尾崎放哉の略年譜と気になる句(緑色) 芭蕉メニューへ
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| 1885年 | 1歳 | 明治18年 | 1月20日、鳥取県邑美郡吉方町(現・鳥取市吉方町)に、鳥取県の士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。翌年、一家は法美郡立川町(現・鳥取市立川町)へ転居。 | |||
| 1897年 | 13歳 | 明治30年 | 鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)入学。 | |||
| 1899年 | 15歳 | 明治32年 | この頃より俳句を作り始める。 水打つて静かな家や夏やなぎ 行春や母が遺愛の筑紫琴 |
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| 1900年 | 16歳 | 明治33年 | 鳥取県第一中学校の校友会雑誌『鳥城』に俳句・随想・短歌を発表。 | |||
| 1901年 | 17歳 | 明治34年 | 友人らと『白薔薇』を発行。 | |||
| 1902年 | 18歳 | 明治35年 | 3月、鳥取県第一中学校卒業。9月、第一高等学校(一高)法科に入学。一高俳句会に参加。夏目漱石に英語を習い、漱石に傾倒する。 | |||
| 1903年 | 19歳 | 明治36年 | 一高俳句会に参加し荻原井泉水を知る。 酒のまぬ身は葛水のつめたさよ |
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| 1905年 | 21歳 | 明治38年 | 7月、第一高等学校を卒業。9月、東京帝国大学法科大学に入学。いとこの澤芳衞に求婚、親類の反対のため断念。ホトトギスに投句、入選。 夕ぐれや短冊を吹く萩の風 行く秋を人なつかしむ灯哉 |
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| 1907年 | 23歳 | 明治40年 | 根津権現で開かれた一高俳句会に出席。「放哉」の号を使う。 | |||
| 1909年 |
25歳 |
明治42年 | 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 自身が東京帝国大学法学部を出ていながら、他の法学部卒業生を嫌うという矛盾した性格を持つ。 通信社に入社。 今日一日の終りの鐘をききつつあるく 雪は晴れたる小供等の声に日が当る 口笛吹かるる朝の森の青さは |
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| 1910年 | 26歳 | 明治43年 | 東洋生命保険に就職。契約課に所属。 何もかも死に尽したる野面にて我が足音 |
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| 1911年 | 27歳 | 明治44年 | 坂根馨(かおり)(19歳)と結婚。 夫婦で上京し、小石川での新婚生活を始める。 |
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| 1913年 | 29歳 | 大正2年 | 契約係長となる。 |
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| 1914年 | 30歳 | 大正3年 | 東洋生命保険大阪支店次長として赴任。 | |||
| 1915年 | 31歳 | 大正4年 | 東京本社に帰任する。『層雲』12月号に初めて句が掲載される。このころから新傾向俳句機関誌『層雲』に寄稿し、自由律俳句に転向する。 | |||
| 1916年 | 32歳 | 大正5年 | 東洋生命を退社。 酒を飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。 性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれた。(吉村昭) |
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| 1922年 | 38歳 | 大正11年 | 新創設の朝鮮火災海上保険株式会社の支配人として京城に赴任。 この際、禁酒を絶対守ることを約束させられる。 同社は九月の創立から三か月程で早くも七百万円の契約高を突破し、年内には一千万の大台を突破する勢いであった。不退転の決意で仕事にも意欲的な取組を見せていた。10月頃左肋膜炎を病むことになる。 |
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| 1923年 | 39歳 | 大正12年 | 5月または6月ごろ、免職される。 事前に誓約させられていた禁酒が守れなかったことに原因があったともいわれている。 7月末、満州に赴き再起を期すも、8月末より肋膜炎のため満鉄病院に約2か月入院。10月、大連より帰国。 11月、妻.馨とともに大連から帰国し、長崎に住む宮崎義雄方に身を寄せる。病後の静養を図りつつ・長崎市内で寺男として住み込めそうな所を探すも見当らず馨と別居して京都鹿ヶ谷の一燈園に入る。 妻・馨に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は放哉のもとを去り(離縁か)、保険会社の寮母として生涯を送った。 妻・馨は、12月初旬頃、大阪東洋紡績四貫女子工員寮の寮母と兼裁縫・生け花の教師として住み込む。 落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事 流るる風に押され行き海に出る つくづく淋しい我が影よ動かして見る |
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| 1924年 | 40歳 | 大正13年 | 一燈園の托鉢は力を要する仕事が多く、身体が続かない。 3月、知恩院(京都市東山区)塔頭常称院の寺男となる。 4月3日、井泉水と数年ぶりに逢って会食する。その酔余に常称院住職を立腹させる言動をとり寺を追い出される。1か月ほどで同寺を追わる。 6月、須磨寺(神戸市須磨区)大師堂の堂守となる。この頃から自由律俳句に磨きがかかる。 一日物云はず蝶の影さす 雨の日は御灯ともし一人居る 鐘ついて去る鐘の余韻の中 たつた一人になりきつて夕空 こんなよい月を一人で見て寝る 潮満ち切ってなくはひぐらし 海のあけくれのなんにもない部屋 たばこが消えて居る淋しさをなげすてる 人をそしる心をすて豆の皮むく 何か求むる心海へ放つ なんにもない机の引き出しをあけてみる |
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| 1925年 | 41歳 | 大正14年 | 3月、須磨寺を去る。5月、常高寺(福井県小浜市)の寺男となる。 本堂焼失から一年半を経過していたのにもかかわらず寺は再建されずそのため寺は荒れていた。 放哉は毎日、筍や豆で飢えを凌いでいた。 7月、常高寺破産のため常高寺を去り京都の荻原井泉水の仮寓に身を寄せる。 8月、荻原井泉水の紹介で、小豆島霊場第五十八番札所、西光寺(香川県小豆郡)奥の院の南郷庵に入庵。 放哉は寺男などを転々とし、小さな庵と海のある場所に住みたいという理由から、晩年の八か月を小豆島の西光寺奥の院で寺男として暮らしたが、島での評判は極めて悪かった。 吉村昭が1976年に取材のため島を訪ねたとき、地元の人たちから「なぜあんな人間を小説にするのか」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村昭自身が語っている。 一人分の米白々と洗ひあげたる 考へ事をしてゐるたにしが歩いて居る 豆を煮つめる自分の一日だった とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた ころりと横になる今日が終つて居る 一本のからかさを貸してしまつた 自分をなくしてしまって探して居る いつしかついて来た犬と浜辺に居る 足のうら洗へば白くなる 淋しい寝る本がない いれものがない両手でうける 咳をしても一人 これでもう外に動かないでも死なれる 墓のうらに廻る 春の山のうしろから烟が出だした |
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| 1926年 | 42歳 | 大正15年 (12月24日まで) |
『層雲』1月号より『入庵雑記』連載開始。 喉が腫れて食事が通らない。 4月7日、南郷庵に死す(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)。享年41。死因は癒着性肋膜炎の合併症、湿性咽喉カタル。戒名は大空放哉居士。 終焉の地:「南郷庵」(現小豆島尾崎放哉記念館) 唯一の句集として、死後、荻原井泉水編『大空〔たいくう〕』(春秋社、1926年6月)が刊行された。 |
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年譜はおもにWikipediaによる。句は尾崎放哉選句集より。