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俳句徒然日記2009
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2009年11月29日19:27
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石棺の秋
今年 二回目の秋は、29日に三渓園で味わった。
冬枯れの山のもみじは、美しい。
そこに庵のような茶室が点在する三渓園はこの季節がいい。
難点は人が多いことか。
まっ仕方のないこと。
茶室の云われの看板はあったが忘れてしまった。
とある茶室の入り口に、桶のようにえぐられた石が置かれてあった。
奈良輪寺の近くの古墳から出土した石棺なのだそうだ。
なぜこんなものが、茶室の前に置かれているのか。
石棺や死を思えと茶室庵
俳句をひねっていたら、石棺の写真を撮るのを忘れてしまった。
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2009年11月02日10:27
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紅葉踏み分け
車はとうに飽きてバイクに凝り、今は電動チャリにはまって、山歩きにいそしんでいる。以前は土日はジョッギングをするようにしていたのだが、走るたびにヒザがいたくなり、自転車に変えた。ヒザへの負担が少なく、全身運動にもなって健康によいということ。
これは進歩が後退か。まっ、その時々の楽しいものに夢中になるというのは仕方のないことか。
電動チャリで三浦半島1週はこれで3回目、自宅から130Km。これが自慢。バイクの場合は伊豆半島1週。ここのところ富士山か伊豆スカイラインが多い。
山歩きは表丹沢。山の上のほうの紅葉が美しい。
山歩きは上高地でためした1日25Km。このあたりがどうやら限界らしい。
ちょっと歩くと足や腰が痛くなる。ああいやだ。もうそんな年になってしまったのか。
不景気風に向かうためには、もっと足腰を鍛えなければ。
電車バス こころ奪われた少年の日
ブナ林の紅葉踏み分け鍋割山
もみじ葉を本に挟んで枯れしおり
秋山に雲散り敷き陽さす
夕飯を食べた姿で寝る女房
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2009年10月23日
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上高地に遊ぶ
今年の秋は、上高地で味わった。
上高地や夜中のしじま煙草の煙
唐松や闇に潜む怪しき紅葉
人はみな闇を隠して生きている
いにしえより命なりけり雪月花
メメントモリ 死を思え。
「無能無知を最上とし、無住無庵を次とす。」芭蕉
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2009年09月08日16:53
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あくと応えんとすれど
夏も過ぎ、ここのところやや中だるみ。
芭蕉は、「昨日の我に飽く」というようなことをいっている。
昨日の自分に留まらずに新しい今日と明日の自分を求める革新的な気性ということになっている。
私も、いささかヘタクソな俳句に飽いている。
作句にあき仕事にあき、あくと答えんとすれど問う人もなし。
作句にあき仕事にあいた夏の月
句における新しい表現、仕事のブレークスルー、さて明日からどう生きようか。
芭蕉は旅に、ブレークスルーの可能性を見た。
容易には旅立てない私は、どうしようか。
焼きそばやパルプの香り富士宮
すべらずの地蔵うれしき丸石畳
金時山湯元戻り湯ひぐらしの湯
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2009年09月03日10:22
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よくみればなずな花さく
今日は朝から、
よくみれば なずな花さく 垣根かな (芭蕉)
というような句がでてきて、私はどうしたのかしらん。
これから仕事だというのに、こんな句がなんとなくうれしくなるというのは。
やはり還暦のせいなのだろう。
人知れず咲く、小さくて素朴なペンペン草の花、そんな花咲く垣根。どこにでもありそうな、どってことない憩いの風景。さすが芭蕉先生。
うれひつつ 岡にのぼれば 花いばら
これは蕪村の句。
蕪村先生もこんなういういしい昭和の青年のような句を詠んでいる。
野坂昭如が脳梗塞からやや回復し言語障害をおしながら、句をよんだ。
水ぬるみセーラー服の薄き胸
野坂先生は、病気療養中、何を考えていたのでしょうかネ。でも、さすが野坂先生。尊敬してしまう。
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2009年08月25日11:30 |
風狂の風に誘われて
「俳句」という言葉を作ったのたは正岡子規だといわれている。
芭蕉の時代は「俳諧」だった。
俳諧でも機知のあるものを「狂句」ということもあるようだ。
一般には川柳の別名と解されるようだ。「俳風狂句」という川柳の一派もあったようだ。
「風狂」という言い方もある。芭蕉は「風流」と同じような意味で使っている。
かの一休さんの歌に「風狂の狂客、狂風を起こす」というくだりがある。
芭蕉は、俳諧は「夏炉冬扇」のごときもの、こんなものにうつつをぬかすものではないともいっている。
そうはいっても、人というのはおうおうにして道を外れてしまうもの。
人間、行き詰ったときには酒と詩歌に逃れるというのは、古来からの習い。
芭蕉もこんな句を詠んでいる。
酒飲めどいとど寝られぬ夜の雪
酔うて寝んなでしこ咲ける石の上
この秋は何で年よる雲に鳥
風狂の風に誘われて、私もまた旅に出たいと思う今日この頃。
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2009年08月15日12:27
ひまわり畑のなれの果て
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また、めぐり来る8月の
また、めぐり来る8月の・・・
この時期、なぜか毎年戦記ものを1冊読むことにしている。
今年も買ってきた、半藤さんの「ソ連が満州に侵攻した夏」。
読み始めた。既に読んだような気がした。本棚に同じものが1冊あった。そういえば去年、旅先で読んだような。残念。
夏のひまわり畑を見に自転車ででかけた。
チャリンコや虚しさ宿す秋の風
無残やな八月十五日のひまわり
残念、無念。
これがひまわり畑だとは。また、めぐり来る8月の・・・・
そんな無残な敗戦のイメージが、脳裏から離れない。
インパールの野ざらし
無謀なガダルカナル
なにもないヒィリピン
極寒のシベリア抑留
なぜ、沖縄戦、広島、長崎の原爆
65年前の日本の無謀さ無責任さに茫然とせざるを得ない。
日本人はこの日をどうやって迎えたらよいのか。
野ざらしの骸骨にもくとう。
死を受け入れる覚悟、「是非に及ばず」。
才能は無きにしも非ず秋の夜
秋の夜にいかに生きよか煙草のむ
友哀しあることないこと新事業
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2009年07月13日13:29
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いでやこの世に
三渓園に蓮の花を見に行った。
蓮の花を初めて見たのは、芭蕉は「笈の小文」で伊良湖半島の保美に杜国を訪ねたが、その杜国の墓があるというお寺さんを訪ねたときのことだった。
境内の蓮の花があまりにも見事で、つい見とれてしまった。その不思議な花と種はこの世のものとは思われない。
三渓園に蓮の花で、2回目となるが、やはり蓮の花はお釈迦様に似合うのかも知れない。
蓮の花は、つぼみの状態から花が開くときに「ポンッ」という音を出すのだという。その音を聞きたいがために夜中から蓮の花を見つめている人が古今いるそうな。
だが、蓮の花は実際には、静かに花開くのだという。そうだろうなあ、清廉潔白の蓮の花が、なぜ「出たきたよ」といって音を出さなければならないのか。
蓮の花は、咲き始めてから4日目で花びらがすべて散り落ちてしまうのだという。不思議な花である。
すぐ横の池には睡蓮の葉があった。残念ながら花は咲いていなかった。睡蓮と蓮は違うのだそうだが、どう違うのかよく見たかったのに、
蓮池にしゃがんで思う30分
蓮の花いでやこの世に生まれては
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2009年06月16日14:19
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足柄の田でたい焼き
先週土曜日に、開成町の紫陽花を見に行ってきた。
毎年いっているが、過去2年はまったくの不作だった。
気候のせいか水のせいか、肥料が足りなかったせいか、よくわからないが、地元の人は気候のせいだといっていた。
でも他の場所の紫陽花はきれいに咲いていたので、実際はどうなのか、不明。
水田のあぜ道や農道に沿っていろいろな種類の紫陽花が植えられていた。きれいに咲かせるためには、見えないご苦労があるのだろう。
今年は、人手が多く、私のように俳情にふけろうという暗い男にはやや興ざめ。
生ビールを片手に焼き蕎麦をほほばると、あたりはなんとじいさん・ばあさんばかりではないか。
「あじさい祭り」は粋なものだが、老人趣味は否めない。
一人あぜ道に座りたい焼きを食らえば、
足柄の田でたい焼き喰いつつ紫陽花みゆ
なんだか、「さんまの歌」の主人公のような気持ちになってきて、早々に引き上げることにした。
男一人のあじさい祭りは、やはり寂しい。
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2009年06月03日13:27 |
「切れ」ているかどうか
うまい句を作ろうと思うな、思へば負けよ。
だが、うまい句を作ろうと思って、日夜研鑽しなければ、うまい句はできない、というのも事実。
ある程度のレベルになるまでは、当然、それなりの苦労はしなければならないということ。うまい・へたは、一定レベル以上の句の場合についていえること。
わたしの場合は、当然うまい・へたを論ずる以前。
世界で通用する俳句的表現は、「切れ」ているかどうかだそうだ。
5・7・5文字は、外国では問題外。
砂漠の国や赤道・局地の国では季節感もない。
そうすると俳句的な表現の基本は「切れ」になるそうだ。
日本の場合、切れ字は「や・けり・かな」などが代表的。
英語でいえば???
なるほどと思う。
芭蕉の代表的な「切れ」だ句
古池や蛙飛び込む水の音
静かさや岩に染み入る蝉の声
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2009年05月21日14:50 |
旅に病み
芭蕉さんも、大先輩の西行さんも、旅に生きた人だった。
旅に病み夢は枯野をかけめぐる
この句の意味を探して、かっては旅に出た。
私も、旅を人生のようなものだと感じる一人のようだ。これって放浪癖というのだろうか。
歌人や俳人は一般に旅が好きで、私も旅が好きだが俳句はひどいものしか出来ない。
俳句のセンスはないが、ふと空を見上げると、どうしても旅の空を思ってしまう。旅の空の下で、来し方行く末を思ってしまう。
芭蕉を追っかけて「奥の細道」を一巡したが、好きな人は2回、3回と回るようだ。私も2回目の「奥の細道」の旅にでようかしらん。
いまいちど奥の細道追っかけの旅
あこがれる心をおさめて旅を待つ
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2009年05月14日13:56 |
明智が妻
芭蕉の変り種句、第4弾。
芭蕉は、義経や明智光秀や奥州藤原氏など、訳あって滅んでいったものに対する愛惜の念が強い。
典型的判官びいきといったところか。
芭蕉の文や句で「明智が妻」がある。
明智光秀が出世する前の貧しかった頃、連歌会を催すもお金がなくて集まった人をもてなす膳の用意もままならない。妻は黒髪を切り売ってその料とした。光秀は、妻を必ず輿に乗せてやると決意するのであった。妻のけなげさと明智の妻への想いのエピソード。
芭蕉は、こんな明智の妻のような話が大好きな人情家であった。
月さびよ明智が妻のはなしせむ (芭蕉)
「月さびよ」が効いている。貧しく寂しい秋の月だが満ち足りた静謐。芭蕉の「侘び」や「さび」は単純ではない。内に、実現したい自己や明日への希望や志、「風雅の誠」の追求といったものを秘めている。
「明智が妻のはなし」とは何か。わが身を犠牲にしてでも夫の出世を願う話しなのか、夫婦愛の話しなのか、貧しい生活の中で大事なお客さんをもてなす心か。
貧しい生活の中でも明日への希望、それが「明智が妻」か。
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2009年05月07日22:34
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西行桜
今年もまた、桜の季節が過ぎてしまった。
吉野の桜を見たいという夢がまた1年延びてしまった。
仕方ないので、地元の桜山にいってきた。
今期に3回花見ができた。
西行の歌を書いた紙をポケットにしのばせて、
散る花や西行桜に酔いきたり
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2009年04月25日10:09
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深川隠棲
なぜ、芭蕉なのか。
自分でも不思議に思う。
俳諧の誠を追い求め、そのためなら生活も命も惜しくないといった生き方。そういう生き方が芭蕉にはどうして可能だったのか。
そんなことばかり考えていたが、いまだによくわからない。
伊賀上野で勤めていた若殿が死んだため、芭蕉は江戸に出た。
紹介で日本橋の町内会会長の世話をうけることになり、その仕事を手伝いながら日本橋に住むことになった。
帳簿付けや上水道工事などにも従事した。
一方、俳諧の方にも力を入れ師匠として立机した。杉風や基角などの有力な弟子も入ってきた。
この頃、芭蕉には内縁の妻もあり、経済的にも仕事の上でも順風満帆だったのではないか。
そのまま生活を続けていたのでは、おそらく芭蕉は芭蕉になれなかっただろう。
芭蕉は、恵まれた日本橋での生活を突然捨てて、当時は田舎だった深川村に隠棲してしまう。
何故か。
一般には、お金持ちの武士や商人によばれ俳諧指導をしたり、点者生活(俳諧の優劣の点数を入れる)になじめず、俳諧の誠の道を探し求めるために俗世間を離れた、ということになっている。
実際はどうだったかわからないが、上野からつれてきた従兄弟と内縁の妻が駆落ちしてしまい、世間体もあって深川村に隠れ住んだという話しもある。
真実はどこにあるか。
まっ、私としては、内縁の妻を従兄弟に寝取られたちょっと間抜けな芭蕉もよいし、俳諧の誠をきわめようとするストイックな芭蕉もよい。
深川隠棲は、いくつかの複合した原因があったとするほうがリアリティがあるように思う。
で、俳諧の誠の道を究めるため、人は死ぬるものか。仕事や生活を捨てられるものか。
芭蕉は、乞食坊主を自認し、「もろうて食らい、こうて食らう」生活には入っていくことになる。こういう生活のなかでの芭蕉の句は暗い。桑門乞食の俳諧求道者は、身をよじりながら俳諧の誠を求めようとする。
私もいっしょになって暗く落ち込んでいき、そしてそういう気分を楽しんでいる。
かれ朶(えだ)に鳥のとまりたるや秋の暮
雪の朝ひとり干鮭を噛み得たり
詫びてすめ月詫斎がなら茶歌
櫓(ろ)の声波をうって腸(はらわた)氷る夜やなみだ
あさがほに我は食くふおとこ哉
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2009年04月20日13:34 |
芭蕉隠密説
芭蕉には、気になる話題が多い。
特に、芭蕉=幕府隠密説。
芭蕉が奥の細道の旅に同行した曾良が、幕府の巡検使の助手のような仕事をしていたことは事実のようだ。
だからといって、芭蕉も同業で、東北地方の藩のの動向を探ったり、隠密との連絡係りだったというのは早計というものだが、隠密ではないと断定できないところが、微妙。
その証拠
(1)忍者の里、伊賀上野生まれであること。
(2)東北を一周するような大規模な旅をする費用はどこから出たか。
(3)江戸の日本橋に住めるような恵まれた環境はどうしてか。
(4)奥の細道の日程で會良日記との不整合が目立つ。
(5)俳諧師や連歌師には隠密もどきが多かった。
芭蕉ははたして風流のためだけに「奥の細道」の旅をしたのか。
まっ、ひとつの作品として楽しめれば、芭蕉が隠密だろうが、そうでなかろうが、どうでもよいことなのかも知れない。
でもやはり 芭蕉隠密説は 気にかかる
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2009年04月18日23:44
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西行派
俳句はやはり、「情景一味の写実」(芭蕉)。
「写生」はつまらない、と感じるのはまだ若いせいなのか。
さまざまのことおもひ出す桜哉(芭蕉)
桜の歌はやはり「西行派」がいい。
この情緒に酒とともに酔いしれる至福のとき。
春ごとの花に心をなぐさめて 六十あまりの年を経にける
花にそむ心のいかで残りけむ 捨てはててきと思う我が身に
世の中を思へばなべて散る花の 我が身はさてもいずちかもせむ
おくがるる心はさても山桜 散りなむのちや身にかへるべき
その他の好きな歌
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
心なき身にも哀はしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮
なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
きわめつき
願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
もう一つ好い歌
敷島の大和心を人問わば 朝日ににほふ山桜花(本居宣長)
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2009年04月07日13:16
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さまざまなこと思い出す
この季節は、どうしても桜になってしまう。
芭蕉は、51年の生涯で何度か決定的な苦境に落ちている。
一つは、仕えていた若殿が25歳で死んでしまったため、芭蕉も早い話、宮仕えを首になったころ。
二つ目は、俳諧の宗匠としても経済的にも恵まれ生活だった日本橋を捨て、田舎の深川村に隠棲したころ。
三つ目は、最愛の弟子、杜国が死んだとき。
芭蕉は二つ目の危機の脱出口を旅に見出した。
その頃、故郷の伊賀上野にも帰っている。数年前の母の死に目にも会えなかった。それでも、芭蕉は俳諧の新しい可能性を感じていた。
桜の季節、芭蕉は城に呼ばれて一席を設けられることもあったようだ。
その時の句
さまざまなこと思い出す桜哉
芭蕉は故郷で、桜を見ながら何を思い出していたのだろうか。
散る桜の花びらとともに、何を捨ててきたのだろうか。
「さまざまなこと思い出す」桜は、どうしても世にふる命を感じさせてしまう。
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2009年04月06日13:29
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寝桜や
この季節はどうしても、桜が中心になってしまう。
まっ、致し方ないか。
私も、駄句を1つ。
大きな桜の木の中を3羽のシジュウカラが楽しそうに飛び交っていました。花の蜜をついばんでいるようです。
草むらに寝転びて思うことなし。
寝桜やしじゅうからとびかう夢のなか
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2009年03月25日13:50 |
狂句こがらしの
芭蕉の変り種俳句の紹介、第3弾。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉 (冬の日)
1684年、芭蕉41歳。
「野ざらし紀行」の旅の途中の吟。ここでは竹斎が何ものなのかわからないと、さっぱりわからんい。竹斎は江戸時代初期の仮名草子「竹斎」の主人公で、藪医者で、頓智で病を治し、狂歌で名声を博したという。
その格好は乞食同然だったそうだ。
芭蕉はその竹斎を「侘びつくしたるわび人」 としている。「侘び」はむずかしい。「飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい」とされるが、こころざしが破れたわびしさを受け止め、その人の心中に時代や社会的名声や地位を超えた価値を見出そうとする境地、という意味があるようだ。
極限まで削ぎ落とされた世界から無限を感じる美意識、物が無いことは「貧しい」状態ではなく、「美しい」という高い次元の精神のあり方。芭蕉は竹斎に、時流の社会の価値観に囚われることない竹斎的世界をみているのだろうか。
木枯らしが吹きすさぶなか、笠は長旅の雨で朽ち、外套もぼろぼろの姿で竹斎がやってきた。いやそれは私の姿なのだと、芭蕉はいう。「侘びつくしたるわび人」、それは狂句、風狂に生きる芭蕉の心意気である。
http://www.intweb.co.jp/basyou/kty/index.htm で公開している。
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2009年03月15日
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2009年03月09日13:29 |
雪まるげ
芭蕉のかわりだねの句、第二弾。
きみ火をたけよき物見せむ雪まるげ ばせを
「雪まるげ」とは雪ダルマのこと。
雪の日、弟子の曾良(奥の細道で芭蕉に同行した)が遊びにきた。
曾良は芭蕉の草庵の近くに住んでいて、芭蕉の食事の世話などをしていた。(芭蕉は自分ではほとんど炊事とかはしていなかったようだ。)
今日は雪がふったので、風流好きの芭蕉はうれしくてならない。曾良はお茶を入れる準備をしているようだ。
芭蕉は、曾良のために俳諧の手ほどきをする以外は、してやれることがない。
「曾良、キミは湯を沸かしてお茶をいれておくれ。私はよいものを作ってみせてあげよう。雪ダルマだよ。」
こんな感じで、師匠と弟子の関係の日々が過ぎていったのかもしれない。見栄も外見もない、裸の師弟関係。
でも芭蕉はそれを、しっかり俳文にして残している。
さすが、芭蕉先生はただものではない。
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2009年03月05日13:20 |
見果てぬ夢か
芭蕉は生涯1500余りの句を作ったといわれている。
芭蕉の句はいいが、ほんとにいいのは10句くらいだとうそぶく人もいる。私は、150句くらいが、すばらしいと思っている。
私の好きな芭蕉の句、とっておきを1つ。
蛸壺や見果てぬ夢か夏の月 芭蕉
芭蕉が「笈の小文」の旅で、須磨・明石のあたりを逍遥していたときの句。海の藻屑と消えた平家一族の哀れさを詠んだものとされている。
「蛸壺や」で始まる句が、どうして「見果てぬ夢か」に転じ、「夏の月」となるのか。
蛸壺の蛸が、やがて吊り上げられるとも知らずに、夏の月のように、見果てぬ夢にまどろんでいる。
はかなさの日本的な情感と、現代的なシュール感。どうしてこんな句が、江戸時代前期につくられるのか。
芭蕉の感性は現代の詩人の感性とほとんど重なってしまう。
以前、須磨のあたりを訪ねた。
我が仕事見果てぬ夢かDM兵庫
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2009年03月04日13:58 |
さびしきあすなろ
芭蕉さんに飽きたわけではないが、マンネリを感じている。
新しい接し方を探して、俳文を読み直してみた。
あすなろう(「さびしさや」の句文)
「あすは檜(ひのき)とかや、谷の老木のいへること有。きのふは夢と過ぎて、あすはいまだ来たらず。ただ生前一樽(いっそん)の楽しみの外に、あすはあすはといひくらして、終(つひ)に賢者のそしりをうけぬ。
さびしさや花のあたりのあすなろう 」
明日こそは名木といわれる檜の木になる、といっている谷の老木がある。酒を飲むしか能のない男が、努力もせずに明日こそはといい続けて、賢者からは愚かな奴だとしかられてしまう。
美しく咲いている桜の木の辺りに、あすなろの木がある。明日は檜になろうと、あてにならない明日に期待をかけ続けて、さびしくはないか。
芭蕉は、自嘲ぎみに、自分も賢者からのそしりを受ける「あすなろ」のようなものか、といっている。
貞享5年3月、1688年、芭蕉45歳。当時としては結構な年だ。
時代は変わっても、人はいくつになっても生き迷う。俳聖といえども迷う。
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2009年02月20日10:22 |
相変わらずの駄句
体調が悪いと、ブログなど書く気にならない。
腹膜炎の跡がうずく。
病院で寝ていたときには、痛みに耐えながらも、不思議と俳諏がおきた。
退院後は、仕事をしていると、どうしても、俳諏や俳味より、たまった仕事を優先してしまう。
今また、仕事中に、ブログを更新しているのだから、どうやら体調も戻ってきたようだ。
入院して自堕落生活反省す
監獄もかくありなん入院生活
いたいたい膿と血の海笑っちゃう
いい女性見ても盲腸うずくだけ
今日もまた、相も変わらず、駄句。
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2009年01月28日20:04
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毎日通います。
1月7日に退院。
ところが、また熱が出て、盲腸の切り口が化膿している感じ。
翌日にまた、病院へ。腹の脂肪が化膿しているとのこと。
入院か毎日通うか、どちらにするかとのこと。
毎日通います。
それから1週間、毎日タクシーで病院通い。ああ、地獄の日々。
化膿もだいぶよくなってきた。 ところが、お腹がいたくてしょうがない。 お昼に、おおもりと生卵を食べた。食べている途中で気持ちわるかった。
なんとか完食。
その後、はきそうで気持ち悪い。帰宅して直ぐ寝込む。
正露丸はまったく効かず。サクロンで落ち着いた。
翌日、一番で病へ。
ウイルス性の胃腸炎とのこと。 1日寝込む。
今日から通常勤務。 ああ、還暦、厄年。
これで全部の厄が落ちてくれたかしら。
病み疲れ萎えて落ち込む情けなさ
花なくて志なき梅の枝
何迷う志なき風来坊
梅の香や退院祝いか陽の光
ついにきた退院祝いの紅白梅
虫垂炎わが春いずこ寒中梅
病み出でて梅枝の強さにあくがれん
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2009年1月
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盲腸の手術で入院してました
久しぶりで、来し方行く末を考えました。
なぜ、プログを書くのか。
なぜ、俳句なのか。
また、いろいろ考えながら、書いていこうと思っています。
私には、句才がないとわかっています。
それでも、自分でも感動するような、いい句を作りたいなあとおもっています。
病院でも句をつくりました。
ご迷惑でしょうが、いつか披露します。
芭蕉さんの追っかけが一段落したら、何か気が抜けたようになっています。
高野山と和歌山と須磨のあたりを、つらつら歩いてみたいと思っています。
実用にならない俳句は、老人の道楽なのだろうか。
それなら小説も詩も道楽ということになってしまう。
病むわれに霜柱踏む家内かな
紅梅や生きる辛さと喜びと
病みあがり死を見顔か仏顔
産まれたときから楽天家いいではないか
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photo by miura 2009.12
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