佐藤義清(後の西行)の出家 |
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晩年の西行は、好々爺といった感じで、すがる娘を蹴落とすようなイメージはないが、この西行のイメージが、彼にもっともぴったりくるように思う。 |
1. 芭蕉の師 西行 芭蕉は、日本橋での町名主補佐の「書き役」という仕事の他、多くの弟子に囲まれた俳諧の宗匠として、それなりに恵まれた生活をしていたようだ。1680年、芭蕉37歳、日本橋での生活をうち捨てて、隅田川向こうの深川村に転居してしまう。深川転居の原因は不明である。だが、深川隠棲と言われる厳しい生活と孤独な俳諧創作活動の中から、俳聖芭蕉が生まれることになる。深川隠棲は芭蕉が芭蕉になるための決定的な契機になったことは間違いない。 佐藤義清(のりきよ、出家後の西行のこと)の出家が気になってしかたがない。義清はなぜ出家したのだろうか。何が出家という選択を強いたのか、出家にともなう人生をどのように引き受け、別の生き方をどう切り開いていったのか、そういう生き方の現実はどうだったのか。そもそも西行とは何者なのか、出家とは何なのか。 |
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2. 義清23歳の出家 平安時代末期、23歳の義清が出家した。 義清は18歳の時、私財寄付の成功(じょうごう)により兵衛尉(ひょうえのじょう)となる。 世にあらじと思ひ立ちける頃、東山にて、人々、寄霞述懐といふことを詠める
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3. 出家の動機 「そもそも西行は、もと兵衛尉(ひょうえのじょう)義清也。重代の勇士たるを以て、法皇に仕ふ。俗時より心を仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世す。人これを嘆美する也」
(藤原頼長の日記『台記』) とある。同時代の日記であるため、ほとんど唯一の確からしい記録といわれている。 動機としては、日記や後世の物語に記されていることから、@親友の突然死や、A高貴な女性との失恋があげられているが、他に、B無常観や仏教への帰依や、C摂関家の争い皇位継承をめぐる政争への失望から、などがある。
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4. 急死した友人から人生の無常を悟って
「西行物語」「西行一生涯草紙」「西行物語絵詞」「西行上人発心記」などの説。 友人の死はありそうなことだが、人生を賭けての出家の動機というにはどうもヒンとこない。合戦での殺生、主家の死、肉親の死。すべての武士に日常的に訪れること。とりわけの友人の急死が出家の直接の原因になったとは考えにくい。
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西行は本当に、この高貴な女性に恋をしたのだろうか。高貴の人が「阿漕の浦です」などと、えげつなくて面白くて、そんなことを言うものだろうか。 |
5. さる高貴な女性との失恋
「源平盛衰記」「お加草子」「そしり草」「扶桑故事要略」がこの説。「源平盛衰記」では次のようなことをいっている。 「お加草子」ではもっとまことしやかな虚構になっている。 西行が接し得た高貴の女性は、鳥羽院中宮の待賢門院璋子(たまこ・しょうこ)ということなるが、璋子は西行の17歳年上である。あまり現実的ではないような気もするが、20歳の西行に対して37歳の璋子はそれほどまぶしかったということか。西行独りよがりのプラトニックなものであったかも知れないが、当時の本当のところはよくわからない。ただ、西行には恋の歌が多く、その歌は近い事実があったことをうかがわせるのに十分である。
あはれとも 見る人あらば 思はなむ 月のおもてに やどす心を(618)
月を見たら、せめて私をあわれと思ってほしい。あなたに逢いたいのに月を見ることしかできないのだから。
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6. 仏に救済を求める心の強まり
浄土思想・西方浄土、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。
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現代からみると、摂関政治や院政などは、ほとんど私利私欲のでたらめな政治制度である。歴史時代の出来事を色眼鏡をかけて価値判断することは間違いだが、さすがの西行にも当時の院政や貴族たちの政治や生態には嫌気をさしたのではないか。
1139年、保延五年、藤原得子(美福門院得子)が鳥羽上皇の皇子体仁(後の近衛天皇)を生み、鳥羽上皇は体仁を次期天皇として立太子させる。このことは待賢門院璋子の皇子雅仁(後の後白河天皇)の存在を無視することを意味した。ここで崇徳天皇・中宮待賢門院璋子と、鳥羽上皇・美福門院得子との決裂が決定的なものになり、将来起こり得る武力対立を予感させるものになった。 鳥羽上皇の側にも言い分があった。彼は父祖にあたる白河上皇の養女で、上皇の寵愛を受けていた璋子を中宮としているが、中宮璋子が生んだ子顕仁(後の崇徳天皇)が白河上皇の子であることは、公然の秘密となっていた。鳥羽上皇にしてみれば、この怨恨をはらす機会だったことになる。鳥羽上皇は、2つ年上で美しい待賢門院璋子を中宮として敬いながらも、白河院と璋子そして顕仁に対して決して心穏やかでは居られなかったはずである。 一方、平清盛のような新しい形の武士団の出現も西行の心を揺さぶっていただろう。 西行は、鳥羽院の北面だから鳥羽院に出家のいとまを申し出たのだろうが、出家後は、むしろ崇徳天皇や待賢門院璋子らに同情を寄せている。鳥羽院の崇徳天皇・璋子に嫌がらせや徹底して排除していこうとするやり方に、嫌悪を感じたからだろう。 西行は出家してみてはじめて、権力に渦巻く陰謀、権力への執念、富や地位や女性や享楽的生き方への飽くなき欲望、そういったものがいっそう見え過ぎるほど見えてしまった。西行は、基本的には非政治的人間に分類されると思うが、彼は騒乱の一方に肩入れしたくなるような思いで、都を離れ得なかったのではないか。
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8.だから出家の動機は何なのか 小林秀雄も吉本隆明も、「高貴な人との失恋説」は一笑に付している。だが、出家前の佐藤義清の歌には失恋説を否定するには余りある失恋歌が多いように思う。まあ、事実は分からないのだから、彼の歌から推測してどんな説でも成り立つのだろうが、失恋説は、大きくは「人生無常説」「仏に救済を求める説」に含めてもよいのだろう。 窪田章一郎著『西行の研究』によると、出家の根本にあったものは、「よりよき生き方をしたいという人間の純粋な希望、要求であり、出家という行為は自身を自由にし、束縛から離つことであり、自己を遂げ、自己を解放することに価値ある生き方を求めることである。そこには政治的な絆や恋愛の苦しみから自己を救うという消極的な自己救済と、作歌と修業という積極的な自己救済」である、としている。 先んじて西行を「自意識」の人ととらえた小林秀雄や窪田章一郎。これらの説のように、現在の大勢は、西行の出家は外的な要因に動かされたことがあっても、根本的には「より新しい自分を発見し、より自己を高める」という思いがあったからだという。 受け入れるしか仕方のない宿命のような情況が、西行にはあった。鳥羽院の北面の武人として、紀伊国田仲庄の領主一族の荘園運営者として、妻や子の家族と家を守るという生き方があったはず。だが、西行はそれらをかなぐり捨てて出家という道を選んだ。「よりよい生き方」をしたい、「価値ある生き方」をしたい、「世俗に対する嘲笑と内に湧き上がる希望」に生きたい。だが、そういう生き方としての出家は、どうもしっくりとこない。西行自身はそんな風には意識していなかったのではないか。「よりよい生き方」や「価値ある生き方」が目指そうとしていたものは何か、西行はどういう自己を実現したかったのか、歌による表現者として何を表現したかったのか。現状に対する否定、それに関わる自己の否定という生き方でもよいのかもしれないが、それだけでは刹那的過ぎてやっていけない。出家後の西行という生き方の目指すもの、価値とするもの、希望とするものがなかなか見えてこない。西行出家の動機は「無動機の出家」か。とりあえず、そういう風に考えておくことにする。 9.西行という生き方 西行は武芸に優れた鳥羽院の親衛隊である北面の武人である。職務から言えば鳥羽院の側に立ち、崇徳院側に対抗しなければならない立場にある。しかし、西行の心情は崇徳院と待賢門院の側にある。崇徳院と鳥羽院の間で揺れる西行。その対立と抗争は将来必ず現実のものとなるだろうということは、西行には当然に予見できた。抗争のさなかでの出家は、武人のとるべき道ではない。今しかない、だから西行は何も言わずに出家したのではないか。それでもやはり、行く末が心配で都から離れることはできない、世間を離れて仏門に身を投じ切ることもできない、武人としての職務をある意味では放棄したわけだから、徹底した武人として生きることもできない。従って、元武人の出家者として、漂白の歌人として生きるしかなかった。遁走・隠遁の天性の歌人。彼を支えたものは伝統的な和歌ではなく、状況の中での自己表現としての歌ではなかったか。西行という生き方は、歌に天性の才能があった西行だからこそできた離れ業であったように思う。
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10.「出家」とは何か 吉本隆明は、かなり執拗に「手ずからもとどりを切る(ちょんまげを切る)」「出家」について追及している。(「西行」の「僧形論」) だが、「出家」者の生き方の実相はどうであったのか。以下、勝手に要約してみる。 仏教説話集「撰集抄」は長く西行が撰者だと信じられていた。芭蕉の時代ではそうと信じられており、芭蕉もこの書が西行のもの思っていただろう。ここでは、人恋つつ自然を友とした数寄の草庵生活ではなく、人跡まれな深山の岩窟か何かで、誦経・念仏三昧の苦行にふける本格的な隠遁者に、諸国行脚の西行が出会う話である。 他人からみて思い当たるような変事がなかったとすれば、動機は内面に秘されていた考えるしかない。現在だってそういうことはあり得る。現実が苦しかったといっても、家が苦しかったといっても、勤めが苦しかったといっても、それが他人からはわけがわからないように見えても、内面で耐えていた堰が、ふとしたきっかけで切れれば、青年は蒸発する。そういう人物は、平安末期の当時でも珍しくはなかっただろう。 西行は、「身辺の動機なしにも、時代思想に敏感で、すべてに多感でありさえすれば、十分に出家遁世に踏み切る根拠を持っていた。出家は、いわば平安末から鎌倉期にかけての前衛的な思想であり、僧形はある意味で前衛的でもあった。西行の出家は、時代思想に埋没させてもよいように思われる」と吉本はいう。
夜もすがら 月こそ袖に やどりけれ 昔の秋を 思ひ出づれば(351)
涙の袖に一晩中宿っていたのは月だった。出家前に見た秋月を思い出したりしていたので。 |
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以上 |
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photo by miura 2010.12 |