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鳴子・尿前の関から羽黒山へ>
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鳴子の温泉街 |
鳴子(なるこ) [地図]
平泉を出た芭蕉たちは、一の関を通り鳴子を経由している。鳴子は温泉場として知られていたが、芭蕉たちは宿泊せずに、先を急いでいる。
ここから出羽街道中山越えの難所となる。鳴子を出るとすぐに尿前(しとまえ)の関がある。鳴子温泉の街を出て2Km程度で国道47号線を離れて右下に下っていく道がある。数100m下ったところに、尿前の関跡に行き当たる。道は舗装されているが、かっての山深い街道の様子がしのばれ、寂しさがしんしんと身にしみてくる。
尿前の関から先は、「出羽街道中山越」という難所に入る。
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尿前の関跡。在りし日の風情がしのばれる。この関所を通るのに芭蕉たちは苦労したようだ。連歌師・俳諧師などは密偵の扮しやすい職業だった。 |
尿前(しとまえ)の関[地図]
仙台藩と出羽の国境の関所。通行書のようなものを持たない芭蕉たちはこの関を越すのに苦労をしたようだ。旅の俳人として通用したのかどうか、「乞食の翁」であってみれば、関守にも怪しまれないはずはない。
此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸(ようよう)として関をこす。
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尿前の関の前にある石碑。芭蕉がここを通ったときも雨が続いていたようだ。 |
尿前の関の前にある石碑。
表は「芭蕉翁」 、裏面は「蚤虱馬が尿する枕元」とある。
欝蒼とした杉林が続いている。出羽街道中山越の路はおくのほそ道最大の難所といえるかもしれない。雨模様の天気のせいか、このような山の中は気がめいる。現在においてさえそうである。まして江戸時代ともなれば、人の往来も少ない寂しい峠道だったろう。
歌枕をたずねる旅にしては風流が過ぎている。芭蕉はこの旅を自らに課した苦行としていたのではないか。「野ざらし」を心に決めながら、新しい俳諧表現を生み出すために、意図的に難行苦行に自分を追い込み、それに堪えようとしたのではないか。
「先人の跡を追わず、先人の求めたるところを求める」、俳諧にすべてを賭けた芭蕉の心意気を感じる。
それにしても、現代の旅からすれば芭蕉の時代は遠い。
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封人の家。家の左手に「蚤虱(のみしらみ)馬が尿(しと)する枕元」句碑がある。 |
封人の家
封人とは国境を守る役人のこと。
「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」とあり、その家に泊めてもらったようだ。
写真は当時の様子を伝える「封人の家」。玄関を入ると土間があり、そこで煮炊きをするようになっているが、すぐ右手には馬小屋になっている。大切な馬は人間と同じ家に住んで寝食をともにしていた。この地方では当たり前のことでも、関西と江戸住まいの芭蕉には、驚きだったのだろう。
そこで芭蕉は、面白い句をものした。
蚤虱(のみしらみ)馬が尿(しと)する枕元
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封人の家の中にある馬小屋。当時の東北では家の中に馬小屋があるのは当たり前だった。 |
いささか趣味の悪いこの句はここで生まれた。家に泊めてもらった芭蕉たちは、馬の前の土間に藁(わら)か何かを敷いてそこで寝たのだろうか。土間の左手は座敷になっているが、芭蕉たちは座敷で寝ていたはずだが、馬が尿する音は聞こえただろう。「桑門の乞食」としては面白い趣向だが、江戸の高名な俳人が馬小屋に続く土間で寝ていたはずはない。だが、芭蕉の風狂趣味は、もっと面白い表現を求めた。
これと同じような状況が、「飯塚」でもあった。
其の夜飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入りて宿をかるに、土座に筵(むしろ)を敷きて、あやしき貧家也。灯(ともしび)もなければ、いろりの火かげに寝所をもうけて伏す。夜に入りて、雷鳴雨しきりに降りて、臥せる上よりもり、蚤・蚊にせせられて眠られず。持病さへおこりて、消入計になん。短夜(みじかよ)の空もようよう明くれば、又旅立ちぬ。
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封人の家の左手に「蚤虱(のみしらみ)馬が尿(しと)する枕元」句碑。
芭蕉にこんな句をつくられて、ありがたい句なのだが、「芭蕉先生、もうちょっとなんとか」といいたげな、地元の人の苦労がしのばれる。 |
蚤虱(のみしらみ)馬が尿(しと)する枕元
これは芭蕉の趣味の表現といえるものだろう。「侘しさを楽しむ」という芭蕉の詫び趣味が出ていて笑える表現となっている。ここに「風狂の狂客」ぶりが発揮されている。実際の旅がどうだったかわからないが、曾良日記にはひどいところに泊められたというような表現はない。芭蕉の旅への想いの俳諧的表現ともいえるが、芭蕉の美意識はやはり芸術的である。「古池や・・」「閑さや・・」「夏草や・・」「荒海や・・・」などの格調高い芸術的な句をつくる反面、一方では「蚤虱馬が尿する・・・」と僧門乞食の翁の旅寝のイメージを句にする。
「風狂の狂客」の面目躍如といったところではある。それにしても、この二面性は「風雅」のまことと「風狂」精神との分裂か。それとも風狂を解さずには風雅のまことには至り得ないということか。戯れや遊びのような表現の中にも芭蕉俳諧の精神がしっかりと息づいているところが、さすが芭蕉といわざるを得ない。芭蕉という人間の面白さがこんなところにも顔を出している。
左の写真は「封人の家」の横にある石碑。
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鳴子温泉から見た山々 |
芭蕉は雨のため封人の家に3日も逗留したとしているが、曾良日記にはそうはなっていない。それにしても出羽街道中山越の道は、相当な風流いや風狂だったにちがいない。
芭蕉は、おくほそ道で曾良の句として、
行き行きて倒れ臥すとも萩の花
をあげ、自らも直前の「野ざらし紀行」で次の句を詠んでいる。
野ざらしを心に風のしむ身哉
死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮
年暮ぬ笠きて草鞋(わらじ)はきながら
夏衣(なつごろも)いまだ虱(しらみ)をとりつくさず
芭蕉の研ぎ澄まされた俳諧芸術は、このようなわが身を野ざらしにする実存と心象のなかから生み出されるものなのだろう。
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山刀伐峠の道 |
山刀伐(なたぎり)峠[地図]
笹森・赤倉温泉から尾花沢に抜ける山刀伐峠は、名前の怖ろしげなわりにはそれほど険しい峠道ではないが、当時は山賊が出たようだ。それにしても「なたぎり」とはすごい名だ。何が出てもおかしくはない。
現在は、トンネルがあり車なら数分で尾花沢方面に抜けることができる。
芭蕉たちは、借りた宿の主人に勧められて、道案内の脇差を持った屈強の若者をつけてもらって峠を越えた。
「此みち必ず不用の事有。恙(つつが)のう送りまいらせて仕合はせしたり」と「後に聞てさへ胸とどろくのみ也。」
さすがの芭蕉たちも、これには肝を冷やしたようだ。
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尾花沢側からの山刀伐峠の入り口
清風は「富めるものなれども志いやしからず」と芭蕉に評価されていたが、富めるものには志のいやしい人が多いということか。芭蕉たちが尾花沢に着いた翌日、お寺で風呂に入ったり、奈良茶飯などを食べたりして、養泉寺というお寺に泊まった。芭蕉たちは尾花沢に10日余りも留まった。 |
尾花沢側からみた山刀伐峠への入り口。 峠を越えて芭蕉たちは、尾花沢の紅花の豪商・鈴木清風を訪ねる。
尾花沢にて清風と云う者を尋ぬ。かれは富めるものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知りたれば、日比とどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
凉しさを我が宿にしてねまる也
這出(はひい)でよかひ屋が下のひきの声
眉(まゆ)掃(はき)を俤にして紅粉(べに)の花
蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉 曾良
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通された涼しい座敷、ついくつろいでねまってしまった。「ねまる」は私の郷里である越後・佐渡の方言でもある。
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立石寺の境内の石に座って涼をとる芭蕉(左)と曾良(右) 。芭蕉の顔は句想をねっている様子で、「山寺や石にしみつく蝉の聲」(最初の案か)といった顔をしている。 |
立石寺 [地図]
芭蕉と曾良は、予定になかったが、清風に勧められて立石寺に立ち寄ることにした。立石寺は通称山寺。
境内の石に座って涼をとる芭蕉(左)と曾良(右)。
山形領に立石寺と云う山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七里ばかり也。日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。
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「閑さや岩にしみいる蝉の声」の石碑 |
芭蕉と曾良の間にある石碑。
「閑さや岩にしみいる蝉の声」
芭蕉は、山寺の坂道を登っていく。今のような、車と人の騒音はなかっただろう。すべては深山の静寂のうちにあった。岩山のきつい坂道が続く。年輪を重ねた杉の木。流れる汗。染み付いてくる蝉の声。
閑さや岩にしみいる蝉の声
この句は最初は、
山寺や石にしみつく蝉の声
再案は、
さびしさや石にしみ込蝉の声
だったという。これが推敲のなかで「岩にしみいる蝉の声」になった。私のセンスでは、「閑かさや」でも「山寺や」でもいいように思う。ぞれぞれ別の句として味わいがある。「岩にしみいる蝉の声」が「山寺」にかかるのか、「閑かさ」にかかるのかの違いだろう。
盛夏8月、「岩にしみいる蝉の声」が 「閑かさ」につながっていく一瞬を体感するため山道を登る。幸い、あたりはすべて蝉の声につつまれている。
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山寺の坂道。整備されていて歩きやすい。 |
私の前を歩いていく、老夫婦の歩みが遅い、多少いらつきながら後を歩く。途中途中に「蝉塚」や句碑などがある。子供たちの大集団がふざけ合いながら私の横を駆け抜けていく。子供を抱えた夫婦が助け合いながら登っていく。これに、旅行者の集団が加わると、階段を登るのも、朝の通勤時の駅の階段のような状態になる。
仕方がないので、踊り場のような場所で、とにかく静寂の時を待つ。だが、あっちこっちから聞こえる人々のざわめき、子供たちの嬌声。だめだ、山寺立石寺は、リッバな観光地なのだ。
ということで、芭蕉の「岩にしみいる蝉の声」が「閑かさ」に変わる一瞬に出会うことは、かなわなかった。山寺で静寂を楽しむには、季節と時間が悪かった。平日に麓に宿をとり、早朝か夕方に登るべきであった。
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山寺の頂上付近から見た。 当時は人家も少ない山の中だったのだろう。 |
岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしふり)、土石老いて苔滑らかに、岩上の院院扉を閉じて、物の音聞こえず。岸をめぐり、岩を這いて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入蝉の声
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石段の上り下りは駅のホーム並みに込んでいて、残念ながら「閑かさ」はなかったが、山寺の情趣を楽しもうとする大勢の人々に出会った。
凡夫の句をひとつ。
煩悩や岩にしみつく蝉の声
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静かに流れる最上川 。釣り船だろうか。 |
最上川
芭蕉は本合海の大橋のたもとから舟にのり、清川の関所で舟を上がった。昔は本合海から米を舟に積んで酒田に運んだという。
今はそのおもかげはなく、川舟が2艘つながれていた。凡作2句。
川舟や淀みに朽ちて最上川
米俵運ぶ川舟今いずこ
下の写真は、本合海の大橋のたもとに立つ芭蕉と曾良。思えば遠くに来たものだ、という感慨だろうか。
芭蕉はここで次のような一文を残している。新しい句風と古い句風のあいだで迷っている地元の人に是非と誘われて句会を催したが、芭蕉は気が進まない。それでも風流のためとて、俳句の指導をした。自らの修行の旅のつもりが後進の指導までしてしまった。
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本合海の大橋のたもとに立つ芭蕉と曾良の像。 船乗り日和りを待っているといった顔の二人。「新古ふた道」の俳諧に蕉風の道しるべを残そうと、旅の疲れに鞭打って句会に出たようだ。 |
最上川のらんと、大石田と云ふ所に日和を待。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまようといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。
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意味はよくわからないが、芭蕉は大石田の句会で新旧の俳諧に踏み惑う人々ために「みちしるべする人しなければと」一巻を残した。芭蕉も「このたびの風流、爰に至れり」というほどの感動を覚えた。
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最上川 。正面の岩にぶつかり、左に曲がっている。この川の水量が増えた時の怒涛の様子が目に浮かぶ。 |
新しい俳句の表現をもとめて、芭蕉は旅をしている。ここまで旅を続けてきて、芭蕉は新しい俳句の境地を実感したのではないか。
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羽黒山の本堂 |
羽黒山
5日、権現に詣(もうづ)。当山開闢能除大師は、いづれの代の人と云う事をしらず。延喜式に「羽州里山の神社」と有り。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山となせるにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢(みつぎもの)に献る」と風土記に侍とやらん。月山、湯殿を合わせて三山とす。
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羽黒山の本堂の前の芭蕉像。 |
羽黒山境内の芭蕉の銅像。やや貫禄があるが、精悍な顔の表情が私の芭蕉イメージに最も近い。
芭蕉は羽黒山でもてなしをうけ、月山・湯殿山にも登る機会を得た。最初から予定していた行程だったのだろう。私の場合は、月山・湯殿山に登るのは次の楽しみにとっておこう。
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芭蕉の銅像の横に立つ歌碑。上の芭蕉の句3つが刻まれている。 |
涼しさやほの三か月の羽黒山
雲の峰幾つ崩て月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
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芭蕉の銅像の横に立つ歌碑。上の芭蕉の句3つが刻まれている。
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羽黒山より月山を望む。雲のため何も見えない。 |
雲の峰幾つ崩て月の山
「雲の峰」が崩れる、この雰囲気を味わいたかったのだが、雲の峰は雲に覆われていて、何も見えなかった。
芭蕉や曾良は、神社に篤い。羽黒山の宿坊に泊まり、 月山・湯殿山にも参拝登山を行った。
八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠に頭(かしら)を包、強力と云ふものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こごへて頂上に到れば、日没して月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥して明くるを待。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。
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左が湯殿山、右が月山 |
山形側から見た、左が湯殿山、右が月山。
山形の鶴岡市と山形市を結ぶ山道の国道112号線は無料の自動車専用道になっていて、夏は快適で見晴らしもすばらしい。
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photo by miura 2005.9
平泉へ |
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