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結城の蕪村
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北寿老仙をいたむ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なずな)のしろう咲たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原眞(おざさはらま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)は
ことにたうとき
釋蕪村百拜書
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JR水戸線の結城駅
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結城市へ (Map)
2025年7月、かねて念願の結城市の蕪村の跡を訊ねた。横浜から湾岸・東北道・新国道4号・城西部-宇都宮広域道などを経由して、2時間30分程度で結城駅に到着した。交通手段は無謀にもXL750のバイク。
電車の場合はJR水戸線の結城駅となる。
駅前に結城市民情報センター内に図書館があり、郷土の歴史資料の中から蕪村の結城滞在に関する資料を探しだし、数ページコピーした。図書館の係の人は、結城と蕪村の関わり合いについて尋ねたが、ほとんど知らなかったのが残念。蕪村の足跡はそれほど薄く、俳諧も広がらなかったようだ。
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結城市民情報センターの前の蕪村の句碑 |
蕪村の句碑
結城市民情報センターの前にある蕪村の句碑。平成16年(2004年)5月、結城市文化協会設立20周年記念事業として建立されたもの。
秋のくれ仏に化る狸かな
きつね火や五助新田の麦の雨
猿どのの夜寒訪ゆく兎かな
結城は、「北寿老仙をいたむ」が読まれ地。一度は訊ねてみたかった。しかし、280年前のこと、さすがに蕪村を感じるものは少なくなっていた。
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弘経寺表門

弘経寺の案内。蕪村について触れている。
ここでは蕪村は1742年27歳から1751年36歳までの約10年結城と関係していたとしている。
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食事をできる場所を探して街中をふらつく。結城は古い城下町、通りに面した江戸時代の雰囲気を残した家が目立つ。
弘経寺(ぐぎょうじ) (Map)
早野巴人=夜半亭宋阿が没した。夜半亭一門の俳句結社は解散した。師が没したあと 蕪村は、下総国・結城 (茨城県結城市)の夜半亭宋阿の同門・砂岡雁宕(いさおかがんとう)のもと(弘経寺)に寄寓していた。
結城でパトロンの早見晋我(しんが)と出会うか。(「北寿老仙をいたむ」でよまれた人)
1742年 27歳、蕪村は師夜半亭宋阿への次のような哀悼句を詠んでいる。
我泪(なみだ)古くはあれど泉かな
この頃、蕪村は結城に来たか。
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蕪村の「肌寒し 己が毛を噛む 木葉経」の句碑
弘経寺(ぐぎょうじ)の蕪村の句碑
俳人であり、画人でもあった「与謝蕪村」が青年期に結城の俳友・ 砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼り、この地に10年近くも住んでいた歴史的な事実がありながら、
「その足跡」といえるものは、弘経寺に残された襖絵・板絵の外に現存するものが市内には少ない。(結城市)
俳句では生活していけない。このころの蕪村は絵の修行中で絵師として生活を維持していたのではないか。弘経寺には蕪村の絵(「梅花図」)がのこされているようだが、変色が激しく公開はされていない。
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1743年 28歳、芭蕉に憧れて松島・山形・秋田・青森など東北地方を行脚して冬頃、結城に帰る。
神無月のはじめ頃ほい、下野の国に執行して、
遊行柳とかいへる古木の影の目前の景色を申し出ではべる
柳散清水涸れ石処々
「田一枚植えて立去る柳かな」(芭蕉)
1744年 29歳、宇都宮で「寛保四年歳旦帳」を編む。はじめて「蕪村」と号する。
古庭に鶯鳴きぬ日もすがら
蕪村29歳、1日中ぼぉーとして鶯の鳴く声を聞いていたのか。俳諧では食べていけない。画業ではどうか。蕪村、迷いの多い修行時代。 この頃、俳人でも絵師でもなく、僧の格好をしていたようだ。
1745年 30歳、
我が手にわれをまねくや秋のくれ
寂しさに堪えかねて、我をまねくわが手。
「梅花図」「陶淵明・山水図」はこの頃か。
「北寿老仙をいたむ」を詠むか。
この頃、絵師の仕事が中心で、俳諧は余技だったか。しかし、詩的表現を構想できるほどの近代的な感性と表現意識をもっていたことは確かだ。
1751年 36歳、8月上京。知恩院・大徳寺・竜安寺等々の寺社などを見物していたようだ。
毛越を頼り、東山の麓に居を構える。
猿どのの夜寒訪(とひ)ゆく兎かな
おし鳥に美をつくしてや冬木立
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弘経寺の裏門
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<参考>
1752年 37歳
老武者と大根あなどる若菜哉
1754年 39歳、丹後与謝・宮津に赴き、浄土寺院・見性寺(けんしょうじ)で3年間寄寓する。(「新花摘」)
僧形だったためかお寺にも寄食できた。住職竹渓らと交流。画題となる自然の豊かな地で、絵を描き続けた。
(年譜はおもに瀬木慎一著「蕪村」美術公論社、「与謝蕪村」新潮日本美術文庫によりる)
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萩原朔太郎が「北寿老仙をいたむ」について、次のような一文を残して高く評価している。
「君あしたに去りぬ
ゆうべの心千々ちぢに何ぞ遥はるかなる。
君を思うて岡の辺べに行きつ遊ぶ。
岡の辺べなんぞかく悲しき。
この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る鮮新な、浪漫的ろうまんてきな、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである。」
・・・・・
「蕪村はこれを「俳体詩」と名づけているが、まさしくこれらは明治の新体詩の先駆である。明治の新体詩というものも、藤村とうそん時代の成果を結ぶまでに長い時日がかかっており、初期のものは全く幼稚で見るに耐えないものであった。百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体詩より遥はるかに芸術的に高級で、かつ西欧詩に近くハイカラであったということは、日本の文化史上における一皮肉と言わねばならない。単にこの種の詩ばかりでなく、前に評釈した俳句の中にも、詩想上において西欧詩と類縁があり、明治の新体詩より遥かに近代的のものがあったのは、おそらく蕪村が万葉集を深く学んで、上古奈良朝時代の大陸的文化――それは唐を経てギリシアから伝来したものと言われてる――を、本質の精神上に捉とらえていたためであろう。とにかく徳川時代における蕪村の新しさは、驚異的に類例のないものであった。あの戯作者的げさくしゃてき、床屋とこや俳句的卑俗趣味の流行した江戸末期に、蕪村が時潮の外に孤立させられ、殆ほとんど理解者を持ち得なかったことは、むしろ当然すぎるほど当然だった。」
(「郷愁の詩人 与謝蕪村」 萩原朔太郎)
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妙国寺の「北寿老仙をいたむ」の碑 (Map)
北寿老仙とは、結城の名家で酒造業を営む俳人・早見晋我(しんが)といわれる。早見晋我(しんが)は、砂岡雁宕(いさおかがんとう)の親戚でもあり、蕪村とも交友の関係にあったことが予想される。「北寿老仙をいたむ」の詩は交誼を交わしていた早見晋我(しんが)への追悼として詠まれたものである。
当寺には蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」で知られる「北寿=早見晋我」の墓がある。

妙国寺表門

妙国寺の全景
「北寿老仙をいたむ」の碑がよく整備されていて、気持ち良い。

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句碑「ゆく春や むらさきさむる 筑波山」 蕪村
「旧・下総国結城城」本丸跡地は、台地に位置しており、かっては周りを堀で囲ったそれなりの規模をもった城郭だったようだ。
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「下総国結城城」本丸跡地 (Map)
句碑「ゆく春や むらさきさむる 筑波山」 蕪村
「旧・下総国結城城」本丸跡地(現・茨城県結城市本町、城址公園内)に立つこの句碑は、昭和41年10月12日、 「結城市制10周年、与謝蕪村生誕250周年」を記念し、「結城市蕪村歌碑建立委員会」によって建立されたもの。
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田川 (さくら川はいずこに) |
1740年 25歳 冬、筑波山麓あたりに滞在したか。その時、次のような句をつくっている。
つくばの山本に春を待
行年や芥(あくた)流るるさくら川
筑波山の西を流れる桜川。「あくた」は我が身に積もった塵か。 |
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| photo by miura 2025.07
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