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佐藤義清(後の西行)の出家



MOA美術館蔵の西行像

晩年の西行は、好々爺といった感じで、すがる娘を蹴落とすようなイメージはないが、この西行のイメージが、彼にもっともぴったりくるように思う。

1. 芭蕉の師 西行

 芭蕉は、日本橋での町名主補佐の「書き役」という仕事の他、多くの弟子に囲まれた俳諧の宗匠として、それなりに恵まれた生活をしていたようだ。1680年、芭蕉37歳、日本橋での生活をうち捨てて、隅田川向こうの深川村に転居してしまう。深川転居の原因は不明である。だが、深川隠棲と言われる厳しい生活と孤独な俳諧創作活動の中から、俳聖芭蕉が生まれることになる。深川隠棲は芭蕉が芭蕉になるための決定的な契機になったことは間違いない。
 芭蕉は後に、能因や西行などの先人の跡を追い、その歌枕を奥州に訪ねた。奥の細道の旅である。

 その芭蕉が師と仰ぐ西行も同様に、「出家」をやってのけた。芭蕉の深川隠棲と西行の出家、ともに人生の大きな転機になり、その後の生き方が後世でいう芭蕉と西行をつくり上げる決定的な契機となった。
 西行は、代々武勇の武門の出ということで鳥羽法皇に仕え、在俗中から心を仏道に入れており、家門は富み年齢は若く、心は愁いなどないのに、思い切って遁世してしまった、ということになっている。これが出家による僧形の歌人・歌聖西行の誕生である。だがなぜ、出家なのか。
 芭蕉の深川隠棲と西行の出家には、共通する何かを感じる。その何かが気になる。

 佐藤義清(のりきよ、出家後の西行のこと)の出家が気になってしかたがない。義清はなぜ出家したのだろうか。何が出家という選択を強いたのか、出家にともなう人生をどのように引き受け、別の生き方をどう切り開いていったのか、そういう生き方の現実はどうだったのか。そもそも西行とは何者なのか、出家とは何なのか。
 これは研究者でもない素人の私の趣味のようなもの。資料考証もろくにできないのに大それたことを、という思いもあるが、まっ好きで興味があるのだから仕方がない。先人の研究成果を支えに、分け入ってみることにする。

 

2. 義清23歳の出家

 平安時代末期、23歳の義清が出家した。
 西行の家系は、むかで退治で有名な俵藤太秀郷にさかのぼる。秀郷は左大臣藤原魚名の流れで、「平将門の乱」を平定した勇者である。
 その秀郷の子に千晴・千常の兄弟がおり、前者の家系は、奥州平泉の藤原三代となって栄華を誇り、後者は鎮守府将軍に任ぜられて東国一円に勢力をのばした。西行は千常から八代目の孫に当たる。
 父は左衛門尉(さえもんのじょう)康清(やすきよ)、母は監物(けんもつ)源清経(きよつね)の女(むすめ)。母は諸芸にすぐれていたといわれる。
 佐藤氏は紀伊国田仲庄(紀ノ川沿岸(紀ノ川市)、粉河(こがわ)寺の南西に位置した肥沃な農地。上流は吉野川。)の預所(あずかりどころ)を代々務めた家だった。田仲庄は摂関家の所領で、佐藤氏はこの荘園の在地領主として経営をまかされていた。

 義清は18歳の時、私財寄付の成功(じょうごう)により兵衛尉(ひょうえのじょう)となる。
 義清は徳大寺藤原実能の働きもあり、鳥羽上皇にも近づけたようだ。義清の蹴鞠(けまり)や騎乗や刀・弓矢の才能が評価されたのだともいわれている。
 義清は20歳の頃、鳥羽院の下北面(げほくめん)としてはたらいていた。北面の武人たちは鳥羽院の親衛隊のような役割を担っていた。
 義清は、武芸はもちろん、詩歌管絃の道にも優れた才能をもっていた。和歌の道にかけては、業平や貫之などの古の歌仙にもひけをとらないほどだったとか。容姿は武門の出でやや無骨だったようだが、御殿勤めの女性たちにはもてた。鳥羽上皇にもその才能をみとめられ、なぜか中宮待賢門院璋子(たまこ)の覚えもめでたかったようだ。

 その義清が、突然、暇の届け出をした。
 この頃、次のような歌を詠んでいる。

 世にあらじと思ひ立ちける頃、東山にて、人々、寄霞述懐といふことを詠める
そらになる 心は春の かすみにて 世にあらじとも 思ひ立つかな (723) そぞろになった私の心は春霞が立つ空のようだったので、そのまま私は世を遁れようと思い立った。
 同心を
世をいとふ 名をだにもさは 留め置きて 数ならぬ身の 思ひ出にせん (724) この世を穢土と厭離したという私の噂だけはそのままこの世に残し、取るに足りないわが人生の思い出としよう。
 いにしへ頃、東山に阿弥陀房と申しける上人の庵室にまかりて見けるに、なにとなくあはれにおぼえて詠める
柴の庵と 聞くはくやしき 名なれども 世に好もしき 住居なりけり (725) 柴の庵と聞くと貧弱な名前ではあるが、実際に見てみると出家者の住いは実に感じがいい。
 世を遁れける折、ゆかりありける人の許へ言ひ送りける
世の中を 背きはてぬと 言ひ置かん 思ひしるべき 人はなくとも  (726) 世俗からの出離断行をこの俗世に言い残しておこう。誰もわかってくれないだろうが。
 疏の文に悟心証心々
まどひ来て 悟り得べくも なかりつる 心を知るは 心なりけり (875) > 煩悩に迷い続けて生きてきて、悟ることができなかった私の心の愚かさを、本当に知っているのは私の心だけなのである。
 鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める
惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ (玉葉集18)> 捨ててしまうのは惜しいと思う気持ちもあるが、実際、惜しいと思うようなこの世ではないだろう。この世を捨て我が身を捨てて出家してこそ、我が身を助けることになるのではないか。
世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ (「新古今集」) 世の中は諸行無常、散る花のようなもの。同じようにやがては散る花の我が身は、さてどうしようか。

 

 

3. 出家の動機

 「そもそも西行は、もと兵衛尉(ひょうえのじょう)義清也。重代の勇士たるを以て、法皇に仕ふ。俗時より心を仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世す。人これを嘆美する也」 (藤原頼長の日記『台記』) とある。同時代の日記であるため、ほとんど唯一の確からしい記録といわれている。
 出家の動機としては、「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存)では親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。この友人の急死にあって無常を感じたという説が主流だが、失恋説もある。これは『源平盛衰記』に、高貴な上臈(じょうろう)女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子(たまこ)であると考えられる。

 動機としては、日記や後世の物語に記されていることから、@親友の突然死や、A高貴な女性との失恋があげられているが、他に、B無常観や仏教への帰依や、C摂関家の争い皇位継承をめぐる政争への失望から、などがある。

 以下、主に、講談社文芸文庫「西行論」吉本隆明著 より、西行の出家に関係する部分をかいつまんで紹介する。それを通して、西行出家の意味を考えてみたい。

 

  4. 急死した友人から人生の無常を悟って

 「西行物語」「西行一生涯草紙」「西行物語絵詞」「西行上人発心記」などの説。
鳥羽法皇の時、北面の親衛の武士に、佐藤義清というものがいた。勇猛なことは将門や保昌のあとを継ぐほど、弓矢をとっては養由と違わず、詩歌管弦のみちでは在原業平や紀貫之の流れをつたえるほどのものであった。鳥羽院がなにかと重く用いようとするのに、これをさけるふうで、心の中は果敢ない現世を厭うことばかり考えていた。
 そのころ、同じ北面に仕える武士で佐藤左衛門憲康と宣旨の使いを命じられた帰りがけ、明朝必ず落ち合う約束をして、その朝に憲康を誘いにいくと、殿は今宵突然に死んでしまったという。西行は、いよいよ人間の生の果敢なさと無常さを覚えて、出家遁世の決意を固めた。
 その年の秋までなかなか機会をとらえられなかったが、もう待つのもこれまで、と思い決めて帰宅すると、四歳になる娘が縁に出迎えて袖にすがりついてきた。煩悩のきずなを絶たねばと、娘を縁の下に蹴落とすと、娘は泣き悲しんだ。妻は、かねてから男が出家しようとする気配を感じていたので、娘の泣き悲しむのを見ても、驚く気色を見せなかった。西行は心を強くして「もとどりを切って」持仏堂に投げ込んで、暁に年来知りあっていた嵯峨の奥の、聖のもとに駆け付けて剃髪し、出家を遂げた。

 友人の死はありそうなことだが、人生を賭けての出家の動機というにはどうもヒンとこない。合戦での殺生、主家の死、肉親の死。すべての武士に日常的に訪れること。とりわけの友人の急死が出家の直接の原因になったとは考えにくい。
 西行の内面は異様な状態にあったと考えるべきではないか。異様な時代の浄土思想が彼の心の状態を包んでいたのではないか。
 平安末期から鎌倉時代にかけて、最大の悲劇の思想は、武門の興隆にいたるまでの合戦と内乱の思想か、あるいは自滅死にいたる遁世浄土の思想である。西行の実録は、彼が遁世浄土の思想に殉じたことをおしえている。
 「西行物語」の作者は西行にほれ込んだ仏法者であろう。浄土理念に色揚げされた西行法師物語を創りたかったのだろう。それは説話的パターンではあっても、西行の虚実の問題ではないだろう。

 


西行の思う人?待賢門院璋子(たまこ・しょうこ)
京都・法金剛院蔵

 西行は本当に、この高貴な女性に恋をしたのだろうか。高貴の人が「阿漕の浦です」などと、えげつなくて面白くて、そんなことを言うものだろうか。
 「源平盛衰記」の作者は「阿漕」を「度重なる」といった意味で使っているが、その後「しつこい」「あつかましい」、「義理人情に欠けあくどいこと」、「無慈悲に金品をむさぼること」といった意味に変わってきている。
 「阿漕の浦」は、三重県津市阿漕町の海岸一帯ことで、伊勢神宮に供へる魚をとる場所で
一般民には禁漁地区とされていた。昔、ある漁夫がこの禁を破って夜な夜な密かに網を引いて魚を獲った。漁師は密漁が発覚して、海に沈められてしまった、という話。

 「待賢門院璋子は人間として女性的魅力にすこぶる富んだ人物だったらしい。彼女が落飾(高貴な女性の出家)後に住んだ法金剛院に伝わっている肖像ば、尼として白衣をかづき、手に数珠をもった姿で描かれているが、ふっくらとして柔らかな雰囲気を漂わせている。とはいえ、これは男関係では、とかくの風評につきまとわれた女人に他ならない。彼女の立場は、「治天の君」白河の崩後は衰退し、さらに鳥羽上皇が長承二年(1133)藤原長実の女得子(後の美福門院)を後宮に入れるにいたってさらに後退してゆく。西行は、すでに記したように、徳大寺家とのかかわりで待賢門院に接しうる立場にあった。西行に「悲恋」があったとすれば、その「悲」の中には、時の流れによって衰退の定めを負った女人の悲哀に波長を合わせざるを得なかった部分も含まれていたといってよい。」(岩波新書「西行」高橋秀夫著)

5. さる高貴な女性との失恋

 「源平盛衰記」「お加草子」「そしり草」「扶桑故事要略」がこの説。「源平盛衰記」では次のようなことをいっている。

 「それはそうとして西行が遁世の心を発した理由を尋ねてみると、もとは恋ゆえとのことである。云うもおそれある上臈(じょうろう)女房に恋の想いを伝えたところ、「あこぎの浦です」という仰せがあって思い切り、官位などは春の夜の見果てぬ夢のようなものだと思いなし、楽しみも栄華も秋の夜の月が西へ傾ぶくのとおなじになぞらえ、有為転変の世の習いを遁れて、仏道無為の道に入った。「あこぎ」というのは、つぎの歌の心である。

 伊勢の海あこぎが浦に引く綱も度重なれば人もこそしれ

 この心は、かの阿漕の浦では、神に誓約して、年に一度の外は網を引いて漁をすることをしないということである。この仰せをうけて西行が詠んだ。

 思ひきや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月を見むとは
(この歌は西行のものではない。「盛衰記」作者の創作か)

 この歌の心を推量すれば、一夜の契はあったのだろうか。重ねて聞かれることがあったからこそ「阿漕の浦です」とおっしゃったのだろう。無情のことでもある。」(「源平盛衰記」訳より)

 「お加草子」ではもっとまことしやかな虚構になっている。
 女院は西行に姿ばかりでも見せようし,、西行は物陰から何度も女院の姿を覗きみるようになった。女院は「あこぎ」と書いた短冊を西行に届けさせたという。 「お加草子」では、一夜の契ではなく、女院の姿を垣間見ただけになっている。
 このバリエーションがいくつかあるようだ。
 「そしり草」「扶桑故事要略」は、「源平盛衰記」の記事によっているようだ。

 西行が接し得た高貴の女性は、鳥羽院中宮の待賢門院璋子(たまこ・しょうこ)ということなるが、璋子は西行の17歳年上である。あまり現実的ではないような気もするが、20歳の西行に対して37歳の璋子はそれほどまぶしかったということか。西行独りよがりのプラトニックなものであったかも知れないが、当時の本当のところはよくわからない。ただ、西行には恋の歌が多く、その歌は近い事実があったことをうかがわせるのに十分である。

あはれとも 見る人あらば 思はなむ 月のおもてに やどす心を(618) 月を見たら、せめて私をあわれと思ってほしい。あなたに逢いたいのに月を見ることしかできないのだから。
弓はりの 月にはづれて 見しかげの やさしかりしは いつか忘れむ(620) 上弦の月のかすかな明かりのもとであなたを見ました。優雅な美しさはいつまでも忘れられないでしょう。
面影の 忘らるまじき 別れかな 名残を人の 月にとどめて(621) 別れてもあなたのことが忘れられない。あなたの名残惜しそうな様子を月明かりの中で胸に刻んできたから。
数ならぬ 心のとがに なし果てじ 知らせてこそは 身をも恨みめ(653) あなたが私に冷たいのは、すべて私の思いが足りないせいにするのはやめにしよう。この思いをまず打ち明けて、それから我が身の取るに足りなさを嘆けばいいじゃないか。
知らざりき 雲居のよそに 見し月の かげを袂に 宿すべしとは (617) 知らなかった、遠い空の彼方に見た月が忘れられず、涙で濡れた私の袖に宿すことになるとは。
嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな (628・千載集・百人一首)> 嘆けといって月が物思いにさせるのか。そうではないのに、月のせいにしたそうに(月にかこつけたそうに)私の涙が溢れ出る。
さまざまに 思ひみだるる 心をば 君がもとにぞ 束(つか)ねあつむる(675) あなたのせいで千々に思い乱れる私の心を、結局はあなたのもとにまた集めてまとめることになるのです。
今ぞ知る 思ひ出でよと ちぎりしは 忘れむとての 情けなりけり (685) 今になってわかった。思い出してと約束してくれたのは、忘れようと心に決めた上でのせめてもの思いやりだったのだと。

 

  6. 仏に救済を求める心の強まり

 浄土思想・西方浄土、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。
 浄土思想は、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。
 法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)

 法然は、西行が16歳の時に誕生し、西行が58歳の時に、浄土宗を立ちあげた。時代の思潮としての浄土宗に西行がなじんでいなかったはずがない。「俗時より心を仏道に入」ていたとされる西行は、仏法への帰依はいろいろな動機の背景として内在していたのだろう。そもそも、「西行」という名前からして、「西方浄土」を目指して「西へ行く人」という意味を込めたものと言われている。西行は、「俗時より心を仏道に入」れていたとあるが、時代的な思潮が、西行のようなもの思う人を仏道に導いていたのだろう。そして「出家」ということの直接的な意味は、俗世を捨てて仏道に入るということにある。
 「人生無常」説や厭世観説も、仏法への帰依に帰結していくのだろう。


身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ 身を捨てる覚悟で出家した人は本当に身を捨てているのだろうか、本当は身を捨てない人こそ、実際には捨てているのではないだろうか。

(「詞花和歌集」巻第十 雑下 読人不知として)
花見れば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける (山家集68、以下山家集を省略) 花を見ると、何が理由というこわけではないが、心の中が苦しくなる。
都にて 月をあはれと 思ひしは 数よりほかの すさびなりけり (418) 都で月を美しいと思ってみていたが、旅で見る月に比べたら、ほんの慰みほどの価値しかないことであるなあ。
あはれあはれ この世はよしや さもあらばあれ 来ん世もかくや 苦しかるべき (710)> ああ、現世は仕方がない、どうとでもなればいい。でも来世でもやはりこんなに苦しいのだろうか。
わが宿は やまのあなたに あるものを なにに憂き世を 知らぬ心ぞ (716 西方浄土がそうであるように、私の山家は山の向こうにあるのに、こちら側にあるこの世をが憂き世であることをどうして私の心は理解できないのだろうか。)
ながらへんと 思ふ心ぞ つゆもなき いとふにだにも たへぬ憂き身は (718) この世に生き長らえようという気持ちはつゆもない。我が身にはつらいことばかりあって、厭世の心を持つには値しないのだから。
思ひ出づる 過ぎにし方を はずかしみ あるにもの憂き この世なりけり (719) 出家前の過去を思い出すと恥ずかしくなって、この世に生きているのが辛くなってしまう。
世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ (「新古今集」) 世の中は諸行無常、散る花のようなもの。同じようにやがては散る花の我が身は、さてどうしようか。
すさみすさみ 南無ととなへし ちぎりこそ 奈落が底の 苦にかはりけれ (聞書集223) 気ままに戯れて「南無」と唱えた仏菩薩との因縁こそは、奈落の底の苦しみに代わるものだった。
闇晴れて 心の空に すむ月は 西の山辺や 近くなるらん (876) 闇夜を晴らし、心の闇をも晴らして、私の心を月のように澄ませてくれる月を一晩中見ていると、やがて月が西の浄土に近づいていくように感じる。
 無常の歌あまた詠みける中に
いづくにか 眠り眠りて たふれ伏さんと 思ふ悲しき 道芝の露  (844)> 私はいったいどこで眠りこけ、どこで行き倒れるかわからない。道芝の露を見ると自分もいつかをこのようにはかなく消えるのかと悲しくなってしまう。
 観心
いかでわれ 清く曇らぬ 身になりて 心の月の 影を磨かん (904)> 何とかして私は曇りのない清らかな身になって、心に月の光を宿し、さらに光を美しく磨きあげたいものた。
願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃 (77) 願わくば、釈迦の命日と同じ2月25日、桜が満開で月も満月のその日に死にたいものだ。
仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば (78) 仏には桜の花を奉りなさい。もし私が成仏して来世の冥福を祈ってくれるなら。


 


7. 皇位継承をめぐる争いと摂関家の政争への失望

 現代からみると、摂関政治や院政などは、ほとんど私利私欲のでたらめな政治制度である。歴史時代の出来事を色眼鏡をかけて価値判断することは間違いだが、さすがの西行にも当時の院政や貴族たちの政治や生態には嫌気をさしたのではないか。

 藤原氏の摂関政治は969年頃からはじまったとされる。藤原家は、天皇の外戚となり、天皇が幼少の時は摂政となり、成人してからは関白となって政治を支配した。
 これに対して摂関家を外戚としない後三条天皇が即位した1069年から、荘園の管理を強めることで摂関家の力を削ぎ、続く白河天皇は1086年に当時8歳の堀川天皇に位を譲った後も上皇として天皇の後見をしながら政治の実権を握った。院政の始まりである。
 白河上皇は、堀川天皇の死後はその息子で4歳の鳥羽天皇の上皇として本格的な院政をしいた。白河上皇は、院御所の北面に警護のための詰所を設け、親衛の武士団を組織した。官位で四位や五位の武士は上北面、六位のものは下北面に詰めた。

 1129年、白河法皇が崩御し、鳥羽院は崇徳天皇に位を譲り自らは上皇になって院政を始めた。西行12歳の時だった。西行は、20歳の時に六位の位階をもっていたため鳥羽院の下北面として仕えることになる。この時の天皇は崇徳院で、西行より2歳年下だった。

 西行が北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた時、皇位継承をめぐって複雑な問題が起きていた。
 鳥羽上皇の中宮は待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)だが、璋子は幼女の頃から白河上皇に寵愛されており、鳥羽天皇の中宮になったものの、その子顕仁(後の崇徳天皇)の父は白河上皇であったろうとされていた。白河上皇と中宮璋子との関係は白河上皇の崩御まで続いたという。このことが後の崇徳天皇と鳥羽上皇との確執となり保元の乱への遠因となっていく。

白河(72)--堀川(73)--鳥羽(74)--崇徳(75)
                   ├後白河(77)---二条(78)--六条(79)
                   └近衛(76)  └高倉(80)-------安徳(81)
                                      └後鳥羽(82)

 1139年、保延五年、藤原得子(美福門院得子)が鳥羽上皇の皇子体仁(後の近衛天皇)を生み、鳥羽上皇は体仁を次期天皇として立太子させる。このことは待賢門院璋子の皇子雅仁(後の後白河天皇)の存在を無視することを意味した。ここで崇徳天皇・中宮待賢門院璋子と、鳥羽上皇・美福門院得子との決裂が決定的なものになり、将来起こり得る武力対立を予感させるものになった。
 鳥羽上皇の北面に勤める西行は、鳥羽上皇のやり口に驚くとともに、将来の武力紛争を予感し、その時の自らの立場の困難さに戦慄したはずである。西行は、翌年の1140年、保延六年、23歳の時に出家することになる。

 鳥羽上皇の側にも言い分があった。彼は父祖にあたる白河上皇の養女で、上皇の寵愛を受けていた璋子を中宮としているが、中宮璋子が生んだ子顕仁(後の崇徳天皇)が白河上皇の子であることは、公然の秘密となっていた。鳥羽上皇にしてみれば、この怨恨をはらす機会だったことになる。鳥羽上皇は、2つ年上で美しい待賢門院璋子を中宮として敬いながらも、白河院と璋子そして顕仁に対して決して心穏やかでは居られなかったはずである。

 一方、平清盛のような新しい形の武士団の出現も西行の心を揺さぶっていただろう。
 平清盛は西行と同じ年に生まれ、鳥羽院の北面ということでも同じだった。この頃、平忠盛とその子の清盛の一族が、反乱の制圧や調停などの活動を通して大きな勢力をもつようになっていた。
 この一族はたびたび西海の反乱の鎮圧に出かけ、その過程で西国の武士団を統合し、経済力と軍事力を養っていた。北面の武士団から独立し、全国的な武門勢力を形成しながら鳥羽院の側近に編成されるようになった。
 軍事力により権力を左右できるという意識が、鳥羽院の武士団に芽生えつつあった。
 朝廷や院の側近に選ばれた名門としての中級武門エリートといった立場(北面の武人)にあった西行は、己の将来に暗雲を感じていただろう。

  西行は、鳥羽院の北面だから鳥羽院に出家のいとまを申し出たのだろうが、出家後は、むしろ崇徳天皇や待賢門院璋子らに同情を寄せている。鳥羽院の崇徳天皇・璋子に嫌がらせや徹底して排除していこうとするやり方に、嫌悪を感じたからだろう。
 西行の出家後、鳥羽院の崇徳天皇・璋子への対応が決定的になる。鳥羽院は、崇徳天皇をだまして譲位させ、美福門院得子の幼児体仁を近衛天皇として天皇の位につけた。鳥羽院は崇徳院に譲位することなく、引き続き上皇として院政をしいた。
 これは誰がみてもあくどいものだった。鳥羽院は崇徳天皇に、「美福門院生まれの体仁をあなたの子ということで譲位すれば、あなたは院政をしくことができますよ」といって譲位させながら、譲位の宣命には子ではなく弟と記すように画策して、崇徳天皇が上皇になる機会を奪ってしまった。
 このことは、崇徳天皇が上皇になって院政をしき、 待賢門院璋子も安泰の日を送ることができるものと考えていた西行には、衝撃的なできごとだった。

 西行は出家してみてはじめて、権力に渦巻く陰謀、権力への執念、富や地位や女性や享楽的生き方への飽くなき欲望、そういったものがいっそう見え過ぎるほど見えてしまった。西行は、基本的には非政治的人間に分類されると思うが、彼は騒乱の一方に肩入れしたくなるような思いで、都を離れ得なかったのではないか。
(講談社文芸文庫「西行論」吉本隆明著 より)

世の中を 捨てて捨て得ぬ 心地して 都離れぬ わが身なりけり (1417) 出家はしたのにまだ世俗を捨て切れていない気がする。修行の旅に出ようという決断もできていないまま、私はしがみつくようにまだ都にいる。

 

 

8.だから出家の動機は何なのか

 小林秀雄も吉本隆明も、「高貴な人との失恋説」は一笑に付している。だが、出家前の佐藤義清の歌には失恋説を否定するには余りある失恋歌が多いように思う。まあ、事実は分からないのだから、彼の歌から推測してどんな説でも成り立つのだろうが、失恋説は、大きくは「人生無常説」「仏に救済を求める説」に含めてもよいのだろう。
  ・高貴な人との失恋 そのために出家?
  ・友人の死、だがこの時代、人の死は日常のこと
  ・政争・反乱・災害、世情・人心の乱れ
  ・摂関・天皇の権力の争い
  ・荘園運営の行き詰まり
  ・鳥羽院を警護する北面の武人の限界、新興する武士団
  ・時代思想としての無常観、仏道による救済

 西行は失恋をにおわす歌を詠んでいるだけで出家の原因について直接には何も語っていない。どれと特定できないから、吉本隆明のように「無動機の出家」ともいえるが、あるいはそれらすべての原因から青年が「世を憂いて」ともいえる。
 しかし、貴族による院政末期の時代にあって、彼はやたら失恋をおもわせる歌を詠っている。青年の純粋一途の思いとはいえ、いい気なものだ、という感じもする。鳥羽院を警護する北面の武人として、また荘園領主として時代の中で格闘する対象はいくらでもあったと思うのだが。そういうどろどろの政治・社会からの遁走として、高貴な人への恋情や仏道への思いや歌へののめりこみがあったのかも知れない。このあたりのノー天気さが現代でも受ける理由になっているのかも知れない。
 たたずみ・立ち去る人。遁走する人。こういうイメージが西行にはついてまわる。
 院政末期の人心の乱れはひどい。権力と富と女性、自己保身とたまに歌や蹴鞠にしか興味のない院政貴族たちの宮廷内魑魅魍魎。ここに青年武人の生きる場所はない。

小林秀雄は、その著書『無常といふこと』の中の「西行」で、次のように言っている。

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ (玉葉集18)
そらになる 心は春の かすみにて 世にあらじとも 思ひ立つかな
 (723)
世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて かずならぬ身の おもひでにせむ
 (724)
世の中を 背きはてぬと 言ひ置かん 思ひしるべき 人はなくとも  (726)


 「これらは決して世に追いつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか遁世とかいう曖昧な概念に惑わされなければ、一切がはっきりしているのである。自ら進んで世に反いた二十三歳の異常な青年武士の世俗に対する嘲笑と内に湧き上がる希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向かって開かれ、来るべきものに挑んでいるのであって、歌のすがたなぞにかまっている余裕はないのである。確かに彼は生得の歌人であった。」

 窪田章一郎著『西行の研究』によると、出家の根本にあったものは、「よりよき生き方をしたいという人間の純粋な希望、要求であり、出家という行為は自身を自由にし、束縛から離つことであり、自己を遂げ、自己を解放することに価値ある生き方を求めることである。そこには政治的な絆や恋愛の苦しみから自己を救うという消極的な自己救済と、作歌と修業という積極的な自己救済」である、としている。

 先んじて西行を「自意識」の人ととらえた小林秀雄や窪田章一郎。これらの説のように、現在の大勢は、西行の出家は外的な要因に動かされたことがあっても、根本的には「より新しい自分を発見し、より自己を高める」という思いがあったからだという。

 文学的原因説というのもある。天性の詩人である西行は、遊戯的・余技的な歌ではなく、歌人としての生き方を積極的に選び取った。それが当時では出家というかたちをとらざるを得なかったというものである。これは上の「よりよい生き方説」に含めてよいだろう。

 西行の出家遁世に積極的な意味と価値を見出すというは、やや現代的で日本的な解釈のようにも思うが、「新しい生き方」としての「出家」ということも有りだと思う。同じ時代の平清盛や源頼朝のように時代を正面から引き受けて格闘し、雄々しくしぶとく巧みに生き抜き、とうとう権力を手中にするといった生き方や、法然・親鸞のように浄土思想による民衆の救済に全生命をかける生き方も、また、西行的な生き方の対極としてあるだろう。
 それぞれ自分の出自と与えられた情況の中で、期待される役割と自分の夢を果たすために精一杯生きた。それぞれの生き方と人生があった。

 受け入れるしか仕方のない宿命のような情況が、西行にはあった。鳥羽院の北面の武人として、紀伊国田仲庄の領主一族の荘園運営者として、妻や子の家族と家を守るという生き方があったはず。だが、西行はそれらをかなぐり捨てて出家という道を選んだ。「よりよい生き方」をしたい、「価値ある生き方」をしたい、「世俗に対する嘲笑と内に湧き上がる希望」に生きたい。だが、そういう生き方としての出家は、どうもしっくりとこない。西行自身はそんな風には意識していなかったのではないか。「よりよい生き方」や「価値ある生き方」が目指そうとしていたものは何か、西行はどういう自己を実現したかったのか、歌による表現者として何を表現したかったのか。現状に対する否定、それに関わる自己の否定という生き方でもよいのかもしれないが、それだけでは刹那的過ぎてやっていけない。出家後の西行という生き方の目指すもの、価値とするもの、希望とするものがなかなか見えてこない。西行出家の動機は「無動機の出家」か。とりあえず、そういう風に考えておくことにする。

 「無動機の出家」の意味は多義的である。「無動機」は、動機がたくさんありすぎてどれとも特定できないということもあるし、口には出せない、容易には表現しきれない、強いて言えば「無動機の出家」ということもある。人間、ふっとしたきっかけで、「魔が差す」ということもある。(考え抜いた末に、ということもあるが)

9.西行という生き方

  西行は武芸に優れた鳥羽院の親衛隊である北面の武人である。職務から言えば鳥羽院の側に立ち、崇徳院側に対抗しなければならない立場にある。しかし、西行の心情は崇徳院と待賢門院の側にある。崇徳院と鳥羽院の間で揺れる西行。その対立と抗争は将来必ず現実のものとなるだろうということは、西行には当然に予見できた。抗争のさなかでの出家は、武人のとるべき道ではない。今しかない、だから西行は何も言わずに出家したのではないか。それでもやはり、行く末が心配で都から離れることはできない、世間を離れて仏門に身を投じ切ることもできない、武人としての職務をある意味では放棄したわけだから、徹底した武人として生きることもできない。従って、元武人の出家者として、漂白の歌人として生きるしかなかった。遁走・隠遁の天性の歌人。彼を支えたものは伝統的な和歌ではなく、状況の中での自己表現としての歌ではなかったか。西行という生き方は、歌に天性の才能があった西行だからこそできた離れ業であったように思う。

 「抑圧された思想や人間には、いつもこのように秩序が感受される。そしてすでにできあがった秩序の上にあぐらをかいて固定している思想や人間は、形式主義も偽善もへちまもない。ようするにわれわれは勝者であり、諸君は敗北している。諸君もわれわれと同じような方式をとらない限り、決して秩序から疎外されることを免れない。すくなくとも人間の構成する秩序は、けっしてこれ以上の型をとらないのだから・・・
 構成された秩序を支点として展開される、思想と思想との対立の型は、どれほど幼稚に見えようとも、これ以外の型をとることはない。・・・
 キリスト教は、それ以降、マチウ書のしめした課題にたいして三つの型をとった。
第一は、己れもまたそのとおり相対感情に左右されて動く果敢ない存在にすぎないと称して良心のありどころをみせるルッター型であり、
第二は、マチウ書の攻撃した律法学者パリサイ派そのままに、教会の第一座だろうが、権力との結合だろうがおかまいなしに秩序を構成してそこに居座るトマス・アキナス型、
第三は、心情のパリサイ派たることを拒絶して、積極的に秩序からの疎外者となるフランシスコ型である。
人間の歴史は、その法則にしたがって秩序の構造を変えていくが、人間の実存を意味づけるために、ぼくたちが秩序に対してとりうる型はこの三つの型のうちのどれかである。」(吉本隆明『マチウ書試論』より)

 吉本のこの3つの型に従えば、平安末期・武士の台頭と院政崩壊期にあって、第一の型は「出家」を選びながらも相対感情に揺れ動く西行、第二の型は果敢に権力に取り入りやがて権力を奪取し、自らが秩序を構成していく清盛や頼朝、第三の型はさしずめ法然や親鸞、ということになろうか。
  西行には、身を置く秩序がそのように感じられた。揺れ動く相対感情と関係が強いる絶対感情の中で、西行は「出家」という道を選ぶしかなかった。西行は「出家」することで、院政末期の崩壊していく秩序・体制から自立し、「僧形」ではあるが僧ではなく、北面・武門の出でありながら武人ではなく、そして数寄の「歌人」として、自立していく。西行は出家することにより、その門地や人脈、なによりも諸芸に秀でた多才多能に助けられて、近代的な自立する個人という生き方を選びえた、稀有の人だったのかもしれない。

 

 

10.「出家」とは何か

 吉本隆明は、かなり執拗に「手ずからもとどりを切る(ちょんまげを切る)」「出家」について追及している。(「西行」の「僧形論」) だが、「出家」者の生き方の実相はどうであったのか。以下、勝手に要約してみる。

 平安末期に「出家」とは何であったか。
 吉本は、「ひと口にいえば、仕える主家のあるじや、親子近親に先立たれたり、あるいは個人的なふとした動機から、現世の無常を感じたものが、或る日、自分の手で「もとどり」を断って、そのまま、いずこともなく立ち去って、荒涼の地に庵をたてて、念仏三昧にふけり、そのまま自然に朽ちはてる生の様式である」としている。
 自然死にできるだけ近い形で飢餓死する様式。しかし、即身成仏のような異様な思想を避け、生活思想としての欣求浄土を自然な形で選択している新しい出家遁世の様式。この種の死の様式を思想化するのは、親鸞まで待たねばならなかった、という。

 自然な飢餓による成仏死の概念は、親鸞の思想に到りつく前に、真言浄土系や時宗系の聖たちにより、もっとラジカルに実行される運命にあった。
「生きながら死んで、静かに来迎を待つべきである」 。
「わが門弟たるものは、葬礼の儀式をととのえてはいけない。野に屍を捨てて獣に施すべきである。」(一遍「門人伝説」)
「衣食住の三は三悪道なり。」 (一遍「門人伝説」)

 吉本は言う、衣食住が三悪道だとするなら、人は直ちに意志的に死ぬのでなければならない。彼らは、こういう自己矛盾を劇化する方向で思想的な死の周辺を徹底化していった、と。この自己欺瞞を一挙に解決するために、時に自ら食を絶ってミイラ化する即身成仏の儀式的遂行へと走った。 「死のう」を実践しようとする異様な群れが、底辺に発生し、横行した。

 仏教説話集「撰集抄」は長く西行が撰者だと信じられていた。芭蕉の時代ではそうと信じられており、芭蕉もこの書が西行のもの思っていただろう。ここでは、人恋つつ自然を友とした数寄の草庵生活ではなく、人跡まれな深山の岩窟か何かで、誦経・念仏三昧の苦行にふける本格的な隠遁者に、諸国行脚の西行が出会う話である。
  この書の記載によれは、かれらは、頭や顔から手足まで泥をかぶったようで、見苦しい様子をしていて、形のととのった衣なども着ず、むしろ菰などをひっかけたような風体をしていた。そして食物は、魚や鳥などの生臭物をもさけることはしなかった。だが、たぶん、念々が臨終だとする往生死の、実践的衝迫力を保持していたのは、かれらだけだった。

 他人からみて思い当たるような変事がなかったとすれば、動機は内面に秘されていた考えるしかない。現在だってそういうことはあり得る。現実が苦しかったといっても、家が苦しかったといっても、勤めが苦しかったといっても、それが他人からはわけがわからないように見えても、内面で耐えていた堰が、ふとしたきっかけで切れれば、青年は蒸発する。そういう人物は、平安末期の当時でも珍しくはなかっただろう。

 西行は、「身辺の動機なしにも、時代思想に敏感で、すべてに多感でありさえすれば、十分に出家遁世に踏み切る根拠を持っていた。出家は、いわば平安末から鎌倉期にかけての前衛的な思想であり、僧形はある意味で前衛的でもあった。西行の出家は、時代思想に埋没させてもよいように思われる」と吉本はいう。

 出家遁世は、生と死のあいだをつなぐ過程的な構造として成立し得た。そしてこの過程的な構造を、どう生きるかということは、それぞれの遁世者の恣意に委ねられた。

 出家者西行は、政争渦巻く都を、離れるに離れ得ぬ思いで、武人と僧形と歌人を生きる。

夜もすがら 月こそ袖に やどりけれ 昔の秋を 思ひ出づれば(351) 涙の袖に一晩中宿っていたのは月だった。出家前に見た秋月を思い出したりしていたので。
さびしさに 堪(た)へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里(513) 私の山家も冬になるとあまりにも寂しいから、このような寂しさに我慢できている人がもう一人いたらいいな。庵を並べて住んでみたい。
捨てたれど 隠れて住まぬ 人になれば なほ世にあるに 似たるなりけり (1416) 世を捨てて出家はしたけれど、すっかり隠遁したわけではないので、まだ在俗している人と似たようなものだ。
世の中を 捨てて捨て得ぬ 心地して 都離れぬ わが身なりけり (1417) 出家はしたのにまだ世俗を捨て切れていない気がする。修行の旅に出ようという決断もできていないまま、私はしがみつくようにまだ都にいる。

 

以上

歌の現代語訳は、主に「和歌文学大系21 山家集/聞書集/残集」久保田淳監修・明治書院 を参考にした。

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