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年をとったせいか将来のことを考えるより、昔のことを想うことが多くなったように思う。なぜか山頭火という生き方が気になった。
私も若かった1970年代の半ばころか、山頭火の俳句を新書版の本で知った。こんな破天荒な生き方があるのか、面白い句もあるものだと心動かされることもあった。
うしろすがたのしぐれてゆくか
雨ふるふるさとははだしであるく
まつすぐな道でさみしい
分け入つても分け入つても青い山
後で、尾崎放也という同類もいると知った。
咳をしても一人
いれものがない両手でうける
こんなよい月を一人で見て寝る
若い時は、定型句も非定型句もどうでもよかった。何かピンとくるものがって面白ければそれでよかった。桑門乞食の旅は芭蕉のものかと思っていたら、墨染めの衣に袈裟を懸け、一鉢一杖の行脚僧の風姿は山頭火や放也の方が本物だった。「虚に居て実にはたらく」生き方は、芭蕉より山頭火や放也のほうが徹底していた。
芭蕉は托鉢乞食僧の姿はしているが、姿だけで乞食はしていない。曾良は、日光湯元で「十九日 快晴 。予、鉢に出る。」(「曾良旅日記」)とあり托鉢をしていたかもしれない。
芭蕉が曾良を伴って「おくのほそ道」の旅に出たのが1689年、山頭火の生まれは1882年(明治15年)、少し遅れて放也の生まれは1885年(明治18年)であった。
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明治生まれの山頭火や放也の句を読めば、一鉢一杖の乞食行生活の苦しみや悲しさ、一人旅の淋しさが切々と迫ってきて心を打つ。250年前の芭蕉の格調高い「おくのほそ道」の俳文や句と山頭火や放也の行乞旅句の対比は、同じ俳諧・俳句なのに、表現しようとするものの形が異なっている。山頭火や放也も俳句ではあるが5・7・5定型と季語を完全に無視してる。そういうものははなから意識にない。
しかし、定型にとらわれずに自由に詠もうとすると、生き方も世間の常識から離れ、形の定まらない自由な生き方になる。そうするとなぜか、いややはり生活は破綻してしまう。
芭蕉や蕪村、一茶は和歌の伝統と詫び寂びの美意識により正統的な俳諧を謡い、山頭火や放也は放浪・行乞流転の旅のなかで型にとらわれない自由律の俳句を詠んだ。
俳諧・俳句のこの道の同じ「一筋」ではあるが、山頭火や放也は「出家―漂泊―庵居―孤高自から持して、寂然として独死する」(山頭火)生き方をまっとうした。
山頭火は10歳の時に父の遊蕩を苦にして母が自殺した。種田酒造場と家屋敷の売却、弟二郎の自殺、それらが彼の生き方や句作に大きな影響を与えたことは間違いない。
遠い人ではあるが、ついつい山頭火の生き方はなんだったのかと考えてしまう。
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| 1882年 |
1歳 |
明治15年 |
12月3日 山口県佐波郡西佐波令村第百三十六番屋敷(現・防府市八王子二丁目十三)にて大地主・種田家の長男として生まれる。父は竹治郎、母フサ。1年前には姉のフクが生まれている。のちに妹シズ、弟二郎、信一が生まれ、5人兄妹となる。 |
| 1889年 |
7歳 |
明治22年 |
4月 佐波郡佐波村立松崎尋常高等小学校尋常科に入学。
約60人中15〜20位の成績。 |
| 1892年 |
10歳 |
明治25年 |
3月 母フサが、父竹治郎の芸者遊びなどを苦にして、自宅の井戸に投身自殺(享年33)。
以後、正一は、祖母ツルの手によって育てられる。少年時代の楽しい思い出はこの出来事で完全に中断される。成人後に山口へ戻る度に「私の性情として憂鬱にならざるを得ない」と述べており、母の自殺が放浪者としての山頭火を決定づける基因となる。自選句集『草木塔』も亡母への献辞が記されている。 |
| 1896年 |
14歳 |
明治29年 |
4月 私立周陽学舎(三年制中学。現・山口県立防府高等学校)へ入学。学友らと文芸同人雑誌を発行。
地元の句会によく顔を出していたという話もあり、正一が俳句を本格的に始めたのは1897年(明治30年、15歳)前後、周陽学舎在学の頃だとみられている。 |
| 1899年 |
17歳 |
明治32年 |
7月 周陽学舎を首席で卒業。
同年9月、県立山口尋常中学(現・山口県立山口高等学校)の四年級へ編入。新たな環境にてあまり親しい学友もおらず、土曜日には佐波山洞道を抜けて防府の実家に帰るのが常だったという。 |
| 1901年 |
19歳 |
明治34年 |
3月 山口尋常中学を卒業し、同年7月、私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科(明治34年4月、早稲田大学予備科として新設)へ入学。 |
| 1902年 |
24歳 |
明治39年 |
12月 父竹治郎が吉敷郡大道村(現・防府市大道)にあった古くからの酒造場を買収。一家で移り住む。そして、その翌年頃から種田酒造場を開業したとみられる。
1908年(明治41年、26歳) 種田家が酒造に失敗し、防府に残っていた家屋敷を全て売却。 |
| 1909年 |
31歳 |
大正2年 |
荻原井泉水が主宰する『層雲』3月号にて、初めて投稿句が掲載される(『層雲』にて自由律が始まるのは翌年の大正3年4月からとされる)。
同誌5月号にて選ばれた2句に於いて、俳号にも「山頭火」という号を使い始める。
同年8月、編集兼発行人として個人で文芸誌『郷土』を創刊。 |
| 1916年 |
34歳 |
大正5年 |
3月、山頭火は『層雲』にて頭角を現し、俳句選者の一人となっている。
4月、種田酒造場の経営が危機に陥り、再建に奔走するも結局、種田家は破産に追い込まれる。父竹治郎は行方不明(その後は消息不明)になり、山頭火は友人を頼って妻子と熊本県へ移ることになる。(夜逃げ同然だったらしい。)
5月、熊本市下通町一丁目にて古書店「雅楽多書房」を開業。しかし、経営は軌道に乗らず、間もなく額縁店「雅楽多」として再出発。その経営も次第に妻サキノに任せがちになっていく。(額縁、絵葉書、ブロマイドなどの趣味的なものになった。)
熊本での生活では常に空虚感や欠落感が付き纏い、更にこの頃に起こった弟二郎の自殺が、山頭火をより一層酒に向かわせることになる。
母の自殺によって世話ができず、幼児の時に親戚に養子としてもらわれて行ったが、種田家破産でその養家先にまで累が及び弟二郎は離縁となって露頭に迷っていた。
山頭火は額縁を担いで行商に出かけた。といって不本意な商売に熱心になれるはずもなく、日々の生活はすさんでゆく。
そうしたニヒルな気持ちを歌や俳句に託して詠む山頭火は、五高を中心とした文学青年たちから注目される存在だった。
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| 1919年 |
37歳 |
大正8年 |
10月 妻子を熊本に残したまま単身上京。
妻サキノとは翌1920年(大正9年)11月、戸籍上離婚となっている。
東京市立一ツ橋図書館に勤めるが、神経衰弱症のため退職。 |
| 1923年 |
41歳 |
大正12年 |
関東大震災に遭遇。
憲兵に連行され、(社会主義者と間違えられて)巣鴨刑務所に留置された後、熊本の元妻のもとへ逃げ帰った。
熊本市内で泥酔して路面電車を止め、乗客らに取り囲まれたところを木庭徳治(山頭火の顔見知りの記者)に助けられ、市内にある報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に預けられ寺男となった。 |
| 1924年 |
42歳 |
大正14年 |
得度して「耕畝」と改名。廃寺になっていた味取観音堂の堂守となり、近隣の子供・若者に勉強や時事問題を教えていたが、度々の泥酔に眉をひそめる檀家もいた。
松はみな枝垂れて南無観世音
分け入つても分け入つても青い山
炎天をいただいて乞ひ歩く
生死の中の雪ふりしきる
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| 1925年 |
43歳 |
昭和3年 |
四国88か所の霊場札所を巡拝。
このころ、山頭火は尾崎放哉を尋ねようとするが、放哉は大正15年4月に小豆島で没っしていた。そのため墓参だけになってしまった。
この旅、果もない旅のつくつくぼうし
へうへうとして水を味ふ
落ちかかる月を観てゐるに一人
笠にとんぼをとまらせてあるく
まつすぐな道でさみしい
種田山頭火(新潮日本文学アルバム)より
しぐるるや死なないでゐる
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る
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| 1929年 |
47歳 |
昭和4年 |
3月 熊本「我楽多」店に寄宿し、市内に住む俳人たちと交流しきり。
わかれきてつくつくぼうし
百舌鳥啼いて身の捨てどころなし
どうしようもないわたしが歩いてゐる
けさもよい日の星一つ
つかれた脚へとんぼとまつた
こんなにうまい水があふれてゐる
年とれば故郷こひしいつくつくぼうし
しみじみ食べる飯ばかりの飯である
酔うてこほろぎと寝てゐたよ
逢ひたい、捨炭ボタ山が見えだした
物乞ふ家もなくなり山には雲
あるひは乞ふことをやめ山を観てゐる
笠も漏りだしたか
霜夜の寝床がどこかにあらう
安か安か寒か寒か雪雪
うしろすがたのしぐれてゆくか
鉄鉢の中へも霰
雨ふるふるさとははだしであるく
其中雪ふる一人として火を焚く
ぬくい日の、まだ食べるものはある
すずめをどるやたんぽぽちるや
もう明けさうな窓あけて青葉
やつぱり一人がよろしい雑草
けふもいちにち誰も来なかつたほうたる
けふもいちにち風をあるいてきた
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
あざみあざやかなあさのあめあがり
ほうたるこいこいふるさとにきた |
| 1930年 |
48歳 |
昭和5年 |
「行乞記」は昭和5年9月からのもので、それ以前にも日記はあったが焼き捨てたといっている。
九月九日 晴、八代町、萩原塘、吾妻屋(三五・中)
「私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の行き方はないのだ。」というのが書き出し。
九月十日 晴、二百廿日、行程三里、日奈久温泉、織屋(四〇・上)
「午前中八代町行乞、午後は重い足をひきずつて日奈久へ、いつぞや宇土で同宿したお遍路さん夫婦とまたいつしよになつた。
方々の友へ久振に――ほんたうに久振に――音信する、その中に、――
……私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅へ出ました、……歩けるだけ歩きます、行けるところまで行きます。
温泉はよい、ほんたうによい、こゝは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、――いや一生動きたくないのだが(それほど私は労マヽれてゐるのだ)。」
「九月十四日 晴、朝夕の涼しさ、日中の暑さ、人吉町、宮川屋(三五・上)
球磨川づたひに五里歩いた、水も山もうつくしかつた、筧の水を何杯飲んだことだらう。
一勝地で泊るつもりだつたが、汽車でこゝまで来た、やつぱりさみしい、さみしい。
郵便局で留置の書信七通受取る、友の温情は何物よりも嬉しい、読んでゐるうちにほろりとする。
行乞相があまりよくない、句も出来ない、そして追憶が乱れ雲のやうに胸中を右往左往して困る。……
一刻も早くアルコールとカルモチンとを揚棄しなければならない、アルコールでカモフラージした私はしみ/″\嫌になつた、アルコールの仮面を離れては存在しえないやうな私ならばさつそくカルモチンを二百瓦飲め(先日はゲルトがなくて百瓦しか飲めなくて死にそこなつた、とんだ生恥を晒したことだ!)。
呪うべき句を三つ四つ
蝉しぐれ死に場所をさがしてゐるのか
・青葉に寝ころぶや死を感じつゝ
毒薬をふところにして天の川
・しづけさは死ぬるばかりの水が流れて
・・・・・
・炎天の下を何処へ行く
・旅のいくにち赤い尿して
単に句を整理するばかりぢやない、私は今、私の過去一切を清算しなければならなくなつてゐるのである、たゞ捨てゝも/\捨てきれないものに涙が流れるのである。
私もやうやく『行乞記』を書きだすことが出来るやうになつた。――
私はまた旅に出た。――
所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だつた、愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だつた、浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。
水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのまゝに写さう。
私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。」
「九月十七日 曇、少雨、京町宮崎県、福田屋(三〇・上)
今にも降り出しさうな空模様である、宿が落着いてゐるので滞在しようかとも思ふたが、金の余裕もないし、また、ゆつくりすることはよくないので、八時の汽車で吉松まで行く(六年前に加久藤越したことがあるが、こんどは脚気で、とてもそんな元気はない)、二時間ばかり行乞、二里歩いて京町、また二時間ばかり行乞、街はづれの此宿に泊る、豆腐屋で、おかみさんがとてもいゝ姑さんだ。
こゝには熱い温泉がある、ゆつくり浸つてから、焼酎醸造元の店頭に腰かけて一杯を味ふ(藷焼酎である、このあたり、焼酎のみでなく、すべてが宮崎よりも鹿児島に近い)。
このあたりは山の町らしい、行乞してゐると、子供がついてくる、旧銅貨が多い、バツトや胡蝶が売り切れてゐない。
人吉から吉松までも眺望はよかつた、汽車もあえぎ/\登る、桔梗、藤、女郎花、萩、いろんな山の秋草が咲きこぼれてゐる、惜しいことには歩いて観賞することが出来なかつた。
なんぼ田舎でも山の中でも、自動車が通る、ラヂオがしやべる、新聞がある、はやり唄が聞える。……
宮崎県では旅人の届出書に、旅行の目的を書かせる、なくもがなと思ふが、私は「行脚」と書いた、いつぞや、それについて巡査に質問されたことがあつたが。
今日出来た句の中から、――
はてもない旅の汗くさいこと
・投げ出した足へ蜻蛉とまらうとする
ありがたや熱い湯のあふるゝにまかせ
此地は県政上は宮崎に属してゐるが、地理的には鹿児島に近い、言葉の解り難いのには閉口する。
藷焼酎をひつかけたので、だいぶあぶなかつたが、やつと行き留めた、夜はぐつすり寝た、おかげで数日来の睡眠不足を取りかへした、南無観世音菩薩。」
「十月廿日 晴、曇、雨、そして晴、妻町行乞、宿は同前。
新酒、新漬、ほんたうにおいしい、生きることのよろこびを恵んでくれる。
歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい、ひとりでゐることはさみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作つてゐることはさみしくない。」
「十一月九日 晴、曇、雨、后晴、天神山、阿南アナミ屋(三〇・中)
今日は草鞋をはいた、白足袋の感じだけでも草鞋はいゝ、いはんや草鞋はつかれない、足についてくる(地下足袋にひきずられるとは反対に)、さく/\として歩む気持は何ともいへない。
法眼の所謂『歩々到着』だ、前歩を忘れ後歩を思はない一歩々々だ、一歩々々には古今なく東西なく、一歩即一切だ、こゝまで来て徒歩禅の意義が解る。
山に入つては死なゝい人生、街へ出ては死ねない人生、いづれにしても死にそこないの人生。
味ふ――物そのものを味ふ――貧しい人は貧しさに徹する、愚かなものは愚かさに徹する――与へられた、といふよりも持つて生れた性情を尽す――そこに人生、いや、人生の意味があるのぢやあるまいか。」
「十一月廿九日 晴、霜、伊田行乞、緑平居、句会。
大霜だつた、かなり冷たかつた、それだけうらゝかな日だつた、うらゝかすぎる一日だつた、ゆつくり伊田まで歩いてゆく、そして三時間ばかり行乞、一週間ぶりの行乞だ、行乞しなくてはならない自分だから、やつぱり毎日かゝさず行乞するのが本当だ。
行乞は雲のゆく如く、水の流れるやうでなければならない、ちよつとでも滞つたら、すぐ紊れてしまふ、与へられるまゝで生きる、木の葉の散るやうに、風の吹くやうに、縁があればとゞまり縁がなければ去る、そこまで到達しなければ何の行乞ぞやである、やつぱり歩々到着だ。」
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昭和5年末 熊本市内に一室を間借りして三八九居(さんばく)と名付けて自活しようとした。
当初の計画ではそこで個人誌「三八九」を編集発行し、組織化するための会友を募っている。
昭和6年3月の第三集まで発行している。
木賃宿の同宿する世間師たちの合言葉のような「ころり往生」の願い
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| 1932年 |
50歳 |
昭和7年 |
郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」(ごちゅうあん)を結庵したが、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす。
「九月九日
相かはらず降つてゐる、そしてとう/\大雨になつた、遠雷近雷、ピカリ、ガランと身体にひゞくほどだつた、多分、どこか近いところへ落ちたのだらう。
午後は霽れてきた、十丁ばかり出かけて入浴。
畑を作る楽しみは句を作るよろこびに似てゐる、それは、産む、育てる、よりよい方への精進である。
出家――漂泊――庵居――孤高自から持して、寂然として独死する――これも東洋的、そしてそれは日本人の落ちつく型(生活様式)の一つだ。」
かねてより草庵は温泉のあるところをと、九州では嬉野温泉を第一候補に挙げていた。川棚も嬉野と似かよった温泉地だ。
川棚に長期滞在し草庵を結ぶことを工作するが、土地の人々にも放浪者を受け入れるには条件があって不適格とついに拒まれる。山口県吉敷郡小郡町の県立山口農業学校につとめる俳友からの紹介を受けて、小郡町に住むことになった。廃屋を其中庵(ごちゅうあん)と命名して入庵。
を其中庵の時代は、昭和7年3月から昭和13年11月の約6年間。
山頭火は自分と似ている井上井月(せいげつ)という俳人に興味を持つ。幕末から明治20年の没年までの約30年間を信州伊那谷で過ごした乞食の俳諧師である。
川棚を去る
ぬれるだけぬれてきたきんぽうげ
わがままきままな旅の雨にはぬれてゆく
帰庵
ほととぎすあすはあの山こえて行かう
昭和9年3月に、そのお墓のある伊那の美篶(みすず)に旅しようとする。
その途中、木曽から飯田への峠越えで山雪に行きなずみ、風邪をひいて肺炎を併発、病院に入院したりで、命からがら其中庵に帰ってきた。途中で引き返し失敗。
★山口県豊浦郡川棚村(現・豊浦町)で、この地を安住の地にしたい、と因縁時節めいたものを感じたという。
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| 1933年 |
51歳 |
昭和8年 |
「家を持たない秋がふかうなるばかり
行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。私はあてもなく果もなくさまよひあるいてゐたが、人つひに孤ならず、欲しがつてゐた寝床はめぐまれた。
昭和七年九月二十日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけて、そこに移り住むことが出来たのである。
曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ」
「山行水行
山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし
夕立が洗つていつた茄子をもぐ
こほろぎよあすの米だけはある
手がとどくいちじくのうれざま
一つもいで御飯にしよう
山のあなたへお日さま見おくり御飯にする
月夜、あるだけの米をとぐ
ここにかうしてわたしをおいてゐる冬夜
蜘蛛は網張る私は私を肯定する
いつでも死ねる草が咲いたり実つたり
ともかくも生かされてはゐる雑草の中
昨年の八月から今年の十月までの間に吐き捨てた句数は二千に近いであらう。その中から拾ひあげたのが三百句あまり、それをさらに選り分けて纏めたのが以上の百四十一句である。うたふもののよろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。」
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| 1935年 |
53歳 |
昭和10年 |
12月から翌11年7月までの旅は、晩年の捨身懸命の大旅行だった。
1月に良寛ゆかりの倉敷の円通寺、3月には大阪で西行終焉の弘川寺に参詣。5月には東京、甲州路、信濃路を歩き、柏原で一茶の跡を訪ねている。
6月には新潟の良寛遺跡を巡り、北上して山形へ。そこより横断して仙台に行き、芭蕉の「おくの細道」を逆コースで平泉に至っている。
帰路には、福井の永平寺に参籠。
「ころり寝ころべば青空
何を求める風の中ゆく
風鈴の鳴るさへ死のしのびよる
私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいのである。」
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| 1936年 |
54歳 |
昭和11年 |
雲水姿で山梨県小淵沢から長野県佐久までを歩き、数々の作品を残す。その後も東北地方などを旅した。
悔いるこころの曼珠沙華燃ゆる |
| 1937年 |
55歳 |
昭和12年 |
「やつぱり一人がよろしい雑草
やつぱり一人はさみしい枯草
自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考へて敢て採録した。かうした私の心境は解つてもらへると信じてゐる。」 |
| 1938年 |
56歳 |
昭和13年 |
山口市湯田温泉街に「風来居」を結庵。
「秋もいよいよふかうなる日の丸へんぽん
ふたたびは踏むまい土を踏みしめて征く
しぐれて雲のちぎれゆく支那をおもふ
雪へ雪ふる戦ひはこれからだといふ
いさましくもかなしくも白い函
みんな出て征く山の青さのいよいよ青く
馬も召されておぢいさんおばあさん
足は手は支那に残してふたたび日本に
風の中おのれを責めつつ歩く
しぐるるやあるだけの御飯よう炊けた
そこに月を死のまへにおく
其中一人いつも一人の草萌ゆる
窓あけて窓いつぱいの春
朝焼夕焼食べるものがない
草にすわり飯ばかりの飯をしみじみ
草にすわり飯ばかりの飯
秋風、行きたい方へ行けるところまで
どこでも死ねるからだで春風
このみちをたどるほかない草のふかくも
孤寒といふ語は私としても好ましいとは思はないが、私はその語が表現する限界を彷徨してゐる。私は早くさういふ句境から抜け出したい。この関頭を透過しなければ、私の句作は無礙自在であり得ない。
(孤高といふやうな言葉は多くの場合に於て夜郎自大のシノニムに過ぎない。)
しみじみ食べる飯ばかりの飯である
草にすわり飯ばかりの飯
やうやくにして改作することが出来た。両句は十年あまりの歳月を隔ててゐる。その間の生活過程を顧みると、私には感慨深いものがある。
」
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| 1939年 |
57歳 |
昭和14年 |
愛媛県松山市に移住し「一草庵」を結庵。
3月、井上井月への墓参。信州に入ったのは5月だった。
五月三日 晴、うららかな日であつた、若水居。
井月の墓前にて
・お墓したしくお酒をそゝぐ
・お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました
駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね
・供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝
九月二日 晴、けふもおだやか。
(私の述懐一節)
――私はその日その日の生活にも困つてゐる、食ふや食はずで昨日今日を送り迎へてゐる、多分明日も、いや、死ぬるまではさうであらう、だが、私は毎日毎夜句を作つてゐる、飲み食ひしないでも句を作ることは怠らない、いひかへると、腹は空つてゐても句は出来るのである、水の流れるやうに句心は湧いて溢れるのだ、私にあつては、生きるとは句作することである、句作即生活だ。
――私の念願は二つ、たゞ二つある、ほんたうの自分の句を作りあげることがその一つ、そして他の一つはころり徃生である、病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたいのである(私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に徃生すると信じてゐる)。
――私はいつ死んでもよい、いつ死んでも悔いない心がまへを持ちつゞけてゐる(残念なことにはそれに対する用意が整うてゐないけれど)。
――無能無才、小心にして放縦、怠惰にして正直、あらゆる矛盾を蔵してゐる私は、恥づかしいけれど、かうなるより外なかつたのであらう。
――意志の弱さ、酒の強さ――ああこれが私の致命傷だ!
11月頃か 風来居を捨てて、四国遍路に旅立つ。
年末に、「一草庵」に入る。道後温泉まで歩いて20分程度の閑静な地。
十一月七日 秋晴、行程四里、羽根泊(小松屋)
安宿では――木賃宿では――遍路宿では――
□一人一隅、そこに陣取って、それぞれの荷物を始末する。
□めいめいのおはちを枕許に(人々の御飯)。
□一室数人一鉢数人一燈数人。
□安宿で困るのは、便所のきたなさ、食器のきたなさ、夜具のきたなさ、虱ムシのきたなさ、等々であろう。
安宿に泊る人はたいがい真裸(大部分はそうである)である、虱がとりつくのを避けるためである、夏はともかく冬はその道の修行が積んでいないとなかなかである(もっとも九州の或る地方のようにそういう慣習があるところの人々は別として)。
風のなか米もらひに行く
焼いてしまへばこれだけの灰を風吹く
死ねない手がふる鈴をふる
涸れて涸れきつて石ころごろごろ
まいにちはだかでてふちよやとんぼや
炎天のレールまつすぐ
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| 1940年 |
58歳 |
昭和15年 |
「八月八日 曇―時々微雨、立秋。
無能無才なるが故に、私は一筋の道―句作行―をひたむきに精進することが出来たのである、句作するより外に私の為し得ることはなかつたのである、問題は成し遂げるかどうかにある、私は成し遂げるべく、全心全力を傾けてゐるのである、昨日も今日も、明日もまた。」
「十月二日。
食欲がなく、なじみの酒屋で1杯のつもりが3杯になり、知り合いの奥さんに汽車賃を借りて松山から今治へ。清水さんを訪ねてご馳走になり、土産と小遣いを貰って帰ったときのこと。
帰庵したのは二時近かった、あれこれかたづけて寝床にはいったのは三時ごろだったらう。
犬から貰う―この夜どこからともなくついて来た犬、その犬が大きい餅をくはえて居った、犬から餅のご馳走になった。
ワン公よ有難う、白いワン公よ、あまりは、これもどこからともなく出てきた白い猫に供養した。最初の、そして最後の功徳!犬から頂戴するとは!」
その3日のちには猫にご飯を食べられ、余りを翌朝食べている。
「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。」
10月10日 草庵で句会。
けれど庵主は高いびきで寝ていたそうで、句会が終わった仲間は山頭火をそのままにして帰っていった。
俳友の一洵は気がかりで、深夜に一草庵を尋ねた時には身体硬直、呼ばれてい社が来た時には事切れていた。
10月11日午前4時、脳溢血のため一草庵で生涯を閉じた。
享年57。墓所は防府市の護国寺にある。
「出家--漂白--庵居--孤高自ら持して、寂然として独死する」といった隠遁文学者たちの系譜に一貢を加え、その典型ともなる軌跡を遺して去ったのである。ついになし得たり、死をもってあがなう俳人の一生であった。
(評伝 種田山頭火 村上 護)
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