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俳句徒然日記2020年


2020年1月10日

今年またポピュリズム政治の風が吹く

一政党・一個人に権力が集中する独裁国家、ロシア・プーチン、中国・習近平、北朝鮮・金正恩。他にも権力を独裁的に運用する国はたくさんあるのだろう。
国家とは何だろう。国民の幸せな暮らしを目指すことが国家の目的なら、一政党や独裁者の保身や利益を優先する権力の行使は本末転倒だ。それを国家の利益のように騙るのは詐称である。自分のためにやることを、国家のためとか国民のためにとか、さも公共の利益であるかのように偽称するのは奢った権力者の常道だろう。平気で嘘を吐き散らすは人の道に反する恥ずべきことだ。
アメリカ・トランプ。今年もこの男の顔を見続けるのは辛い。格差社会の中で、自分は富裕・特権階級なのに、さも底辺労働者の解放者のようにふるまい、ナショナリックな自分と自国の利益第一主義を主張し、選挙で勝つことのみを目指してポピュリズムに訴える姿勢は、誰のための政治なのか、見るに堪えない。悲しいかなアメリカの将来は暗い。

 

1月12日

なぜかフィンランドの生き方が気になって

「危機と人類(上)」(ジャレド・ダイヤモンド著)「フィンランドの対ソ戦争」のフィンランドの冬戦争と継承戦争は考えさせられる物語だ。
第二次世界大戦、フィンランドはスターリン・ロシアの侵略を受けた。「冬戦争」である。西欧の民主主義国はどの国も、災いを恐れてフィンランドを助けなかった。フィンランドはやむを得ず、ナチス・ドイツの力を借りてロシアの侵略を跳ね返した。ロシアはドイツの侵攻をしのぎ反攻に転じた。全戦線でロシアの優勢が確定的になった時、ロシアは再度フィンランドを侵略し重要拠点を確保した。「継承戦争」である。第二次世界大戦が終わった時、フィンランドは戦勝国にはなれず、失われた領土はそのままロシアのものとなり、ロシアは戦勝国となった。戦勝国は誰も文句を言わなかった。
領土拡張指向の強いロシアの隣で、弱小国フィンランドの悲しくもたくましい生き方があった。 敗戦時のどさくさにまぎれ北方領土を取られてしまった日本は、ロシアとどう付き合えばよいのだろうか。

 

1月13日

AI・技術革新は何のため

ITの仕事に携わりながらも、AIブームには胡散臭いものを感じる。そうはいってもAI的なものはどんどん社会を侵食していくのだろう。格差を助長し雇用を奪うなど以外にも、弱い人間を破壊してしまうような恐怖を感じる。
いや、実感としてそもそもAIをあまり信用していないということがある。信頼できないAIが、さも合理的で効率の良いツールのような顔をして社会に普及してしまうという恐怖である。
だからAIは、人間の下で有用な助手として機能するツールにとどまるのがよい。

 

1月17日

なぜか陽水

ロバートキャンベルは陽水の名曲「傘がない」を I've got no umbrellaと英訳しようとした時、陽水が「no umbrella」でお願いします、といったという。 「私事よりも少し地平を広げ、割り切れない思いやその余白を歌う方が心に深く染みていくから」と言うのが理由のようだ。 なるほど、深い、さすが陽水。
それにしても陽水の詩は、なんとなく雰囲気は感じるのだが、よくわからない。だから余計に気になる。

陽水の高音が気になって春分の日
あの頃の心悲しや五月の別れ

 

1月20日

人生捨てたものではないか

人生それほど捨てたものではないと言い聞かせた冬の朝。

生きてある喜び踏みしめ霜の朝

不良で暗い部分、人間なんてららら?らららら?ら、そんなものでしょう。

アフガンの中村哲先生 1946年生まれ、3つ先輩。九州大医学部、登山と昆虫採取が趣味。 医療だけでは人は救えない。生活が成り立っていない。灌漑により農地を作り、農業と産業を起こそうとした。貧困、暴力、犯罪、テロは、若者に仕事がないからおきる。

アフガンの中村の柳青めりや
アフガンの中村堤や救世観音

 

2月2日

年寄りって意味なく生きる良いものだ


春日浴び意味なく生きるって良いものだ
春の日やはじめての靴でジョギング
おばちゃんに足元光ってるよと冷やかされ
ニユウシュウズうれしはずかしジョッギング

 

2月7日

なるほど100年単位の民主主義

1689年イギリス権利章典、
1789年フランス革命、
1889大日本帝国憲法、
1989年ベルリンの壁解放、天安門事件。
いわれてみれば、100年単位の政治体制の大きな揺らぎ。リベラルデモクラシーの現在、樋口陽一 立憲主義の世界展開

老人は本音を晒しても許されるのか それともでしゃばらずにおとなしくしているのが老人か。

 

2月11日

できの悪いわたしは、その理由を問うべきではなかったか

若い頃、頭の悪い奴が哲学にはまるとろくなことにならない、と誰かが言っていた。 これは本当だ、私がそうだったから。理解もできない、解決するすべもわからない。 もっと現実的な本を読んで技術や情報や知識を身に付けた方が実用的でよかったかもしれない。でも今の自分がどういう状態になっているのかそれはわからない。どうすればよかったのか、やはりわからない。それでよかったのかもしれない。

 

2月12日

もの思う大山

久しぶりの大山、どこまでいけるか、自分の体力と脚力を試してみる。蓑毛から大山山頂を目指す。苦しながらもなんとか登り終えた。次は下り。あんのじょう、膝はがたがた、蟹歩き。それでも下社まで来て、熱燗をいっぱい。

大山行き辛いを楽しむ古希の冬

ものを考えながら登るのか考えずに登るのか

左派ポピュリズムは、触発と情動の組織化が課題。理性と感情の組織化。

 

2月22日

今年また梅見る幸せ

何ものか生み出す力が求心力
おしっこがちょろちょろ止まらない梅見かな
難波紅千年の愉楽か昼ワイン
枝ごとのピンクと白か思いのまま

自由、平等、民主主義と連帯が価値である。
個人ではなく連帯を求めるのも自由。
平等と民主主義を求めるもの自由。
自由至上主義は他人の自由をはく奪し、よって破綻する。

2月29日

コロナの古稀

コロナ来て箱根温泉古希流れ
箱根山今日は雪らし古希祝い
子供らはコロナにおびえ古希寂し
子供らはどうも来ないらし箱根の古希
70のエピソードとともに古希越ゆる

 

3月2日

全国一斉、きっとよくないことが

今日から、小中高校が全国一斉に休校になるとのこと。なぜ、コロナ感染者が出ていない地域まで一斉に休校にしなければいけないのか。現実を考慮しないなんという軽薄、暴挙。このしっぺ返しは大きいぞ。
小学校は休校だが学童保育は続ける、幼稚園は閉鎖だが保育所はいいのだそうだ。なんといういい加減さ。

 

3月7日

芭蕉と西行、才能のある人の生き方


才能のない私は、身を粉にして働くしかない。仕事をしないと、生業に身を入れないと生きていけない。真善美に生きる生き方は遠い。庶民としての生き方、それで良いではないか。

死ぬまではただもう元気に古希祝い

Open mind style、自由を支え制御する規範、理性、倫理、精神、生きる理由、目的。金を欲望する。欲望の資本主義。

どうしても闘う香港に連帯を
事実を知らせる本屋さんに連帯を

 

3月20日

今年の花見

技術を管理し、企業活動と経済活動を管理する。人モノ金をコントロールする。だんだんどうでもよくなってきて、経営の仕事をしながら花見を楽しむ。

菜の花や働く母の城腰
コロナきて光り輝く桜かな
コロナきて今年の桜輝けり

 

3月27日

美味しいでしょは失敗だけどどう


ああいやだ首痛歯痛コロナの春
桜花コロナとともに散りにけり
ここに来てコロナの春となりにけり
人の世のおごりがまねくコロナの春
わが尿はちょろちょろ力なく情けなし

血圧を下げるオルメサルタン20ミリ
血液サラサラエリキュース
血管拡張ニフェジピン

 

3月29日

裏返りの志向性


励まし励まし我を励まし春の雪
ぼけ近し励まし励まし老いの春

弱い人を助け、反主流派の側に立つ傾向、人とは違った見方や感じ方をする傾向、文字を逆に読む傾向、どもりとの格闘、そういう傾向が小学校の頃からあったように思う。だからエリートにはならない、ヨイ子にはならない。秀才でもない。
だから古希になっても反主流派、反権力、反権威。そう言う性格はなおらない、そういうものだろう。でもそれって、裏返った志向性なのかも、怖い。

 

4月8日

お花見弁当はかかせない

骨曲り首曲がりの我にコロナかな
夢を語れないカナリアは首つるか
緊急事態でもかかせない花見哉
桜散り緊急事態宣言発令中
風流やお弁当にもサクラ散る
春風や寿司弁当に桜花
風流は桜吹雪のその中で
桜舞い我が人生もめくるめく
春風や桜吹雪のその中で
若き日に思いもよらぬ桜寿司

 

5月

わたしの人生こんなにステキなの?

フェイスブックで、近況報告をし合っているのは、何か違和感がある。 

フォイスブックは、「自分の経験を他者とシェアするツール」なのだという。「経験をシェアー」し、他社から「いいね」をたくさんもらい、自分って「いいね」って自己満足にしたる。でも、それは自分のしていることを他人の目で「いいね」と映るように行動していないか。自分の人生なのに。
とはいうものの、若い時の自分もそんな自意識過剰な生き方をしていたように思う。反省。でもなぜ反省なのだろう。 人の生き方などどうでもよいではないか。
だから、SNSはおじいさんにはあわない。

 

5月17日

不生不滅 不垢不浄 不増不減

スティーブ・ジョブズ、評判が悪く金と名誉に溺れ、傲慢でエキセントリック。そういう彼がシンプルさと機能美を求める。

老人は怖いものなしコロナの夏
コンビニに灰皿がなくて寂しい

チェ・ゲバラの絵柄のタバコを見つけた。つい買ってしまった。チェ・ブランコ(?)、メーカーもよくわからない。「タバコはアグリカルチャである」「ナチュラル」などのことばを言い訳に、今日もまたタバコを吸う。

5月

それはそれこれはこれの俳句かな

俳句はかって、フランス文学者の桑原武夫から俳句は「第二芸術」だとしていじめられた。その指摘は3つ。
(1)17文字では感情や思想の表現は無理。
(2)大家の作と 素人の作の違いがわかりにくい。
(3)同好者の芸事。
俳句作りに苦労したことのない人に俳句のことはわからないということもできるが、桑原の「俳句第二芸術論」は当たっていると思う。俳句は、まず作っている人が楽しめれば、よいのだろうと思う。それだけではなさけないかな。

6月8日

人は皆自分の正義を信じるが、真実は1つしかない。トランプにはトランプの真実と確信するものがあるが、それはトランプの妄想、虚妄でしかない。ほとんどの人はそう思っている。客観的な真実は一つしかない。

ガブリエルは、自然主義と科学主義的なものの見方を批判している。それから欲望の奴隷になり下がった資本主義。猿がコンピューターを操作してるイメージかな。

欲望の猿にも近きトランプかな
精神のない労働、欲望の資本主義。
そは6月初旬日曜日コロナの朝

決定論と自由意志の和解、これはまた別の課題。自由意志は物質的・動物的欲求決定論から自らを解放する。

 

6月13日

椿から梅桜を愛でて紫陽花かな
梅雨嵐紫陽花のあぜ道走りけり
暴風雨こんな日もある凍え紫陽花

 


6月20日

ズーラシア野菊の花の可愛げなれば
野菊の花の可愛げなれば老の夏
コロコロコロナは沈んで浮かぶ
おっさんだからそれがどうしたおっさん風

なぜコロナなのか。100年前にスペイン風邪が流行って、世界で多くの人が死んだ。人類500億年の歴史、いや1億年の歴史のなかで、ペストやスペイン風邪やコロナのようなDNAの突然的な変異により病原菌やウイルスによる大災害があったのだろうか。コロナは、人類もやはり逃れようもなく動物であり生物の一員であることを思い知らせてくれる。

7月19日

色っぽく、意気地があって、あきらめて

蓮の花向こうに睡蓮三渓園
生きとして生ける者に幸あれ
梅雨コロナ家内は生活わたしは仕事

媚態、意気地、諦め(九鬼周造 いきの構造)

143 能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和(にゅうわ)で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪(むさぼ)ることがない。(仏陀)

 

7月24日

田中まーくん、負けて追い込まれた時、意識が自分の弱さや悪いところに向いてしまう。それでは負けてしまう。意識を相手に集中し、負けない気持ちでぶつかっていく。勝ちに行く。そうしないと勝てない。まーくん、がんばれ。


8月2日

古来人の悩みは死後の世界
夏ジョグ辛さ暑さの修行かな
仏陀思えば死ぬまで修行かな
夏紫陽花我が身と同じ老醜かな
夏紫陽花見れば老醜我が身かな
夏の楽しみジョグ大汗シャワーにビール

夏の紫陽花はかなしい。誰かきれいにして。そうすれば来年またきれいな花を咲かせることができる。花は死んでまた生まれ変われるが、人間はどうなのだろう。神の目からみれば、自分という人間が生まれ変わろうが、他人が生まれ変わろうが、まったく新しい人格が生まれようが、それはどうでもよいこと、同じことなのだろう。

8月11日

ヤビツ行逃して我はタバコ吸う男かな
秦野からタクシー4500円ヤビツ行き
大山や木漏れ日映す岩を踏み
膝痛を忘れて登った大山かな
残り日を数えて登る大山詣り


8月15日

まためぐりくる夏のあの日
コロナの8月めぐりくる敗戦の日


遅れてきた帝国主義者
国民はその戦争を支持し、300万の命を失った
8月6日と9日と焦土と化した日本、それでも8月15日は終戦の日
戦犯が英霊として祀られる靖国に参拝する気にはなれない。それは戦争犯罪人に承認を与えることになるからだ。彼らは歴史に殉じたのだから、その責任を負うべきだ。

 

8月23日


民主主義の手続きの複雑さを避け、人びとがより安楽に生きようとする時、効率が良いファシズムの付け入る隙ができる。民主主義を維持し充実させていくためには苦難の道が続くのだろう。

私はReal問題から逃げているのかもしれない。面倒だから人とも意見をたたかわさない。自分が居心地のいい場所にすぐ逃げてしまっているのかもしれない。それではいけないのではと反省しつつ。

9月3日

降ってきてかってに咲いたおもしろい花

その花の名はフウセンカズラ
階上から降って咲いたおみなえし
安倍辞めてどうなるものか菅内閣
コロナきて とまどいがちや蝉の声
トランプはプーチン習近平と三馬鹿よ
デモクラシー疲れた後のナショナリズム
ひとり居てなずんでうれし秋の暮れ


9月8日

古稀こえて薄すっきり仙石原
蝉取り網三浦少年出撃す
夏の日や半ズボンに坊主あたまのノスタルジー

 

9月14日

一晩で夜寒になりぬ初時雨
コロナ禍や飲酒に喫煙ざまぁみろ
秋黄昏おふくろ我ありありがとう
綿の花おもいはかい秋色刈られたり
おしっこが力なくして黄昏た秋の夕べ

 

10月3日

花に問おうとして花にウキウキ


花に問うて花に慰む昼下がり
人生は急いで生きても彼岸花


10月12日
吸い初めてはや50年いまだくゆらす
人生紫煙くすらせ五十年

一茶は49年の無駄歩きと言った。無駄とは思はないが、人生いささかの虚しさのようなものを感じる。


10月25日

これがまあ母の住処かはたの中


寒風に我は行方なき素浪人
色っぽく意気地があるのに侘び模様
空蝉や憂いても死ぬるが定め

母が介護老人保健施設からグループホームに移った。
介護老人保健施設は、「看護、医学的管理の下における介護及び機能訓練その他必要な医療並びに日常生活上の世話を行うことにより、入所者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことが出来るようにするとともに、在宅生活への復帰を目指すもの」ということ。
グループホームは、「認知症の高齢者が専門スタッフの援助を受けながら共同生活を送る小規模の介護施設。入居者は「ユニット」と呼ばれる最大9人のグループに分かれて、料理や掃除などを役割分担しながら自立した生活を目指すもの」。

 

11月1日

気がつけば老人団体京の旅
奈良京へコロナの裏かき老いの旅
大和路や45年前の秋篠寺

 

11月18日

人間にとって価値があるものとは何か。
正義とは何か。幸福とは何か。
それは共通の価値なのか、人により異なるのか。
アメリカやトランプ終わって続くトランプ

 

11月27日

素朴な、質素な、飾らない、自然な、
物欲少なく、性欲にとらわれず、
利己心より利他が強く、そんな人。
客観的事実の記述か主観的想いの表出か。
全き事実の記述といえども表現意識の主観性から逃れられない。

 

12月1日

越えられない試練はないはず


日本のトランプ支持者、事実と願望の区別ができない。見たいものしか見ようとしない。

自己形成失敗者、自分で判断できず、強い権力者に盲従する。
商品とお金なしでは生きていけないという現実。末期資本主義の世の中で、どうやって自己を形成していけばよいのか。
戦前・戦中・戦後の過酷な時代を、若者たちは精一杯の自己形成をしてきた。
いつの時代も、時代は若者に試練を課す。

 

12月3日

冬枯れの野を行くごとし明日移転


権力に逆らい、のし上がり、最後は美に遊ぶ。
これは権力や社会に対する3つの形態というよりは、同時進行的な、人としての3つの在り方なのではないか。三位一体という言い方があてっているかもしれない。正反合の弁証法にも近いかもしれない。正は反を宿し正反は合を産み出す。

12月19日

中国共産党による国家の安全保障論理の巨大化が目に余る。
それを理由に人権派弁護士らを次々と拘束し接見すらさせない。彼らの考える人権には国家を批判する権利は含まれていない。国家と共産党の絶対性、無謬性を前提とした「人権」でしかない。しかしそれは人権とは言わない。権力者はいつもこの病にかかる。それが中国共産党の限界。

 

12月22日

ああわたしは芭蕉にはなれない


才能がないだけではない。
芭蕉のような苛烈な生き方ができるだけの素質がわたしにはない。
芭蕉にはなれないが、芭蕉を畏敬することはできる。

山茶花に芭蕉は遠くなりにけり

 

12月23日

また一つものを忘れてふて寝かな

予約忘れ電話も来なくなった歯医者かな
駄目なやつだめなやつと言う駄目なやつ
また一つものを忘れてふて寝かな


芭蕉の晩年の句が気になって集めてみた。
年くれぬ笠きて草鞋はきながら 芭蕉
めでたき人の数にも入む老いのくれ  芭蕉
年の市線香買に出ばやな 芭蕉
何に此師走の市にゆくからす  芭蕉
秋ちかき心の寄や四畳半  芭蕉
此道や行人なしに秋の暮  芭蕉
この秋は何で年よる雲に鳥  芭蕉

 

12月28日

高齢者惜しむべくもない命惜しむなり

旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる 芭蕉
白梅に明けるばかりの夜となりけり 蕪村
こういう句をしみじみ味わう人生の秋になってしまった。いつの頃だったか「旅に病んで」の句に感動して芭蕉の句の世界にどっぷり浸かるようになった。「白梅に」は悟った老人のようであまり気に入らなかった。芭蕉の生き様をよしとした。ところがこの頃は、「白梅に」の蕪村もわかるような気がしてきた。自分の内に芭蕉的なものと蕪村的なものが同居し、行ったり来たりしているように思えてきた。あれかこれかではなく、あれもこれもといったところか。これは必然なことなのか単なる優柔不断の弱い心象のなせる業なのか。

 

photo by miura 2020.

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