とした階層社会であるが、人々は自由な生活を営んでいることが分かってきた。
 では、何のためにピラミッドが建設されたか。墓だとすると分からないことが出てくる。一人のファラオが複数のピラミッドを造っている。墓であれば一つでいいはずだ。その謎を解く鍵がナイル河の氾濫ということで、ナイル河の氾濫は天然の肥料をもたらし、エジプトに豊かな実りをもたらすが、増水する7月から11月の四ヶ月近くは水が引くのを待たなければならない。ピラミッドの建設は、その間の衣食住を保証する失業対策として行われた公共事業であり、建設自体はエジプト統一の象徴であるという。そうすると、一人で複数の墓を造った理由もわかってくる。この仮説を立証する遺跡が1995年に大ピラミッドの南側で発掘された。クフ王に仕えたカイという神官の墓で、墓の入り口には、労働に対して、人々にビールとパンを与えることを保証する契約の文が書いてあったという。(「吉村作治の文明探検1超古代ピラミッドとスフィンクス」平凡社より)
 それにしても「失業対策として行われた公共事業」にこれだけのピラミッドを作らなければならないものなのか。失対事業なら上下水道の完備や治水や道路整備など他にいくらでも公共的な事業が考えられる。当時のファラオたちは「失業対策として行われた公共事業」というような考え方をしただろうか。
 墓にしては遺体やミイラや埋葬品はないし、天体観測のためにこんな設備をつくるのはばかげているし、かといって権力や富を誇示するための建造物や記念事業にしても、そこまでやるかという感じがする。
 結局、ピラミッドはいくつかの建造目的をもったものなのだろうが、何のために作られたものなのか、ピラミッドとは何なのか、は謎のまま残る。

ピラミッドパワー?

 ピラミッドパワーということがあるという。フランス人のボビーが、ピラミッドの内部に入った時に、内部の湿度が高いのにそこにあったねずみの死骸が腐っていないのをみて、ピラミッドには特別なパワーがあるのではと言い出した。その報告をみたチェコスロバキア(当時)のカレン・ドバルはピラミッドの模型を造っていろいろな実験をした。カミソリの刃をいれてみると50回以上使えたという。彼はこの模型で特許をとり、「ピラミッドの型の中に宇宙光線や未知のエネルギーが集まってきて、物理的、鉱物学的に物質にパワーをもたらす」といっている。
 ウイスキーを入れるとまろやかになると、オレイジジュースのすっぱくなくなるとか、切花を入れると長持ちするとか、牛乳を入れるとおいしいヨーグルトになるとか。

 だがこれらは、感覚的なものばかりで科学的にはまったく根拠をもっていないそうだ。
 ただ、大ピラミッドを造っている石灰岩という石材は、遠赤外線を出すことがしられており、また、王の間と呼ばれる部屋の石材は花崗岩で磁力を持つ物質がふくまれている。また、大槻義彦教授は、推定600万トンという重量のものが5000年近くも同じところに建っていればその接触面には電気エネルギーが発生しそれが中心軸に沿って上昇しながらピラミッド全体に滞留することが考えられ、それがピラミッドパワーの元ではないかといっている。(「吉村作治の文明探検1超古代ピラミッドとスフィンクス」平凡社より)

 ピラミッドの形が問題なのではなく、石灰岩という石材と600万トンという重量が問題なのだということ。一時期にはやったピラミッドパワーなるものは、あっという間に過ぎ去ってしまった。



 階段ピラミッドのすぐ下を歩いてみた。5段階になっているため小さいように見えるが近寄ってみるとさすがに大きい。下の土台は石だが、その上に日乾しレンガが詰まれている。階段ピラミッドには、ピラミッドコンプレックスと呼ばれる付属の建造物がそろっている。
[地図]

赤のピラミッド
ダハシュールにある赤のピラミッド。スネフェル王のピラミッドで、屈折ピラミッドを造ってからこのピラミッドを造ったという。[地図]

ダハシュールにある屈折ピラミッド。なぜ屈折したかは不明。[地図]

階段ピラミッド。初期のピラミッドでピラミッド建造の試行的な段階か。


サッカラにあるジェセル王の階段ピラミッドと付随する建造物。神殿のような宗教的な建造物のようだ。 ピラミッドコンプレックスといわれる。


崩れてしまったピラミッド。こんなピラミッドとも小山ともつかないようなものがいくつもあるという。
階段ピラミッドに自分の影
階段ピラミッドを横の土台から撮ったもの。右下の影は筆者。右上の小さな点は観光客。階段ピラミッドは小さく見えるが近寄るとさすがに大きい。

 階段ピラミッドに自分の影を写したくて1枚撮った。右下の影は筆者。
 唐突だか、芭蕉は「おくのほそ道」で仙台・多賀城を訪れた時、「壷の碑(つぼのいしぶみ)」を見て次のように書いている。
むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑ひなき千載の記念(かたみ)、いま眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労を忘れて、泪も落つるばかりなり
私もピラミッドを前に古人の心を閲す。

 ギザに吹く オレンジの風に ピラミッド
 ピラミッド 見果てぬ夢か 黄泉の砂
 4500年の 夢をかたれよ ピラミッド
 砂に座し 何をかたるか ピラミッド

赤のピラミッドからの眺望
赤のピラミットの入り口とそこから見た風景。

赤のピラミッドの入り口

 赤のピラミットの入り口とそこから見た風景。砂漠性気候のさっぱりした風が気持ちよい。ピラミッドの内部に入ることができるが、かなりきつい。以前は軍事施設があって立ち入り禁止だったという。

黒のピラミッド
黒のピラミッド。ピラミッドの中心の石材が残り、周りの日干しレンガが崩れてしまった。

 左の写真は黒のピラミッド。黒の強い石材で出来ていてそれが露出しているためにそう呼ばれる。日乾しレンガでできていたが、それが崩れて内部の石がむき出しになっている。

 下の写真はギザのピラミッドの近くのお土産屋。ずらっと並んでいで、面白そうな興味深そうなお土産がたくさんならんでいた。筆者もついついまた石の置物を買ってしまった。

メンフィスのラムセスU世像
メンフィスで展示されている巨大なラムセスU世像。

 ギザのすぐ側をメンフィスの方から流れている川はナイルの支流というには悲しいドブ川、ゴミ捨て場になっていた。世界の観光地としては残念。
メンフィスで展示されている巨大なラムセスU世像。右足がないがすばらしいできばえ。

メンフィスのラムセスU世像

 ラムセスU世以降の女王が、ラムセスU世をしのんで造ったといわれる。そのためかラムセスU世の顔が異常に美しい出来栄えになっている。このような美しい像が砂の中から発掘される古都メンフィスには、残念ながら面影とても今はない。
 このようなものを見ると、砂漠の中でも栄枯盛衰の理り、諸行無常の響きを感じてしまうのは日本人だけだろうか。

 3500年の 闇をみよとや ラムセス像
 メンフィスの 砂に埋もる 生けるラムセス
 やさしさが なぜか悲しい ラムセスU世

カイロのナイル川 カイロのナイル川と夜景

 カイロ市内を流れるナイル川。揺れるナイルの川面、人と車の喧騒、船のネオン、生活と都会の匂い、砂漠に沈む夕日、カイロの街のシュルエット、そしてやはり観光都市カイロ。

カイロ市内の高級マンション カイロ市内の高級マンション

 カイロ市内の高級マンション。エアコンが建物の外に出ている。エアコンの設備が内臓されていないようだ。衛星放送だろうか、どの家庭にもパラボラアンテナが出ている。エジプトではテレビが必需品だそうだ。他に娯楽がないから。あっても価格が高いため庶民にはなかなか享受できないのだという。
カイロ市内のマンション
マンションが蜂の巣のイメージに直結する。

 人と車が文字通り入り混じった喧騒は、なぜかなつかしいもののような。エジプトには、交差点でも信号機のようなものはない。交差点に入るのが怖い感じがするが、不思議と事故は少ないそうだ。信号機は交通整理の装置として合理的だと思うが、なければないなりに人間はうまく対応していけるもののようだ。信号機はカッタルすぎてエジプト人気質には合わないのかも知れない。
 車は多いが自転車はまったく見ない。ガイドさんの話では、熱さで汗をかいて疲れるため、エジプトに自転車は合わないのだそうだ。歩いて汗をかくより自転車のほうがよいと思うのだが、エジプト人は自動車好きのようだ。

カイロ市内の風景
ギザの街から見たピラミッド
街の中からでもピラミッドが顔を出す。
ギザの街から見たピラミッド
 ギザの街がピラミッドのすぐ横に広がる。
 夕日に映えるピラミッドが旅情を誘う。多くの旅行者はピラミッドの見えるレストランで食事をとる。
photo by miura 2008.2 mail:お問い合わせ
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