西行と崇徳天皇 |
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1.白河上皇の院政 西行の、厭世・出家しながらも都離れぬ心を考えるうえで、西行と鳥羽院や崇徳院の関係をみておくことは欠かせない。そこから西行と噂の多い待賢門院璋子との関係も見えてくる。北面の下級武人がなぜ時の権力中枢の人々と交えることができたのか、ほっておけばよいのになぜ最後まで関わり切ってしまうのか。厭世と旅の歌人なのに、この権力者たちとの関わりは何なのか。 1129年、白河法皇が崩御し、鳥羽院は崇徳天皇に位を譲り自らは上皇になって院政を始めた。佐藤義清(のりきよ:出家後の西行)12歳の時だった。佐藤義清は、20歳の時に六位の位階をもっていたため鳥羽院の下北面として仕えることになる。この時の天皇は崇徳院で、西行より2歳年下だった。 西行の生きた時代はかくのごとし。
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2.佐藤義清(西行)と璋子・崇徳天皇の関係
義清は、馬や弓矢の武芸はもちろん、詩歌・管絃の道にも優れた才能をもっていたようだ。和歌の道にかけては、業平や貫之などの古の歌仙にもひけをとらないほどであったとか。 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして、その苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。その真偽は判断できるだけの材料がない。この話は週刊誌のスキャンダル記事のようで、面白すぎる。 下級武士の西行がなぜ、待賢門院璋子に接することができたのか、崇徳天皇とも親しくつきあうことができたのか。 崇徳天皇は、鳥羽上皇の子ということになっているが、実際には鳥羽上皇の父である白河法皇の子であったらしい。 白河法皇は璋子を寵愛し、璋子を鳥羽上皇の中宮にしてからも関係が続いていたという。
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3.保元の乱 1156年 保元元年7月
保安4年(1123年)7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子が生んだ体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。上皇になるためには、天皇は「子」でなくてはならない。天皇が「弟」では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。崇徳は鳥羽田中殿に移り、「新院」と呼ばれるようになった。 法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王(母は兵衛佐局)を美福門院の養子に迎えた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁への皇位継承の可能性も残したことになる。 忠通は美福門院の養子・守仁への譲位を法皇に奏上する。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったとされる。 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の 崇徳院の母の待賢門院の落胆も大きく、病気がちになり、1145年久安元年に崩御。 西行28歳、嘆きはいかばかりか。 一方、病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。 保元、元年(1156年)、7月2日申の刻(午後4時頃)鳥羽法皇が崩御した。 この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。 7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。 頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。 逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。
4.西行、敗れた崇徳院を訪ねる この頃、西行は高野山で修行していたはずだが、いち早く仁和寺の崇徳院のもとに駆け付けた。 世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪おろして、仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨出であひたり。月明かくて詠みける 一院崩れさせおはしまして、やがての御所へ渡しまゐらせける夜、高野より出であひてまゐりあひたりける、いと悲しかりけり。この、後おはしますべき所御覧じ初めけるそのかみの御供に、右大臣実能、大納言と申しける候はれけり。忍ばせおはしますことにて、また人候はざりけり。その御供に候ひけることの思ひ出でられて、折しも今宵にまゐりあひたる、昔今のこと思ひつづけられて詠みける 鳥羽院の崩御に接し、「浅からぬ君に契りのある身」と詠った西行は、同じ年、敗残の崇徳院のもとにも身の危険を顧みず馳せ参じた。鳥羽上皇に対しては主従の契りを感じながら、崇徳院にたいしては和歌をとうしての心の繋がりだろうか、敗残と失意に沈む崇徳院へのいたわりの情を歌にしている。 敗残の武士に対する処罰は厳しく、薬子の変(くすこのへん)(=平城太上天皇の変)を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた弓の名手である為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられる。『保元物語』によれば武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたがそこでも大暴れをしたと言われている。 こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。 乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持するグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。 保元、元年(1156年) 7月23日、崇徳は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ下った。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。 |
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『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の汐路」では、 西行はつてを求めて、たびたび慰めの歌を送っている。 しかし安元2年(1176年)に建春門院・高松院・六条院・九条院など後白河や忠通に近い人々が相次いで死去し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷事件といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に正一位太政大臣を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。
以下、主に、吉本隆明「西行論」講談社文芸文庫、白洲正子「西行」新潮文庫による。 一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても、怨念を抱いていた様子はない。 『今鏡』の著者とされる寂超は崇徳の在位中に蔵人を務め、歌会にも出席するなど親密な関係であり、『今鏡』も崇徳の死からそれほど経過していない嘉応2年(1170年)に執筆されている。これに対して『保元物語』が書かれたのは『六代勝事記』の成立した貞応2年(1223年)以降と見られている。崇徳の逸話に関しては『今鏡』の方が信憑性が高く、『保元物語』における崇徳の描写は後鳥羽上皇に重ね合わせて創作された虚像とも考えられる。 「西行が讃岐へ送った歌は多いので、一々ここにあげることはできない。が、いずれも院の心を鎮めることに重点がおかれており、仏道修行に専念されることを、しきりに勧めている。ということは、ある種の危険を感じていたに違いない。保元物語その他が伝えるところによれば、最初の三カ年がほどは、後生菩提のために、院は自筆で五部の大乗経を書写し、安楽寿院の鳥羽陵へおさめるこさを希望されていた。「浜千鳥」の御製は、都へお経を送った時のものだといわれている。が、その望みは、断固退けられた。後白河天皇、というよりは側近の信西入道によって、突っ返されてきたのである。讃岐の院は烈火の如く憤り、此経を魔道に廻向して、魔縁と成って、遺恨を散ぜん、といって其後は御つめをもはやさず、御髪をもそらせ給はで、御姿をやつし、悪念にしづみ給ひける。 崇徳院の執念とは何か。我が子を天皇にし、自分が上皇になって院政を布くことか。いかしそれは、鳥羽院にしてみれば、直系の子に天皇を継がせ、さらに法皇となって天皇-上皇の連綿と続く皇統を確証したいという願いがあるだろう。 |
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5.崇徳院の怨霊伝説 保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。それは天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命(『平安遺文』2848)にも表れている。崇徳院が讃岐で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀」(『百錬抄』)と後白河上皇はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。 ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。 寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。 その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている。 |
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以上 | ||
photo by miura 2011.1 |