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 「21世紀型の学力とは」ノート

2011.6 三浦@int


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.1.なぜ学力なのか

.2.<新しい能力>の背景

3.「ゆとり教育」と「生きる力」を目指す「確かな学力」

4.ハイパー・メリットクラシー

5.「社会人基礎力」経済産業省

6.「キャリア教育の手引き」 文部科学省

7.PISA型学力とは 新しい能力の概念

8.新しい能力・学力の全体像


.1.なぜ学力なのか 


 学校教育における「学力」とは、直接的にいうなら、学習の成果として、指導要領の各教科の記載事項に観点別能力を踏まえつつ到達する、ということになろうか。そのような学力は、いわば教科書的・指導要領的学力であり、到達目標が客観的であり、到達したかどうかの判定も比較的明確である。そのような学力をしっかりと身に着けた生徒は、将来の産業社会・実社会にもうまく対応していけるはずで、目標に高いレベルで到達した生徒=成績優秀な生徒は産業社会の中でも優秀な成果を残せるはず、ということになっている。一生懸命に努力して勉強し、よい学校に進み、よい企業に就職し、企業活動に専念する。そうすれば本人の生活は保証され、本人も企業も安定成長を続けられる。そういう前提で、親も子も「学力」の向上に励んできたはずである。
 PISAのテストが注目され、学力低下が言われるようになり、思考・判断力や表現力などの「活用」的学力が重視されるようになった。「ゆとり教育」から「確かな学力」の時代になり、「生きる力」的な総合的な学力が求められる時代になってきている。現在、子どもたちに身につけさせようとしている指導要領的・教科書的な知識理解は、子どもたちの将来の成長にとって本当に必要にして有効な学力なのだろうか。それとは別の学力があるのだろうか、「確かな学力」とは何なのだろうか、そういうことが問われる時代になってきたように思う。

 学力は、テストで測られた能力だとか、指導要領で規定されている到達目標だとか、知識・技能の基礎基本の習得だとか、活用力だとか、学び方を学ぶことだとか、様々に言われる。学校教育の枠のなかで考えられる学力やそれとは別の分野や立場からする学力や、大きな枠組みの中で考えられる学力がありそうである。各方面から言われる学力の内容や、「より大きな枠組みの中で考えられる学力」を踏まえ、そこから教育の現場の学力を捉え直してみようと思う。

 筆者は教育の専門化ではないが、職業がら学習システムや成績集計システムの開発や運営に関係した仕事に従事している。とりわけ、成績処理のシステム開発が中心であるため、何のための成績処理なのか、どう評価するのが正しい方法なのか、子供たちの成長に必要な評価なのだろうか、考えさせられることが多い。特に、学力の低下問題やPISAの学力調査に見られるPISA型学力といわれるものや、文科省の全国学力調査の「B問題」などの出題傾向などを追っていると、従来型の学力と比較して、そこでいわれている学力とは何なのかを考えてしまう。余計なことを考えずに、与えられた開発課題を達成すればよいのだが、「学力」ということばの定義からして怪しい状態で、気持ち悪いことが多い。
  客観的な統計手法で計算できる相対評価なら、文科省の指導要領に則って作成され提示されたテスト問題の得点や正答率等の集計により、問題なく処理できる。目標準拠の絶対評価などといわれると、規準としての客観性は理解できても、その到達度の判断基準となると、さっぱりわからなくなる。その判断の基準が個々の学校や教師に委ねられていて、絶対評価といわれるものの背後にある主観性が気になる。
 絶対評価の到達目標に対する判断基準を客観化しようとすると、集団に依存した相対的な統計手法を採用せざるを得ない。絶対評価といえども児童生徒の目標への達成状態の評価なのだから、到達できる児童生徒の量的・相対的な判断基準を根底に持っているはずであり、相対的なものから独立しているわけではない。相対評価は、教室や学校などの小さな集団の中で作成されると弊害を生むが、全県や全国などのもっと広い集団のなかで使用されれば、その弊害も軽減され有効である。要は、使い方次第ということではないだろうか。

 また、PISA型学力が衝撃的だったのは、「活用的能力」や「読解力」、「記述表現力」などが問われたことである。学習した知識や技能を具体的な実際に近い課題に、どれだけうまく活用し、適用し、課題を解決していけるか。けっこう長い文章を読んでその内容や形式について考え、判断し、自分の意見や判断を文章にして表現することができるか。それをPISA調査では、「数学リテラシー」・「科学リテラシー」・「読解力」と呼んでいる。静的なイメージの観点的学力に比べ、PISA型学力は動的で、実際的、実用的、より広く大きな学力というイメージである。PISA型学力がなんとなく魅力的に見えてしまうのは致し方ないことか。
 例えば、国語の読解力では、説明文的な長文(表・グラフ・画像などを含む非連続的テキスト)を読んで、「情報の取り出し」 、「解釈」、「熟考・評価」の3つのプロセスにおいて問題を出し、最後は自分の意見を根拠を示して論理的に「自由記述」する。驚きは、「読解力」を構造化された学力観点からしっかり評価していることだった。
  だが、PISA型の学力といっても、従来型の教科の基礎基本的な知識や技能を否定しているわけではない。それらの伝統的な基礎・基本の学力を踏まえて、現実に生起する様々な問題に立ち向かうための能力=活用的能力に、ウエイトを移してきたといえるだろう。
  PISA型の学力は一般に「活用力」型の学力といわれるが、解決すべき現実の具体的な課題に対して、学習した知識・技能をうまく適用して、課題を正確に理解し解決することができるかどうか、という能力である。この「活用力」型の学力の内容は、主に「思考・判断」力に関わるとされ、最終的には自分が思考し判断した結果を指定された条件の中で文章にする「表現力」までが含まれる。また、課題となる文章の内容や形式についても、それが妥当なのかどうか、しっかりとした価値判断力があるかどうかが問われる傾向にある。

 文科省の「生きる力」や「確かな学力」そして「キャリア教育」、グローバル経済の健全な発展のためのPISA的・活用力的学力、入試選抜を突破するための学力、経済産業省の「社会人基礎力」など、学力といわれるものに対する期待の内容はさまざまである。文科省や教育委員会、学校や先生、塾の先生や親の抱くイメージ、大学の先生や企業の人事採用担当者、そして産業界、国際的な経済機関、それぞれの立場から見た学力イメージはそれぞれに異なっている。どうやら学力というものは、その立場の人々の期待や欲求などと「関心相関的」であるようだ。どれが正解とも一概には断定できない。これらの諸相を概観するだけでも、学力といわれるものが現在どういう位置にあるのか、どういうものとして期待されているのか、いろいろ見えてくるのではないか。


.2.<新しい能力>の背景

 

 一般に「学力」という指標と社会人基礎力の水準には相関関係があるということになっている。そう信ずるから企業は「学力」の高い人を採用しようとし、長い間そのやり方でうまくいっていた。しかし近年、その相関関係が低下してきているという実感が報告されている。長期低迷する経済社会にあって、企業活動や社会を活性化させるものは、どうも高い学力だけではないということが分かってきた。

 コンピテンシーという言葉がある。アメリカから入ってきた。コンピテンシーcompetency( 業績の高い人の行動特性)という言葉は、日本ではまだなじみが薄いがウキュペディアでは次のように説明している。
 「この手法は、特に企業などの人事考課に活用され、職種別に高い業績を上げている従業員の行動特性を分析し、その行動特性を評価基準とし従業員を評価することで、従業員全体の質の向上を図ることを目的としている。
従来の日本型の人材評価は、「協調性」・「積極性」・「規律性」・「責任性」などから構成され、従業員の潜在的・顕在的能力を中心に評価していたが、能力が高いことが成果と繋がるわけではないので評価と会社への貢献度がリンクしないことがあった。」
 「ある職務や状況において、期待される業績を安定的・継続的に達成している人材に、一貫して見られる行動・態度・思考・判断・選択などにおける傾向や特性のこと。
 インタビューや観察などで確認できる能力であり、その職務において優秀な成績を挙げる要因となる特性を列挙したものである。通常は、その職務で必要となる知識や技能は除外して考える。」(Wikipediaより)
 アメリカでは、いちはやく 知識の生産と管理に焦点を合わせた知識の経済活動や知識を基盤とした経済、つまり知識経済やそれを支える知識労働者へのニーズが高まっている。グローバルな情報社会・知識経済への対応の必要性があり、そのための能力が求められる。このような環境において成功するのに不可欠なジェネリック・スキルともいうべきものへの需要が増加してきたということである。
 経済先進国がグローバルな知識経済において競争力を維持するためにとりわけ重要なのは、それを担うシンボリック・アナリスト(ロバート・バーナード・ライシュ、アメリカ合衆国の元労働長官、経済学者の言葉)の養成である。そして、シンボリック・アナリストにとって重要なのは、知識の習得よりも知識の活用力であり、情報発信力であり、問題解決力であり、世界で通用するコミュニケーション能力である。シンボリック・アナリストとは、「象徴分析者」と和訳できるが、知識労働者と同じような意味である。

 また、「現実をいったん抽象イメージに単純化し、それを組み替え、巧みに表現、実験を繰り返し、他分野の専門家と意見交換したりして、最後には再びそれを現実に変換する」、こういったシンボリック操作の能力は、知識・技能を動員して現実の複雑で困難な課題に立ち向かうときに必要とされる能力の一端で、シンボリック・アナリストの能力要件とされる。
 これはPISAの数学的リテラシーや「数学化サイクル」の内容と驚くほど重なりあっている。
 「様々な状況で生徒が数学的問題の設定・定式化・解決・解釈を行う際に、数学的なアイディアを有効に分析し、推論し、コミュニケーションする能力」ということになる。

 明治時代以来の「近代型能力」である「メリトクラシー」から、「ポスト近代型能力」である「ハイパー・メリトクラシー」といわれる能力が求められる時代にさしかかっている。本田由紀氏(『多元化する「能力」と日本社会』) によると、日本は欧米社会と比較もてみても 「近代型能力」の優等生ということになっている。日本は明治以来、階層社会の圧力があまり強くなく、一生懸命に勉強し努力して優秀な成績を残せば、誰でも末は大臣や博士になれ、事業を起こして社会で成功する可能性があるとされてきた。日本人は、たとえ幻想であったとしてもその可能性を信じて努力し苦労に耐え、勉学に励んできた。頂上にまで出世しなくても、よい大学を出て、よい上場会社や官庁に就職できれば、あとは本人の努力次第で仕事上のやりがいも出世も高給も安定した生活もある程度保証されてきた。
 1990年代以降の失われた15年で、泥沼のようなデフレと低成長を耐え、日本経済は2000年代に入りようやく回復基調に入ってきたといわれる。能力主義や新自由主義的な米国型経営や市場経済主義を取り入れた企業や事業が必ずしも成功したわけでもないが、日本型資本主義の見直しには大いに貢献することになった。経済環境の大きな変革期の中で、労働市場も大きく変わってきた。完全雇用の維持は難しくなり、非正規雇用が就労者の1/3にもなって、給与や労働条件の格差も大きくなった。
 情報・通信技術の進展は知識基盤社会を加速させ、製造業などの伝統的な産業はグローバルな再配置と分業化が避けられない。伝統的な産業社会の成熟化は、日本経済社会の大きな組み換えを要求している。
 「標準化された完全就業システム」から「柔軟で多様な部分就業システム」へ、 「企業・従業員相互依存型」から「従業員自立・企業支援型」へ。日本的雇用の良さを残しながら、情報社会・知識経済を乗り切るために、雇用と労働の形態はどう変わっていくのか。労働者は、自立的に自分らしく生きようとしたらどういう学びと生き方が必要になるのか。
 学校教育はいままでのような伝統的な学力の育成と人格の涵養をしていればよいという時代ではなくなってきた。よりよい学校に入学するのに必要な基礎学力や応用的学力は当然の前提で、さらに入試選抜においても入学後においても、基礎的学力のレベルを超えた「活用的能力」や思考・判断・表現力、さらに課題発見や解決能力、国際理解能力やコミュニケーション力など、新しい学力・能力が求められるようになってきた。そういう能力を義務教育段階から身につけていないと、ハイレベル学校には入学できないというのは、すでに現実のことになっている。また、よい大学をでてよい企業に入ったからと言って、高給や昇進が保証されるわけではない。弱肉強食に近いグローバル経済や突然の経済環境の変化のなかでの企業経営、生産や交換の形態の社運を懸けての組み換えなど、そういう時代に対応してプロジェクトを企画して組織し、施策を効果的に遂行し、有効な成果を残すことができる能力、そういう能力が要求される時代になってきた。(こんな能力はほとんどスーパーマンしか備えていないが。)
  終身雇用でも年功序列でもない、自己の責任において仕事に就き、業務を遂行し、何事かを成し遂げ、企業の売上げに貢献し、社会に貢献する。仕事が終わればまた次の就労先を見つけ、雇用を確保したり、事業を立ち上げる、そういう自立したしぶとさ・したたかさが、これからの労働者に求められるということである。
  それは労働者にとって自分の自由を確保するための道だろうか、企業にとってのみ都合のよい就労形態になっていないだろうか。欧米のみならず台頭してくる極東アジアの諸国と競合し、将来にわたって日本という経済社会を持続的に発展させていくために、日本国民に要求される能力なのだろうか。それはともかくとしても、個々の労働者が「自分の自由と幸福の追求」と「正常に機能する社会」の実現のために現在を生きようとすれば、新しい学力・能力が求められるということである。そのための能力、「生きる力」ともいえる新しい学力が、現実のものとして要求されている。

 

.3.「ゆとり教育」と「生きる力」を目指す「確かな学力」

 

 1990年代に入って、「ゆとり教育」に加えて、「新学力」として、学力を「観点別」に評価することになった。従来の「知識・理解・技能」中心の学力から、「関心・意欲・態度」を重視して「思考・判断」「表現・技能」「知識・理解」の大きく4つの観点から評価しようとするもの。そして、評価方法も相対評価中心から、絶対評価・目標準拠評価に大きく変更になった。
  「ゆとり教育」の理念はなんだったのだろうか。受験競争や知識・技術偏重型の教育を緩和させようとしただけなのだろうか。結果的には、教育の質的な転換よりも、新自由主義的なエリート教育を先行させてしまう危惧を現実のものにすることになったのではないか。「ゆとり教育」路線の功罪の反省もないまま、官民ともに「生きる力」を支える「確かな学力」路線になだれ込んでいるというのが実感だろうか。
 「ゆとり教育」の流れは、グローバルな情報社会や知識経済への対応といった社会的な要請の観点から導入されたものではない。加熱する受験競争や偏差値教育の是正という観点を中心に文科省の施策としてうちだされたものである。この「新学力観」や「ゆとり教育」の結果は、しかし短期的には学力の全般的な低下という現象をもたらすことになった。学力は落ちていないと強弁する向きもあるが、学習単元と授業時数を減らしたら、少なくとも基礎・基本の知識・技能の学力は落ちるに決まっている。「思考・判断」や「生きる力」的な「見えない学力」の育成は、趣旨は解っても授業実践は容易ではないし評価活動にも困難が多い。親はこのままでは学校に任せてはおけないと、せっせと子供を塾に通わせた。思考や表現力などの「見えにくい学力」の育成は、子供の成長にとって必要な学力観点であり、その必要性について誰もが納得しているが、社会の反応は正直なもので、概念が分かりにくく評価法も定まっていない「関心・意欲・態度」を重視する教育よりも、「知識・理解・技能」の「見える学力」に多くを期待した。
  また、私学のトップ校や有名中高一貫校に入学するためには、「適性検査」という名の教科横断型の高度な出題や時事的な問題についての文章読解力や自分の意見や考えを論理的に組み立て論述する表現力など、高度な新傾向の活用型学力が問われる出題に向かっている。思考・判断・表現力や読解力や論述表現力は抽象的な能力としてではなく、すでに「確かな学力」として「見える学力」の仲間に入ろうとしているといえる。

 文科省は、有識者や社会の批判を受け、「ゆとり教育」から「生きる力」を支える「確かな学力」の路線に転じるが、観点別学力の絶対評価・目標準拠評価の方針は変えていない。これは指導要録への学力状態の記載の関係で残っているものと思われるが、「確かな学力」の具体的なイメージは、基礎基本の「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」の他、課題発見や課題解決力・学ぶ意欲や学び方、にまで及び多岐にわたり網羅的で総合的である。「生きる力」は、「確かな学力」の他、「豊かな人間性」の育成や「健康・体力」を含んでいる。「生きる力」という教育理念と観点別学力の目標準拠評価とが、何かちぐはぐな感じを受ける。「生きる力」には評価活動と相容れない、あるいは通常の評価では捉えきれない部分があるように思う。評価からはみ出る部分は、おそらく普段の学校教育活動からもはみ出ていってしまう予感がする。だがともかく、「生きる力」は日本の現実社会や産業社会が要求する現実的な能力となってきている。

 [確かな学力]とは、知識や技能に加え、思考力・判断力・表現力などまでを含むもので、学ぶ意欲を重視した、これからの子どもたちに求められる学力、とされている。
 中央教育審議会の答申では、次のように説明している。
 「これからの未曾有(みぞう)の激しい変化が予想される社会においては,一人一人が困難な状況に立ち向かうことが求められるが,そのために教育は,個性を発揮し,主体的・創造的に生き,未来を切り拓(ひら)くたくましい人間の育成を目指し,直面する課題を乗り越えて生涯にわたり学び続ける力をはぐくむことが必要である。
 このために子どもたちに求められる学力としての[確かな学力]とは,知識や技能はもちろんのこと,これに加えて,学ぶ意欲や,自分で課題を見付け,自ら学び,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力等までを含めたものであり,これを個性を生かす教育の中ではぐくむことが肝要である。
 また,昨今の学力低下に関する論議は,学力を単に知識の量としてとらえる立場,あるいは思考力・判断力・表現力や学ぶ意欲などまでも含めて総合的にとらえる立場など,学力をどのようにとらえるかの立場の違いにより議論がかみ合っていないと思われる場合もある。本審議会としては,これからの学校教育では,[生きる力]という生涯学習の基礎的な資質や能力を育成する観点から,上記の[確かな学力]を重視すべきであると考える。」(「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について(答申)」 平成15年10月7日)

 PISA型テストで言われる「活用」型学力は、「思考・判断」力に支えられるとともに、それらの学力を育成するものとされる。観点別学力観は、「関心・意欲・態度」優先から「思考・判断・表現」重視に転換することで、全体としては新時代型学力の要請にも対応しているように見える。「関心・意欲・態度」「思考・判断」「表現・技能」「知識・理解」のどこに重点をおくかにより、どのような経済・社会の期待に対しても対応できるような柔軟性をもっている学力観ともいえる。そのような柔軟性は、「確かな学力」的、「生きる力」的な観点別学力観が「学力」としての一般性を持つことの証といえるかもしれない。
 ただ、「確かな学力」が、「学ぶ意欲」から、知識や技能の基礎・基本を踏まえた、思考力・判断力・表現力を含むものとされるような総合的な概念で語られると、そのすべてを満たすような教育施策、指導要領、授業設計等が著しく困難になってくるのではないか、という危惧がどうしても出てしまう。だが、現実社会はすでにこの能力を要求してきている。

 

4.ハイパー・メリトクラシー

 

本田由紀『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』
2005年NTT出版 より

 本田由紀氏は、現代社会で求められる能力として、日本の近代社会では学歴や基礎的な学力や、組織への順応性や協調性といった能力(メリトクラシー)を求められるが、これに対してポスト近代社会では、「生きる力」や「コミュニケーション能力」や「創造性」といったより「人間自体の能力」を問うようなを能力が求められるとし、その能力を「ハイパー・メリトクラシー」と呼んでいる。

 「メリトクラシー」は、業績主義と訳され、近代社会(産業社会)の基本的な性格であり、社会の中での人々の位置づけに関するルールであるとされる。それは、能力や努力の結果としての業績(メリット)を基準にして、社会的地位が決定するという考え方である。それ以前の、生まれた家庭の身分や性別などにより個々人の社会的な役割・地位・職業などが決まる「属性主義」に対してでてきた考え方である。
 「メリトクラシー」の前につけられる「ハイパー」は、個々人の資質や能力において、一定の手続きにより切り取られる限定的な一部分だけでなく、人間存在のより全体ないし深部にまで及ぶ要請で、場面場面における実質的・機能的な有用性が前面に押し出された、よりあからさまな機能的要請という意味でつけられたものある。

 「近代社会」とは、人々を「生まれや身分」といったん切り離した上で、改めてその「資質や能力」に従って社会の中に配置し直すような仕組み=機構を、全社会的な規模で整備した社会である。そしてこのような選抜と配分のための社会的な機構として中心的な位置を占めるのが学校教育制度である、とする。
 メリトクラシーは「競争」と不可分であるが、日本社会はメリトクラシーの典型ないし極限形態ともいえる。
 竹内洋氏は、欧米では過熱化した学歴獲得レースが見られないし(欧米は、学歴競争はあまりみられないが、日本より学歴社会だともいえるが)、メリトクラシーを内面化しての大衆的競争状況はみられない、という。(「日本のメリトクラシー」)
 欧米社会ではメリトクラシーが建前として掲げられながらも、実際には個々人の所属階層が社会的地位に与える影響が相当に大きいからである、としている。それに対して日本では、受験競争や企業内の昇進競争にみられるような激しい「大衆的競争状況」が成立してきた、と竹内氏はいう。

 「近代社会」の編成原理としてのメリトクラシーは、学校教育を通じた社会的地位の選抜・配分と「努力」を通じた競争という仕組みを生んできたが、この仕組みは「近代社会」の産業構造、特に第二次産業の性格に対応したものであった。
 これに対して、情報化・生活上の必要を超えた消費化・サービス化が進行した「ポスト近代社会」においては、労働は量的・質的に柔軟化が要求され、雇用の流動化と労働市場における労働者の高い感応性や継続的な自己改革能力が求められる。それは「ハイパー・メリトクラシー」といわれる能力である。

 本田由紀氏は、ハイパーメリトクラシー社会への変化を、「近代型能力」と「ポスト近代型能力」という二分法で描き出そうとする。

メリトクラシー
<近代型能力>
ハイパー・メリトクラシー
<ポスト近代型能力>
「基礎学力」 「生きる力」でいわれているような能力
標準性 多様性・新奇制
知識量・知的操作の速度 意欲、創造性
共通尺度で比較可能 個別性・個性
順応性 能動性
協調性・同質性 ネットワーク形成力、交渉力(「対人関係能力」)
   
「閉じた努力」  「開かれた努力」
与えられた目標 自分の目標
機械的・自動的な努力 環境への鋭敏な感受性と反省的な自己規定
体系的な知識・技能 全人格的なもの(学力と人格の統一)

 また、本田由紀氏は、このようなハイパー・メリトクラシー社会の要請に対して、渋谷望氏の論を引きながら次のような提案をしている。
 「渋谷は、従来は対人サービス業において主に求められていた「感情労働」が消費社会化に伴い他の産業部門をも包摂して全人口レベルに広がっていると述べ、それが「個人の<実存>や<生>そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に投入すること」(渋谷望)を要求する結果になっていると指摘する。こうした指摘はハイパーメリトクラシー下における「ボスト近代型能力」の要請に対しても当てはまる。単に勉強していればよいだけでなく、意欲や創造性、柔軟な対人関係能力までもが日々の生活におして不断に求められる状況は、「社会」が「個人」を裸にし、そのむき出しの柔らかい存在のすべてを動員し活用しようとする状況に他ならない。それは個人にとってあまりにも過酷な状態である。「社会」にさらされ吸い取られない「個人」の領域をいかに確保するか、「個人」がいかにして無防備な柔らかい裸の上に「鎧」を着ることができるか、ということを真剣に考える必要がある。」

 企業が期待する「ハイパー・メリトクラシー」と学校教育の「生きる力」の育成はリンクしている。「社会」、とりわけ企業社会によって動員・活用されるばかりでなく、「個人」の自由と尊厳を守り人生を豊かにするような形での能力形成を行うことは可能か。
 現代社会の中で働くということの意味は、少なからず企業論理の中での自己実現を図らざるを得ないということである。より人格や情動に根ざしたような柔軟なタフネスさが求められていることを理解しつつ、その企業社会を生き抜いていくたくましさも必要になってくる。
 「それは、ハイパー・メリトクラシーに侵食してしまわれないような別種の「能力」原理を、ハイパー・メリトクラシー化に抗って押し出し返すことがいかにして可能かという課題でもある。」

 現代のようなポスト近代社会を生き抜くすべとして、「ハイパー・メリトクラシー」だけでなく「メリトクラシー」をも徹底的に拒否するような選択もある。また、「ハイパー・メリトクラシー」の要請を否定はしないが、応えようともせず別の生き方を探ろうとする選択もある。
 「ポスト近代型能力」を育成する場として、「地域社会」や「学校教育」に期待することも考えられるが限界がある。
 
  そこで本田由紀氏は、「専門性」を持ち出す。
 専門的な職業能力。専門性とは、個々人が社会の中で、特に仕事に関する面で、立脚することができる一定範囲の知的領域のこと。
 「「専門性」という「鎧」を身に着けていれば、意欲や問題解決能力、創造性、対人能力などの「ポス近代的能力」が要求されるにしても、あくまでその「専門」的な領域に関わる範囲においてその要求に応えればよいことになる。個々人は、あらゆる事柄に対して自分があまねく「意欲的」で「創造的」であるみとを示す必要はなくなる。最低限、自らの「専門性」という枠内でのみ、ある程度「意欲的」かつ「創造的」であればすむことになる。あらゆる他者に対してあまねく「コミュニケーション能力」を発揮する必要はなくなる。最低限、その「専門」の領域内で発生するコミュニケーションをうまく遂行できさえすればよくなるのである。」
 「重要なのは、「ポスト近代型能力」の構成要素である思考力、独創性、目標達成力、対人能力等々はそれ自体を直接に習得することは難しいのに対して、「専門性」の構成要素である原則や概念、ノウハウは、一定の学習過程を通じて習得可能であるということである。
 専門性は、行動としての努力を通じて習得できるという点では「近代型能力」に近い。学校教育という場での学習になじみやすいという点でも「近代的能力」と共通する。実際に、欧米では「近代型能力」の一部としての「専門性」が広く普及している。」

 「ハイパー・メリトクラシー」が要求される経済社会にあって、伝統的な学力や学歴だけでは現代社会を生き抜けない。個人の関心や思考や情動的なものや生き方や対人センス等すべてを動員して対応することが求められる企業社会にあって、個人はこのような状況にどう対応していけばよいのか、このような問題意識は多かれ少なかれ共有できるものだろう。学校教育においても、「ハイパー・メリトクラシー」を生き抜くすべを考えさせたり教えてもよいのではないか。「生きる力」とはそういう能力を含むものであり、「生きる力」を身に付けるとは「ハイパー・メリトクラシー」社会を生きる知恵ということになる。それは「ハイパー・メリトクラシー」社会に上手に対応していくことで、一面、その社会に取り込まれることを意味するが、そのギリギリのところを生きることになるのだろう。ただ、「専門性」という盾がどこまで身を守る武器となるのかはわからない。守るべき自己がどこまで健在であり続けられ、正気であり続けられるかはわからない。

 今日の資本主義企業社会にあって、資本の自己増殖運動に取り込まれてしまわないための生き方は、どうすれば可能か。

 

.5.「社会人基礎力」    経済産業省 2006年



 経済産業省は、「職場や地域社会で求められる能力」に注目してきた。背景には、ビジネス環境の変化と教育を巡る変化がある。
 近年、産業競争力として「新しい価値のある商品やサービスをいかに早く創り出すか」が問われ、企業現場では、新しい価値創出に向けた課題の発見、解決に向けた実行力、異分野と融合するチームワークなどの能力が強く求められてる。他方、従来それらの能力を「自然に」磨く場であった家庭や地域社会、部活動や集団活動などにおける教育力は落ち込んでおり、「職場や地域社会で求められる能力」に係る需要と供給のバランスは大きく崩れている。
 いわば、これまで大人へと成長する過程で「自然に」身に付くと考えられていた「職場や地域社会で求められる能力」は、今、「意識して育成しなければいけない能力」になったといえる。

 「社会人基礎力」とは、「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」の3つの能力(12の能力要素)から構成されており、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として、経済産業省が2006年から提唱している。企業や若者を取り巻く環境変化により、「基礎学力」「専門知識」に加え、それらをうまく活用していくための「社会人基礎力」を意識的に育成していくことが今まで以上に重要となってきている、としている。
http://www.meti.go.jp/policy/kisoryoku/index.htm

「社会人基礎力」の3つの能力・12 の要素 (2006年 経済産業省)

1.前に踏み出す力
(アクション)
@主体性 物事に進んで取り組む力
A働きかけ力 他人に働きかけ巻き込む力
B実行力 目的を設定し確実に行動する力
2.考え抜く力
(シンキング)
C課題発見力 現状を分析し目的や課題を明らかにする力
D計画力 課題の解決に向けたプロセスを明らかにし準備する力
E創造力 新しい価値を生み出す力
3.チームで働く力
(チームワーク)
F発信力 自分の意見をわかりやすく伝える力
G傾聴力 相手の意見を丁寧に聴く力
H柔軟性 意見の違いや立場の違いを理解する力
I情況把握力 自分と周囲の人々と物事との関係性を理解する力
J規律性 社会のルールや人との約束を守る力
Kストレスコントロ-ル力 ストレスの発生源に対応する力

 「社会人基礎力」という言葉は、学校や企業の授業・研修プログラムにも登場するなど、社会の多様な方面に浸透してきた。特に、その能力の育成主体として期待が寄せられる大学においては、具体的に社会人基礎力の育成に取り組む動きが広がり始めてる。
 しかしながら、一部では、学校等の果たすべき重要な役割である「知識教育」から遊離し、就職活動を目的とした一過性の取組にとどまってしまう例も見られるなど、「社会人基礎力」が基礎学力や専門的な知識・スキルと合わせて発揮される能力であり、「社会で活躍する際に不可欠だが、それ単独では十分に意義を発揮できない能力」であることが理解されていないケースが見受けられる、という。

 「社会人基礎力」を意識し、自分の強み・弱みに気付くことで、キャリアの可能性は大きく広がる。
 「社会人基礎力」を育成するには、全く新しい教育・学習モデルを導入するのではなく、学外とも連携して教育手法を変えていくことが必要である。まず、企業の求める人材像を明示することだけでも、「社会人基礎力」の育成に協力できる、としている。

 

 企業が求める人材・能力(コンピテンシー)の実際はどうなのだろうか。

 アメリカン・エキスプレス社の「リーダーの8つの行動特性」(リーダーシップ体系)

Create Our Future
未来を創造する
(1)戦略性
(2)想像力
Inspire Our Peaple
人々を鼓舞する
(3)関係構築力
(4)コミュニケーション能力
(5)人材育成能力
Excite Our Customers
顧客を感動させる
(6)顧客尊重
Deliver on the Premise
約束を果たす
(7)実行力
(8)誠実さ・成熟度

 ヘイ・コンサルティング・グループのMcBer社 の6つの行動特性
 「達成行動力,対人関係力,対人影響力,管理力,認知力,個人の成熟性」

 タワーズ・ペリン社では,実際に制度導入したアメリカやイギリスの企業における導入率の高いコンピテンシーとして、次の11個の項目をあげている。
  @コミュニケーション
  Aチームワーク
  B顧客志向性
  C成果達成志向
  D革新性/創造性
  Eビジネス感応性
  Fリーダーシップ
  G自身および他者の能力開発/育成
  H意思決定
  I順応性/柔軟性,....
  J問題解決

 こうしたコンピテンシーの内容や項目は,コンピテンシー・ディクショナリーと言われるように一般に共通する汎用性の高いもので、実際にはそれぞれの企業や職務において高業績者を特定し、次りようなステップでコンピテンシーを抽出することになる。

コンピテンシーを抽出するそのステップ
 ステップ1:各職務における高業績を定義する
 ステップ2:高業績者を特定(選定)する
 ステップ3:高業績者が持続的に高い成果を生み出す行動特性を抽出する
 ステップ4:抽出した行動特性の中から重要なものを選び,コンピテンシーとする

 高業績者が備えている能力という場合の「業績」とは何をさすのだろうか。売上に貢献する営業職か、新商品や新規事業に成功した企画者か、生産現場の有能な生産計画や業務の遂行者か、いちおう各種の業務の高業績者ということになっている。業務により職種により、そして企業により、能力項目にウエイトがつけられ、自他の評価による総合能力として評価される。

 コンピテンシーモデルを導入するにあたっては、職能資格制度に代わる新しい能力主義システムとしては不完全で、賃金管理や報酬制度に直接導入することは困難が多い。職能資格制度の大幅な改善を図った上で、職能資格制度との併存を考えるとともに、人材の確保・育成・活用(配置・異動)など採用・人事管理に重点をおいたものにしていくことが望ましいとされている。
 新しい能力=コンピテンシーは、望まれる能力ではあるが、職能資格や賃金査定の基準とするのには評価方法や基準の面で不安があるようだ。「能力主義」「成果主義」による能力評価が抱えている問題(態度や情意、仕事の環境、各種の能力評価、評価者の主観性、非公開性など)と同種の問題を抱えているといえる。

 

.6.「キャリア教育の手引き」 文部科学省 平成18年(2006年)11月

 

 経済産業省の「社会人基礎力」の発表と前後して、文部科学省からは「キャリア教育」が打ち出され、内容的には「社会人基礎力」の要請に対して、文部科学省が応えたような形になっている。
 キャリア教育の意義は、「子どもたちが「生きる力」を身に付け、社会の激しい変化に流されることなく、それぞれが直面するであろう様々な課題に柔軟にかつたくましく対応し、社会人・職業人として自立していくことができるようにする」ことにある。学校教育と社会人教育とのむ橋渡しという位置付けだが、「確かな学力」よりさらに上位概念の「生きる力」を身につけることが強調されている。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/career/06122006.htm より

 「「キャリア教育」という文言が、文部科学行政関連の審議会報告等で初めて登場したのは、中央教育審議会答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」(平成11年12月)であります。この答申は、学校種間における接続だけではなく、「学校教育と職業生活との接続」の改善も視野に入れたものであり、具体的には「小学校段階から発達段階に応じてキャリア教育を実施する必要がある」と提言されました。
 その後、初等中等教育におけるキャリア教育の在り方については、学識経験者や経済団体関係者、学校教員等で構成される協力者会議を設け、平成16年1月に「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書」を公表しました。この中で、キャリア教育は「児童生徒一人一人のキャリア発達を支援し、それぞれにふさわしいキャリアを形成していくために必要な意欲・態度を育てる教育」と定義され、「初等中等教育におけるキャリア教育の推進」が提言されました。」
(「小学校・中学校・高等学校 キャリア教育推進の手引 −児童生徒一人一人の勤労観、職業観を育てるために−」 まえがき より)

キャリア教育の必要性
 「今日、少子高齢化社会の到来、産業・経済の構造的変化、雇用の多様化・流動化等が進む中、就職・進学を問わず、子どもたちの進路をめぐる環境は大きく変化している。また、教育を取り巻く環境も大きく変化してきており、これら社会と教育の動向から若者をめぐる様々な課題が浮かび上がっている。一方、若者の勤労観、職業観の未成熟や、社会人・職業人としての基礎的・基本的な資質・能力の不十分さなどについても各方面から指摘されている。
 このような中で、子どもたちが「生きる力」を身に付け、社会の激しい変化に流されることなく、それぞれが直面するであろう様々な課題に柔軟にかつたくましく対応し、社会人、職業人として自立していくことができるようにする教育の推進が強く求められている。」

キャリア教育とは
 「キャリア概念」に基づいて、「児童生徒一人一人のキャリア発達を支援し、それぞれにふさわしいキャリアを形成していくために必要な意欲・態度や能力を育てる教育」。端的には、「児童生徒一人一人の勤労観、職業観を育てる教育」

キャリアとは
 「個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積」

キャリア発達とは
 発達とは生涯にわたる変化の過程であり、人が環境に適応する能力を獲得していく過程である。その中で、キャリア発達とは、自己の知的、身体的、情緒的、社会的な特徴を一人一人の生き方として統合していく過程である。

キャリア教育の意義
 子どもたちが「生きる力」を身に付け、社会の激しい変化に流されることなく、それぞれが直面するであろう様々な課題に柔軟にかつたくましく対応し、社会人・職業人として自立していくことができるようにする教育の推進が強く求められている。

学校から社会への移行をめぐる課題   子どもたちの生活・意識の変容
@ 就職・就業をめぐる環境の激変
・新卒者にたいする求人状況の変動
・求職希望と求人希望との不適合の拡大
@ 子どもたちの成長・発達上の課題
・身体的な早熟傾向に比して、精神的・社会的自立が遅れる傾向
・働くことや生きることへの関心、意欲の低下
A 若者自身の資質等をめぐる課題
・勤労観、職業観の未熟さ
社会人・職業人としての基礎的資質・能力が未成熟
・社会の一員としての意識の希薄さ
A 高学歴社会におけるモラトリアム傾向
・職業について考えることや、職業の選択・決定を先送りにするモラトリアム傾向の高まり
・進路意識や目的意識が希薄なまま、進学・就職する者の増加
            
学校教育に求められている課題
「生きる力」の育成 −確かな学力、豊かな人間性、健康・体力−
社会人・職業人として自立した社会の形成者の育成の観点から
・学校の学習と社会とを関連付けた教育
・生涯にわたって学び続ける意欲
・社会人・職業人としての基礎的な資質・能力
・自然体験、社会体験等の充実
・発達に応じた指導の継続性
・家庭・地域と連携した教育
キャリア教育の推進
・望ましい勤労観、職業観の育成
 「個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積」
・一人一人の発達に応じた指導
 キャリア発達とは、発達とは生涯にわたる変化の過程であり、人が環境に適応する能力を獲得していく過程である。その中で、キャリア発達とは、自己の知的、身体的、情緒的、社会的な特徴を一人一人の生き方として統合していく過程である。
・小・中・高を通じた組織的・系統的な取組
 子どもたちが「生きる力」を身に付け、社会の激しい変化に流されることなく、それぞれが直面するであろう様々な課題に柔軟にかつたくましく対応し、社会人・職業人として自立していくことができるようにする教育の推進が強く求められている。
・職場体験・インターンシップ等の充実
キャリア教育の推進
「学ぶこと」と「働くこと」は「生きること」に必要な相互作用的円環である。
・人間関係形成能力
 他者の個性を尊重し、自己の個性を発揮しながら、様々な人々とコミュニケーションを図り、協力・共同してものごとに取り組む
 【自他の理解能力】【コミュニケーション能力】
・情報活用能力
 学ぶこと・働くことの意義や役割及びその多様性を理解し、幅広く情報を活用して、自己の進路や生き方の選択に生かす
 【情報収集・探索能力】【職業理解能力】
・将来設計能力
 夢や希望を持って将来の生き方や生活を考え、社会の現実を踏まえながら、前向きに自己の将来を設計する
【役割把握・認識能力】【計画実行能力】
・意志決定能力
自らの意志と責任でよりよい選択・決定を行うとともに、その過程での課題や葛藤に積極的に取り組み克服する
【選択能力】【課題解決能力】

 

.7.PISA型学力とは 新しい能力の概念

 

 OECD(経済協力開発機構)は、「経済成長」、「開発途上国援助」及び「自由かつ多角的な貿易の拡大」といった国際的な経済協力を目的としている。OECDのDeSeCo (コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎)プロジェクトは、教育・人材養成は労働市場や社会、経済と密接に関連していることから、幼児教育から成人教育までの広い範囲で、将来を見据えた教育政策のあり方を提言している。DeSeCoプロジェクトでは、「人生の成功と正常に機能する社会の実現を高いレベルで達成する個人の特性」を「キー・コンピテンシー」としてまとめた(暫定的な定義としつつも)としている。(「キー・コンピテンシー 国際標準の学力を目指して」より)

 DeSeCoのコンピテンスは、個人の人生の成功とうまく機能する社会に資することを目指す。
 DeSeCoプロジェクトで定義されたキー能力の概念は次の3つのカテゴリーに具体化される。
「社会的に異質な集団で交流すること」、「自立的に活動すること」、「道具を相互作用的に用いること」である。

カテゴリー
下位カテゴリー
教育・教科的学力
社会的に異質な集団での交流 @他者とうまく関わる能力:共感 コミュニケーション能力としての「生きる力」
A協力する能力
B対立を処理し解決する能力
自立的に行動する能力 @「大きな展望」の中で活動する能力

「生きる力」
([確かな学力]
[豊かな人間性]
「健康と体力」
)

A人生計画と個人的なプロジェクトを設計し、実行する能力
B自らの権利、利益、限界、ニーズを守り、主張する能力
ツールを相互作用的に用いる能力 @言葉、シンボル、テクストを相互作用的に活用する力 読解力リテラシー
数学的リテラシー
A知識や情報を相互作用的に活用する力 科学的リテラシー
B技術を相互作用的に活用する力 実技教科
コンピュータの活用

 松下佳代氏は、「キー・コンピテンシー」について、次のように書いている。
 キー・コンピテンシーでは、多様性・異質性を前提にした相互交流の力、自律性という視点から自ら目的を持ち学び続ける力が強調されることになった。
 私たちがヨーロッパの教育改革から示唆を受けるとすれば、「国際教育指標の質の定義とその確立過程」である。私たち日本人は、正解はひとつ、正しい答えを学ぶ・覚えるという学習観にとらわれている。ヨーロッパでは、グローバリズムの中で、国民という形を超えて学力の組み直しが行なわれている。「多文化・多言語・多民族という社会」とそこに生きる異質な者を認め合いながら、いかにそれを交流させるかという点にこそ学力の中心課題があると判断したのである。いかなる学力のグランドデザインを描けるかが問われている。
 キー・コンピテンシーとはつまり、道具を介して対象世界と対話し、異質な他者とかかわりあい、自分をより大きな時空間の中に定位しながら人生の物語を編む能力だといえる。
 能力概念を個人の内部から。個人が対象世界や道具、他者と出会う平面へと引きずり出す。そこでの能力は、関係の中で現出するものであり、個人に所有されるものでもある。すなわち、関係論と所有論の交差する場所に現れるのである。
(「<新しい能力>は教育を変えられるか」 序章より 松下佳代編著)

 PISA学力調査はOECD主催で、参加国はその加盟国を中心に広がっているが、日本でいう高校1年生、15歳を対象としている。初等・中等教育修了者を対象としているわけで、その学習成果を測ろうとしている。PISA型学力の有効性を評価するなら、日本の初等・中等教育でもPISA型学力の目指すものを取り込んでいく必要がある。
 PISA学力調査は、学校のカリキュラムをどの程度習得しているかを評価するものではなく、「知識や経験をもとに、自らの将来の生活に関する課題を積極的に考え、知識や技能を活用する能力があるか」をみるもので、「学校の教科で扱われる知識の習得を超えた部分まで評価しようとする」ものである。つまり、各国のカリキュラムに依存せずに、それを超えて出題される。
 もともとPISA調査は、「国際的に見て自国の教育の現状がどのような水準にあるのか、その位置づけを示す指標への要望」からスタートしている。「国として教育政策の成果を評価する必要」からその手段として期待されてきたものである。

 本来、PISA調査のいうリテラシーは、DeSeCoのキー・コンピテンシーの中の「道具を相互作用的に用いる」能力の一部を測定可能な程度にまで具体化したものである。この「道具」には、言語・シンボル・テクスト・知識・情報などが含まれており、そうした「道具」を使って対象世界と対話する能力が、PISAの「読解力」、「数学リテラシー」、「科学リテラシー」なのである。そこには、認知的要素とあわせて非認知的要素(情意的・社会的要素)も含まれている。 本来は、PISAリテラシーも、他のキー・コンピテンシーと相互関連性をもちながら形成をはかるべきである。
 ところが、日本ではPISAのリテラシーは他のキー・コンピテンシーと切り離され、「PISA型学力」「PISA型読解力」「活用力」といった形で初等・中等教育の現場に浸透してきている。キー・コンピテンシーのうち標準化された一部だけがある種の屈折を経て移入されている、と松下佳代氏はいう。

 学力は、知識・技能の基礎基本の習得とされるならシンプルで分かりやすい。それに対してより高度な応用的能力とされる思考・判断・表現の能力、すなわち「活用的能力」、PISA的に言えば「リテラシー」となると、日本の教育ではあまり重視されてこなかった能力であり、幾分、学校教育で扱う学力としては幅が広い。

 学校教育の目的が学力だけではないように、学力もそれ自身を目的とするものではない。学力の上位カテゴリーに「学力」を位置づける必要があるのではないか。より大きな枠組みの中で学力を考え直すと、人間にとっていろいろな道具の中のひとつとしての学力の位置づけが見えてくる。
 学習指導も学習することの目的を意識して準備される必要がある。「評価」活動においてもそれはいえるのではないか。

 日本では、「人格の完成」や「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと」が、教育基本法の教育の目標一となっている。
 「二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。」と続いており、「職業及び生活との関連を重視」する姿勢も規定されている。職業教育やキャリア教育の必要性も叫ばれているが、初・中等の学校教育の扱う範囲としては、このあたりまでなのではないか。
 高等教育となると「職業及び生活との関連」は、当然にいっそう重視されることになる。普通科教育では一般的にこの意識は弱いが、近年、普通科や進学校と言われる公立・私立高校でも「キャリア教育」に力を入れているところが増えてきている。文科省が推進する「キャリア教育」のためだけではない。それは将来の職業への動機づけや自分の適性や性向や能力などを考えさせ、将来の職能と自分自身への理解を深めさせることが、現在の学習活動への大きな動機づけと励みになることを期待しているからで、事実そういう効果が出ているからだろう。

 PISA型学力は、より大きな概念であるキー・コンピテンシーの一つの要素という位置付けになっている。キー・コンピテンシーという社会的に要請される能力の質をにらみながら、基礎・基本の知識・技能を踏まえた、リテラシー=活用力の育成の教育と評価を重視していくことが、必要となるだろう。

 21世紀を生き抜く人間の能力は、「道具としての学力」により測ることができるのだろうか。学力評価とは別の評価材を開発する必要があるのではないか。どのような能力が期待されるかは、その能力の目的に対する価値判断に依存するのではないか。

 

.8.新しい能力・学力の全体像

 

 学力イメージを整理しようとしたが、かえって混乱に拍車をかける結果になったかもしれない。学校教育の中でも、「ゆとり」でも「詰め込み」でもない教育ということで、確かな「学力」よりも「生きる力」が強調されるようになってきた。ましてや学校から一歩外に出ると、従来の限定的なイメージの「学力」はなりをひそめ、「能力」や「コンピテンシー」や「キャリア」や「ボスト近代的能力」「ゼネリック・スキル」などが幅を利かす時代になってきたことは間違いない。
  学力は、ある程度客観的に計測可能な指導要領的・教科書的学力に限定されるのか、「生きる力」的な拡張的・広義的な学力にまで拡張されるのか、さらに社会人に要求されるような「コンピテンシー」概念に取り込まれるのか。グローバルな経済社会の改変期にあって、日本人として要求される学力とはどのレベルなのだろうか。「見える学力」では、現代人に要求される基礎学力・基礎的能力としても、もはや足りなくなってきているのではないかという問題意識は共有可能だろう。だからといって、「学力」を直ちに「生きる力」やキー・コンピテンシーや人間的能力一般にまで拡張して考えることはできないだろう。「学力」が目標で「生きる力」が目的だとしても、「学力」として何をどこまで評価するかは、明確に設定しておく必要がある。客観的な到達度測定の対象にならない「学力」は、学校教育で扱う「学力」にはなりえないだろう。指導要領に記載されている内容を規準として到達程度を評価することはできるが、思考力・判断力・表現力というレベルになっただけで、その能力の育成方法や教材や評価法の開発はこれからというのが実際である。提示したテスト問題の達成度を相対評価で比較することはできても、目標準拠評価となると現状では困難といわざるを得ない。

  学習者中心に考えるなら、何のための学力なのか、学力は何を目指すのか、自分はどのような学力を形成し、どのような労働者として、企業家として、経営者として、社会人として、家庭人してい生きていくのか。よりよい自分自身と社会の形成者として、「学ぶこと」「働くこと」「生きること」のサイクルをどう自覚的に編んでいくのか。それが資本制経済社会の自由主義的・市場主義的な経済環境のなかでの生き残り的な競争に身をおくことになっても、「生きる力」をもって「学ぶこと」「働くこと」「生きること」の意味を考え続ける必要があろう。



 何のための能力か。何のための学校教育か。これで学力の全体像が見えてくるのか。
・選抜か、学歴か、学力教育か、人格の涵養か、企業の求める人材育成か
・職業生活か、それ以外の社会領域での活動か
・個人の人生編成か、社会の再構築のためか。(DeSeCoの能力概念はその2つをねらう。)

 DeSeCoのキー・コンピテンシーが掲げる能力の諸価値はあまりに多岐にわたり、そうした価値にもとづく要求がどのような実践として具体化されるのかはあまり明らかにされていない。学校教育における日本的現実とOECDのDeSeCoプロジェクトが目指そうとする能力=コンピテンシーの間には大きな隔たりがある。OECD・DeSeCoプロジェクトの提案は、「ヨーロッパでは、グローバリズムの中で、国民という形を超えて学力の組み直しが行なわれている。「多文化・多言語・多民族という社会」とそこに生きる異質な者を認め合いながら、いかにそれを交流させるかという点にこそ学力の中心課題」があり、そのような環境のなかで学力・リテラシーを構想している。日本的現実のなかでの学力とOECDD・PISA的学力との隔たりの中でこそ、学力の全体像のようなものが見えてくるように思う。

 日本的現実の中では、PISAリテラシーは他のキー・コンピテンシーから切り離され、「PISA型学力」「PISA型読解力」「活用力」といった形で初等・中等教育の現場に浸透してきている、というのが現状。
 学力をどう考え、PISAリテラシーとDeSeCoのキー・コンピテンシーにどうつなげていくのか。それは、学校教育の指導要録でイメージされる学力と「生きる力」「確かな学力」との関係に似ている。あるいは、文科省の全国学力調査のA=基礎とB=活用の関係にも関連してくる。この2つの要素は車の両輪として、当分は平行して充実していくことになるだろう。

 DeSeCoのキー・コンピテンシーの具体的な行動・態度・思考はどうなのか。その関心・欲求のありどころを見ることで、DeSeCoのキー・コンピテンシー、学力=リテラシーの目指そうとするものがいくらか明確になってくる。ここで、コンピテンシーを身に付けた人の具体的なイメージが語られている。ここでは、「すべての人にとって重要な能力」としているが、目指そうとする行動はグローバル経済社会の積極的構成者のものであろう。

  「キー・コンピテンシー『The Definition and Selection of KEY COMPETENCIES:THeoretical & Conceptual Foundation』=DeSeCo (コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎)によりながらみてみよう。
  DeSeCoプロジェクトで定義されているキー能力の概念は次の3つの一般的な基準に基づいている。

1)「全体的な人生の成功と正常に機能する社会」という点から、個人及び社会のレベルで高い価値をもつ結果に貢献するものであること
2)幅広い文脈において、「重要で複雑な要求や課題」に答えるために有用であること
3)「すべての個人にとって」重要であること

 一部のエリートの利益ではなく、社会的な平等や公平に貢献するような能力を高めることにこだわる、としている。また、個人の能力開発に十分な投資を行うことが、社会経済の持続可能な発展と世界的な生活水準の向上にとって唯一の戦略である、としている。

 次に、さまざまな人生の状況において、成人が直面する精神的な課題に対応するために必要な能力のレベルを捉えるためということで、次の4つの概念を提示している。

1)社会空間を乗り切ること
  親子関係、文化、宗教、健康、消費、教育と訓練、仕事、メディアと情報、コミュニティなどの社会領域で、責任ある生産的な成功した人生を送ることがもとめられる。
 たいていのOECD諸国では、柔軟性、企業家精神、個人的責任に重要な価値をおく。個人は社会への適応ばかりを期待されるのではなく、革新的で創造的、自己決定的で自発的であることも期待されている。

2)差異や矛盾に対処すること:「あれかこれか」を越えて
  複雑な問題に対する自然な反応の1つは、より複雑ではないものに単純化すること。しかし、このようなやり方は、世界を全体的に理解することや、世界とうまく相互作用することをさまたげ、実用的でないことが多い。
 多様な世界を「あれかこれか」という形でひとつの解決策を急いで求めるべきではない。明らかに矛盾したり、相容れない目標を、同じ現実の諸側面として統合することにより、緊張関係の中で扱うことを要求している。
一般的には、現代社会の生活が投げかける複雑で、ダイナミックな多面的な諸問題に対して、統合的で全体的なアプローチが最善の応答である可能性が高い。個人と社会の弁証法的でダイナミックな関係を前提に、思慮深く対応すること、解決策や解決方法はひとつではないことを認識すること。「あれかこれか」で単純化したり、途中で投げ出したり、相対主義に逃げないこと。

3)責任をとること 
  ただ有能であればよいということではなく、OECD諸国を特徴づける自由民主主義や資本主義経済体制の中で有能に機能する個人であることが求められる。個人は単に適合的なのではなくて、革新的で、創造的で、自己主導的で、内発的な動機付けをもち、さまざまな社会領域において自らの決定や行動に責任がもてることが期待される。
 キー・コンピテンシーに必要なのは、認知的で実践的な技能、創造的な能力に加え、態度や動機付け、価値観といった他の心理社会的な資源の動員である。
 キー・コンピテンシーの中心にあるものは、道徳的で知的な成長の現われとして自己を考え、自らの学習や行為に責任をとる個人の能力である。

4)反省性:キー・コンピテンシーの精神的前提
  公私にわたり知識や人生経験の総和に関係する、批判的な思考や思慮深い実践の全体的な発達が必要である。
 このアプローチは、認知的・知的な要素とともに、適切な動機、倫理、社会的・行動的な要素を含む複雑な行動システムに関係している。
 反省性は、キー能力の内的構造に関わっており、要求と行動に立脚したキー・コンピテンシーの概念化に関連する重要な横断的特徴である。
 この枠組みの基本的な部分は、思慮深い思考と行為である。思慮深く考えることは、やや複雑な精神的過程を必要とし、考えている主体が相手の立場に立つことを要求する。
 例えば、特有の精神的技術の習得の過程をみると、思慮深さは、個人にその技術について考え、それを理解し、自分の経験の他の面にそれを関連づけ、その技術を変え、適合させるようにする。
 こうして、思慮深さが含むのは、メタ認知的な技能、批判的なスタンスを取ることや創造的な能力の活用である。

○二者択一の考え方を越えて:思慮深さの具体例
 現代の多様で複雑な世界が要求しているのは、私たちが必ずしも単純な回答や二者択一的な解決法で即決するのではなく、むしろ、いろいろな対立関係を調整できることなのである。つまり、相違や矛盾を扱う能力である。
 たとえば、自律性と連帯性、多様性と普遍性、そして革新性と継承性。同じ現実の両面にある一見矛盾し相容れない目標をまとめる必要がある。矛盾しているように見える立場や考え方が時には単に表面的にだけそうかもしれないから、その多面性を持つ相互的つながりや相互関係を配慮して、いっそう総合的な方法で考えふるまうことを個人は学ぶ必要がある。

DeSeCoのキー・コンピテンシーを身に付けた人の行動・態度・思考をまとめると次のような人間像が浮かんでくる。興味があるのでまとめてみた。

(1)個人の自由と幸福追求とともに、正常に機能する社会に貢献することが求められる。

(2)この能力は、エリートではなくすべての個人に必要な能力である。

(3)個人は社会への適応ではなく、社会の中で、革新的で創造的、自己決定的で自発的であることが期待される。

(4) 多様な世界を「あれかこれか」という形でひとつの解決策を急いで出すべきではなく、矛盾したり、相容れない目標を、同じ現実の諸側面として統合することにより、統合的で全体的なアプローチをすることが求められる。個人と社会の弁証法的でダイナミックな関係を前提に、思慮深く対応すること、解決策や解決方法はひとつではないことを認識すること。「あれかこれか」で単純化したり、途中で投げ出したり、相対主義に逃げないこと。

(5)認知的で実践的な技能、創造的な能力に加え、態度や動機付け、価値観といった他の心理社会的な資源を動員すること。道徳的で知的に自己を考え、自らの学習や行為に責任をとること。

(6) 公私にわたり知識や人生経験の総和に関係する、批判的な思考や思慮深い実践の全体的な発達、つまり思慮深い思考と行為が必要である。思慮深く考えるということは、考えている主体が相手の立場に立つことである。

(7)自律性と連帯性、多様性と普遍性、そして革新性と継承性。同じ現実の両面にある一見矛盾し相容れない目標をまとめる必要があり、 いろいろな対立関係を調整できる能力が必要である。

 キー・コンピテンシーと学校教育でいう学力との間には、「千里の径庭」を感じてしまうが、「生きる力」や「キャリア教育」や「社会人基礎力」「ポスト近代型能力」といった能力指向と同じものを感じる。学校教育としてどこまでが到達すべき学力であり、目指すべき能力であるのか。変動の激しい現代社会にあって、学力といわれるものの自己規定は、何度でも更新されるべきだろう。

 

以上


  by miura 2011.6 mail: お問い合わせ