制作者のプロフィール     もどる

名前

よく使うネーム:かっちゃん 三浦 克紀  Miura (Mail to)  
住所
神奈川県横浜市
誕生日

1949年11月06日  性別 男性

出身地
新潟県・佐渡島
家族

パート勤め20年の家内と、娘と息子一人ずつ。娘には孫2人、息子は孫1人。 集合住宅であるため生き物を飼うことは不可。
私としては、記憶も弱くなってしまい眼も悪く、髪なし歯なしお金なし。

職業
IT関係会社の勤め人
会社のサイト http://www.intweb.co.jp/
学歴
学園紛争のため不明
趣味

俳句のようなもの・芭蕉おっかけ(芭蕉が歩いた全ルートを放浪・2回は完歩した?)
バイク(いきついたBMW1200GS、今年手放しました(涙)
電動チャリンコ(はずかしながらやはりYAMAHA PAS Brace、ここのところはまっていますが、飽きてきました。)
山歩き(ほとんど初心者、もっぱら丹沢山系、大山が得意だが飽きぎみ)
旅行(国内・海外・温泉なんでも、テント・寝袋の放浪が好きなのだが、年齢のせいかここのところとんと。)
読書(ほとんど乱読、最近はノンフィクションが中心)
映画(アクションもの、時代物が好みなのだが。)
デジカメ(Nicon・Panasonic・Sony)
ジョッギング(膝をいためて休んでいます。代わりに山歩き。)
仕事(趣味の最後?コンピュータ関連なんでも)

自己紹介

人が面白そうにやるものを我もやってみんとて、俳句を始めてみましたが、何年たっても煩悩凡夫の凡作の域を出ていません。人の作品には納得できることが多いのに、なぜか自分の句には納得がいきません。早い話、ヘタなのに好き、ということです。
年をとると身体に合わせて精神も年をとりますが、ある時期から折り返し点をターンしたように精神年齢が若返ってきます。これほんとです。先が短くなると生き急いでくるのでしょうか。
やりたいこと、やり残していることがないか、もう後はない。
ここのことろ電動チャリンコにはまっています。自然の中で、電動で自力・脚力を増幅すると、ほとんど超人になったような快感がえられます。バイクで風になっている時とは違う、未経験の感覚がたまりません。
いつだったか、「旅に病み夢は枯野をかけ廻る」や「ゆきゆきて倒れ伏すとも萩の原」(曾良でした)や「いづくにか 眠り眠りて たふれ伏さんと 思ふ悲しき 道芝の露」(西行でした)というような句や短歌と出会い、どういうわけか芭蕉俳句の世界にしびれてしまいました。それから芭蕉の世界に真っ逆さま。
芭蕉の生き方が気になって、いろいろ調べていますが、よくわからないことが多い。そこがまた魅力に感じています。「昨日の我に飽く」というようなことを江戸時代前期に言える俳諧師はただものではありません。

サイト
開設趣旨

何年か前に、芭蕉のおっかけで「おくのほそ道」を歩いてみました。実際はバイクで回ったのですが。日本の風景が美しくて、その風景の中で芭蕉の句があまりにも心に染みついたものだから、どうしても公開したくなって、芭蕉のPhoto俳句のようなものを公開したのが始まりで、以後、やみつきに。本当は、俳諧枕で自分の句をつくり、写真に添えて公開するというのがねらいでしたが、あまりの出来のひどさに自作句は放棄して、私的な芭蕉の紹介のようなページになってしまいました。
芭蕉が面白くて、ついつい深入りしてしまい、ほとんどどっぷりという感じになってしまいました。「俳諧は夏炉冬扇のようなもので、役にはたたない」「老人のなぐさみ」のようなものというのは真実だとは思うが、「昨日の我に飽く」と標榜、うそぶく芭蕉が好きです。
「古人の跡を追わず、古人の求めたるところを求めよ」という俳諧の誠を追い求めるな芭蕉の生き方が好きです。 「桑門乞食」に居直る芭蕉の生き方が好きです。
芭蕉が日本橋から草深い深川村に隠棲することになった理由として、甥の桃印の寿貞との駆け落ちではないかという説に出会い、なぜか説得力があって気になってしようがありません。俳聖の芭蕉がそんなはずはないだろうと思いながらも、「数ならぬ身とな思いそ玉祭り」と詠んだ内縁の妻寿貞とどんな関係だったのだろうか(なんという下品な趣味)。まっ、そんなこんなで芭蕉にはまっているわけです。

ついでに、おまけで海外旅行の様子も紹介しています。

個人的な想いと趣味で公開しています。リンク等はご自由にお貼りください。
写真等の使用は一応、ご連絡ください。

その他

最近、「趣味にうつつを抜かしている暇があったらしっかり働け」という箴言がありました。まったくそのとおりだと思いつつ、やや反省。仕事を通じて世のため人のために貢献し、雨にも負けず風にも負けない心やさしく強靭な生き方をしなければと思う。仕事にもしっかりと身を入れなければ、と思う今日この頃です。
最近、「何のために仕事をしているのか」と若い人に問うたら、「自分のためですよ」とにべもない返事。会社のためとか、生活のためとか、所属している部署のためとか、売上を上げるためとか、お客さんのためとか、(株主のためとかお金のためとかいう人は意外といない) いろいろ出るかと思ったら、やはりこういうやつもいるものだ。私としても、いつになったら「人のため」「社会のため」とかいえるようになるのでしょう。 まだまだのようだ。
養老猛司先生がどこかで、「仕事は世の中からの預かり物」、だから「自分のためにする」とかと思っちゃいけないし、いつでもきれいに返上できなくてはいけない、というようなことをいっている。 自分の力で作ったり、自分に能力があるからできたなどと思いあがってはいけない。やはり、仕事は「世のため、人のため」と考えるのが基本だといっている。
煩悩凡夫は、どうしても物欲・色欲・金欲から逃れられない。所詮 人は、自分のためにしか働かないのかもしれない。だが、そんなふうに決めつけてしまうのも悲しい。仕事はそれを担う人のものだ。会社はそのサービスと売上を担う従業員のものだ。それは否定すべきものではないのかもしれない。資本の論理ではない、人の論理の原点があるのかもしれない。だが、資本の論理も人の論理も、人を幸せにしているのだろうか。幸せとは何か。100人に100の答えがありそうで怖い。人は何になろうとしているのだろうか、いくつになっても迷いは多い。