4.自立的に行動する能力(2つ目)
自立とは孤独のことではなく、むしろ周囲の環境や社会的な動き、自らが果たし果たそうとしている役割を認識することであり、責任と思慮深さをもって行動することである。
自立的に行動することは、社会の発展に効果的に参加するためだけではなく、職場や家庭や社会生活など人生の様々な側面をうまくこなしていくうえでも必要である。
自立的に活動することには2つの相互に関連した重要な考えが含まれている。
(1)自らを定義づけ、個人的アイデンティティ(価値観を含む)を発展させること、
(2)与えられた文脈において、決定したり、選択したり、能動的で思慮深く、責任ある役割を果たしたりするという意味で相対的な自立性を行使することである。
@「大きな展望」の中で活動する能力
行動や決定のより大きな規範的、社会経済的、歴史的文脈、またその文脈がいかに機能するのか、その中における自らの立場は何か、問題となっている事柄、自らの行動が導く長期的で間接的な影響、さらにこれらの要因を行動する際に考慮すること、等々を理解したり、検討したりする能力。
この考え方は「グローバルに考え、ローカルに行動する」というスローガンにある程度表現されている。
A人生計画と個人的なプロジェクトを設計し、実行する能力
個人が自らの基本的な理念をつくり、それぞれのプロジェクトを公式に見直してより大きな人生計画との一貫性を確保しなければならない、という意味ではない。むしろ人々が選択する場面に直面したとき、その決定が人生の目標や義務に導かれたものであることが理想的だということである。
人生設計や個人的なプロジェクトを作る能力には、未来志向であること、つまり、楽観主義と潜在的な実現可能性が前提となる。アクセスできる資源や必要な資源(時間、お金、人、物、その他の資源)を見つけ出し評価すること、そしてプロジェクトを実現するための適切な手段を選択すること。目標に優先順位をつけ、効率的・効果的な手段を選択し、過去の行動や経験に学ぶことが必要である。
B自らの権利、利益、限界、ニーズを守り、主張する能力
個人の権利、利益、ニーズがたえず他者のそれらと対立し、個人が多くの重要な決定や機能に関してますます多くの責任に直面している。またこれらの対立、決定、機能を支配するルールがますます複雑になっており、自らの権利、ニーズ、利益を明らかにしそれを主張したり擁護することは、自律した活動の根本に位置づくことである。
この能力の発達により、個人は個人的な権利及び集団の権利を主張し、尊厳のある存在を保障され、自らの人生に対してより大きなコントロールができるようエンパワーされる。
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「自立的に行動する力」が指示するものは、文部科学省の「生きる力」が志向しているものに近い。「生きる力」は、「基礎・基本を徹底し、自ら学び自ら考える力」とされ、学習指導要領の基本的なねらいとなっている。
「生きる力」とは、「変化の激しいこれからの社会を生きる子どもたちに身に付けさせたい[確かな学力]、[豊かな人間性]、「健康と体力」の3つの要素からなる力」であり、「確かな学力」は「知識や技能はもちろんのこと、これに加えて、学ぶ意欲や自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決する資質や能力等まで含めたもの」とされる。
「生きる力」はやや抽象的でわかったようでよくわからないが、DeSeCoの「自立的に行動する力」は、人生の成功と社会の異質な集団のなかでよりよく行動するための個人の資質とされるものでより実践的な内容になっている。「生きる力」や「確かな学力」は、抽象的な一般論で誰もが肯く内容だが、
DeSeCoの「自立的に行動する力」は、生きる意味や学力の目指すものが明確で、より価値志向的になっているといえそうだ。自立的に行動する力」は、「生きる力」と相補的な関係とみることもできるが、「大きな展望」「大きな文脈」のもとで、「自らの権利、利益、限界、ニーズを守り、主張」しながら、計画的にプロジェクトを遂行する能力という定義は、強烈な印象を残す。特に、自立した活動の根本に、「自らの権利、ニーズ、利益を明らかにしそれを主張したり擁護すること」をおいていることは、「より大きな規範的、社会経済的、歴史的文脈」を踏まえた上でのことで、大きな社会性の意識が前提となる。
自立的に行動するためには、その目指すものや価値とするものが明確に認識されているのでなくてはならない、ということが前提となっている。ここで目指されるものは、もちろんキー・コンピテンシーが目指す、個人の「人生の成功」であり「民主的で正常に機能する社会」である。
日本のような比較的調和のとれた安定的な社会のなかでは「生きる力」でもよいのかもしれないが、国際社会の政治的・経済的な利害関係のなかでよりよく生き抜いていく個人の資質・能力は、ややあからさまではあるがやはりこうでなくてはならないだろう。「生きる力」は、「人生の成功」と「民主的で正常に機能する社会」を目指すべき価値として明確に意識させることで、はじめてよく見えてくるのではないか。「自立的に行動する能力」は、日本人の不得手とするところだが、だからこそ要求される能力だともいえそうだ。
5.社会・文化的、技術的ツールを
相互作用的に活用する能力 (3つ目)
「道具」という言葉を最も広い意味で使っている。モノとしての道具も社会・文化的なツールとしての道具も含まれる。
グローバル経済と現代社会の社会的、専門的な要求は、機械やコンピュータなどのモノとしてのツールだけでなく、言語・情報・知識のような社会文化的な道具を活用することに熟練することが必要としている。
「道具」は単なる受動的な媒介物ではなく、「個人と環境との能動的な対話」に欠かせない部分であり、文字通り人間の心身を拡張したものである。
@言葉、シンボル、テクストを相互作用的に活用する力
いわゆる「コミュニケーション能力」「リテラシー」とよぶことができ、PISAで定義された読解力リテラシーの枠組みである。「読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力である。」
言語スキルや計算その他の数学的スキルをさまざまな状況において効果的に活用することに焦点がおかれる。
数学的リテラシーはPISAによると次ぎのように定義される。
「数学的リテラシーとは、数学が世界で果たす役割を見つけ、理解し、現在及び将来の個人の生活、職業生活、友人や家族や親族の社会生活、建設的で関心をもった思慮深い市民としての生活において確実な数学的根拠にもとづき判断を行い、数学に携わる能力である。」
A知識や情報を相互作用的に活用する力
知識や情報の能力はキー能力である。単に情報を得るだけでなく、情報の質、適切さ、価値を批判的に評価する能力も含まれる。それらを効果的に思慮深く、責任を持って活用する必要がある。
このキー能力の具体例は、科学的リテラシーである。PISAでは次のように定義される。
科学的リテラシーとは、「自然界及び人間の活動によって起こる自然界の変化について理解し、意思決定するために、科学的知識を利用し、課題を明確にし、証拠に基づく結論を導き出す能力」である。
B技術を相互作用的に活用する力
技術によって可能となる新しい形の行動や相互作用への認識が得られ、日常生活においてその可能性を活用する能力があること。
技術に習熟する以上に重要なのは、異なった技術の目的や機能を全般的に理解することであり、その可能性を構想する能力である。
上記の3つのカテゴリーは、能力開発と生涯学習に関連する国際的な評価・指標システムと効果的な政府施策のための長期的視野へ展開する潜在的な可能性を提供するものとなるだろう、とまとめている。
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「社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力」という表現はわかりにくい。「機械やコンピュータなどのモノとしてのツールだけでなく、言語・情報・知識のような社会文化的な道具」を活用する能力として、数学的リテラシー・科学的リテラシー・読解力などの教科に関わる学力も、ツール活用能力に含まれる。「知識・理解」的な学力から、「判断・思考」「表現・技能」などの観点的学力も、広い意味でこのツール活用能力に含まれる。
ここでようやく学校教育で言われる「学力」が「キー・コンピテンシー」の中に位置づけられることになる。「社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力」として。
しかし、キー・コンピテンシーは、単純な日本的「学力」ではない。科学・数学・読解力についての「リテラシー」と表現される学力である。リテラシーは教科的・カリキュラム的な学力ではない。例えば読解力は、「自らの知識と可能性を発達させ、自らの目標を達成し、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」(「キー・コンピテンシー」より)として定義されている。だが、この表現ではわかりにくい。「理解し、利用し、熟考する能力」なのだが、その能力を、自らの目標を達成し、正常に機能する社会に参加し担っていくことを目指すものとして捉えている。
「相互作用的に活用する」とは、単に「活用する」ことではなく、社会・文化的なツールを使って働きかける現実の対象世界とのコミュニケーション的・相互交流的な活用ということだろう。現実に対する有効で効果的なツールの活用ということである。
6.キー・コンピテンシーと学力
「キー・コンピテンシー」は「人生の成功」と「正常に機能する社会」を目指す大きな能力概念であり、「社会的な異質な集団との交流」「自立的な活動」「道具の相互作用的な活用」の3つの能力カテゴリーから構成される。では、学校で学習した知識・技能、大学で学んだ専門知識や技能は一体何なのか。いわゆる学力はどう位置づけられるのか。キー・コンピテンシーとどのような関連があるのか。
いわゆる「学力」はキー・コンピテンシーの1つのカテゴリーである「社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力」に大きく関わるとされる。
DeSeCoのによれば、 PISA学力調査の「読解力リテラシー」「数学的リテラシー」は、社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力」カテゴリーのうち、「@言葉、シンボル、テクストを相互作用的に活用する力」に関わり、「科学的リテラシー」は「A知識や情報を相互作用的に活用する力」に関わる。教科の学習に関連した知識や情報や技能は、このキー能力といえる。
また、「自立的に活動する能力」に対応するものとして文部科学省の推進する「生きる力」がある。「生きる力」は、「基礎・基本を徹底し、自ら学び自ら考える力」とされ、学習指導要領の基本的なねらいとなっている。
「生きる力」とは、 「変化の激しいこれからの社会を生きる子どもたちに身に付けさせたい[確かな学力]、[豊かな人間性]、「健康と体力」の3つの要素からなる力」であり、「確かな学力」は「知識や技能はもちろんのこと、これに加えて、学ぶ意欲や自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決する資質や能力等まで含めたもの」とされる。
DeSeCoの「自立的に活動する能力」とはやや観点を異にするが目指す能力はほぼ同じとみてよいだろう。
「学力」は、キー・コンピテンシーとして要求される能力を目指す。学校教育の中の教育評価・教科評価とキー・コンピテンシーの評価をどう区別しどう統合して扱えばよいのか。特に、「自立的に活動する能力」や「社会的に異質な集団で交流する能力」に関する学習・指導法と評価方法の研究・開発が待たれる。だが、総合学習の時間などを通しての「生きる力」の育成プログラムも十分に整備されているとはいえない状況の中で、キー・コンピテンシーを目指す能力の育成はさらに遠い課題であるように思われる。
教科の学習に関連した知識や情報や技能は、「社会・文化的、道具的ツールを相互作用的に用いる能力」に大きくかかわり、PISA学力調査などの成績により測定することができるが、では「自立的に活動する能力」や「社会的に異質な集団で交流する能力」はどのように測定道具により測ることができるのか。やはり「関心・意欲・態度」の評価と同様、観察や面接を中心に調査用紙・アンケートなどに拠ることになりそうだ。インターネットなどを利用したインタラクティブな評価なども考えられる。
DeSeCoが規定している「自立的に活動する能力」や「社会的に異質な集団で交流する能力」は、かなり高度な能力であり、学校教育等に期待されるには荷が重いというもの。目指すべき能力カテゴリーではあるが、それを理解し習得していくのに要求される能力はかなり高く、一種のエリート教育となるだろう。むしろ成人・社会人教育において達成が期待される主要能力といえるのではないか。
キー・コンピテンシーのカテゴリー分けとそれに対応するとされる学力の対応を表にしてみた。
カテゴリー
|
下位カテゴリー
|
教育・教科的学力
|
社会的に異質な集団での交流 |
@他者とうまく関わる能力:共感 |
コミュニケーション能力としての「生きる力」 |
A協力する能力 |
B対立を処理し解決する能力 |
自立的に行動する能力 |
@「大きな展望」の中で活動する能力 |
「生きる力」
([確かな学力]
[豊かな人間性]
「健康と体力」)
|
A人生計画と個人的なプロジェクトを設計し、実行する能力 |
B自らの権利、利益、限界、ニーズを守り、主張する能力 |
ツールを相互作用的に用いる能力 |
@言葉、シンボル、テクストを相互作用的に活用する力 |
読解力リテラシー
数学的リテラシー |
A知識や情報を相互作用的に活用する力 |
科学的リテラシー |
B技術を相互作用的に活用する力 |
実技教科
コンピュータの活用 |
「生きる力」の育成は、現在の学習指導要領の柱となるものだが、教育内容の削減・授業時間の減少とセットになった「ゆとり教育」の問題を抱えており、観点別絶対評価や総合学習の時間も有効に作用しているとはいいがたい状況にある。キー・コンピテンシーは広い意味での学力であるが「生きる力」的な能力に多く関わり、その具体的な育成方法となると課題が多い。さらに「学びからの逃走」や「学力低下」「学力格差」の現象も顕在化しており、教育改革の道はいっそう険しさを増してきている。
DeSeCoが提示している「何のための学力」「何のための能力」「なぜ学ぶのか」を取り込み、学力の客観的な現状認識を踏まえて、教育の根本に立ち返った大胆な施策が必要だろう。だが、「何のための学力か」といった問いは、「何のための労働か」や「何のために生きるか」といった価値観に直結してくる大きな課題でもあるだろう。
それにしても、学校教育の目的は何なのだろう。学力の向上なのか、人格の完成なのか、国家・社会の成員の育成なのか、そのすべてなのか。目的と手段、目的と目標の階層化と学校教育、特に学力の構造化された全体的な把握が必要だろう。がとりあえずここでは、学力といえども、キー・コンピテンシー、つまり人生に成功し、民主的で正常に機能する社会の構成員になるための能力・行動特性の一部を構成するものであるということを確認して、次に進もう。
7.人生の成功
「何のための教育なのか」「何のための学力なのか」そして「何のための能力なのか」。キー・コンピテンシーは、「価値ある個人的・社会的な成果をもたらす能力」と定義される。そして、キー・コンピテンシーは、個人と社会の双方に利益をもたらすものであり、それは端的に「人生の成功」と「正常に機能する社会」のための能力ということである。
日本人には、学力の目指すものや学習の目的を、ここまでストレートには表現しないかもしれない。「人生における成功」に価値を置く判断にも、人間形成を重視する伝統的な教育観や「わび・さび」文化や無常観の傾向が強い日本人の性格にはやや抵抗がある。だが、何のための学力、何のための学習かを問えば、人格完成や自分の将来の可能性や自己実現や社会のためといった抽象的な説明より、具体的で説得力がある。世界標準としての学力や能力を考える場合、その目的を「人生の成功」と明快に定義する必要があるのだろう。「人生の成功」は「人生の幸せ」や「よい人生」といいかえられそうだが、日本人には「成功」より「幸せ」のほうが、しっくりくる。意見がいろいろ出そうだが、DeSeCoプロジェクトが提示したキー・コンピテンシーの探求が目指そうとするものは十分に傾聴するに値するだろう。
何のためのキー・コンピテンシーなのか。
これはDeSeCoでは、「何のための能力なのか」と読み替えられてきた。キー・コンピテンシーは、個人と社会の双方に利益をもたらすものという前提にたって、「価値ある個人的・社会的成果をもたらす能力」であるとする。
個人の自己決定や個人的成果を重視する個人主義的な考え方や、社会やコミュニティの存続と維持を前提としてそれを重視する考えには組しない。個人の人生における成功と正常に機能する社会を実現するというよりダイナミックな考え方にたつ。
クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)
「人生における成功と正常に機能する社会」に対する総合的なアプローチは、社会的側面と個人レベルの幸福を統合する試みでなければならないだろう。社会福祉という総合的な概念が、他の特定の状況を扱う概念よりも有効であるだろう、とする。
快楽主義的な匂いのある「豊かな生活」という表現よりも「人生の成功」という考え方は、より幅広い解釈を可能にする。だが、「人生の成功」には、狭く解釈すると経済的地位や社会的地位の獲得といった経済的に豊かな生活を意味すると解釈される。しかし、DeSeCoでは、「豊かな生活」というニュアンスの表現ではなく、高く評価された個人の成果を表現する広い意味から「人生の成功」という言葉を用いることにする、としている。
また、クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)を、初期の物質的豊かさを意味する考え方から、「新しい社会福祉という総合的な概念」として捉えなおして扱おうとしている。
「人生の成功」の定義は何か?
キー・コンピテンシーにおける「人生の成功」という暫定的な定義は、「客観的な生活条件」と「主観的幸福感」を「良い」とする幸福の望ましい状況である、とする。
成功の客観的・主観的評価は、客観的生活条件と主観的幸福感の相互作用を図解することで概念的な全体像をえることができる。
幸福の状況についての類型 出典:Zapf(1984)
客観的生活条件
|
|
主観的幸福感
|
良い
|
悪い
|
良い
|
|
幸福
望ましい状況
|
不調和
不満足のジレンマ
抗議と変革に対する潜在力
|
悪い
|
|
適応
矛盾した満足感
無力感とひきこもり
|
窮乏
従来からの社会政策の対象者
|
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だが、何をもって幸福とするのか、幸福とは何なのか、問題は残る。地球上の様々な地域やその地域の歴史や民族や政治・経済体制や、さらに階級や階層、享受している社会的サービスや文化等々、の条件を考慮する必要がある。
お金を稼いで、よい家に住み、ブランド品を身に付けて高級車に乗り、おいしいものを食べる。それで人は幸せになれるのか。会社人間が生息する社会では、個人としての生活はますます貧しいものになる。自分探しの青年はいっそう貧しい自分を見出し、不毛な自己実現の夢を追い求める。
贅沢な消費が美徳のようになってしまった消費大国日本ではもはや、かってあったはずの質素・倹約な生活の中で高い精神性をもって生きる生き方は、幸せではないのか。生活は質素でも、家族と関わり、他人と関わり、社会と関わり、幸福を共有しようとする価値のある働き方や生き方のほうが、夢があっていい。
学歴や能力や収入により格差社会といわれる状況が生まれつつある。産業社会が行き着いた情報社会のなかで、共同体的なものは解体し個人はモナドとしてますます孤立化していく。そういう社会での個人の幸福はどのようにすれば可能なのだろうか。
経済的生活の充実と経済的な裕福さに裏づけられた個人的で主観的な幸福感は、いちがいに否定すべきものではないにしても、自由競争や能力主義の新自由主義的な社会制度の中で、格差社会はいっそう進み、個人の階層化と孤立化も行き着くところまでいってしまうだろう。そのような社会は果たして住みよい社会なのだろうか。「人生における成功」を重視すれば、新自由主義的な環境のほうが能力を発揮しやすいのだろうが、人生の成功者と失敗者・落伍者や逃走者を生み出すことになり、社会はいっそう不安定になり住み難くなる。
個人の幸福感については、個人主義や自己中心的なアプローチではなく、より社会的で全体的なアプローチこそが必要になるだろう。DeSeCoのいう「人生の成功」は、言葉としては経済中心的ないやらしさがつきまとうが、統合的で全体的なアプローチのなかで、個人の幸福を考えようとするなかから提起されている。
だが、コンピテンシーの目的が、個人的な成功・幸福と正常に機能する社会の実現の2つに分裂してしまうのは、やはり時代の制約か。
「何のために学習するのか」は、「何のために働くのか」や「何のために生きるのか」の問いに繋がっていく。働くことや生きることの意味が、個人的な「人生の成功・幸福」では哀しい。社会とのかかわり合いの中で「よりよい社会の実現」、「正常に機能する社会」の実現に関わる中で個人の「人生の成功・幸福」も考え直していく必要があるのだろう。個人の「人生の成功・幸福」は「正常に機能する社会」が実現されていく中でしか、見えてこないものなのではないか。社会への関わり、社会への積極的な関与・参加なくして、個人の幸福を実現するすべはない。
人生の成功の要因を設定する有益な出発点として、
OECDが発表した8つの社会的利害のリスト(1982年)
公衆衛生
雇用と職業生活
財とサービスを入手する権利
社会環境
教育と学習
時間と余暇
自然環境
個人の安全
人生成功の主要要因 出典:DeSeCo
経済的地位と経済資源 |
・有給雇用
・収入と財産
これは脱工業社会においても高い価値を有す。成功の主要要因。有給雇用は、人の社会的地位の重要な目印であり、アイディンティティを形成るのに決定的な役割を果たす。 |
政治的権利と政治力 |
・政治的決定への参画
・利益集団への加入
政治的権利の主張や政治的参加は、民主主義の基本的な要件。一般的に、個人が政治的プロセスに参加するのは利益集団、例えば労働組合、雇用者団体、政党や市民運動への関与を通じてである。 |
知的資源 |
・学校教育への参加
・学習基盤の利用可能性
教育は社会的地位を左右する主要な要因であり、「自己実現」の主要な構成概念である。 |
住居と社会基盤 |
・良質の住居
・居住環境の社会基盤
生活条件の基本的構成概念。住居環境の社会基盤は、水道、下水道、エネルギー、通信、道路、公共交通機関など。 |
健康状態と安全 |
・自覚的、他覚的健康
・安全性の確保
重篤な身体的障害がないこと、つまり、肉体的に完全な状態と活動が保障される状態であること。 |
社会的ネットワーク |
・家族と友人
・親戚と知人
社会的ネットワーク=人間関係という強固な拠り所があること。正常に機能する社会の要件であるだけでなく、個人の目的ともなり、人生の成功の要因になる。 |
余暇と文化活動 |
・余暇活動への参加
・文化活動への参加
生活条件に不可欠の要因。文化と余暇は社会的地位地位を決定づける。 |
個人的満足感と価値志向 |
・個人的満足感
・価値志向における自律性
人生の成功には、個人的満足感自体が重要な意義をもつ。 |
人生の成功に関する8つの要因に関して、重要な観点が3つある。
(1)人生の成功とは、幸福の客観的・主観的要素を組み入れた多面的概念である。
(2)8つの要因は、すべての個人、すべての文脈、すべての社会に対して同じ様に重要性をもつものではない。しかし、民主主義の先進国社会においては、常に8つの要因すべてを考慮しなければならない。
(3)8つの要因は、変化する強度の連続体の一部を形成している。一般に「とてもそうである−ほとんどそうでない」尺度で決定される。
8.正常に機能する社会
キー・コンピテンシーは、個人的レベルと同様に社会的レベルとの関連で定義づけられる。学校組織を通じて伝達されるキー・コンピテンシーは、通常、社会的目的を達成するための手段である。すなわち教育は、民主的な「正常に機能する社会」を実現しそれを担う成員の育成を目的とする。
人的資本論の議論では、個人的レベルでの利益や成功、特に経済的成功が重視されるが、これはあまりに個人主義的で、限定的なアプローチである。より包括的で全体的な方法で扱おうとすれば、社会的観点を取り込み、民主主義的に正常に機能する社会の要因を特定化する必要があるだろう。
経済生産性 |
経済競争と経済生産性は、すべての社会の主要な目的である。
人的資本論は、教育への投資を通じて獲得されるキー・コンピテンシーと、個人の生活の質の重要な要因である有給雇用とリソースへのアクセス、事業や企業の生産性、社会の経済性調度との間の直接的な関係を扱っている。 |
民主的プロセス |
すべてが受け入れ、他の人々も受け入れるという正義の原則によって社会の基本的な制度が統制されている場合、社会はよき「秩序を保っている」。加えて我々が前提としているのは、「民主的、公正で安定した社会の基本制度は正義の原則に従おうとする社会の構成員の行動欲求を導くような制度である」ということ。 |
連帯と社会的結合 |
連帯は、社会資本の1つの要件であり、社会の基本的な要素の1つ。連帯は、価値観の共有を基礎とし、個人的な価値志向を通じて確立するもの。
一体性をもった社会を特徴づけるのは、社会のもつ価値や制度の受容であるということ。 |
人権と平和 |
世界人権宣言(1948)「教育は、人格の完全な発展ならびに人権および基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。」
人権と平和の実現は、コンピテンスに依拠する。 |
公正、平等、差別感のなさ |
機会均等と正義は、多くの現代社会の憲法に取り入れられ、世界人権宣言にも明記された基本的原則である。公正、平等、差別感のなさは、社会の質の重要な要因である。 |
生態学的持続可能性 |
国連環境開発会議はアジェンダ21(UNCED、1992)を承認した。
「人類は歴史上の決定的な瞬間にたたされている。我々の幸福を保障している生態系は、絶えることのない不均衡に直面している。しかしながら、環境と開発を統合し、これにより大きな関心を払うことにより、人間の生存にとって基本的なニーズを充足させ生活水準の向上を図り、生態系の保護と管理を改善し、安全でより繁栄する未来へつなげることができる。いずれの国も自国のみでこれを達成することはできないが、持続可能な開発のためのグローバルパートナーシップを促進することにより、ともに発展することが可能になる。」
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9.クオリティ・オブ・ライフと
正常に機能する社会を両立させるには
正常に機能する社会の要因は、単なる個人的な人生の成功を追及する総体としてもたらされるものを意味しない。
しかし、 個人的な人生の成功と正常に機能する社会の実現という2つの要請は、矛盾するかもしれない。単純に、並存するというわけにはいかないだろう。
争いは、社会的現実の本質的な部分であり、当然ながら、個人的レベルや社会的レベルでの目的や価値の違いによって生じるかもしれない。例えば、豊かな生活水準を達成し維持するため個人が選択する手段や実践は、他のことがら、他人の欲求や権利、あるいは自然環境の健全さと相容れないかもしれない。同様に、正常に機能する社会が要求するのはある程度の効率性を持った意思決定や行政であり、それらは個人に意志や決定を制約することもある。しかし、多くの場合、個人と集団の目的は、一定領域では重なり合う。
「人生の成功」の追求は、「正常に機能する社会」の実現とその成員の育成という目標と矛盾するのか。
「考えあう技術」(ちくま新書) 刈谷剛彦・西研 では、 教育を「子供を社会の成員としてふさわしい存在へと育て上げること」と定義して、「自由な市民からなる社会」という社会的理念の担い手となる個人をつくり出すことを広い意味での教育の目的としている。
その上で、自己中心的な「学びの意味」論や、「私」や「自己」を越えたところで、言い換えれば「他者」との関わりの文脈に学ぶことを位置づけられないか、として個人と社会とを一体的に全体的としてとらえようとしている。
「人生の成功」と「正常に機能する社会」という目的は、総合化して理解することも一体として考えることもできるが、実際にそれを生きるとなると現実的な矛盾点が露呈する。個人と社会ないし共同体との矛盾ともいえるが、教育が公的・社会的なものである限り、「正常に機能する民主的な社会の構成員の育成」にウエイトが置かれるのは当然ともいえる。だが、国家や公共目的を一方的に優先させる国家中心的な考え方にも、私的な幸福追求を優先させる個人主義にも組みするものではないだろう。これを矛盾と考えるなら、この矛盾を生み出している社会・教育的な環境が問題ではないのか。「自由な市民からなる社会」の実現は、そうありたい社会理念として残る。
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