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「なぜ学ぶのか」ノート

2013.11 三浦@int


1.なぜ勉強しなければならないのか

2.学ぶことの個人的な理由

3.学ぶことの共同体的・集団的な理由

4.「なぜ学ぶのか」−実現すべき自己とは何か

5.学ぶことの法的な規定をみると



 


1.なぜ勉強しなければならないのか 


 私はといえば、縁あって教育評価サービスにともなうシステムの開発を生業としている。子供たちのなかには、当然のことながら、勉強のできる子とできない子がいる。それを分けるものは何なのか疑問に思うことがある。家庭環境や生来的なものも影響していることは間違いないが、勉強への動機付けが勉強に取り組むさいの関心・意欲や積極性などの姿勢に大きくかかわり、勉強ができるできないを分ける直接的な要因になっているように思う。勉強に向かう際の動機のようなものについて考えてみた。
  小・中・高校を通じてなぜ学ぶのか、なぜ勉強しなければならないのか、私にはその意味がほとんどわからなかった。したがって勉強の成績は
それほどよくはなかった。義務教育なんだから学校へ行って勉強しなければならないよ、ということで親も子も疑いもなく学校へ通った。毎日学校に通い、苦役のような勉強を続けたように思う。親は勉強しなさいというだけで、なぜ勉強しなくてはならないのかあまり説明しない。だが親は社会の中で学歴のないつらさや勉強をする環境がなかったことや勉強しなかったこと後悔をしていた。学力いや学歴をつけることだけが親の願いだったのかもしれない。それ以上の願いや期待もあったはずだが、多くは語らなかった。子供には自分のような苦労はさせたくない。その思いが親心というものだが、子供にはその親の思いが伝わらない。
  親の心子知らずだが、子の心親知らず、でもあったのではないか。

  親や先生の勧めで一生懸命に勉強に取り組める「できた」子供はそれでいい。本性的な知的好奇心により楽しく勉強ができ探究できる子供はなおいい。大して努力もせずに勉強ができる才能のある子はそれでもよいのだろう。では、それだけではどうしても勉強する気になれない子供、その気にはなてもどうも勉強には身が入らない子供はどうすればよいのだろうか。なぜ学ぶのか。その答が明確になれば、自分がそうだったように、そんなことに迷っている子供たちに朗報となるのではないか.。勉強への根源的な、あるいは別の動機づけが必要なのではないか。

 なぜ学ばなければならないのか。学ぶ意義や意欲を見つけられない子供もいれば、成績アップや志望校合格にまい進する子供がいる。なぜ勉強しなくてはならないのか。恐らく正解はない。個人ごとに解答があり、「私の理由」がある。しかし、共通の学ぶ意味があるのではないか。

 子供の意識調査などで、勉強する動機の上位には、より大きな自由を得るためとか、自己実現のためとかがくる。自分の「自由」を拡張するためには「力」が必要である。それは「学ぶ力」といわれる。なぜ学ぶのか、それは学び方を学ぶためである。 しかし自由には「個人の自由」と「社会的な自由」があるように、学びには自分のために学ぶのか、社会のために学ぶのかという二重性がついてまわる。自分のための学びなど意味があるのか、自分のためではなく、社会のため他の人々のために学ぶという意義付けほうが価値があるのではないか。(単純に国家や会社のためといったことではない)
 学ぶ理由が明確になり、それが子供たちに伝えられ、納得と共感が得られたなら、彼らは学びの苦しさに耐え正しい努力をいとわないのではないか。

 生きのびるための知識・知恵、技術・経験をあつめることが勉強だといわれる。自分が置かれている状況を把握して、先を見通す力を身につけることである。知らないことがあると不安、だから知ろうと努力する、そして知ることは楽しい。それが人間の知的欲求の原点だといわれる。では、人間の知的欲求はどこからくるのか、何を目指しているのか。それは人類が生き延びるためのDNAのなせる業なのか。その学びのDNAが人によって強弱があるのはなぜなのか。

 そんなこんなで、学ぶ理由・勉強する理由を拾い集めてみた。



2.学ぶことの個人的な理由

 なぜ勉強しなければならないのか、その理由を求めると次のような回答が出てくる。

@よい大学に入り、よい会社に入り、高収入を得て安定した生活おくるため。
A人間の自由の多くはお金で買える。そのお金を儲けるため。
B自分の能力を拡張して、やりたいことがやれるより大きな「自由」を得るため。自己実現のため。
C光り、輝くため。自分の人生をより楽しく、意義のあるものにするため。より豊かで充実した人生にするため。
D知的好奇心から。わからないことについて知りたいという純粋な
欲求から。
E義務からではなく学びたいものを学びたいように学ぶ。やりたいことをやる。
F大人になっても日々学習。生涯学習・知識基盤社会では当然のこと。

 学びとは、学習であり、「学んで習うこと」である。そこには自主性や主体性がある。それに対して勉強は、学習に対して「強いられて勉める」といったニュアンスがある。「学び」には「習う」より知識や技能や方法についての主体的な探究意欲が感じられる。教育といったレベルで考えるなら「学習」という言葉がふさわしく、それが子供の個人的なレベルでは「学習」が「勉強」という形で発現するように思う。ここでは適宜、学習と勉強を使う。

 なぜ勉強しなければならないのか。この問いへの解答は簡単で自明のようにも思われるが、考えを進めていくと直ぐ壁にぶつかる。この問いは、なぜ働くのか、なぜ生きるのかという問いに直結していることがわかる。だから、親も子も余計なことは考えずに「義務教育だから」、「黙って勉強しろ」という言い方ですませようとする。
 子供は素直に勉強への動機づけを自分で会得する場合もある。病気で苦しんでいる人を助けるお医者さんにあこがれて、自分も勉強して立派な医者になりたいと思う人もいる。たくさんの人を乗せて安全に正確に電車を運行する運転手なりたいと思う人もいる。素晴らしい建物を設計したり建築したりする職業に憧れて建築士になりたいと思ったり、自分の技術で家を建てられる大工さんに憧れたり、やさしかった看護師さんになろうと決意したり、人それぞれの動機により将来の職業を考え、その目標に向かって勉強に励むということもあるだろう。このような将来の仕事を夢みて勉強するというのが、本来的な勉強であり学習なのだろうと思う。だが、実際は将来のやりたい仕事から勉強に励むという動機付けの子供はそう多くはないのではないか。どうしても言えといわれれば、仕方なく答えることはあっても、多くの子どもは漫然と将来の希望も就きたい職業もなく、義務教育としての勉強に耐えているのではないか。それは社会経験の少ない子供たちにあっては致し方ないことなのだろう。 

 安定志向は親の期待か子の願望か。いずれにしても先の見えない不安な時代なあっては安定志向は必然的な動機ではあるだろう。「お金を儲けるため」というストレートで率直な学習動機は、資本主義社会では極めて正常な原則だろう。それをテコにした自由の拡張や自己実現ややりがい、充実した人生といった価値の実現は人生を自分のものとして積極的に生きようとする人には当然のことであろう。それは資本主義社会にあっては、経済社会を動かし進展させる原動力になるものなのだろう。
 そういった生き方や学習への動機づけは、否定できるものではないが、なにか寂しいものを感ずる。実現したい何かがあるのに、そのための生活資金の確保や軍資金稼ぎやさらにはお金儲けを目的とした仕事に邁進するのは、目的と手段の逆転というか本末転倒、玩物喪志になってしまう。貧しい生活から抜け出すためやよりよい生活や人生のために資格取得や技術取得を目指して努力し、勉強するというのはよいが、金儲けが自己目的化して拝金主義に陥る人の人性は悲しい。

 義務教育で勉強への立派な動機づけがあっても、子供の側からのその動機や必要性の受容がないと勉強はすすまない。資本主義であるから、人間の労働力が原初的な商品価値であることに変わりはない。一生懸命に勉強し、よい大学に入り、よい会社に入るということは自分の商品価値を高めることであり、端的には自己の労働力としての価値を高く売ることができるということである。だから親は子に、安定した生活と高収入を得るために、よい大学・よい会社・よい仕事に就けるようにと、勉強しなさいという。
 自己の労働力を商品として売るにしても、それを元手に事業を起こすにしても、それはより高い付加価値を生み出せるかどうかということであり、具体的には高い給与・報酬をもらえるかどうか、売上をあげ利益を出せるかどうか、ということである。現代社会は、人の労働力を商品として販売したり、労働により製品をつくり商品として販売することによってお金を稼ぐしか、生活を維持できないのか。晴耕雨読のような生活もできなくはないだろうが、すべての人に勧められることではない。

 勉強する目的が、なぜ仕事をするのかと同様に、お金を稼ぐためというのでは哀しい。資本主義社会は、人間生活のかなり多くの部分が商品となりお金で買うことができる。この社会で生活するためにはお金が必須である。それはよくわかる。
 勉強するのは、自分のより大きな自由を確保するためであるという言い方がある。職業選択の自由もあれば自分の能力や適性に合わせて職種も選ぶことができる。要するに、将来の仕事の選択の幅を広げ可能性を広げることができるということである。確かに、人間としての自由の拡張は魅力的で勉強の大きな励みになる。自由な生き方をするためには、学ぶための方法をしっかりと身に着け、自分の自由を実現するための必要な情報を集め技能を習得し、課題を解決し、方略を実行する能力をもっていなくてはならない。だが人間的な自由の実現の多くもお金で買えるという現実があるのも事実である。われわれが常に学習し勉強し続けるのは、その2つを同時に実現するということであろう。

 

   

3.学ぶことの共同体的・集団的な理由


 人は個人の幸せや成功のためだけに学ぶのではない。国家・社会を離れたころで個人の生活は成り立ちえないので、個人が学習するのは国家・社会のため以外にはありえない、ともいえる。しかし個人の目的を国家や社会の要請に同化させるのは無理な飛躍があり、多くは欺瞞であり幻想であるが、次世代への知識や技術や文化の伝承というのは説得力がある。

@自分のためだけではなく、集団や他の人の幸せのために勉強する。
A集団として生きのびるため、知識・知恵、技術・経験を継承させるため。
B社会や共同体の発展と平和と幸福のため、それが次世代に引き継がれていくようにするため。
C「国家及び社会の形成者として必要な資質」の育成のため。

 義務としての教育だけでは、子供のやる気がでない。別の動機づけが必要である。個性や自主性や主体性が尊重され、「生きる力」が求められる教育の現状のなかで、 家庭環境や学習に向かう姿勢の差によって学習環境格差や学力格差が目立ってきている。
 なぜ働かなければならないのか。なぜ生きなければならないのか。

 個人的に、わからないことについて知りたいという原初的な知的好奇心から勉強できる人がいる。それは個人の特性でもあるが、人間の本来的な欲求でもある。人間は他の動物に比べかなり行動的で活動的だといわれる。だから人類はアフリカの大地溝帯のあたりで発生し、400万年をかけて世界隅々までグレートジャニーを行って現在に至っている。行動力とともに、知らないことを極めたい、未知の何かを見つけたいといった知的好奇心、いや冒険心や探検心がないと、人間は世界を制覇することはできなかったたろう。おそらく、安定した生活をすて生命の危険をも顧みず、こういった冒険に自らを投げ入れてきたのだろう。こういった能力や特性は人間の類としての本性的なものなのだろう。人間というのはつくづく不思議な生き物なのだと思う。

 国家や社会のためとかいったことではく、家族や愛する人やあの人たちのためなら勉強できるのではないか。それは同時に自分のためでもあるのだが、その一番に他の人の幸せのためにをもってくるのがいい。自己保存的な志向と対他的な志向、この2つが学習へ向かうより根源的な原動力になるのではないか。

 自分のために、自分の利益や金銭のために勉強するとか働くとかは、生き方として卑小でつまらない。国家や社会ましてや会社のために勉強するというのは、そういう生き方もあるのだろうが、どこか虚偽のにおいがするし虚妄のようにも思う。自分の幸せのためよりも、他の人の幸せのために、隣人の幸せのために一生懸命に勉強せよ。医者になって人の命を救う、教師になって子供の将来の幸せのために指導する、喜ぶ笑顔のために手荷物を届ける、食べる人のおいしいという顔を見たいために料理をつくる、困っている人を助ける福祉や介護の仕事をしたい、作物をつくりたい、草や木を育てたい、自然に触れる仕事がしたい。それが類としての人間の生き方であり働き方であり学び方であると思う。これは強制ではない。子供たちは、この類としての要請をどこかでしっかりと内面化する必要がある。

 人間は社会的なものであり、共同体との関係なしには生きていけない。だから個人のために学び働くよりも、所属している集団や共同体のために学び働く。個人は集団や共同体の中で、そうすることが期待される役割を自覚し、引き受け、その役割のために学び働く。仕事がそうであるように勉強も、他の人の幸せの為にするものである。

 だが、時の政府が体現する国家や所有者・経営者の会社のためではない、もっと理念的な公共のために、共通の利益のために、類として全体的な幸福とバランスのとれた発展のために学び働くのではないか。具体的には、自分の成長を願う家族や隣人のために先生や周りの友人のため、一緒に働く友のため、その期待に応えるためというかたちでの学習動機の発現があってもよいと思う。

 


4.「なぜ学ぶのか」−実現すべき自己とは何か


 ところで、子供や若者の多くは「自己実現」のために働きたい、そのために勉強するのだという。自分がやりたい職業、やりたい仕事をやる、やりがいのある仕事をやるのだという。自分の能力を発揮でき、自分らしい仕事をしたいのだというのだ。そのような思いは決して悪いことではない。自分の夢や「自己実現」を目指して努力する姿は素晴らしいと思う。だが、実現すべき「自己」とは何なのだろうか。一生を賭けて実現するに値する自己なのだろうか。そのための努力や能力を身に着ける訓練をしているだろうか。そういう反省も必要だろう。実現すべき自己のイメージを明確に持ち、そのために勉強し努力する。医者になりたい、弁護士になりたい、薬剤師や看護師になりたい。さらにプロのサッカーや野球の選手になりたい。人それぞれの夢や希望を持ち、それを目指して精進することは望ましいあり方に違いない。
  だが、実態としては高校や大学を卒業しても、実現すべき「自己」が見つからずに、自分探しに生き迷う若者が多いのではないか。また、自己実現を目指して仕事についても、現実の経済状態や競争社会、企業社会の中で挫折を味わうことも多いだろう。
  実現すべき「自己」があるはずだと考えることは、単なる思い込みではないのか。それは生活や仕事のなかで「自己」をつくっていくという人間の生き方の実際的な在り様から外れているように思う。とりあえず何でもいいから縁のある仕事に携わってみて、努力して年季を積んで一人前と認められ、役割を担うことが期待され、それを引き受けてさらに仕事をし成果を出していく。そういう仕事の積み重ねや上下左右の人間関係やお客さんとの関係の中から自分が何者なのをを知る。失敗を恐れるべきではない。失敗や挫折は成長の糧である。そうした失敗経験や知識や技能、情報やノウハウの蓄積のなかから自分のキャリアを磨いていく。そういうなかから自分は何をやりたいのか、実現すべき自己とは何なのかも見えてくるのではないか。そういった人生の過程を踏む前に、実現すべき「自己」とは何かという問いを設定することには無理がある。自分とは何かという自己理解、仕事についての深い知識と理解、どうやって仕事を遂行するのか、問題解決や創造力や人間関係・社会関係構築能力、そういった能力を身につけるように勉強しなけれはならない、学び続けなけれはならない。
  「なぜ学ぶのか」という問いには、したがって答えは一つではありえない。

 現在の資本主義社会の中では、社会に出て働くということは自分の労働力と引き換えに給与を得るというかたちから逃れることはできない。一般的には、優れた技能や知識や資格をもった労働力ならより高い給与を得ることができる。現代社会において、企業の求める人材イメージも多様化している。グローバル経済の進展のなかで、企業も生き残りをかけて不断の業態組み替えや改革が求められるからである。知識や技能や企業への忠誠心だけでは、業態を維持することは難しい。多国籍社員や多言語でのコミュニケーション力や企業価値の創造力や、英語共用語と能力主義の社内風土の中で生き残っていける能力は、日本の若者に過酷な試練を課し「生きる力」と能力を要求する。
 一方、3K職場(ちょっと古いか)やブラック企業と呼ばれる会社がある。低賃金・低福祉・長時間労働・使い捨て・過労死を特徴とする。企業生き残りのシワ寄せを働く者や下請けに課す会社である。雇用の流動化ともとに、能力・成果主義は働く者にいっそう高い能力レベルを要求し、うまく対応していける者とそうでない者を分別していくだろう。働く者は労働法などの法律知識とともに高い職業倫理をもってわが身を処す能力を身につけるべきである。

 基礎・基本的な学力はもちろんのこと、コミュニケーション能力、創造力、自立的行動能力、ITCツールの活用力や複数の外国語をあやつる能力等々が求められる企業社会にあって、労働者は自分の労働力に高い価値を付加し、対応能力を持っていることを証明する必要がある。その労働をとおして自己を実現する、自分のやりたいことをやる、自分の能力を発揮できる職を得るといった努力が求められる。 努力して勉強し獲得した知識・技能や能力を、会社の仕事に全力投入し適応することが求められる。

 生活の多くの時間と労力が仕事に費やされることは、現代企業のなかでは前提である。余暇の時間を趣味やスポーツに使うことや自分のやりたい勉強や文化的な好みなど使うことは、仕事との関係でうまく調整する能力が必要だろう。仕事や家庭や趣味や社会貢献など、自分の時間を何を優先して使うか価値観が問われる。

 実現すべき自己とは何か。どうやって実現するのか。自分のやりたかったことは何だったのか。それを常に考えて仕事をし人間関係を作り、生活していかなければならない。どのような状況の中でも自己を維持しながらうまく対応していける能力、課題解決能力、そういった能力が期待される。
 これは企業に雇用される場合だけでなく、自分で資金を集め、事業を起こす場合も同様である。現代におして、本当に自分がやりたいことをやるためには、困難の多い路ではあるが自分で起業するしかないだろう。

 そういうなかで自律的に仕事ができる専門職への希望者いつの時代でも多い。高度な専門知識が必要となるとなり、国家資格を必要とする職業が大半である。博士号の学位者、公認会計士、医師、獣医師、弁護士、一級建築士、薬剤師、歯科医師、不動産鑑定士、弁理士、技術士、社会保険労務士、税理士、上級のITCシステムアナリスト等などである。
 だが、希望すれば誰でも専門職につけるわけではない。そういう専門職について独立し自律的に仕事ができるようになる人は多くはない。

 仕事を選ぶさいには自分の能力や適性を理解し納得する必要がある。また、職種や仕事の実相についての情報も収集しなくてはならない。そして、仕事を選択決定し実際にそこで働いてみる。そのようなキャリアの積み重ねの中で、自分が何者なのかを知り、実現したい自己とは何なのかをイメージし、その実現のための戦略と実行計画を練っていくことになる。
 学ぶとは、そういった人生の過程を生き延びるためのすべ、方法を身につけることであるだろう。なぜ学習するのかは、なぜ働くのか、なぜ生きるのか、その解を求める旅程なのかもしれない。

   

5.教育・学ぶことの法的な規定をみると


 教育は国家100年の計ともいわれる。国家・社会の成長は、それを担う若者たちの教育にかかっているからである。個人的な思いとしての「なぜ勉強しなければならないのか」を、単純に国家の要請に収れんさせるわけにはいかないが、国家という共同体の側からする公教育への要請が法律的関係にまとめられていて参考になる。人間か教育を受け、社会にでて働くようになり、一人前の国家・社会の形成者となるということは大変なことなのだと思う。教育の関して、日本の法律は以外とよくできていて驚かされる。

 日本国憲法は、「労働・納税・教育」の3つの義務を定めている。「労働・納税」は古代国家の時代からあるが、「教育」義務は明治以降に始まる。現在の日本国憲法では、教育を受けることは日本国民の義務であるとされる。

日本国憲法

第26条
1.すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2.すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 26条には、「教育を受ける権利」と「教育を受けさせる義務」の2つが規定されている。国民の立場から「教育を受ける権利」があると同時に、国家や自治体、保護者に対して9年間の普通教育を「受けさせる義務」を負うというものである。なるほど、教育は権利であると同時に義務でもあるのだ。

 憲法の規定をうけて教育基本法は、教育の目的と目標を格調高くうたいあげる。
 「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」が教育の目的である。「人格の完成」という個人レベルでの目的と「平和で民主的な国家及び社会の形成者」という国家・社会の形成者としての資質の育成という2つの目的がうたわれている。

教育基本法 (平成18年改正)

 第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)
第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

(生涯学習の理念)
第三条  国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

(教育の機会均等)
第四条  すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2  国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3  国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

第二章 教育の実施に関する基本
(義務教育)
第五条  国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
2  義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
3  国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4  国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

 義務教育の目的は何か。第一条では、人格の完成と国家・社会の形成者という2つの資質の形成が目的とされているが、第五条の2では「人格の完成」が「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培」うという表現に置き換えられている。つまり人格の完成は「個人の能力と自立力の育成」に具体化されて表現されている。
  学校教育法では、教育基本法で定めた教育の目的と目標を、学校教育の在り方にひきつけてさらに具体的に述べている。ここでは教科という形に区分けされた目標とされるべき態度や能力について集約している。

学校教育法 (最終改正:平成23年)
第21条

第21条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成18年法律第120号)第5条第2項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

1.学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。(社会的活動)
2.学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。(自然体験活動)
3.我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。(社会科・外国語)
4.家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。(技術・家庭)
5.読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。(国語)
6.生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。(算数・数学)
7.生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。(理科)
8.健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。(保健体育)
9.生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。(芸術系)
10.職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。(キャリア教育)

( )は教科との対応を別途に記したもの

★上記の「教育の目標」が、望まれる能力としての「判断力」の評価判断の材料になるかどうか。
望ましい価値判断の方向として、「教育の目的・目標」とするところのものと一致することは望ましいと判断できる。しかし「教育の目的・目標」には多分に価値観を伴うため、「思考・判断」力の「判断」力の内容として使う場合には十分に吟味する必要がある。

 さらに、学習指導要領の国語には、教材の採用についての留意事項として興味深い評価観点が挙げられている。読解力や作文力や聞く力の目指すものが具体的に列挙されている。

学習指導要領 (平成10年改訂)

第2章 各教科 第1節 国語
(3学年共通)
3.教材については,次の事項に留意するものとする。

(1) 教材は,話すこと・聞くことの能力,書くことの能力,読むことの能力などを偏りなく養うことや読書に親しむ態度の育成をねらいとし,生徒の発達の段階に即して適切な話題や題材を精選して調和的に取り上げること。また,第2の各学年の内容の「A話すこと・聞くこと」,「B書くこと」及び「C読むこと」のそれぞれの(2)に掲げる言語活動が十分行われるよう教材を選定すること。

(2) 教材は,次のような観点に配慮して取り上げること。
ア 国語に対する認識を深め,国語を尊重する態度を育てるのに役立つこと。
イ 伝え合う力,思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにするのに役立つこと。
ウ 公正かつ適切に判断する能力や創造的精神を養うのに役立つこと。
エ 科学的,論理的な見方や考え方を養い,視野を広げるのに役立つこと。
オ 人生について考えを深め,豊かな人間性を養い,たくましく生きる意志を育てるのに役立つこと。
カ 人間,社会,自然などについての考えを深めるのに役立つこと。
キ 我が国の伝統と文化に対する関心や理解を深め,それらを尊重する態度を育てるのに役立つこと。
ク 広い視野から国際理解を深め,日本人としての自覚をもち,国際協調の精神を養うのに役立つこと。

     
    とりあえず、ここまで。