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西行と崇徳天皇


 

1.白河上皇の院政

 西行の、厭世・出家しながらも都離れぬ心を考えるうえで、西行と鳥羽院や崇徳院の関係をみておくことは欠かせない。そこから西行と噂の多い待賢門院璋子との関係も見えてくる。北面の下級武人がなぜ時の権力中枢の人々と交えることができたのか、ほっておけばよいのになぜ最後まで関わり切ってしまうのか。厭世と旅の歌人なのに、この権力者たちとの関わりは何なのか。

 この時代の朝廷の院政権力の流れは、次のとおり。
 白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。
 天皇が退位すると「上皇」になり、天皇の地位には自分の子をつけて権勢をふるい、さらに上皇が出家して「法皇」となる。「天皇→上皇→法皇」の権力循環サイクル、これが院政である。これは摂関政治に対する天皇家からの巻き返し、権力奪取のため策略といわれるが、この権力形態は白河上皇の時代に完成した。
 白河上皇は、堀河天皇の死後はその息子で4歳の鳥羽天皇の上皇として本格的な院政をしいた。白河上皇は、院御所の北面に警護のための詰所を設け、親衛の武士団を組織した。官位で四位や五位の武士は上北面、六位のものは下北面に詰めた。

 1129年、白河法皇が崩御し、鳥羽院は崇徳天皇に位を譲り自らは上皇になって院政を始めた。佐藤義清(のりきよ:出家後の西行)12歳の時だった。佐藤義清は、20歳の時に六位の位階をもっていたため鳥羽院の下北面として仕えることになる。この時の天皇は崇徳院で、西行より2歳年下だった。
 佐藤義清が北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた時、皇位継承をめぐって複雑な問題が起きていた。崇徳天皇が鳥羽上皇の直接の子ではないことが問題のはじまりだった。佐藤義清は、上皇・天皇の傍ですべてをみており、そして彼ら父と子のその行く末をすべて予見していたのだろう。

 鳥羽上皇の中宮は待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)だが、璋子は幼女の頃から白河上皇に寵愛されており、璋子が鳥羽天皇の中宮になったものの、その子顕仁(後の崇徳天皇)の実の父は白河上皇であったろうとされていた。白河上皇と中宮璋子との関係は白河上皇の崩御まで続いたという。このことが後の崇徳天皇と鳥羽上皇との確執となり、保元の乱への遠因となっていく。

 西行の生きた時代はかくのごとし。
 佐藤義清は、鳥羽上皇の親衛隊として北面の下級武士を勤めていたが「世を憂う」ことが多く、出家して西行になってからも、この憂いは止むことはなかった。

 

  2.佐藤義清(西行)と璋子・崇徳天皇の関係

 義清は、馬や弓矢の武芸はもちろん、詩歌・管絃の道にも優れた才能をもっていたようだ。和歌の道にかけては、業平や貫之などの古の歌仙にもひけをとらないほどであったとか。
 また、西行の母方の祖父に源清経なる人物がいて、彼は今様の名手で、蹴鞠(けまり)にも長じていたようだ。そのため、今様や蹴鞠の文化は西行にも伝えられていただろうといわれている。こうしてみてみると、西行は、武術・詩歌・管絃・今様・蹴鞠の道に通じたほとんどスーパーマンのような、技能・才能の持ち主だったことになる。後世の脚色もあるのかもしれないが、西行は各方面で多彩な才能を発揮していた。
 容姿は武門の出だけにやや無骨だったようだが、御殿勤めの女性たちにはもてた。鳥羽上皇にもその才能をみとめられ、なぜか中宮待賢門院璋子(たまこ)の覚えもめでたかった。早くから歌の才能が評価されたものだともいわれている。

 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして、その苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。その真偽は判断できるだけの材料がない。この話は週刊誌のスキャンダル記事のようで、面白すぎる。

 下級武士の西行がなぜ、待賢門院璋子に接することができたのか、崇徳天皇とも親しくつきあうことができたのか。
 義清の田仲庄は徳大寺家の知行地で、義清も当初は徳大寺家の家人として仕えていた。その関係で徳大寺(藤原)実能(さねよし)の妹、待賢門院璋子とも彼女に仕える女房たちとも浅からぬ縁があったようだ。
 また、義清は徳大寺藤原実能(さねよし)の働きもあり、鳥羽上皇にも近づけた。義清の蹴鞠(けまり)や騎乗や弓矢の才能が評価されたのだともいわれている。義清は鳥羽上皇の親衛隊、北面の武人として勤めることになった。この時、北面の同僚に平清盛がいた。西行と清盛との付き合いがどの程度だったかわからないが、西行が出家して高野山にいた時に、清盛に手紙を書いて、願いを聞いてもらっている。時の最高権力者、清盛とも直に話ができる間柄だった。

 崇徳天皇は、鳥羽上皇の子ということになっているが、実際には鳥羽上皇の父である白河法皇の子であったらしい。  白河法皇は璋子を寵愛し、璋子を鳥羽上皇の中宮にしてからも関係が続いていたという。
 世の習いとはいえ、 鳥羽上皇は璋子を敬愛していたが、崇徳天皇に対してはどうしても複雑な感情を抑えることができなかったのだろう。
 白河法皇がなくなると、 鳥羽上皇は藤原得子(美福門院得子)を御所に迎え、皇子体仁(後の近衛天皇)をもうけた。1139年、保延五年、鳥羽上皇は体仁を次期天皇として立太子させる。

 西行の出家後、鳥羽上皇の崇徳天皇・璋子への対応が決定的になる。鳥羽上皇は、崇徳天皇をだまして譲位させ、美福門院得子の幼児体仁を近衛天皇として天皇の位につけた。鳥羽院は崇徳院に譲位することなく、引き続き上皇として院政をしいた。
 これは誰がみてもあくどいものだった。鳥羽院は崇徳天皇に、「美福門院生まれの体仁をあなたの子ということで譲位すれば、あなたは院政をしくことができますよ」といって譲位させながら、譲位の宣命には「子」ではなく「弟」と記すように画策して、崇徳天皇が上皇になる機会を奪ってしまった。

 このことは、崇徳天皇が上皇になって院政をしき、 待賢門院璋子も安泰の日を送ることができるものと考えていた西行にも、衝撃的なできごとだった。崇徳天皇は和歌を愛し、文化振興にも理解が深く、和歌を通して西行とも関係をもっていて、それなりの相互理解の関係にあったようだ。
 西行は、鳥羽上皇の北面だから鳥羽上皇にとは直接の主従関係にあったが、出家後は、むしろ崇徳天皇や待賢門院璋子らに同情を寄せている。鳥羽上皇の崇徳天皇・璋子への嫌がらせや徹底して排除していこうとするやり方に、嫌悪を感じたからだろう。鳥羽上皇と取り巻きの摂関家のこのような陰湿な権力運用が、西行出家の原因のひとつであったことは間違いないだろう。

 

  3.保元の乱 1156年 保元元年7月

 保安4年(1123年)7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子が生んだ体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。上皇になるためには、天皇は「子」でなくてはならない。天皇が「弟」では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。崇徳は鳥羽田中殿に移り、「新院」と呼ばれるようになった。
 この事件により、崇徳院は鳥羽上皇に恨みを抱くことになるが、この策略は実際には摂政の忠通によるものだったらしい。

 法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王(母は兵衛佐局)を美福門院の養子に迎えた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁への皇位継承の可能性も残したことになる。
 久寿2年(1155年)7月24日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれる。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。

 忠通は美福門院の養子・守仁への譲位を法皇に奏上する。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったとされる。
 背景には崇徳院の院政により自身の立場が弱くなることを危惧する美福門院、忠実・頼長との対立で苦境に陥り崇徳の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む忠通、雅仁の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったようだ。これにより崇徳院の院政の望みは完全に打ち砕かれることになった。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
       われても末にあはむとぞおもふ
 (「百人一首」の崇徳院の歌)

 二つに分かれた急流が、いつかは一つになって出あうことがあろうとの期待は、崇徳院の皇統がいつかは日の目を見ることがあろうとの期待に重ねられている。

 崇徳院の母の待賢門院の落胆も大きく、病気がちになり、1145年久安元年に崩御。 西行28歳、嘆きはいかばかりか。

 一方、病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。

 以下、保元の乱の推移をかいつまんで紹介する。(主に、Wikipediaによる)

 保元、元年(1156年) 6月1日、法皇の容態が絶望的になった。法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『兵範記』7月5日条)

 保元、元年(1156年)、7月2日申の刻(午後4時頃)鳥羽法皇が崩御した。
崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、鳥羽法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。

 7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。

 この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。

 7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。

 翌10日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳の側近である藤原教長や、平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。
 天皇方は、崇徳の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員した。

 11日未明、後白河天皇方が崇徳院方の白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、崇徳院は御所を脱出して行方をくらました。
 為朝らが状況打開のためには夜討しかないと進言したが、頼長は一言のもとに退けた。頼長は学問があったために実戦に馴れた武士との間が円滑にいかなかったことも、崇徳院方の敗因の一つとなった。

 頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。
 崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたという(『兵範記』7月15日条)。

 逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。

 

 

4.西行、敗れた崇徳院を訪ねる

 この頃、西行は高野山で修行していたはずだが、いち早く仁和寺の崇徳院のもとに駆け付けた。

 世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪おろして、仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨出であひたり。月明かくて詠みける

かかる世に 影も変わらず 澄む月を 見るわが身さへ 恨めしきかな (1227) 

 1156年 保元元年、西行は鳥羽上皇の葬送に参列して次のような歌を残している。

 一院崩れさせおはしまして、やがての御所へ渡しまゐらせける夜、高野より出であひてまゐりあひたりける、いと悲しかりけり。この、後おはしますべき所御覧じ初めけるそのかみの御供に、右大臣実能、大納言と申しける候はれけり。忍ばせおはしますことにて、また人候はざりけり。その御供に候ひけることの思ひ出でられて、折しも今宵にまゐりあひたる、昔今のこと思ひつづけられて詠みける

今宵こそ 思ひ知らるれ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり (782)

 鳥羽院の崩御に接し、「浅からぬ君に契りのある身」と詠った西行は、同じ年、敗残の崇徳院のもとにも身の危険を顧みず馳せ参じた。鳥羽上皇に対しては主従の契りを感じながら、崇徳院にたいしては和歌をとうしての心の繋がりだろうか、敗残と失意に沈む崇徳院へのいたわりの情を歌にしている。
 戦乱が終息していたとは言え、仁和寺に居る崇徳院を訪ねることは、身の危険を顧みない勇気が必要だが、一介の下級武人・出家人にできることではない。清盛や信西へのコネクションがあったとはいえ、西行はやはりだものではない。西行は決して政治的・党派的な人間ではない。出家者という立場が、西行の行動を自由にし、有利にはたらいたことは間違いない。

 敗残の武士に対する処罰は厳しく、薬子の変(くすこのへん)(=平城太上天皇の変)を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた弓の名手である為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられる。『保元物語』によれば武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたがそこでも大暴れをしたと言われている。

 こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。

 乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持するグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。

 保元、元年(1156年) 7月23日、崇徳は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ下った。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。
 同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。崇徳はその後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。

 

 『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の汐路」では、
「八重の汐路をわけて、遠くおはしまして、上達部殿上人(かむだちめてんじょうびと)の、ひとり参るものなく、一ノ宮(重仁親王)の御母の兵衛佐(ひょうえのすけ)ときこえ給ひし、さらぬ女房、ひとりふたりばかりにて、男もなき御だびずみも、いかにこころぼそく、朝夕におぼしめしけむ」、と哀れ深く伝えているが、都に残った人々は「世の怖ろしさに」一人も訪ねるものはいなかったという。

 西行はつてを求めて、たびたび慰めの歌を送っている。

 讃岐にて、御心ひきかへて、後の世の御勤め暇なくせさせおはしますと聞きて、女房の許へ申しける。この文を書き具して、「若人不嗔打、以修忍辱」
世の中を 背く便りや なからまし 憂き折節に 君逢はずして (1230)
(このような辛い目に会わなかったら、仏道に入る機縁とならなかったでしょう。)

 しかし安元2年(1176年)に建春門院・高松院・六条院・九条院など後白河や忠通に近い人々が相次いで死去し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷事件といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に正一位太政大臣を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。


4.讃岐配流

 以下、主に、吉本隆明「西行論」講談社文芸文庫、白洲正子「西行」新潮文庫による。

  『保元物語』によると、崇徳は讃岐での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。

 一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても、怨念を抱いていた様子はない。

 これは承久の乱で隠岐に配流された後鳥羽上皇が
「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)
と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的といえる。

 『今鏡』の著者とされる寂超は崇徳の在位中に蔵人を務め、歌会にも出席するなど親密な関係であり、『今鏡』も崇徳の死からそれほど経過していない嘉応2年(1170年)に執筆されている。これに対して『保元物語』が書かれたのは『六代勝事記』の成立した貞応2年(1223年)以降と見られている。崇徳の逸話に関しては『今鏡』の方が信憑性が高く、『保元物語』における崇徳の描写は後鳥羽上皇に重ね合わせて創作された虚像とも考えられる。

 「西行が讃岐へ送った歌は多いので、一々ここにあげることはできない。が、いずれも院の心を鎮めることに重点がおかれており、仏道修行に専念されることを、しきりに勧めている。ということは、ある種の危険を感じていたに違いない。保元物語その他が伝えるところによれば、最初の三カ年がほどは、後生菩提のために、院は自筆で五部の大乗経を書写し、安楽寿院の鳥羽陵へおさめるこさを希望されていた。「浜千鳥」の御製は、都へお経を送った時のものだといわれている。が、その望みは、断固退けられた。後白河天皇、というよりは側近の信西入道によって、突っ返されてきたのである。讃岐の院は烈火の如く憤り、此経を魔道に廻向して、魔縁と成って、遺恨を散ぜん、といって其後は御つめをもはやさず、御髪をもそらせ給はで、御姿をやつし、悪念にしづみ給ひける。
西行が恐れていたことは実現したのである。・・・

 配流の後、八年を経て、讃岐の院は長寛二年(1164年)46歳で崩御になった。西行が讃岐へ行ったのはそれから四年後のことで、その時詠じた歌には、落胆した気持ちがよく現れている。
 
 讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたも無かりければ
松山の 波に流れて 来し舟の やがて空しく なりにけるかな(1353)
松山の 波の景色は 変らじを かたなく君は なりましにけり(1354)

・・・
 白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて
よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん(1355) 」
(主に、新潮文庫「西行」白洲正子著より)

 崇徳院の執念とは何か。我が子を天皇にし、自分が上皇になって院政を布くことか。いかしそれは、鳥羽院にしてみれば、直系の子に天皇を継がせ、さらに法皇となって天皇-上皇の連綿と続く皇統を確証したいという願いがあるだろう。
 それが時の勢いであってみれば、崇徳としては出家して身を引くのが大人の対応というものだと思うのだが。この執念は私のような庶民には理解できないことなのかも知れない。その崇徳院に対する西行の戸惑いは理解できる。かっては天皇と北面武士の関係であり、それ以上に和歌を通じて心通わすこともあったのだろう。西行という男は、そういう義理がたい男であった。

 崇徳院は優れた歌人であり、数寄の好みにおいて西行と共通するものがあったようだ。
 崇徳院は、久安6年、1150年に「久安百首」という歌集を出し、翌年の仁平元年には「詞花和歌集」を出している。「詞花和歌集」には、西行の次の歌を「読人しらず」としてとっている。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

 

 

5.崇徳院の怨霊伝説

 保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。それは天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命(『平安遺文』2848)にも表れている。崇徳院が讃岐で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀」(『百錬抄』)と後白河上皇はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。
 崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、頼長の子の師長が後白河上皇の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても全く意識されることはなかった。

 ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。
 この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷事件が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳院と頼長の怨霊が問題になっていたという。
 安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々が死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。
 崇徳の怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。

 寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。

 その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている。
 明治天皇は1868年に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。
 昭和天皇は1964年の東京オリンピック開催に際して香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、崇徳天皇式年祭を執り行わせている。 (Wikipedia「崇徳天皇」より)

  以上
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