あすなろう(「さびしさや」の句文)

あすは檜(ひのき)とかや、谷の老木のいへること有。きのふは夢と過ぎて、あすはいまだ来たらず。ただ生前一樽(いっそん)の楽しみの外に、あすはあすはといひくらして、終(つひ)に賢者のそしりをうけぬ。

 さびしさや花のあたりのあすなろう

 賢者のそしり:賢者から愚かな奴だとしかられること

 

 貞享5年3月、1688年、芭蕉45歳。

 明日こそは名木といわれる檜の木になる、といっている谷の老木がある。酒を飲むしか能のない男が、努力もせずに明日こそは明日こそはといい続けて、賢者からは愚かな奴だとしかられてしまう。
 美しく咲いている桜の木の辺りに、あすなろ(翌檜)の木がある。明日は檜になろうと、あてにならない明日に期待をかけ続けて、さびしくはないか。昨日は夢と過ぎ、明日はいまだ来たらず。明日は明日はといううちに、老いはすでに至りぬ。
 あすなろは、ヒノキ科ではあるが成長してもヒノキにはなれない別種。ヒノキには劣るように言われるが多分に文学的なもので、建材として優れているという。

 サラリーマン生活の長かったお父さんには、身につまされる。その寂しさをまた酒でまぎらすのだろうか。ああ、人生がこんなふうに過ぎてしまうなんて。

 「笈の小文」には、「日は花に暮れてさびしやあすなろう」という句がある。これが成案だといわれている。

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