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鴨長明「方丈記」(講談社文庫)より

むすび

そもそも一期(いちご)の月影かたぶきて、餘算山(よざんのやま)の端(は)に近し。たちまちに三途(さんず)の闇にむかはんとす。何のわざをか嘆(かこ)たんとする。佛の教へ給ふおもむきは、ことに触れて、執心なかれとなり。いま、草の庵(いおり)を愛するも、閑寂(かんせき)に着するも、障(さは)りなるべし。いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさん。
静かなる曉、この理(ことわり)を思ひつづけて、みづから心に問ひて曰く、「世をのがれて、山林に交わるは、心を修めて、道を行はんとなり。しかるを、汝、姿は聖人に似て、心は濁りに染(し)めり。住家(すみか)は、則ち、淨名居士(じょうみょうこじ)の跡を汚せりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行にだに及ばず。もし、これ貧賤(ひんせん)の報(むくひ)の、みづからなやますか、はたまた、妄心(もうしん)のいたりて狂せるか。」そのとき、心さらに答ふることなし。ただ、かたはらに舌根(ぜっこん)をやとひて、不請(ぶせい)の阿弥陀仏(あみだぶつ)、両三遍申してやみぬ。
時に、建暦(けんりゃく)の二歳(ふたとし)、彌生の晦(つごもり)ころ、桑門(そうもん)の蓮胤(れんいん)、外山(とやま)の庵にして、これを記(し