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「なぜ学ぶのか」ノート 2013.11 三浦@int |
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1.なぜ勉強しなければならないのか |
親や先生の勧めで一生懸命に勉強に取り組める「できた」子供はそれでいい。本性的な知的好奇心により楽しく勉強ができ探究できる子供はなおいい。大して努力もせずに勉強ができる才能のある子はそれでもよいのだろう。では、それだけではどうしても勉強する気になれない子供、その気にはなてもどうも勉強には身が入らない子供はどうすればよいのだろうか。なぜ学ぶのか。その答が明確になれば、自分がそうだったように、そんなことに迷っている子供たちに朗報となるのではないか.。勉強への根源的な、あるいは別の動機づけが必要なのではないか。 なぜ学ばなければならないのか。学ぶ意義や意欲を見つけられない子供もいれば、成績アップや志望校合格にまい進する子供がいる。なぜ勉強しなくてはならないのか。恐らく正解はない。個人ごとに解答があり、「私の理由」がある。しかし、共通の学ぶ意味があるのではないか。 子供の意識調査などで、勉強する動機の上位には、より大きな自由を得るためとか、自己実現のためとかがくる。自分の「自由」を拡張するためには「力」が必要である。それは「学ぶ力」といわれる。なぜ学ぶのか、それは学び方を学ぶためである。
しかし自由には「個人の自由」と「社会的な自由」があるように、学びには自分のために学ぶのか、社会のために学ぶのかという二重性がついてまわる。自分のための学びなど意味があるのか、自分のためではなく、社会のため他の人々のために学ぶという意義付けほうが価値があるのではないか。(単純に国家や会社のためといったことではない) 生きのびるための知識・知恵、技術・経験をあつめることが勉強だといわれる。自分が置かれている状況を把握して、先を見通す力を身につけることである。知らないことがあると不安、だから知ろうと努力する、そして知ることは楽しい。それが人間の知的欲求の原点だといわれる。では、人間の知的欲求はどこからくるのか、何を目指しているのか。それは人類が生き延びるためのDNAのなせる業なのか。その学びのDNAが人によって強弱があるのはなぜなのか。 そんなこんなで、学ぶ理由・勉強する理由を拾い集めてみた。
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なぜ勉強しなければならないのか、その理由を求めると次のような回答が出てくる。
学びとは、学習であり、「学んで習うこと」である。そこには自主性や主体性がある。それに対して勉強は、学習に対して「強いられて勉める」といったニュアンスがある。「学び」には「習う」より知識や技能や方法についての主体的な探究意欲が感じられる。教育といったレベルで考えるなら「学習」という言葉がふさわしく、それが子供の個人的なレベルでは「学習」が「勉強」という形で発現するように思う。ここでは適宜、学習と勉強を使う。 なぜ勉強しなければならないのか。この問いへの解答は簡単で自明のようにも思われるが、考えを進めていくと直ぐ壁にぶつかる。この問いは、なぜ働くのか、なぜ生きるのかという問いに直結していることがわかる。だから、親も子も余計なことは考えずに「義務教育だから」、「黙って勉強しろ」という言い方ですませようとする。 安定志向は親の期待か子の願望か。いずれにしても先の見えない不安な時代なあっては安定志向は必然的な動機ではあるだろう。「お金を儲けるため」というストレートで率直な学習動機は、資本主義社会では極めて正常な原則だろう。それをテコにした自由の拡張や自己実現ややりがい、充実した人生といった価値の実現は人生を自分のものとして積極的に生きようとする人には当然のことであろう。それは資本主義社会にあっては、経済社会を動かし進展させる原動力になるものなのだろう。 勉強する目的が、なぜ仕事をするのかと同様に、お金を稼ぐためというのでは哀しい。資本主義社会は、人間生活のかなり多くの部分が商品となりお金で買うことができる。この社会で生活するためにはお金が必須である。それはよくわかる。
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義務としての教育だけでは、子供のやる気がでない。別の動機づけが必要である。個性や自主性や主体性が尊重され、「生きる力」が求められる教育の現状のなかで、
家庭環境や学習に向かう姿勢の差によって学習環境格差や学力格差が目立ってきている。 個人的に、わからないことについて知りたいという原初的な知的好奇心から勉強できる人がいる。それは個人の特性でもあるが、人間の本来的な欲求でもある。人間は他の動物に比べかなり行動的で活動的だといわれる。だから人類はアフリカの大地溝帯のあたりで発生し、400万年をかけて世界隅々までグレートジャニーを行って現在に至っている。行動力とともに、知らないことを極めたい、未知の何かを見つけたいといった知的好奇心、いや冒険心や探検心がないと、人間は世界を制覇することはできなかったたろう。おそらく、安定した生活をすて生命の危険をも顧みず、こういった冒険に自らを投げ入れてきたのだろう。こういった能力や特性は人間の類としての本性的なものなのだろう。人間というのはつくづく不思議な生き物なのだと思う。 国家や社会のためとかいったことではく、家族や愛する人やあの人たちのためなら勉強できるのではないか。それは同時に自分のためでもあるのだが、その一番に他の人の幸せのためにをもってくるのがいい。自己保存的な志向と対他的な志向、この2つが学習へ向かうより根源的な原動力になるのではないか。 自分のために、自分の利益や金銭のために勉強するとか働くとかは、生き方として卑小でつまらない。国家や社会ましてや会社のために勉強するというのは、そういう生き方もあるのだろうが、どこか虚偽のにおいがするし虚妄のようにも思う。自分の幸せのためよりも、他の人の幸せのために、隣人の幸せのために一生懸命に勉強せよ。医者になって人の命を救う、教師になって子供の将来の幸せのために指導する、喜ぶ笑顔のために手荷物を届ける、食べる人のおいしいという顔を見たいために料理をつくる、困っている人を助ける福祉や介護の仕事をしたい、作物をつくりたい、草や木を育てたい、自然に触れる仕事がしたい。それが類としての人間の生き方であり働き方であり学び方であると思う。これは強制ではない。子供たちは、この類としての要請をどこかでしっかりと内面化する必要がある。 人間は社会的なものであり、共同体との関係なしには生きていけない。だから個人のために学び働くよりも、所属している集団や共同体のために学び働く。個人は集団や共同体の中で、そうすることが期待される役割を自覚し、引き受け、その役割のために学び働く。仕事がそうであるように勉強も、他の人の幸せの為にするものである。
現在の資本主義社会の中では、社会に出て働くということは自分の労働力と引き換えに給与を得るというかたちから逃れることはできない。一般的には、優れた技能や知識や資格をもった労働力ならより高い給与を得ることができる。現代社会において、企業の求める人材イメージも多様化している。グローバル経済の進展のなかで、企業も生き残りをかけて不断の業態組み替えや改革が求められるからである。知識や技能や企業への忠誠心だけでは、業態を維持することは難しい。多国籍社員や多言語でのコミュニケーション力や企業価値の創造力や、英語共用語と能力主義の社内風土の中で生き残っていける能力は、日本の若者に過酷な試練を課し「生きる力」と能力を要求する。 基礎・基本的な学力はもちろんのこと、コミュニケーション能力、創造力、自立的行動能力、ITCツールの活用力や複数の外国語をあやつる能力等々が求められる企業社会にあって、労働者は自分の労働力に高い価値を付加し、対応能力を持っていることを証明する必要がある。その労働をとおして自己を実現する、自分のやりたいことをやる、自分の能力を発揮できる職を得るといった努力が求められる。
努力して勉強し獲得した知識・技能や能力を、会社の仕事に全力投入し適応することが求められる。 |
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26条には、「教育を受ける権利」と「教育を受けさせる義務」の2つが規定されている。国民の立場から「教育を受ける権利」があると同時に、国家や自治体、保護者に対して9年間の普通教育を「受けさせる義務」を負うというものである。なるほど、教育は権利であると同時に義務でもあるのだ。 憲法の規定をうけて教育基本法は、教育の目的と目標を格調高くうたいあげる。
義務教育の目的は何か。第一条では、人格の完成と国家・社会の形成者という2つの資質の形成が目的とされているが、第五条の2では「人格の完成」が「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培」うという表現に置き換えられている。つまり人格の完成は「個人の能力と自立力の育成」に具体化されて表現されている。
★上記の「教育の目標」が、望まれる能力としての「判断力」の評価判断の材料になるかどうか。 さらに、学習指導要領の国語には、教材の採用についての留意事項として興味深い評価観点が挙げられている。読解力や作文力や聞く力の目指すものが具体的に列挙されている。
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とりあえず、ここまで。 | |||||||
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