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高野山の西行


高野山・奥の院への橋

高野山
 空海=弘法大師は、平安時代初頭に唐にいき、長安の青龍寺で恵果(けいか)から密教を学び、日本に帰国後、真言宗を開いた。高野山金剛峯寺はその総本山。
 空海は、密教のみが悟りの境地へ深達するための真実門であるとして、東寺を都における活動の場の中心にして真言密教を広めた。
 密教は、 師が弟子に対して教義「秘密の教え」を口伝するスタイルの仏教で、西行は台密(天台宗の密教)と東密(真言密教)の両方を学ぶ機会があり、高野山での真言密教にひかれていったようだ。それで、西行は高野山で真言密教を学んだのだろうか。そういう風はあまり見られない。高野山での西行は何をしていたのだろうか。

西行、高野山に入る 

 保延六年、1140年、佐藤義清(のりきよ)23歳、現行暦の12月3日、出家する。以降、西行と名のる。藤原頼長の日記『台記』によれば、「俗時より心を仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世」し、人々はその出家を嘆美したという。
 出家後は、鞍馬寺に身を寄せたり、東山に寄住したり、24歳の時には嵯峨に草庵を結んだ。
 25歳の時には、一品経(いっぽんきょう:「法華経」を28人の人士が28章を分担して書経する)書写を勧進した。
 26歳のときには、初回の奥州の旅に出、29歳のときには、吉野山に草庵を結んだようだ。

 西行、32歳、高野山に入山する(山家集)。以降30年ほどここを拠点とする。この間、吉野や京や四国にたびたび足を運んでいる。必ずしも高野山での厳しい修行に明け暮れたわけではないようだ。

 西行は、「俗時より心を仏道に入」れているが、どういう内容の仏道かはさだかではない。仏道遍歴について次のような説明がある。

 「ここで西行の仏教思想がいかなるものであったのかを概略見ておきたい。出家直後に身を寄せたと考えられる東山の寺(長楽寺、雙林寺)や鞍馬寺は当時は比叡山延暦寺の系統で、 したがって西行はまず台密(天台宗の密教:心を集中して法を観ずる止観を重視する)を身につけようとしたのだが、その後に移ったとみられる嵯峨・法輪寺は真言宗である。川田順はこれ以後に西行の関係した寺院はすべて真言宗であったといっている(「西行研究録」創元社、昭和15年)。興福寺、仁和寺、醍醐寺、初瀬寺(長谷寺)、紫金台寺、さらに熊野も高野山も伊勢菩提山も、入寂の地弘川寺もそうである。四国の旅では、善通寺はじめ弘法大師のあとを巡歴している。これは台密から東密(真言宗東寺の密教、真言呪法による即身成仏を求める)に転じたと考えられよう。」(「西行」高橋英夫著、岩波新書)

 高橋氏は、天台宗の根本経典である法華経が「山家集」に17首、「聞書集」に34首にみられ、同様に真言密教の歌も色濃くみられるという。さらに、浄土宗に帰着する内容の作も、「地獄絵を見て」連作など、多数あるという。
 仏教思想においては、諸宗が混在しているというのが西行歌の特徴といえそうだが、大筋のところでは、西行には真言密教への関心と浄土信仰への傾斜の二つの特徴があるといわれている。

 西行は、吉野から大峯山・熊野に修験道の修行もしている。かなり厳しく苦しい、いじめに近い修行だったようだが、西行は二度も挑戦し、やり遂げている。修験道の修行においても、西行の本気度がわかる。

 西行は、高野山に30年過ごした後、晩年は伊勢の二見浦に庵を結び、歌を通じて伊勢神宮とも深い関係をもつことになる。この頃の西行には本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の思いが深かった。この垂迹説は、仏が現実の世界では神という姿形をとって現われるというもので、西行の「思へば神も仏なりけり」 の歌が有名である。

 西行は当時の知識階層の最高の文化・美術であり思想であった仏教に対する興味関心があっただけで、宗教や宗派の細かな内容の違いに拘泥する趣味は持ち合わせていなかった。興味があれば修験道の山伏たちとも修行を共にし、神仏習合の本地垂迹説にも魅かれた。これが西行の生きざまだった。出家していながら、どっちつかずの優柔不断な態度でよいのかともいえるが、宗教からの自由、これが自由歌人西行の本領だったといえるのではないか。
 武人・僧・歌人として、時代のしがらみから自由に生きる、これが西行らしい生き方なのではないか。武人としては、源頼朝に弓馬の術を教えるほどの腕だったし、歌人としては当時の超一流歌人の藤原俊成・定家をうならせるほどだったが、僧形としてはほとんど西行の名を残していない。


金剛峯寺へのアプローチ

金剛峯寺の本堂

 

高野山の西行

 西行はなぜ高野山に入ったのか。
 西行は、僧としての身分はそんなに高いわけではなかった。西行は、壇場伽藍(だんじょうがらん)の一隅の三昧堂で起臥したとされるが、西行はこういう高野山の中心部にいたのでも、谷たにで集団を形成していた聖たちと同居したのでもなく、「幽寂な草庵」で静かにくらしていたのではないかとみられている。
 学問僧ではなかった西行は、東密の奥義を究めようというのではなかったようだ。西行の関心は、密教の他、浄土宗、修験道、神道、本地垂迹(すいじゃく)思想など、多方面にわたっていて、興味関心の趣くまま、自由にそれらに接していたようだ。

 西行は、高野山で、整備や設営のための活動をしている。その多くは勧進活動である。西行は、高野山に蓮華乗院(れんげじょういん)勧進、造営にも加わった。
 また、紀伊の日前宮(ひのくまのみや)造営のために高野山に課せられた負担金が、西行の奔走により免除された。西行が時の最高権力者である平清盛に負担金免除の懇願の手紙を出し、その願いがかなえられたためだ。
 西行と清盛は、鳥羽院の北面の武士として同僚だった。どういう関係かはさだかではないが、西行が出家してからも清盛にそのようなお願いができるという間柄だったようだ。時の最高権力者との人脈、これは他人には真似のできない、出家者西行の強みだった。

 また、仏道に入ったからといって、和歌の道を絶ったわけではない。歌の道も思いっきり自由に活動していた。この時期、西行は多数の歌を残している。むしろ、高野山に入って数寄の道にも磨きがかかってきた。この時期を通じて歌僧西行がかたちづくられたといえそうだ。

 高野山時代に西行が詠んだ歌をあつめてみた。

もの思ふ 心のたけぞ 知られぬる 夜な夜な月を ながめあかして (624)
ともすれば 月すむ空に あくがるる 心の果てを 知るよしもがな (647)
 同行に侍りける上人、例ならぬこと大事に侍りけるに、月の明かくてあはれなりければ、詠みける
もろともに 眺め眺めて 秋の月 ひとりにならん ことぞ悲しき (778)
とふ人も 思ひ絶えたる 山里の さびしさなくば 住み憂からまし (937)
ひとり住む 庵に月の さしこずば なにか山辺の 友にならまし (948)
 大峰の深仙と申す所にて、月を見て詠みける
深き山に すみける月を 見ざりせば 思ひ出もなき わが身ならまし (1104)
 三重の滝を拝みけるに、ことに尊くおぼえて、三業の罪もすすがるる心地しければ
身に積る 言葉の罪も 洗はれて 心澄みぬる 三重(みかさね)の滝 (1118)
心から 心にものを 思はせて 身を苦しむる わが身なりけり (1327)
 無常の歌あまた詠みける中に
いづくにか 眠り眠りて たふれ伏さんと 思ふ悲しき 道芝の露  (844)
 観心

闇晴れて 心の空に すむ月は 西の山辺や 近くなるらん (876)
いかでわれ 清く曇らぬ 身になりて 心の月の 影を磨かん (904)


 高野山での親しい友人に西住がいる。西行とは出家前からの元武士の友人で、育ちも顔も似ていたようだが、名前も尋常でなく似ている。高野山でもかなり親密な間柄だったようだ。次のような歌を詠んでいる。

 高野の奥の院の橋の上にて、月明かかりければ、もろともにながめ明かして、その頃、西住上人京へ出でにけり。その夜の月忘れ難くて、また同じ橋の月の頃、西住上人の許へ言ひ遣はしける
こととなく 君恋ひわたる 橋の上に あらそふものは 月の影のみ (1157)
 えへし         西住
思ひやる 心は見えで 橋の上に あらそひけりな 月の影のみ


 西住は元武士だが、西行とは恋人のような親しい関係だったことがうかがえる。高野山の橋の上で、睦ながら月を愛でていたことを懐かしんでいる。


「撰集抄」により西鶴が画いた図版
http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/event/tenji/2002/tokusyu/saigyo/saigyo.html  より

 

西行、人造人間をつくる?

『撰集抄』岩波文庫
巻五 第一五 「西行於高野奥造人事」(西行高野の奥に於いて人を造る事)

 「おなじき比、高野の奥に住みて、月の夜ごろには、ある友達の聖ともろともに、橋の上に行あひ侍りてながめ/\し侍りしに、此聖、「京になすべきわざの侍る」とて、情なくふり捨て登りしかば、何となう、おなじ憂き世を厭ひし花月の情をもわきまへらん友こひしく侍りしかば、思はざるほかに、鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ/\語り侍りしかば、そのまゝにして、ひろき野に出て、骨をあみ連らねてつくりて侍りしは、人の姿には似侍れども、色も悪く、すへて心も侍らざりき。声はあれども、絃管の声の如し。げにも、人は心がありてこそは、声はとにもかくにも使はるれ。ただ声の出べきはかり事ばかりをしたれば、吹き損じたる笛のごとくに侍り。
 おほかたは、是程に侍るも不思議也。さて、是をばいかがせん、破らんとすれば、殺業(せつごう)にやな侍らん。心のなければ、ただ草木と同じかるべし思へば、人の姿也。しかじ敗らざらんにはと思ひて、高野の奥に人も通はぬ所に置きぬ。もし、おのづからも人の見るよし侍らば、化物なりとやおぢ恐れん。
 さても、此事不審に覚て花洛にい出侍りし時、教へさせおはしし徳大寺へまいり侍りしかば、御参内の折節にて侍りしかば、空く帰りて、伏見の前の中納言師仲の卿のみもとに参りて、此事を問ひ奉りしかば、「なにとしけるぞ」と仰せられし時、「その事に侍り。広野に出て、人も見ぬ所にて、死人の骨をとり集めて、頭より手足の骨をたがへでつづけ置きて、砒霜(ひさう)と云ふ薬を骨に塗り、いちごとはこべとの葉を揉みあわせて後、藤もしは絲なんどにて骨をかかげて、水にてたびたび洗ひ侍りて、頭とて髪の生ゆべき所にはさいかいの葉とむくげの葉とを灰に焼きてつけ侍り。土の上に、畳をしきて、かの骨を伏せて、おもく風もすかぬようにしたためて、二七日置いて後、その所に行きて、沈と香とを焚きて、反魂(はんごん)の秘術を行ひ侍りき」と申侍りしかば、「おおかたはしかなん。反魂の術猶日あさく侍るにこそ。我は、思はざるに四条の大納言の流を受けて、人をつくり侍りき。いま卿相にて侍れど、それとあかしぬれば、つくりたる人もつくられたる物も失せぬれば、口より外には出ださぬ也。それ程まて知られたらんには教へ申さむ。香をばたかぬなり。その故は、香は魔縁をさけて聖衆をあつむる徳侍り。しかるに、聖衆生死を深くいみ給ふほどに、心の出くる事難き也。沈と乳とを焚くべきにや侍らん。又、反魂の秘術をおこなふ人も、七日物をば食ふまじき也。しかうしてつくり給へ。すこしもあひたがはじ」とぞ仰せられ侍り。しかれども、よしなしと思ひかえして、其後はつくらずなりぬ。・・・」

 「撰集抄」は、芭蕉の時代には西行作と信じられていたようだが、現在では、西行作でないことが分かってきたようだ。その「撰集抄」に上のような摩訶不思議な記述がある。西行が人造人間をつくろうとして失敗したというのだが、これが何を意味するのか、不思議なことである。
 記述を要約すると次のようになる。

 高野山の奥に住んでいたころ、月の夜には友人の西住上人と奥の院の橋の上へ行き、ともに月をながめたりしていたが、彼は『京に用事があるから』と、情けなくも私を捨てて都へ上ってしまった。憂き世を厭いながら花や月の情趣をともにすることができる友が恋しくなり、思いがけず、鬼が人骨を取り集めて人を作るように、人間を造ってみようとおもいたった。信頼できる人から作り方のあらましを聞いていたので、そのとおりに、野原に出て拾った骨を並べ連ねて造ったが、人の姿に似てはいても、色も悪く、なによりも心がなかった。声は出るものの絃管を鳴らすかのようだった。まこと、人はその心があればこそ、とにもかくにも声を使うことができる。声を出すだけだから吹き損じた笛のようだった。
 おおかたこんなふうだったが、さて、どう始末しようか。破壊するのは人殺しになるのだろうか。心がないから草木と同じとも思えるが、姿は人間である。
 破壊しないわけにはいかないだろうと、高野の奥の人も通わないところに捨てた。もし偶然に人が見かけたら、化け物と思って恐れるだろう。
 どうして失敗したのか不審でならなかったので、あるとき都に出向いたおり、作り方を教わった徳大寺を訪ねた。参内なさって留守のため空しく退出したが、次に伏見の前の中納言師仲の卿のところへ行き、こちらは面会して質問することができた。 「どのように造ったのかね」とおっしゃるので 「そのことですよ。広野に出て、人の見ないところで死人の骨を取り集めて、頭から手足まで間違えずに並べておいて、砒霜(ひそう)という薬を骨に塗り、いちごとはこべの葉を揉み合わせた後、藤の若芽などで骨を括って、水でたびたび洗いしました。頭の髪の生えるべきところには、さいかいの葉とむくげの葉を灰に焼いて付けました。土の上に畳を敷いて骨を伏せ、風の通らないようにしつらえて27日置いてから、その場所に行って沈(じん)と香(こう)を焚いて反魂(はんごん)の秘術を行いました」。 「おおかたはそんなものでしょう。反魂の術を行うにはまだ日が浅いな。私は四条の大納言の流儀を伝授されて、人を作ってきた。大臣に出世している者もあるが誰とは明かせない。明かすと、作った者も作られたれた者も消滅してしまうから、口に出せない。あなたも人作りのことを知っているようだから、教えてあげよう。香は焚かないこと。なぜなら、香には魔縁を遠ざけて聖衆(しょうじゅ)を集める徳があるから。ところが聖衆は生死を深く忌むので、心が生じさせるのは難しい。沈(ぢん)と乳(ち)を焚くとよいだろう。また、反魂の秘術を行う人は、7日間ものを食ってはならない。そのようにして造れば、たがわずうまく作れるだろう」という。ではあるが、いろいろと思い返してみるとつまらない気がしてきて、その後は人を作ることはなかった。

 



西行の不思議な生態

 「人造人間」は西行伝説のひとつだが、それが何を意味しているのかよくわからない。上の文章では、親しい「友が恋しく」なって、ということになっているが、高野の山奥の草庵の生活が「寂しい」とか「友が恋しくなり」とかいうことが、「人造人間」の理由になるとは思われない。寂しくなければ、草庵の生活はつまらないなどともいっている西行だから、それはないだろう。武術に優れ、今様や楽器の演奏に才能を発揮し、歌も並外れてうまいし、女性にももてる。そういう多才な西行なら「人造人間」くらい上手に作ってしまうのではないか、ということだろうか。諸芸に通じ、歌のうまい西行へのやっかみや揶揄といった感じもするが、後世の人は、いろいろなことを考えるものである。

 芭蕉や西行は漂白の詩人の系統だが、彼らの生活についてもいろいろ不思議なことがある。芭蕉は、俳諧のお師匠さんだから、当然、弟子や門人の差し入れや連中からの供応などはあっただろう。おさんどんも弟子や家人が入れ替わり立ち代りやってきては世話をしていたようだ。それで生活をつなぐことも出来たのだろう。(芭蕉は51歳で逝ってしまったが、生涯の粗食が早逝の原因だともいわれている。) 芭蕉は酒や飯についても、多少自虐的だがけっこう句にしている。深川隠棲時代の侘びつくした生活は、渋い句を生んでいる。芭蕉の句によって、いくらかなりとも生活の様子を想像できる。

 だが、西行がわからない。出家してから西行はどうやって生計を立てていたのだろうか。3度の食事支度や掃除・洗濯などはどうしていたのだろう。西行が自分でやっていたとはとても考えられない。かといって、お手伝いさんを雇っていた形跡もない。弟子のような人たちが付いて面倒をみていたかもしれないが、はっきりとした記述はない。家が荘園領主だから、そちらからの仕送りや支援がいろいろあったのだろうか。

 そもそも西行には、妻や子供など家族についての歌がない。家族だけではなく親族や田仲の荘の郷里についての歌もない。西行の生活の実相を表現した歌もない。家族や生活や郷里などは、職業的歌人が詠む歌の対象には成りえないということなのだろうか。確かに、西行は歌聖だが、こういう西行はやや気になる。表現者は表現したもののみで勝負する。それ以外は、私的な心情や感情の対象ではあっても、表現の対象ではない、ということだろうか。

 芭蕉も西行も俳聖であり歌聖である。つまらない生活のことなど句や歌にはしないし、家族や夫婦・子供・近親縁者との関係も歌の中では触れない。「撰集抄」の中で、西行がたまたま訪れた長谷寺で出家後に初めて尼になった妻と出会う場面がある。このあたりも、作者の、あまりにも妻子と疎遠な態度の西行をフォローするような意図があったのではないか、という説もある。
  そのあたりのことに触れないのが、数寄者の数寄者たる由縁であり、生き方だったか。要するに、西行の数寄が向かう対象は西行が興味関心を示すものだけ、ということである。西行が歌うテーマは、雪月花であり、とりわけ桜の花や月への思い入れは深い。そして、人の世の空しさであり、草庵遁世であり、漂白の旅であり、揺れ動き執着する心の有り様であり、いとしい女性への思いである。これは何を意味するのだろうか。現代であれば、仕事からは逃避し、家庭も維持できず、生活能力はほとんどないが、女性にはけっこうもて、歌はめっぽううまく、芸事にも達者な自己中的数寄者、といったところだろうか。このような西行は、ダメ男のひとつの典型なのか、それとも芸術表現者の理想的な生き様なのか。
 それにしても、才能のある人はうらやましい。芭蕉も西行もそれで食べていけるだけの卓越した天才を持っていた、ということである。それに引きかえ乏しい我が才能、何をやっても平凡、凡人の域を出ることがない。そういう人は、一生懸命に目の前の仕事をするしかないということであるか。

 
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