「21世紀型の学力とは」ノート 2011.6 三浦@int |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
▼メニュー
|
学力は、テストで測られた能力だとか、指導要領で規定されている到達目標だとか、知識・技能の基礎基本の習得だとか、活用力だとか、学び方を学ぶことだとか、様々に言われる。学校教育の枠のなかで考えられる学力やそれとは別の分野や立場からする学力や、大きな枠組みの中で考えられる学力がありそうである。各方面から言われる学力の内容や、「より大きな枠組みの中で考えられる学力」を踏まえ、そこから教育の現場の学力を捉え直してみようと思う。 筆者は教育の専門化ではないが、職業がら学習システムや成績集計システムの開発や運営に関係した仕事に従事している。とりわけ、成績処理のシステム開発が中心であるため、何のための成績処理なのか、どう評価するのが正しい方法なのか、子供たちの成長に必要な評価なのだろうか、考えさせられることが多い。特に、学力の低下問題やPISAの学力調査に見られるPISA型学力といわれるものや、文科省の全国学力調査の「B問題」などの出題傾向などを追っていると、従来型の学力と比較して、そこでいわれている学力とは何なのかを考えてしまう。余計なことを考えずに、与えられた開発課題を達成すればよいのだが、「学力」ということばの定義からして怪しい状態で、気持ち悪いことが多い。 文科省の「生きる力」や「確かな学力」そして「キャリア教育」、グローバル経済の健全な発展のためのPISA的・活用力的学力、入試選抜を突破するための学力、経済産業省の「社会人基礎力」など、学力といわれるものに対する期待の内容はさまざまである。文科省や教育委員会、学校や先生、塾の先生や親の抱くイメージ、大学の先生や企業の人事採用担当者、そして産業界、国際的な経済機関、それぞれの立場から見た学力イメージはそれぞれに異なっている。どうやら学力というものは、その立場の人々の期待や欲求などと「関心相関的」であるようだ。どれが正解とも一概には断定できない。これらの諸相を概観するだけでも、学力といわれるものが現在どういう位置にあるのか、どういうものとして期待されているのか、いろいろ見えてくるのではないか。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一般に「学力」という指標と社会人基礎力の水準には相関関係があるということになっている。そう信ずるから企業は「学力」の高い人を採用しようとし、長い間そのやり方でうまくいっていた。しかし近年、その相関関係が低下してきているという実感が報告されている。長期低迷する経済社会にあって、企業活動や社会を活性化させるものは、どうも高い学力だけではないということが分かってきた。 コンピテンシーという言葉がある。アメリカから入ってきた。コンピテンシーcompetency( 業績の高い人の行動特性)という言葉は、日本ではまだなじみが薄いがウキュペディアでは次のように説明している。 また、「現実をいったん抽象イメージに単純化し、それを組み替え、巧みに表現、実験を繰り返し、他分野の専門家と意見交換したりして、最後には再びそれを現実に変換する」、こういったシンボリック操作の能力は、知識・技能を動員して現実の複雑で困難な課題に立ち向かうときに必要とされる能力の一端で、シンボリック・アナリストの能力要件とされる。 明治時代以来の「近代型能力」である「メリトクラシー」から、「ポスト近代型能力」である「ハイパー・メリトクラシー」といわれる能力が求められる時代にさしかかっている。本田由紀氏(『多元化する「能力」と日本社会』)
によると、日本は欧米社会と比較もてみても 「近代型能力」の優等生ということになっている。日本は明治以来、階層社会の圧力があまり強くなく、一生懸命に勉強し努力して優秀な成績を残せば、誰でも末は大臣や博士になれ、事業を起こして社会で成功する可能性があるとされてきた。日本人は、たとえ幻想であったとしてもその可能性を信じて努力し苦労に耐え、勉学に励んできた。頂上にまで出世しなくても、よい大学を出て、よい上場会社や官庁に就職できれば、あとは本人の努力次第で仕事上のやりがいも出世も高給も安定した生活もある程度保証されてきた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1990年代に入って、「ゆとり教育」に加えて、「新学力」として、学力を「観点別」に評価することになった。従来の「知識・理解・技能」中心の学力から、「関心・意欲・態度」を重視して「思考・判断」「表現・技能」「知識・理解」の大きく4つの観点から評価しようとするもの。そして、評価方法も相対評価中心から、絶対評価・目標準拠評価に大きく変更になった。 文科省は、有識者や社会の批判を受け、「ゆとり教育」から「生きる力」を支える「確かな学力」の路線に転じるが、観点別学力の絶対評価・目標準拠評価の方針は変えていない。これは指導要録への学力状態の記載の関係で残っているものと思われるが、「確かな学力」の具体的なイメージは、基礎基本の「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」の他、課題発見や課題解決力・学ぶ意欲や学び方、にまで及び多岐にわたり網羅的で総合的である。「生きる力」は、「確かな学力」の他、「豊かな人間性」の育成や「健康・体力」を含んでいる。「生きる力」という教育理念と観点別学力の目標準拠評価とが、何かちぐはぐな感じを受ける。「生きる力」には評価活動と相容れない、あるいは通常の評価では捉えきれない部分があるように思う。評価からはみ出る部分は、おそらく普段の学校教育活動からもはみ出ていってしまう予感がする。だがともかく、「生きる力」は日本の現実社会や産業社会が要求する現実的な能力となってきている。 [確かな学力]とは、知識や技能に加え、思考力・判断力・表現力などまでを含むもので、学ぶ意欲を重視した、これからの子どもたちに求められる学力、とされている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本田由紀『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』 本田由紀氏は、現代社会で求められる能力として、日本の近代社会では学歴や基礎的な学力や、組織への順応性や協調性といった能力(メリトクラシー)を求められるが、これに対してポスト近代社会では、「生きる力」や「コミュニケーション能力」や「創造性」といったより「人間自体の能力」を問うようなを能力が求められるとし、その能力を「ハイパー・メリトクラシー」と呼んでいる。 「メリトクラシー」は、業績主義と訳され、近代社会(産業社会)の基本的な性格であり、社会の中での人々の位置づけに関するルールであるとされる。それは、能力や努力の結果としての業績(メリット)を基準にして、社会的地位が決定するという考え方である。それ以前の、生まれた家庭の身分や性別などにより個々人の社会的な役割・地位・職業などが決まる「属性主義」に対してでてきた考え方である。 「近代社会」とは、人々を「生まれや身分」といったん切り離した上で、改めてその「資質や能力」に従って社会の中に配置し直すような仕組み=機構を、全社会的な規模で整備した社会である。そしてこのような選抜と配分のための社会的な機構として中心的な位置を占めるのが学校教育制度である、とする。 「近代社会」の編成原理としてのメリトクラシーは、学校教育を通じた社会的地位の選抜・配分と「努力」を通じた競争という仕組みを生んできたが、この仕組みは「近代社会」の産業構造、特に第二次産業の性格に対応したものであった。 本田由紀氏は、ハイパーメリトクラシー社会への変化を、「近代型能力」と「ポスト近代型能力」という二分法で描き出そうとする。
また、本田由紀氏は、このようなハイパー・メリトクラシー社会の要請に対して、渋谷望氏の論を引きながら次のような提案をしている。 企業が期待する「ハイパー・メリトクラシー」と学校教育の「生きる力」の育成はリンクしている。「社会」、とりわけ企業社会によって動員・活用されるばかりでなく、「個人」の自由と尊厳を守り人生を豊かにするような形での能力形成を行うことは可能か。 現代のようなポスト近代社会を生き抜くすべとして、「ハイパー・メリトクラシー」だけでなく「メリトクラシー」をも徹底的に拒否するような選択もある。また、「ハイパー・メリトクラシー」の要請を否定はしないが、応えようともせず別の生き方を探ろうとする選択もある。 今日の資本主義企業社会にあって、資本の自己増殖運動に取り込まれてしまわないための生き方は、どうすれば可能か。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「社会人基礎力」とは、「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」の3つの能力(12の能力要素)から構成されており、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として、経済産業省が2006年から提唱している。企業や若者を取り巻く環境変化により、「基礎学力」「専門知識」に加え、それらをうまく活用していくための「社会人基礎力」を意識的に育成していくことが今まで以上に重要となってきている、としている。 「社会人基礎力」の3つの能力・12 の要素 (2006年 経済産業省)
「社会人基礎力」という言葉は、学校や企業の授業・研修プログラムにも登場するなど、社会の多様な方面に浸透してきた。特に、その能力の育成主体として期待が寄せられる大学においては、具体的に社会人基礎力の育成に取り組む動きが広がり始めてる。 「社会人基礎力」を意識し、自分の強み・弱みに気付くことで、キャリアの可能性は大きく広がる。
企業が求める人材・能力(コンピテンシー)の実際はどうなのだろうか。
ヘイ・コンサルティング・グループのMcBer社 の6つの行動特性 タワーズ・ペリン社では,実際に制度導入したアメリカやイギリスの企業における導入率の高いコンピテンシーとして、次の11個の項目をあげている。 こうしたコンピテンシーの内容や項目は,コンピテンシー・ディクショナリーと言われるように一般に共通する汎用性の高いもので、実際にはそれぞれの企業や職務において高業績者を特定し、次りようなステップでコンピテンシーを抽出することになる。 コンピテンシーを抽出するそのステップ 高業績者が備えている能力という場合の「業績」とは何をさすのだろうか。売上に貢献する営業職か、新商品や新規事業に成功した企画者か、生産現場の有能な生産計画や業務の遂行者か、いちおう各種の業務の高業績者ということになっている。業務により職種により、そして企業により、能力項目にウエイトがつけられ、自他の評価による総合能力として評価される。 コンピテンシーモデルを導入するにあたっては、職能資格制度に代わる新しい能力主義システムとしては不完全で、賃金管理や報酬制度に直接導入することは困難が多い。職能資格制度の大幅な改善を図った上で、職能資格制度との併存を考えるとともに、人材の確保・育成・活用(配置・異動)など採用・人事管理に重点をおいたものにしていくことが望ましいとされている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
.6.「キャリア教育の手引き」 文部科学省 平成18年(2006年)11月
経済産業省の「社会人基礎力」の発表と前後して、文部科学省からは「キャリア教育」が打ち出され、内容的には「社会人基礎力」の要請に対して、文部科学省が応えたような形になっている。 キャリア教育の必要性 キャリア教育とは キャリアとは キャリア発達とは キャリア教育の意義
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
OECD(経済協力開発機構)は、「経済成長」、「開発途上国援助」及び「自由かつ多角的な貿易の拡大」といった国際的な経済協力を目的としている。OECDのDeSeCo
(コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎)プロジェクトは、教育・人材養成は労働市場や社会、経済と密接に関連していることから、幼児教育から成人教育までの広い範囲で、将来を見据えた教育政策のあり方を提言している。DeSeCoプロジェクトでは、「人生の成功と正常に機能する社会の実現を高いレベルで達成する個人の特性」を「キー・コンピテンシー」としてまとめた(暫定的な定義としつつも)としている。(「キー・コンピテンシー 国際標準の学力を目指して」より) DeSeCoのコンピテンスは、個人の人生の成功とうまく機能する社会に資することを目指す。
松下佳代氏は、「キー・コンピテンシー」について、次のように書いている。 PISA学力調査はOECD主催で、参加国はその加盟国を中心に広がっているが、日本でいう高校1年生、15歳を対象としている。初等・中等教育修了者を対象としているわけで、その学習成果を測ろうとしている。PISA型学力の有効性を評価するなら、日本の初等・中等教育でもPISA型学力の目指すものを取り込んでいく必要がある。 本来、PISA調査のいうリテラシーは、DeSeCoのキー・コンピテンシーの中の「道具を相互作用的に用いる」能力の一部を測定可能な程度にまで具体化したものである。この「道具」には、言語・シンボル・テクスト・知識・情報などが含まれており、そうした「道具」を使って対象世界と対話する能力が、PISAの「読解力」、「数学リテラシー」、「科学リテラシー」なのである。そこには、認知的要素とあわせて非認知的要素(情意的・社会的要素)も含まれている。
本来は、PISAリテラシーも、他のキー・コンピテンシーと相互関連性をもちながら形成をはかるべきである。 学力は、知識・技能の基礎基本の習得とされるならシンプルで分かりやすい。それに対してより高度な応用的能力とされる思考・判断・表現の能力、すなわち「活用的能力」、PISA的に言えば「リテラシー」となると、日本の教育ではあまり重視されてこなかった能力であり、幾分、学校教育で扱う学力としては幅が広い。
学校教育の目的が学力だけではないように、学力もそれ自身を目的とするものではない。学力の上位カテゴリーに「学力」を位置づける必要があるのではないか。より大きな枠組みの中で学力を考え直すと、人間にとっていろいろな道具の中のひとつとしての学力の位置づけが見えてくる。 日本では、「人格の完成」や「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと」が、教育基本法の教育の目標一となっている。 PISA型学力は、より大きな概念であるキー・コンピテンシーの一つの要素という位置付けになっている。キー・コンピテンシーという社会的に要請される能力の質をにらみながら、基礎・基本の知識・技能を踏まえた、リテラシー=活用力の育成の教育と評価を重視していくことが、必要となるだろう。 21世紀を生き抜く人間の能力は、「道具としての学力」により測ることができるのだろうか。学力評価とは別の評価材を開発する必要があるのではないか。どのような能力が期待されるかは、その能力の目的に対する価値判断に依存するのではないか。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
学力イメージを整理しようとしたが、かえって混乱に拍車をかける結果になったかもしれない。学校教育の中でも、「ゆとり」でも「詰め込み」でもない教育ということで、確かな「学力」よりも「生きる力」が強調されるようになってきた。ましてや学校から一歩外に出ると、従来の限定的なイメージの「学力」はなりをひそめ、「能力」や「コンピテンシー」や「キャリア」や「ボスト近代的能力」「ゼネリック・スキル」などが幅を利かす時代になってきたことは間違いない。
DeSeCoのキー・コンピテンシーが掲げる能力の諸価値はあまりに多岐にわたり、そうした価値にもとづく要求がどのような実践として具体化されるのかはあまり明らかにされていない。学校教育における日本的現実とOECDのDeSeCoプロジェクトが目指そうとする能力=コンピテンシーの間には大きな隔たりがある。OECD・DeSeCoプロジェクトの提案は、「ヨーロッパでは、グローバリズムの中で、国民という形を超えて学力の組み直しが行なわれている。「多文化・多言語・多民族という社会」とそこに生きる異質な者を認め合いながら、いかにそれを交流させるかという点にこそ学力の中心課題」があり、そのような環境のなかで学力・リテラシーを構想している。日本的現実のなかでの学力とOECDD・PISA的学力との隔たりの中でこそ、学力の全体像のようなものが見えてくるように思う。 日本的現実の中では、PISAリテラシーは他のキー・コンピテンシーから切り離され、「PISA型学力」「PISA型読解力」「活用力」といった形で初等・中等教育の現場に浸透してきている、というのが現状。 DeSeCoのキー・コンピテンシーの具体的な行動・態度・思考はどうなのか。その関心・欲求のありどころを見ることで、DeSeCoのキー・コンピテンシー、学力=リテラシーの目指そうとするものがいくらか明確になってくる。ここで、コンピテンシーを身に付けた人の具体的なイメージが語られている。ここでは、「すべての人にとって重要な能力」としているが、目指そうとする行動はグローバル経済社会の積極的構成者のものであろう。 1)「全体的な人生の成功と正常に機能する社会」という点から、個人及び社会のレベルで高い価値をもつ結果に貢献するものであること 次に、さまざまな人生の状況において、成人が直面する精神的な課題に対応するために必要な能力のレベルを捉えるためということで、次の4つの概念を提示している。 1)社会空間を乗り切ること 2)差異や矛盾に対処すること:「あれかこれか」を越えて 3)責任をとること ○二者択一の考え方を越えて:思慮深さの具体例 DeSeCoのキー・コンピテンシーを身に付けた人の行動・態度・思考をまとめると次のような人間像が浮かんでくる。興味があるのでまとめてみた。
キー・コンピテンシーと学校教育でいう学力との間には、「千里の径庭」を感じてしまうが、「生きる力」や「キャリア教育」や「社会人基礎力」「ポスト近代型能力」といった能力指向と同じものを感じる。学校教育としてどこまでが到達すべき学力であり、目指すべき能力であるのか。変動の激しい現代社会にあって、学力といわれるものの自己規定は、何度でも更新されるべきだろう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
以上 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
by miura 2011.6 mail: お問い合わせ |