高野山の西行 |
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高野山・奥の院への橋 | |
高野山 |
西行、高野山に入る
保延六年、1140年、佐藤義清(のりきよ)23歳、現行暦の12月3日、出家する。以降、西行と名のる。藤原頼長の日記『台記』によれば、「俗時より心を仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世」し、人々はその出家を嘆美したという。 西行、32歳、高野山に入山する(山家集)。以降30年ほどここを拠点とする。この間、吉野や京や四国にたびたび足を運んでいる。必ずしも高野山での厳しい修行に明け暮れたわけではないようだ。 西行は、「俗時より心を仏道に入」れているが、どういう内容の仏道かはさだかではない。仏道遍歴について次のような説明がある。 |
金剛峯寺へのアプローチ 金剛峯寺の本堂 |
高野山の西行 西行はなぜ高野山に入ったのか。 西行は、高野山で、整備や設営のための活動をしている。その多くは勧進活動である。西行は、高野山に蓮華乗院(れんげじょういん)勧進、造営にも加わった。 また、仏道に入ったからといって、和歌の道を絶ったわけではない。歌の道も思いっきり自由に活動していた。この時期、西行は多数の歌を残している。むしろ、高野山に入って数寄の道にも磨きがかかってきた。この時期を通じて歌僧西行がかたちづくられたといえそうだ。 高野山時代に西行が詠んだ歌をあつめてみた。
高野の奥の院の橋の上にて、月明かかりければ、もろともにながめ明かして、その頃、西住上人京へ出でにけり。その夜の月忘れ難くて、また同じ橋の月の頃、西住上人の許へ言ひ遣はしける |
「撰集抄」により西鶴が画いた図版 http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/event/tenji/2002/tokusyu/saigyo/saigyo.html より |
西行、人造人間をつくる? 『撰集抄』岩波文庫 「おなじき比、高野の奥に住みて、月の夜ごろには、ある友達の聖ともろともに、橋の上に行あひ侍りてながめ/\し侍りしに、此聖、「京になすべきわざの侍る」とて、情なくふり捨て登りしかば、何となう、おなじ憂き世を厭ひし花月の情をもわきまへらん友こひしく侍りしかば、思はざるほかに、鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ/\語り侍りしかば、そのまゝにして、ひろき野に出て、骨をあみ連らねてつくりて侍りしは、人の姿には似侍れども、色も悪く、すへて心も侍らざりき。声はあれども、絃管の声の如し。げにも、人は心がありてこそは、声はとにもかくにも使はるれ。ただ声の出べきはかり事ばかりをしたれば、吹き損じたる笛のごとくに侍り。 「撰集抄」は、芭蕉の時代には西行作と信じられていたようだが、現在では、西行作でないことが分かってきたようだ。その「撰集抄」に上のような摩訶不思議な記述がある。西行が人造人間をつくろうとして失敗したというのだが、これが何を意味するのか、不思議なことである。 |
「人造人間」は西行伝説のひとつだが、それが何を意味しているのかよくわからない。上の文章では、親しい「友が恋しく」なって、ということになっているが、高野の山奥の草庵の生活が「寂しい」とか「友が恋しくなり」とかいうことが、「人造人間」の理由になるとは思われない。寂しくなければ、草庵の生活はつまらないなどともいっている西行だから、それはないだろう。武術に優れ、今様や楽器の演奏に才能を発揮し、歌も並外れてうまいし、女性にももてる。そういう多才な西行なら「人造人間」くらい上手に作ってしまうのではないか、ということだろうか。諸芸に通じ、歌のうまい西行へのやっかみや揶揄といった感じもするが、後世の人は、いろいろなことを考えるものである。 芭蕉や西行は漂白の詩人の系統だが、彼らの生活についてもいろいろ不思議なことがある。芭蕉は、俳諧のお師匠さんだから、当然、弟子や門人の差し入れや連中からの供応などはあっただろう。おさんどんも弟子や家人が入れ替わり立ち代りやってきては世話をしていたようだ。それで生活をつなぐことも出来たのだろう。(芭蕉は51歳で逝ってしまったが、生涯の粗食が早逝の原因だともいわれている。)
芭蕉は酒や飯についても、多少自虐的だがけっこう句にしている。深川隠棲時代の侘びつくした生活は、渋い句を生んでいる。芭蕉の句によって、いくらかなりとも生活の様子を想像できる。 そもそも西行には、妻や子供など家族についての歌がない。家族だけではなく親族や田仲の荘の郷里についての歌もない。西行の生活の実相を表現した歌もない。家族や生活や郷里などは、職業的歌人が詠む歌の対象には成りえないということなのだろうか。確かに、西行は歌聖だが、こういう西行はやや気になる。表現者は表現したもののみで勝負する。それ以外は、私的な心情や感情の対象ではあっても、表現の対象ではない、ということだろうか。 芭蕉も西行も俳聖であり歌聖である。つまらない生活のことなど句や歌にはしないし、家族や夫婦・子供・近親縁者との関係も歌の中では触れない。「撰集抄」の中で、西行がたまたま訪れた長谷寺で出家後に初めて尼になった妻と出会う場面がある。このあたりも、作者の、あまりにも妻子と疎遠な態度の西行をフォローするような意図があったのではないか、という説もある。 |
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photo by miura 2006.8 |