文覚 Wikipediaより
「文覚(もんがく、保延5年(1139年) - 建仁3年7月21日(1203年8月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。
摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19才で出家した。
京都高尾山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、伊豆国に配流される。
文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。 のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。
また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する。
頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、
三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに元久2年(1205年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。
『源平盛衰記』は、出家の原因は、 従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとする。」(以上ここまで、Wikipediaより)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十九に「文覚発心附東帰節女事」がある。どこまで本当かはわからないが話として面白い。要約すると次のとおり。
平安末期、遠藤武者盛遠は院に仕える北面の武士であった。その盛遠には衣川と云う叔母があり、その娘には袈裟(けさ)と呼ばれる美しい娘であった。盛遠と袈裟は幼少の頃の従兄弟(いとこ)同士の仲でしかなかったけれど、時を経て、橋供養の折に盛遠は袈裟に出会うこととなった。
青黛の眉に丹花のような唇が愛らしく、桃李の粧、芙蓉の眸、雪のような肌。楊貴妃や李夫人など、今目の前にいるこの女性に比べればかすんでしまう。その美しく大人になった袈裟に心を奪われる盛遠だったが、袈裟は渡辺右衛門尉渡(うえもんのじょうわたる)に嫁いでいる身だった。
それで諦める盛遠ではなく、盛遠は太刀を抜き叔母の衣川に「袈裟御前を女房にせん」と迫まった。
衣川はこの出来事の一部始終を袈裟に話し、いずれ盛遠は私を手に掛けるだろうから、それよりは愛しい袈裟の手に掛かる方が本望、「ひと思いに私を突き殺しておくれ」と懇願します。
思わぬ出来事、成りゆきに思い悩み、袈裟は年老いた母の命を守るためと会うことを伝えるが、対面した盛遠は会うだけでは収まりきらず迫まった。
困り果て進退窮まった袈裟は一計を案じ、実は渡とは不仲であると、心にもない作り話を語り、「今宵、渡に髪を洗わせ、酒を飲まして寝かせるので、濡れ髪を探って首をお討ち下さいませ」と伝た。
そう告げる袈裟に、自分の思いがようやく通じたのだと無邪気に喜ぶ盛遠。袈裟との約束どおり、八つの鐘が鳴ると早速、渡辺の屋敷に忍び込み、暗がりの中、濡れた髪を探って首を討ち、着物にくるんで持ち帰った。
しかし何としたことか。盛遠は自分の犯した過ちに気づいた。その首は、夫の渡のものではなく愛しい袈裟の首であった。それは苦しむ袈裟の凛々しい決断だった。渡に酒を飲ませた後、袈裟は自らの髪を濡らして、自分が渡の寝所に入ったのだ。
袈裟のこの決意を目の当たりにして、ようやく盛遠も自分の罪深さを知り、渡辺の屋敷に取って返すと、静かにこれまでのいきさつを告げ、自分を裁き、殺してくれと渡に刀を差し出した。渡はひどく驚き、顔色を失ったが、やがて、「今更、そなたを裁いたところで何になろう。私は出家する。僧となって、袈裟の供養をして一生を過ごそう。それで少しでも袈裟の魂が安らぐのなら、それが私の幸せだ」
と、髪を下ろした。それを見た盛遠は、渡の心の深さと、袈裟への愛情に心を打たれた。盛遠は自らも髪を切り捨て出家した。
やがて盛遠は『文覚』と名を改め、文覚は袈裟の眠る場所に寺院を建立したという。
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文覚をこそ打たんずる者
もうひとつ、強気の西行。これも有名な話だが、文覚の西行にも似た独特の個性との対峙という場面が話を面白くしている。
「西行」高橋英夫著 岩波新書 より
頓阿「井蛙抄(せいあしょう)(巻六)」よりの引用で、
「心源上人語りて云はく、文覚上人は西行を憎まれけり。そのゆえは、遁世の身とならば、一筋に仏道修行の外他事あるべからず、数寄(すき)を立ててここかしこにうそぶき歩く条、憎き法師なり、いづくにて見合いたらば頭を打ちわるべきよし、常のあらましにてありけり。」
文覚の弟子たちは、西行名の知られた名人、そんなことをしたら大変なことになると心配をしていた。そこへ西行が高尾の法華会にやってきたので、弟子はなんとか文覚上人には知らせまいとした。しかし西行はその裏をかいたように庭から入って案内を乞い、あっさり両人は顔をあわせてしまった。
「上人内にて手ぐすねを引いて、思ひつる事叶ひたる体にて、明り障子を開けて待ち出でけり。しばしまもりて、「これへ入らせ給え」とて入れて対面して、年頃承り及び候ひて見参に入りたく候ひつるに、御尋ね悦び入り候ふよしなど、ねんごろに物語りして、非時(次の「斎(とき)」ともに僧侶の食事)など饗応して、次の朝又斎などすすめて帰されけり。弟子達手を握りつるに、無為に帰しぬる事悦び思ひて、「上人はさしも西行に見合ひたらば、頭打ちわらんなど、御あらまし候ひしに、ことに心閑かに御物語候簸つる事、日頃の仰せには違いひて候ふ」と申しければ、「あら言ふ甲斐なの法師どもや。あれは文覚に打たれんずる面やうか。文覚をこそ打たんずる者なれ」と申されけると云々。」
文覚が西行のことを、「遁世の身とならば、一筋に仏道修行の外他事あるべからず、数寄(すき)を立ててここかしこにうそぶき歩く条、憎き法師なり」、出家しているのに仏道修行にはげまないで、数寄をかこってあっちこっち歩いて歌を詠っている、ふとどきな僧である、といっているのが当たっているだけに面白い。当然、西行のことをそういう風に見る向きもあり得るだろう。西行と似た者同士のような文覚がそういっているが、近親憎悪のようにも思う。
そのような文覚だか、西行に負けず劣らず、波乱万丈の人生を送ったようだ。北面の武士出身で出家するところまでは西行と同じだが、西行はまったく非政治的人間、ノンポリだったのに対し、文覚は頼朝などの権力中枢に取り入り、政治的な動きをしていたようだ。それが元で政争に巻き込まれ、伊豆や佐渡に流されたりした。最期は対馬に流される道中で客死したという。
もうひとつ、 文覚出家の原因が、同僚の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことにある、というのだ。(『源平盛衰記』)
こういう激しい男もいるものだと思うが、話が面白いのでちょっと長いが、左の欄に紹介する。文覚の変態ストーカーぶりがすざまじい。衣川や袈裟御前や渡の対応が、いかにも作りものっぽい。文覚と袈裟御前のどういう関係から、このような展開になるのか。話としてはいろいろな状況が想像できて面白いが、事実かとなると疑問が多い。『源平盛衰記』作者の全くの作り話なのか、文覚にもそのきっかけとなるようなドラマがあったのだろうか。
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「江の島弁財天道標と西行もどり松」
「西行のもどり松」 。この松が1000年近くたっているとは思われない。
本蓮寺の門。もとはこのあたりにあったらしい。 |
湘南江ノ島の「西行戻り松」
湘南モノレールの終点。湘南江ノ島駅の近く、本蓮寺の前の通りに面して「西行戻り松」がある。平安・鎌倉時代の話にしては、松の木が細く小さい。
案内板には次のようにある。
「江の島弁財天道標と西行もどり松
杉山検校が建てた道標のうち、この道標には「西行もどり松」と刻まれています。もどり松は、見返り松、ねじり松とも呼ばれ、枝はが西に傾いているのが特徴です。昔、西行法師が東国に下った際、この松の枝ぶりの見事さに都恋しくなり思わず見返って枝を西にねじったと伝えられています。また、法師がこの松で出会った童に行く先をたずねたところ、「夏枯れて冬ほき草を刈りにいく」と麦刈に行くことを歌で答えたので、恐れをなした法師は歌行脚をやめて都へ引き返したともいわれています。もとは本蓮寺の門の脇にあったものです。
平成五年二月 藤沢市教育委員会」
「枝はが西に傾いているのが特徴」というが、この松はとてもそんな風には見えない。ただ幹が途中で左に傾いているが、この方向が西なのだろうか。
この看板の説明では、都が恋しくて帰りたがっている西行と、童の歌に恐れをなして都へ帰った西行とがいる。これは何を意味しているのだろう。
松が西に曲がっていてどうして西に帰りたいとなるのか、童のどうでもよいような歌で西行ともあろう人がどうして恐れをなして引き返さなくてはならないのか。この種の言い伝えは、よくわからないことが多い。
都から来たそれなりの貴人の流離・流寓にまつわる話、地方の土着民と都から来た異人との関係の話、これらには何かドロドロした深い関係性が潜んでいるようだ。この話の続きは、「松島の西行戻し松」で。
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松島の「西行戻しの松」 。西行戻し松公園の中にあり、ここからの松島の景色は一見の価値あり。
「西行戻しの松」は、地元の地霊との交流と和解のかたちか、うとまれる英雄の宿命か。
西行戻し松公園から見た松島。
西行は、平泉の藤原氏を訪ねる途中で松島に寄ることがあったのだろうか。せっかく陸奥にまで来たのだから松島へ立ちよった可能性は十分にありそうだ。
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松島の「西行戻しの松」
西行は平泉の途中、松島にも立ち寄ったのだろうか。松島海岸駅の裏山に「西行戻し松公園」がある。ここでも「西行戻し」の伝説があるようだ。
案内板には次のようにある。
「西行戻しの松
歌人西行(1118〜1190)がこの地にて「月にそふ桂男(かつらおとこ)のかよひ来てすすきはらむは誰が子なるらん」と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて「雨もふり雲もかかり霧も降りてはらむすすきは誰れが子なるらん」と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業をしているのかと聞くと「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味がわからなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。西行に関するこのような伝説は各地にあり、古くから語り継がれている。(*桂男=美男子 *業=仕事 *冬萌(ほ)きて夏枯れ草=麦)
平成17年6月 松島町教育委員会 」
歌聖とまでいわれる西行が、「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈りにいくといったような、歌とも戯言ともつかないような童のことばに、どうして恐れをなして引き返すといった伝説が残るのか。
高橋英夫著「西行」(岩波新書)では、「西行伝説」の章で、柳田国男の「伝説」(岩波新書)の結びの記述を引いて、つぎのようにいっている。
「たとへば宗祇戻りや西行法師閉口の歌のように、行脚の歌人が牛飼童、又はあやしの賤(しず)の女(め)と問答して、田舎にも知恵の秀でた者があるのに喫驚し、高慢の鼻をへし折られたといふ話などは、今でもその田舎の人が楽しんで聞いている。是は謡曲の「白楽天」が小国の文才を試みに来たという話も同系で、多くは土地の神祗が仮に児女老翁に姿を現じて、外の侮りを防いでくだされた・・・」とし、西行の場合は貴人というほどでもないので、貴種琉離譚の主人公ではなく「見る人」、「見者の流離」だった。笑われる西行は、地霊もしくはその化身としての土地の幼児や女から笑われることで、自らはかりそめに衆庶のレヴェルに立ち、土地との和解をもたらした、という。
だが、西行は貴種でもなく地元の人々の側にもたっていない。西行はどちらからも自由である自由な見者、だというのだ。
うぅーん、これはわかったようでよくわからない。
そこでもうひとつ。
吉本隆明は「西行論」・「僧形論」のなかで次のようなヒントを記している。
「英雄の本質的な特性は、猛々しさにあるというよりも、<うとまれる>というところにあった。西行は、この系列の伝説では、鳥羽院の中宮に想いを懸けて、むくいられず出家遁世してしまう。中宮は、ただ西行が、勝手に自分に恋を寄せ、自滅してしまうのを惜しんで、西行に遇う機会を与えてやる。「盛衰記」(源平盛衰記)のなかでは、一夜だけの契りさえ与える。また、「お伽草子」では、後になって僧形の西行と歌の応答をとげることにもなっている。けれど、貴種の女から同情をよせられるという説話こそが<うとまれる>ことの本質であった。」
うぅーん、やはりよくわからない。
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西行には不思議な伝説が多いが、中でも高野山での「人造人間」はその白眉。どうしてこんな伝説が伝わったのか。まことに興味深い。
「撰集抄」により西鶴が画いた図版
http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/event/tenji/2002/tokusyu/saigyo/saigyo.html
より
「撰集抄」は、芭蕉の時代には西行作と信じられていたようだが、現在では、西行作でないことが分かってきた。その「撰集抄」に上のような摩訶不思議な記述がある。西行が人造人間をつくろうとして失敗したというのだが、これが何を意味するのか、不思議なことである。
右の記述を要約すると次のようになる。
高野山の奥に住んでいたころ、月の夜には友人の西住上人と奥の院の橋の上へ行き、ともに月をながめたりしていたが、彼は『京に用事があるから』と、情けなくも私を捨てて都へ上ってしまった。憂き世を厭いながら花や月の情趣をともにすることができる友が恋しくなり、思いがけず、鬼が人骨を取り集めて人を作るように、人間を造ってみようとおもいたった。信頼できる人から作り方のあらましを聞いていたので、そのとおりに、野原に出て拾った骨を並べ連ねて造ったが、人の姿に似てはいても、色も悪く、なによりも心がなかった。声は出るものの絃管を鳴らすかのようだった。まこと、人はその心があればこそ、とにもかくにも声を使うことができる。声を出すだけだから吹き損じた笛のようだった。
おおかたこんなふうだったが、さて、どう始末しようか。破壊するのは人殺しになるのだろうか。心がないから草木と同じとも思えるが、姿は人間である。
破壊しないわけにはいかないだろうと、高野の奥の人も通わないところに捨てた。もし偶然に人が見かけたら、化け物と思って恐れるだろう。
どうして失敗したのか不審でならなかったので、あるとき都に出向いたおり、作り方を教わった徳大寺を訪ねた。参内なさって留守のため空しく退出したが、次に伏見の前の中納言師仲の卿のところへ行き、こちらは面会して質問することができた。
「どのように造ったのかね」とおっしゃるので 「そのことですよ。広野に出て、人の見ないところで死人の骨を取り集めて、頭から手足まで間違えずに並べておいて、砒霜(ひそう)という薬を骨に塗り、いちごとはこべの葉を揉み合わせた後、藤の若芽などで骨を括って、水でたびたび洗いしました。頭の髪の生えるべきところには、さいかいの葉とむくげの葉を灰に焼いて付けました。土の上に畳を敷いて骨を伏せ、風の通らないようにしつらえて27日置いてから、その場所に行って沈(じん)と香(こう)を焚いて反魂(はんごん)の秘術を行いました」。
「おおかたはそんなものでしょう。反魂の術を行うにはまだ日が浅いな。私は四条の大納言の流儀を伝授されて、人を作ってきた。大臣に出世している者もあるが誰とは明かせない。明かすと、作った者も作られたれた者も消滅してしまうから、口に出せない。あなたも人作りのことを知っているようだから、教えてあげよう。香は焚かないこと。なぜなら、香には魔縁を遠ざけて聖衆(しょうじゅ)を集める徳があるから。ところが聖衆は生死を深く忌むので、心が生じさせるのは難しい。沈(ぢん)と乳(ち)を焚くとよいだろう。また、反魂の秘術を行う人は、7日間ものを食ってはならない。そのようにして造れば、たがわずうまく作れるだろう」という。
ではあるが、いろいろと思い返してみるとつまらない気がしてきて、その後は人を作ることはなかった。
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西行、人造人間をつくる?
『撰集抄』岩波文庫
巻五 第一五 「西行於高野奥造人事」(西行高野の奥に於いて人を造る事)
「おなじき比、高野の奥に住みて、月の夜ごろには、ある友達の聖ともろともに、橋の上に行あひ侍りてながめ/\し侍りしに、此聖、「京になすべきわざの侍る」とて、情なくふり捨て登りしかば、何となう、おなじ憂き世を厭ひし花月の情をもわきまへらん友こひしく侍りしかば、思はざるほかに、鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ/\語り侍りしかば、そのまゝにして、ひろき野に出て、骨をあみ連らねてつくりて侍りしは、人の姿には似侍れども、色も悪く、すへて心も侍らざりき。声はあれども、絃管の声の如し。げにも、人は心がありてこそは、声はとにもかくにも使はるれ。ただ声の出べきはかり事ばかりをしたれば、吹き損じたる笛のごとくに侍り。
おほかたは、是程に侍るも不思議也。さて、是をばいかがせん、破らんとすれば、殺業(せつごう)にやな侍らん。心のなければ、ただ草木と同じかるべし思へば、人の姿也。しかじ敗らざらんにはと思ひて、高野の奥に人も通はぬ所に置きぬ。もし、おのづからも人の見るよし侍らば、化物なりとやおぢ恐れん。
さても、此事不審に覚て花洛にい出侍りし時、教へさせおはしし徳大寺へまいり侍りしかば、御参内の折節にて侍りしかば、空く帰りて、伏見の前の中納言師仲の卿のみもとに参りて、此事を問ひ奉りしかば、「なにとしけるぞ」と仰せられし時、「その事に侍り。広野に出て、人も見ぬ所にて、死人の骨をとり集めて、頭より手足の骨をたがへでつづけ置きて、砒霜(ひさう)と云ふ薬を骨に塗り、いちごとはこべとの葉を揉みあわせて後、藤もしは絲なんどにて骨をかかげて、水にてたびたび洗ひ侍りて、頭とて髪の生ゆべき所にはさいかいの葉とむくげの葉とを灰に焼きてつけ侍り。土の上に、畳をしきて、かの骨を伏せて、おもく風もすかぬようにしたためて、二七日置いて後、その所に行きて、沈と香とを焚きて、反魂(はんごん)の秘術を行ひ侍りき」と申侍りしかば、「おおかたはしかなん。反魂の術猶日あさく侍るにこそ。我は、思はざるに四条の大納言の流を受けて、人をつくり侍りき。いま卿相にて侍れど、それとあかしぬれば、つくりたる人もつくられたる物も失せぬれば、口より外には出ださぬ也。それ程まて知られたらんには教へ申さむ。香をばたかぬなり。その故は、香は魔縁をさけて聖衆をあつむる徳侍り。しかるに、聖衆生死を深くいみ給ふほどに、心の出くる事難き也。沈と乳とを焚くべきにや侍らん。又、反魂の秘術をおこなふ人も、七日物をば食ふまじき也。しかうしてつくり給へ。すこしもあひたがはじ」とぞ仰せられ侍り。しかれども、よしなしと思ひかえして、其後はつくらずなりぬ。・・・」
(「人造人間」は、「高野山の西行」ページからのコピーである。)
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