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1716年
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1歳 |
享保元年 |
芭蕉は1694年、51歳、元禄七年にすでに没っしている。
22年後、蕪村誕生。姓は「谷口」と伝えられる。
摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおりけまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。
家は、村の村長ないし有力者であったようだが不明。蕪村の高弟・高井几董(きとう)が「夜半翁終焉記」で言っている。最初は蕪村の家は村長という表現だったが、のちに「郷民」と改め、最後はそれも消えた。
母(げん)は丹後与謝の出身。
蕪村は、幼少・少年期は親の愛情のもと何不自由なく育てられた。だが蕪村は、故郷に何があったのか、はやくに両親と家産を失ったようだ。
蕪村は故郷を出てからは毛馬村には1度も帰っていない。「郷愁の俳人」といわれる蕪村だが、故郷との関係の闇は深い。
蕪村には母の俤の句が多いが、父のイメージはない。母は、丹後から出て摂津・大阪の村長か庄屋に奉公していたのだろう。蕪村は庶子として(正妻の子ではない)育てられた。母は丹後に返されたか、あるいは死んだ。蕪村は故郷を捨てざるをえなかった、という推測もある。蕪村の母への思慕はいっそう深いものとなった。
吉宗が8代目の将軍に。(享保の改革始まる)
尾形光琳没。
伊藤若冲生。
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1723年
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8歳 |
享保八年 |
高井几董「夜半翁終焉記」によれば、蕪村は幼少より画や俳諧に親しんでいた。10歳頃には画の先生から教えをうけてた可能性もある。
池大雅生。
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1728年
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13歳 |
享保十三年 |
荻生徂徠没。 |
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1732年
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17歳 |
享保十七年 |
西日本における大飢饉(享保の大飢饉)。いつまでも続いた梅雨、ウンカ(いなご)の大虫害。百万人に及ぶ餓死者。
毛馬村は、都市近郊農家であるが米作ではなく綿花や菜種が中心だった。享保改革は年貢を家宣・家継時代の四公六民の負担から五公五民に引き上げた結果、農村にも米穀中心の農業から商品化農村経済への移行を進めることになった。商品経済の混乱のなかで没落していく農家も多かった。
十代の頃に父と母を亡くし、故郷を失ったようだ。
最近の研究では、蕪村は17歳頃に江戸に出たという説もある。兄弟があるのかないのか、家族構成もまったくわかっていない。蕪村は何も語らないし記録もない。
江戸では狩野派の絵師について画を学んだか。同時に、俳諧についても学ぶ機会があったようだ。
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1733年
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18歳 |
享保十八年 |
丸山応挙生。
江戸で打ち壊し(米一揆) |
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1735年
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20歳 |
享保二十年 |
江戸に下り日本橋石町「時の鐘」辺に寓居。 |
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1737年
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22歳 |
元文二年 |
早野巴人(はやのはじん)=夜半亭宋阿(やはんていそうあ)に師事し、内弟子として俳諧を学ぶ。蕪村の俳諧修行はここから始まる。
梅さげた我に師走の人通り
梅の枝をさげて師走の人混みを歩く我。我はたわけた無用者か。
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1738年
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23歳 |
元文三年 |
「夜半亭歳旦帳」に俳号「宰町(さいちょう)」で入集。
蕪村は俳諧は夜半亭宋阿に師事しながらも、絵画については独学でまなんでいたようだ。
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1739年
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24歳 |
延宝三年 |
「芭蕉句選」出版、671句を収録。
其角・嵐雪三十三回忌集「桃桜」には「宰鳥(さいちょう)」の号で発句入集。
虱(しらみ)とる乞食の妻や梅がもと
乞食の夫婦への温かい視線。「薦(こも)を着て誰人(たれびと)います花の春」(芭蕉)、このイメージに近い。
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1740年
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25歳 |
延宝四年 |
冬、筑波山麓あたりに滞在。
つくばの山本に春を待
行年や芥(あくた)流るるさくら川
筑波山の西を流れる桜川。「あくた」は我が身に積もった塵か。
「まこと散りぬれば、後は芥になる花と、思ひ知る身もさていかに」(謡曲・桜川)
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1742年
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27歳 |
延宝六年 |
「鳶鴉(とびからす)図」(重文)紙本着色(右画)
早野巴人=夜半亭宋阿没。夜半亭一門の俳句結社は解散。
師が没したあと 下総国・結城 (茨城県結城市)のパトロン・砂岡雁宕(いさおかがんとう)のもとに寄寓。
結城でパトロンの早見晋我(しんが)と出会うか。(「北寿老仙をいたむ」でよまれた人)
我泪(なみだ)古くはあれど泉かな
我が涙、湧きて尽きせぬ泉かな。師への深い悼み。師夜半亭宋阿への哀悼句。
蕪村は中国絵画を模写したりして独学で絵画を学んだようだ。俳諧では生活できないということもあったが、画才のうずきがあったのだろう。蕪村が学んだのは南画(南宗画)=文人画。
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1743年
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28歳 |
延宝七年 |
芭蕉五十回忌。芭蕉再評価。
宋阿追善集「西の奥」に入集。
松尾芭蕉に憧れて松島・山形・秋田・青森など東北地方を行脚して冬頃、結城に帰る。
神無月のはじめ頃ほい、下野の国に執行して、
遊行柳とかいへる古木の影の目前の景色を申し出ではべる
柳散清水涸れ石処々
「道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」(西行)
「田一枚植えて立去る柳かな」(芭蕉)
蕪村が訪れたころの遊行柳はこんな感じだったのだろうか。
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1744年
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29歳 |
延享元年 |
宇都宮で「寛保四年歳旦帳」を編む。
はじめて「蕪村」と号する。
「蕪」とはかぶら(蕪)のことで、語義としては「あれる・雑草が生い茂る・荒地」など。生まれ育った「荒蕪地」のイメージかも知れない。「蕪村」は、中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」(「帰去来いざ田園将に蕪れんとす、なんぞ帰らざる。」)によるとする説もある。
この頃、俳人でも絵師でもなく、僧の格好をしていたようだ。「北寿老仙をいたむ」では「釈蕪村」と署名している。「釈」は僧侶を意味し、これで旅先で寺に寄宿することが容易になったようだ。
古庭に鶯鳴きぬ日もすがら
隠者の棲む古庭に鶯がやってきて一日中鳴いているよ。
蕪村29歳、1日中ぼぉーとして鶯の鳴く声を聞いていたのか。俳諧では食べていけない。画業ではどうか。蕪村、迷いの多い修行時代。
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1745年
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30歳 |
延享二年 |
我が手にわれをまねくや秋のくれ
寂しさに堪えかねて、我をまねくわが手。
「陶淵明・山水図」はこの頃か。
「北寿老仙をいたむ」を詠むか。
この頃、絵師の仕事が中心で、俳諧は余技だったようだ。
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1746年
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31歳 |
延享三年 |
11月頃、江戸に行き、芝の増上寺裏門あたりに住む。 |
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1751年
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36歳 |
宝暦元年 |
信州岩村田の吉沢鶏山を訪問か。
8月上京。知恩院・大徳寺・竜安寺等々の寺社などを見物していたようだ。
毛越を頼り、東山の麓に居を構える。
猿どのの夜寒訪(とひ)ゆく兎かな
動物が擬人化された鳥獣戯画か。
おし鳥に美をつくしてや冬木立
うつくしいおし鳥と冬枯れの木立。
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1752年
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37歳 |
宝暦二年 |
老武者と大根あなどる若菜哉
「昆若(こんにゃく)にけふは売勝(うりかつ)若菜哉」(芭蕉)に似ている。こういう感じ好きだな。弱々しく生きにくい若菜が頑張っている感じ。
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1754年
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39歳 |
宝暦四年 |
丹後与謝・宮津に赴き、浄土寺院・見性寺(けんしょうじ)で3年間寄寓する。(「新花摘」)
僧形だったためかお寺にも寄食できた。住職竹渓らと交流。画題となる自然の豊かな地で、絵を描き続けた。
蕪村は南画風山水画だけでなく、軽妙で俳味溢れる人物画や風俗画、戯画なども好んで描いた。いろいろな絵画技法を試し蓄積することで、自分のオリジナルの画風を確立しようとした。
(右画:三俳僧図蕪村が滞在した見性寺の僧たち。こんな楽しい絵を描くくらいだからよほど気に入って居心地がよかったのだろう。南画の画人がこんな軽妙な絵を描くくらいだから、やはり蕪村はただものではない。)
「方士求不死薬図(ほうしふしやくをもとむるず)屏風」を描く。
四明・朝滄等の号で画作に励む。
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1756年
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41歳 |
宝暦六年 |
兼好ハ絹もいとわじ更衣(ころもがえ)
兼好なら豪華な絹を着るも着ないも厭わない。
ものにこだわらない兼好への賛辞か。
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1757年
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42歳 |
宝暦七年 |
42歳の頃、京都に居を構えた。
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1758年
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43歳 |
宝暦八年 |
去られたる身を踏込(ふんごん)で田植哉
離別された我が身を励まし、さらに踏み込んでする田植え。
他人に弱音をはくまいとする心の動き。
とかくして一把に折ぬ女郎花(おみなえし)
あれこれするうちに、女郎花を折ってしまった。女郎花はか弱い女性のイメージ。女性と何か関係があったのか。
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1760年
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45歳 |
宝暦十年 |
45歳頃に「とも」と結婚し、一人娘「くの」をもうけた。当時としてはかなり遅い結婚。妻についてはほとんど何もわかっていない。
「与謝」(よさ・よざ)の姓を名乗る。与謝は母親の故郷丹後与謝からとったとも、妻の故郷だともいわれるが不明。
島原(嶋原)角屋で句を教えるなど。以後、京都を中心に生涯を過ごした。
画号「長庚(ちょうこう)」を使う。この時期、大作の画をやつぎばやに作成していた。
秋かぜのうごかして行案山子(かがし)哉
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1761年
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46歳 |
宝暦十一年 |
画号には「謝長庚(ちょうこう)」「謝春星」を使う。「謝」は中国風の一字名で南画にふさわしい画号。晩年には「謝寅(いん)」の号を用いる。
俳画には、「蕪村」「紫狐庵」「夜半翁」などの俳号を使う。
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1762年
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47歳 |
宝暦十二年 |
夏河を越すうれしさよ手に草履(ぞうり)
履物を手にもって川に入ったときの初年の日の思い出。だが、蕪村は47歳にもなってまだその感覚を楽しんでいる。
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1763年
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48歳 |
宝暦十三年 |
「山水図屏風」「野馬屏風」を描く。
このころから屏風講時代(高価な屏風の資金を用意するために弟子が作った講)が始まる。
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな(48歳以前)
だれでもがよくわかる有名な句。春の海の「のたりのたり」の長閑な浪の様子がよく表現されている。「ひねもす」もいい味をだしている。
きぬきせぬ家中ゆゆしき衣更
絹を着ない衣替えの武家の家。蕪村の侍物の時代劇的趣味か。
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1764年
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49歳 |
明和元年 |
蕪村は屏風絵が評価され、それで生計をたてていた。俳諧は趣味的余技か。 |
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1765年
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50歳 |
明和二年 |
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1766年
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51歳 |
明和三年 |
蕪村、炭太祇(たんたいぎ)、黒柳召波(くろやなぎしょうは)らは、三菓社という俳句結社をつくる。
9月、讃岐へ。なぜか、理由は不明。
辛崎の朧(おぼろ)いくつぞ与謝の海
「辛崎の松は花より朧にて」芭蕉(野ざらし紀行)を踏まえた戯れか。
「与謝の海」は京都府北部の宮津湾南西奥にある内海で、天橋立により区切られている。
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| 1767年 |
52歳 |
明和四年 |
一旦、京に戻り、再び讃岐に赴く。
田沼意次が側用人に。
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| 1768年 |
53歳 |
明和五年 |
「平安人物志」画家の部に掲載される。
讃岐から京都へ帰る途中、丸亀・妙法寺に逗留。妙法寺の襖絵「蘇鉄図屏風」などを描く。多くの画を描く。帰京。
上田秋成『雨月物語』
何があったか、この頃から蕪村の句が冴える。
狩ぎぬの袖の裏這うほたる哉
堂守の小草ながめつ夏の月
手すさびの団(うちは)画(えがか)ん草の汁
白蓮を切らんとぞおもふ僧のさま
河童(かわたろ)の恋する宿や夏の月
鮎くれてよらで過行夜半の門(かど)
「よらですぎゆく」は蕪村が好んだ表現。淡白さや爽やかさか。寄りたいけれど寄らないで過ぎ行く、といった微妙な心理。
青梅に眉あつめたる美人哉
朝がほや一輪深き渕のいろ
よい句だと思う。我が家にも夏になると朝顔が咲く。年により種類や色や咲き具合が異なる。お気に入りはブルーヘブン。「一輪深き渕のいろ」はなかなか出ない。
川狩や帰去来(きこらい)といふ声す也
川漁の最中に「いざ帰らん」の声
腹あしき僧こぼしゆく施米哉
なぜか腹を立てた僧がせっかくの施米をこぼして行くよ。僧の身でなさけないこと。
鮒鮓の便りも遠き夏野哉
温泉(ゆ)の底に我足見ゆる今朝の秋
稲づまや波もてゆへる秋つしま
「秋津島」は日本の古称。日本列島誕生のような宇宙からの風景。
蕪村の句には、虚構や架空の空想的なものも多い。
四五人に月落ちかかるおどり哉
「月照下のおどり」は蕪村の好きな情景。
古御所や虫の飛つく金屏風
金屏風に飛びつくのは人間ばかりではないようだ。だが、古御所に古金屏風に虫、なにかおどろおどろしいイメージ。
子狐のなんにむせけむ小萩はら
小鳥来る音うれしさよ板庇(いたびさし)
板庇をちょこちょこ歩く音や羽音がする。小鳥が来たようだ。こういう小さな自然と一体になったような至福感。少年時代の思い出と重なっているのだろうか。
「日本の俳句の範疇している伝統的詩境、即ち俳人のいわゆる「俳味」とは別の情趣に属し、むしろ西欧詩のリリカルな詩情に類似している。」(萩原朔太郎)
「うぐいすのあちこちとするや小家がち」(蕪村)
梨の園に人たたずめり宵の月
月天心貧しき町を通りけり
月は天頂にあり、場末の貧しい町を通ってきた。これが生きるということか。蕪村の絶唱。蕪村の直接的な体験なのか芝居がかった演出なのか。人生のやるせない寂寥と深夜の「深遠な詩情」、「人間蕪村の痛ましい心」(萩原朔太郎)
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
鳥羽殿は鳥羽離宮のこと。12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。野分の中を事件進行の予感。蕪村はこういう歴史的なシチュエーションが好き。
栗飯や根来法師の五器折敷(をしき)
子狐の何にむせけむ小萩はら
戸をたたく狸(たぬき)と秋をおしみけり
うき人に手をうたれたる砧かな
うき人:つれない恋人
かじか煮る宿に泊りつ後の月
「かじか煮る宿」は隠遁者などの粗末な宿のイメージ。かじかは格好は悪いが美味しい魚。食事のあと「後の月」をいっしょに眺めた。
こがらしや覗いて逃げる淵のいろ
こがらしや何に世わたる家五軒
木枯らしが吹く山の中、耕地もないようなところに家5軒。何をやって食べているのだろう。蕪村自身、絵描きとしてなんとか食べれるようになったのだろうか。「何に世わたる」と人の生計を詮索している。蕪村自身、これからどうやって生きていこうか。
みよしのやもろこしかけて冬木立
大兵(たいひょう)のかり寝あハれむふとん哉
大鼾(おほいびき)そしれば動く生海鼠(なまこ)哉
大いびきの海鼠をたしなめたら、応えるように海鼠がごろりと動いた。面白い。
宿かせと刀投出す吹雪(ふぶき)哉
ちょっと芝居がかった時代劇風シチュエーション。蕪村はこんな遊びが好きだった。
変化すむやしき貰ふて冬籠り
勝手迄誰が妻子ぞふゆごもり
売喰の調度のこりて冬ごもり
真結の足袋(たび)はしたなき給仕哉
真結びで足袋をはいている給仕さんを「はしたない」とからかっている。小さな給仕さんへのいたわりのようなものを感じる。蕪村のやさしさ?
足袋はいて寝る夜物うき夢見哉
木のはしの坊主のはしや鉢たたき
はしっこのはしの「鉢たたき」。「鉢たたき」は民間芸能なのか、出家者の身過ぎ世過ぎのか、念仏修行なのか。いずれにしても「坊主のはし」の哀しさ。蕪村は浄土宗になにがしかの縁があったようだ。
右画:蕪村の俳諧画賛。画賛とは画中に書きつけられた詩歌や文章のことをいう。画と書を合わせて鑑賞する考えで中国からもたらされた。蕪村も自画賛を残している。重厚な南画とともに、蕪村はこんな軽妙な俳画も画いている。
子を寝せて出行(でていく)闇やはちたたき
極楽のちか道いくつ寒念仏
寒念仏は極楽への近道か。念仏を唱えるだけで極楽にいけるのなら。人間の切ない性か、こうやって生きていく。
打ちかけの妻もこもれり薬喰(くすりぐい)
江戸時代、表向きは肉食忌避。鹿や猪、豚や牛・馬を「薬喰い」といって鍋物にしたり鉄板で焼いて食べた。上品な奥さんも籠って薬食いの可笑しさ。
炭うりに鏡見せたる女かな
顔見せや蒲団をまくる東山
小僧等に法問させて年忘
こういうひょうきんさ、磊落さも蕪村の持ち味。
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| 1769年 |
54歳 |
明和六年 |
寝ごころやいづちともなく春は来ぬ
鶯の枝ふみはづすはつねかな
鶯の「枝ふみはずす」初音という表現が、コミカルで面白い。でも鶯にそんなことが本当にあるのかしらん。「枝ふみはずす」は蕪村の好きな表現のひとつ。人生に対する「ふみはずし」感は蕪村のものか。
うぐいすのあちこちとするや小家がち
鶯がチョコチョコ、あちこちと動き回るかわいい姿、小さな家々。うぐいす・あちこち・小家、すべて蕪村らしい詩情。蕪村ワールド。
藪入(やぶいり)の夢や小豆(あづき)のにえる中(うち)
藪入りは、奉公人が盆暮れに実家に帰る(帰省)習慣のこと。蕪村が奉公を経験したかどうかは不明だが、彼の郷愁感と深くかかわっていて、「藪入り」は多用されている。故郷での小豆が煮えるしばしの間のうつろいの夢。幼い日の母への郷愁か。
春雨にぬれつつ屋根の毬(てまり)哉
春雨や小磯の小貝ぬるるほど
春雨に濡れる「女の白い爪」のような小貝。マニュキアのような小貝。繊細な詩情。
春雨や人住ミてけぶり壁を洩(も)る
春雨のなか、人家の壁から煙が漏れている。春雨のなか、煮炊きの煙が漏れるような隙間だらけの粗末な家をいとおしんでいるような。
いつの頃だったか、斑鳩の里を冷たい雨の中を歩いたことがある。そのとき歴史を感じさせる風情のある壁から、煙とも霞ともつかない薄白いものが漏れていた。この風景に、どこかで見たことがあるような懐かしい感じがして、じっとたたずんでいた記憶がある。「けぶり洩る壁」は懐かしくて愛おしい日本的な原風景のひとつではないか。
山姥(やまうば)の遊びのこして遅桜
高麗船(こまぶね)のよらで過行霞哉
高麗船が港に入るのかと思ったら、寄らないで行ってしまった。春の夢か霞か。「よらで過行」は蕪村的表現のひとつ。何か為そうとするときの躊躇感、なさずに済ましてしまった悔恨、質素な奥ゆかしさ。
島原の草履にちかき小蝶哉
島原の遊女の草履のあたりで舞飛ぶ胡蝶。蕪村は夢の中で小蝶になって遊んでいた。
菜の花や和泉河内へ小商
江戸時代、菜の花からとれる菜種油は食用だけでなく灯火の燃料としても多用たれていた。京都の近隣は季節になると菜の花の心地よい黄色につつまれていたのだろう。心も軽く、大阪方面に菜の花や野菜などを商いに。貧しい小商いの老人なのか娘さんなのか、その背景に一面の菜の花、この対比が美しい。
凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ
昨日の空とおなじように凧(たこ)が上がっている。昔、故郷の空もそうだったかも知れない。凧は蕪村にとって故郷の幼い日の郷愁と深くつながっている。「ありどころ」の意味が深い。昨日の空ではく、自分自身の「ありどころ」だろう。凧(たこ)は関東の方言で、江戸時代は関西では几巾(いかのぼり)と呼ばれていたらしい。紙の尾を垂らしていたところからそう呼ばれた。
「この句は蕪村俳句のモチーヴを表出した哲学的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのふの空の有りどころ」という如き語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じような欧風抒情詩の手法を持っていたということにある。」(萩原朔太郎「与謝蕪村」)
春の夜に尊き御所を守(もる)身かな
平安絵巻、北面の武人だった若き西行のイメージか。親衛隊のプライドと政情の行き先への不安と、さらに上臈への恋と。このイメージは蕪村のあこがれでもあるのか。
春の夜や盥(たらひ)を捨る(こぼす)町外れ
生暖かく、朧ろに曇った春の宵。とある裏町に濁った溝川が流れている。そこへどこかの貧しい女が来て、盥を捨てて行った。(朔太郎)
芭蕉は「芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉」と詠んだ。「侘び」の句である。それに対する蕪村の句は、春の夜におかみさんが盥の水捨てている町外れ、と詠んでいる。それだけのこと、といった句だが、春の夜のアンニュイな空気のなか、侘しさとおかしみの入り混じった蕪村ワールドの味をかもしている。
藤の茶屋あやしき夫婦(めおと)休みけり
これも時代劇趣味か。「あやしい夫婦」とはどんな夫婦のことか。蕪村は訳あり夫婦が好き。うちはどうなのだろう?
行春や撰者を恨む歌の主
行春や眼に合はぬめがね失ひぬ
蕪村はメガネをかけていたようだ。合わなくなったメガネがなくしてしまった。行く春を惜しむ気持ちとメガネを無くしたちょっぴりの喪失感と。しかし、蕪村はメガネをしていたのだろうか。
けふのみの春を歩ひて仕舞けり
「けふのみの春」が効いている。今日限りの春を惜しむ。
「今日のみと思へば長き春の日もほどなく暮るる心地こそすれ」(西行)
歩行歩行(ありきありき)もの思ふ春の行衛(ゆくえ)かな
春の陽気に誘われてここまで歩いてきてしまった。我が思いは乱れがち。どこまでも歩いて行く。どこへいってしまうのか、行方も定まらない我が思い。
衣がへ人も五尺のからだかな
今日、衣更え。人の身体も五尺のあやめのように、すっきりとさわやかに立つ。
行行てここに行行夏野かな
物くるる人来ましけり更衣
物をくれる良い人がきた。衣更えしなくちゃ。昔から物をくれる人は良い人。
「よき友三つあり。一つには物くるる友、二つには薬師(医者)、三つには知恵ある友」(「徒然草」第117段吉田兼好)ちなみに「友とするにわろき者」七種、@身分の高い尊い人、A若い人、B病気がなく身体の強い人、C酒を好む人、Dはやりたって勇んでいる兵士、E嘘をつく人、F欲深い人。
牡丹散りて打かさなりぬ二三片
蕪村の名句のひとつ。「妖艶で毅然たる牡丹の姿」「優美なる体」、その牡丹の花が1枚また1枚と落ちて重なるさま、「打ちかさなりぬ」である。牡丹は散っても妖艶で美しい。
閻王(えんおう)の口や牡丹を吐んとす
動く葉もなくておそろし夏木立
蚊屋の内にほたるはなしてアア楽や
蕪村は楽しい遊びを見つけた。蚊帳にホタルを放して寝転んで楽しむといった遊びが江戸時代頃からあったのかもしれない。「ひやひやと壁をふまえて昼寝哉」(芭蕉)、「じだらくに居れば涼しき夕かな」(宗次)
みじか夜や毛むしの上に露の玉
毛虫はきらいだが、毛虫の毛の先の露の玉が美しい。細かな観察、自然の中の生ける小さきものの美の発見。「みじか夜」が効いている。時代を超える蕪村のセンス。
夕顔の花噛ム猫や余所ごころ
夕顔の花を噛む猫、恋情で心ここにあらずかな。果たして猫が花を噛むものか。
雨乞いの小町が果やおとし水
小野小町の雨乞いの歌の効果で雨が降ったという伝説による。「小町が果て」とは零落することをいう。浮名を流していた小町のなれの果て。「おとし水」は、稲刈りの前に水田の水を落とすこと。雨乞いの用が済むと捨てられる哀しさ。
夕顔や行燈(あんど)さげたる君は誰
源氏物語・夕顔の出てくる「何人の住む」「君は誰」といったフレーズをイメージしているとか。
秋来ぬと合点させたる嚏(くさめ)かな
秋風におくれて吹や秋の風
「秋風」は万葉時代から和歌で使われ、「秋の風」は後から使われだした。ただそれだけのことか、それを遊んでいるようだ。
白露や茨の刺(はり)にひとつづつ
蕪村の自然観察は結構細かい。同じ頃に「みじか夜や毛むしの上に露の玉」と詠んでい。。自然の造形や細かな四季の変化に眼を輝かせて喜んでいる。
山鳥の枝踏かゆる夜長哉
茨野や夜はうつくしき虫の声
昼はノバラの花が、夜は虫たののやさしい声が楽しませてくれる。
腰ぬけの妻うつくしき火燵哉
蕪村は腰をいためて火燵に入っている妻を愛おしいと思った。「うつくし」とは、愛おしい、愛らしいといった意味。なんとなく色っぽくみえたのだろうか。
草枯て狐の飛脚通りけり
この句もまた鳥獣戯画か白昼の夢見心か。
「草枯て」と「狐の飛脚」が俳諧のよい味を出している。
御火(おほ)たきや霜うつくしき京の町
蕪村は京の町を愛した。蕪村は10年後、64歳の時に「夜色楼台図」といわれる傑作を描く。蕪村は雪積む寒夜の京を愛した。
冬ごもり妻にも子にもかくれん坊
蕪村に何があったのか。芸者遊びが過ぎて叱責され、「妻にも子にもかくれ坊」か。それとも生きづらい世間から、家族から逃れて「冬ごもり」か。
易水に葱(ねぶか)流るる寒哉
古典がわからないとわからない句。易水は中国河北省西部の川。燕の刺客荊軻(けいか)が秦の始皇帝を暗殺するため太子丹と別れた時に詠んだ。「風蕭蕭(しょうしょう)として易水寒く、壮士一たび去りて復還らず」(史記・刺客列伝)。「葱白く洗いたてたる寒さ哉」(芭蕉)、蕪村の教養がこぼれて出来たような句。葱(ねぶか)は長ネギのこと。「壮士一たび去りて復還らず」という緊張感からくる身を引き締める寒さと流れる葱の関係が俳諧か。
物書いて鴨に換けり夜の雪
書を書いて食糧の鴨に換えた。「夜の雪」がしっとりとしたいい味出している。書や画を描いて飯を食べていることの自嘲が混じっているか。蕪村には珍しくちょっと侘びてみたといった感じだが、鴨に換えて食ってしまうところにおかしさがある。。
古池に草履(ぞうり)沈みてみぞれかな
「蕪村におけるこの「主観」の実体は何だろうか。換言すれば、詩人蕪村の魂が咏嘆、憧憬し、永久に思慕したイデアの内容、即ち彼のポエジイの実体は何だろうか。一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄こもりうたの哀切な思慕であった。実にこの一つのポエジイこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。」(「郷愁の詩人与謝蕪村」萩原朔太郎)
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| 1770年 |
55歳 |
明和七年 |
師巴人(はじん)の亭号を譲り受け、夜半亭二世を継ぐ。
夜半亭を継承(宗匠立机)。
「遅桜人に待たれて咲きにけり」(蕭山)と蕪村のことを詠んだ友人もいた。
「奥の細道」再版。
この頃、俳諧(俳句)の世界は、独創性を失って行き詰まっており、蕪村は松尾芭蕉を祖とする蕉風の流派を復興させようと旗を振る。
画家としても俳人としても蕪村は有名になり、彼の主催する発句会には多くの人が集まるようにる。この時期、蕪村の俳諧に対する態度はやや積極性を欠くが、絵画制作への意欲が高まる。
花守の身は弓矢なき案山子哉
花守ですが、弓矢ももたない案山子のようなものです。夜半亭の後を継いで宗匠立机しましたが、私(蕪村)案山子のようなものです。
法然の数珠(ずず)もかかるや松の藤
御手打の夫婦(めおと)なりしを更衣
不義密通の男女が許されて、夫婦になって衣更え。時代劇風のドラマチックな展開が蕪村好み。
めしつぎの底たたく音やかんこ鳥
いなづまや二折三折(ふたおれみおれ)剣沢
雨と成恋はしらじな雲の峰
「雨と成恋」とはどんな恋なのだろう。意味深。ロマンチスト蕪村。
月更て猫も杓子も踊かな
右の句画賛「蕪村・応挙合作「ちいもははも」」
「猫は応挙子か戯墨也
しゃくしハ蕪村か酔画也
ちいもははも猫もしゃくしもおとりかな」
蕪村は、月も更けた夜半に父も母も猫も杓子も踊り出すようなイメージが好き。これは何なのだろう。「生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」(「一休噺」)とある。鎌倉時代より「猫も杓子も」といった面白い表現があったようだが、「生まれては死ぬるなりけりおしなべて」、踊りださずにはおれない。これがイメージか。
思ふ事いわぬさまなる生海鼠(なまこ)哉
「思う事いわぬさま」とは、「痰のつまりし仏」のようなものか。蕪村は海鼠に己を重ねているのだろう。
埋(うづみ)火や我かくれ家も雪の中
蕪村も隠れ家がほしくなったのだろう。「かくれ家」は自宅ではあるまい。雪に埋もれる隠れ家の情趣。うらやましい。
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| 1771年 |
56歳 |
明和八年 |
大雅との競作「十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)」成る。蕪村は十宜図を描く。(右画:宜夏図・宜晩図)
大雅と比べると南画的には蕪村の絵はへただが、人物描画が面白く、俳趣がで出ていて味があるという評価も。
鶯の麁相(そさう)がましき初音かな
鶯の鳴き声が「粗相がまし」いのは、初音だからしょうがないかな。
鶯を雀かと見しそれも春
万歳や踏かためたる京の上
行雲を見つつ居直る蛙哉
「居直る」は居住まいを正すという意味。行く雲に向かって姿勢を正す蛙。そんな画になるような蛙が確かにいると思う。
喰ふて寝て牛にならばや桃の花
飯次(めしつぎ)の底たたく音トやかんこ鳥
薬盗む女やは有おぼろ月
不老不死の薬を盗む女でもいるのだろうか、朧月が美しい。
ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に
学問は尻からぬけるほたる哉
右の画は蕪村自身か。書窓懶眠(らいみん)の前書き。蕪村はこんな面白いことをいう。やはり学問で苦労したのだろうか。
貧乏に追いつかれけりけさの秋
蕪村の実感なのか戯れなのか。師巴人(はじん)は苦労の多い俳諧師でありその内弟子の蕪村の生活も楽ではなかったはずだ。蕪村には絵の才能があった。画業が彼の生活を支えていたのだろう。この年頃には蕪村の絵は評価され注文も多くそれなりに生活は豊かになっていたはずだが。
「行春を和歌の浦にて追付たり」(芭蕉)
秋たつや何におどろく陰陽師(おんみょうじ)
うきぐさのさそい合わせておどり哉
名月やうさぎのわたる諏訪の海
花すすきひと夜はなびけ武蔵坊
みのむしのぶらと世にふる時雨哉
「さそい合わせておどり」は蕪村の好きなフレーズ。「うきぐさ」は根なし草のような生活をしている自分のことか。「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」(芭蕉)の世界と芭蕉の愛した「時雨」の取合せ。「世にふるもさらに宗祇(そうぎ)のやどり(しぐれ)哉」、この芭蕉的俳諧世界。蕪村の芭蕉への敬慕の気持ちがよくよかる。
しぐるるや鼠のわたる琴の上
畠にもならでかなしき枯野哉
化けそうな傘かす寺の時雨哉
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| 1772年 |
57歳 |
安永元年 |
右画:蕪村「闇夜漁舟図」
蕪村七部集「其雪影」成る。
田沼意次老中になる。
三椀の雑煮かゆるや長者ぶり
罷(まかり)出たものは物ぐさ太郎月
女倶して内裏拝まんおぼろ月
「春宵の悩ましく、艶(なまめ)かしい朧月夜の情感が、主観の心象においてよく表現されてる。「春宵怨(しゅんしょうえん)」とも言うべき、こうしたエロチカル・センチメントを歌うことで、芭蕉は全く無為であり、末流俳句は卑俗な厭味に低落している。独り蕪村がこの点で独歩であり、多くの秀れた句を書いているのは、彼の気質が若々しく、枯淡や洒脱を本領とする一般俳人の中にあって、範疇を逸する青春性を持っていたのと、かつ卑俗に堕さない精神のロマネスクとを品性に支持していたためである。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
日の光今朝や鰯のかしらより
昔、節分の夜に鰯の頭を門に飾り鬼除けしする習慣があったという。
立春の朝に、その頭から出る朝日を拝むという習慣。「鰯の頭も信心から」という諺がある。そんなことが合わさって蕪村は面白がっている。
両村(ふたむら)に質屋一軒冬木立
このむらの人は猿也冬木だち
この村で何か嫌なことがあっだのだろうか。冬木立ちの中、あの連中は皆猿だよとか言いながら帰路につく蕪村。
ゆく年の女歌舞伎や夜の梅
女歌舞伎とよるの梅の取合せが、蕪村にしては隠微でいやらしく色っぽい。
いざや寝ん元日は又翌(あす)の事
軽さと気楽さは蕪村のこころ。
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| 1773年 |
58歳 |
安永二年 |
蕪村七部集「此ほとり」「あけ鳥」成る。
春の夜や宵あけぼのの其中に
花に暮て我家遠き野道かな
うつつなきつまみごころの胡蝶哉
不思議な句。蕪村の句はこうである。うつつなき蝶がどうしてつまみごころなのか。夢の中か、うつつなき蝶、そっとつまんでみる。蕪村が追い求めたうつろな美の現実感の感触。「胡蝶の夢」か。感じるだけでいい。
菜の花や油乏しき小家がち
岩倉の狂女恋せよ子規(ほととぎす)
蕪村には「狂女」の句がいくつかある。親愛の情のような特別のイメージがあるように思う。自分の内に「狂女」を抱えているのだろう。
やぶ入りの宿は狂女の隣哉
昼舟に狂女のせたり春の水
摂待へよらで過行狂女哉
絶頂の城たのもしき若葉哉
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| 1774年 |
59歳 |
安永三年 |
「蕪村春興帳」「むかしを今」を刊行。「玉藻集」成る。
上田秋声「也哉抄」に序を寄せる。(「梅翁(西山宗因)を慕ふといえども、蕉翁(芭蕉)をなみせず(ないがしろにしない)」という文がみられる。芭蕉ぎらいの秋声と芭蕉を尊敬する蕪村は合わないはずだが。)
「芭蕉翁付合集」に序を寄せる。
杉田玄白「解体新書」刊。
二もとのむめに遅速を愛すかな
早咲きの梅、遅咲きの梅、どちらもいいものだ。
菜の花や月は東に日は西に
一面の菜の花、月は東に日は西にあり。月日はかくのごとし菜の花のなか。
「東の野に陽炎の立つ見えて顧みすれば月傾きぬ」(万葉集・柿本人麻呂)
「月は東に昴は西に、いとし殿御は真中に」(丹後の民謡)蕪村は3年ほど丹後に滞在した。その時、この民謡を耳にしたことがあるかも知れない。(「蕪村」岩波新書藤田真一著)
花に暮ぬ我すむ京に帰去来(かへりなん)
ゆく春やおもたき琵琶の抱心
うは風に音なき麦をまくらもと
麦畑を渡りくる「音なきうは風」。心地よい枕元。
右画:蕪村「春の夜や」「春の夜や音なき波を枕もと」句賛。麦畑を渡りくる風と春の夜の波音は、旅先での同じ詩情。右絵のような呑気な画は蕪村の得意。
「嵯峨の田舎に、雅因を訪ねた時の句である。一面の麦畑に囲まれた田舎の家で、夏の日の午睡をしていると、麦の穂を渡った風が、枕許に吹き入れて来たという意であるが、表現の技巧が非常に複雑していて、情趣の深いイメージを含蓄させてる。この句を読むと、田舎の閑寂な空気や、夏の真昼の静寂さや、ひっそりとした田舎家の室内や、その部屋の窓から見晴しになってるところの、広茫たる一面の麦畑や、またその麦畑が、上風に吹かれて浪のように動いている有様やが、詩の縹渺するイメージの影で浮き出して来る。こうした効果の修辞的重心となってるものは、主として二句の「音なき」という語にかかっている。これが夏の真昼の沈黙や、田舎の静寂さやを、麦の穂の動きにかけて、一語の重複した表象をしているのである。また「上風に」のに、「音なき麦を」のをが、てにをはとしての重要な働きをして、句の内容する象景を画いてることは言うまでもない。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
後家の君たそがれがほのうちは哉
花いばら故郷の路に似たるかな
花いばらは、故郷の馬堤のあたりによく茂っていたのだろう。蕪村は「花いばら」に郷愁がある。
愁ひつつ岡にのれば花いばら
江戸時代にこんな句を歌う俳人がいたとは。蕪村は俳諧師としうより今でいう詩人である。さすが遊び人・蕪村である。青春の憂愁という読みもあるが、蕪村59歳の句。
細腰の法師すずろにおどり哉
踊る法師は念仏踊りか。空也や一遍の遊行の踊り念仏か。細腰になにか色っぽさが出ている。蕪村はいろいろなものに踊らせたがる。
門(もん)を出(いづ)れば我も行人(いくひと)秋のくれ
「行人」とは何か。ただの通行人ではない。芭蕉のように一所不住の旅人かもしれない、俳諧の誠の道を求める人かもしれない。(「人生の漂泊者」(萩原朔太郎))何かを求めて歩き続け人。門を一歩出れば、自分も「行人」につらなって歩き続ける人でありたい。だが、外はすでに冷たい木枯らし吹く秋の暮れ。蕪村は「行人」であったのか。蕪村はたしかに門を出れば「行人」でありえたが、また門に帰ってきた。
門を出て故人に逢ひぬ秋のくれ
蕪村は芭蕉の生き方に強く惹かれていた。芭蕉が「此道や行く人なしに秋の暮」と「人声や此道かへる秋のくれ」のいづれがよいかと問うたのに倣って、上二句を併記してどちらがよいか問うたらしい。後の人の作り話かもしれない。
老いが恋忘れんとすれば時雨かな
句会での「しぐれ」出題による即興。蕪村はいい年をして何を思っていたのか。結構、芸者と遊んでいた。もうやめようという気はあるのだが、どうも忘れる気のあるような、ないような、時雨のなか。
愚に耐よと窓を暗(くらう)す雪の竹
この年になって「愚に耐え」ようとする蕪村は何をみていたのか。蕪村は遊び人で楽天家で青年的若さの俳人と言われる。この句も愚と暗さを装いながらも、やはり青春的な感じがする。この時期、蕪村の句はなかなか世に受け入れられなかった。蕪村の句は時代を超越しすぎている。世に入れられない不満や悲しさはあっただろう。だが、「愚」とは何か。世間への憤怒もあろうが、暗い顔をして自分に向けて投げつけたことばでもあろう。
「世に入れられなかった蕪村。卑俗低調の下司趣味が流行して、詩魂のない末流俳句が歓迎された天明時代に、独り芭蕉の精神を持して孤独に世から超越した蕪村は、常に鬱勃たる不満と寂寥に耐えないものがあったろう。「愚に耐えよ」という言葉は、自嘲でなくして憤怒であり、悲痛なセンチメントの調べを帯びてる。蕪村は極めて温厚篤実の人であった。しかもその人にしてこの句あり。時流に超越した人の不遇思うべしである。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
乾鮭や琴(きん)に斧(おの)うつひびき有
ほうらいの山まつりせむ老の春
ほうらい(蓬莱)とは、古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つ。中国・南画の仙人の住まいや桃源郷の世界、蕪村の深い憧れ。
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| 1775年 |
60歳 |
安永四年 |
蕪村病気になる。持ち直すが、冬に入るとまた不調。
この頃か蕪村の唐服の「芭蕉像」(右絵)許六の画にならったもの。蕪村はたくさんの芭蕉像を描いている。こんなポーズの芭蕉はみたことない。見上げるポーズは蕪村の専売か。
「人の短をいふことなかれ
己が長をとくことなかれ
もの云へは唇寒しあきの風」)
「夜半亭歳旦帳」刊。
「去来抄」出版。
加賀千代女没。
「僕は生来、俳句と言うものに深い興味を持たなかった。興味を持たないというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。何故かというに、俳句の一般的特色として考えられる、あの枯淡とか、寂びとか、風流とかいう心境が、僕には甚だ遠いものであり、趣味的にも気質的にも、容易に馴染めなかったからである。反対に僕は、昔から和歌が好きで、万葉や新古今を愛読していた。和歌の表現する世界は、主として恋愛や思慕の情緒で、本質的に西洋の抒情詩とも共通しているものがあったからだ。
こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが出来たからだ。今日最近にいたって、僕は漸く芭蕉や一茶の句を理解し、その特殊な妙味や詩境に会得を持つようになったけれども、従来の僕にとって、芭蕉らの句は全く没交渉の存在であり、如何にしてもその詩趣を理解することが出来なかった。それ故に僕にとって、蕪村は唯一の理解し得る俳人であり、蕪村の句だけが、唯一の理解し得る俳句であったのだ。
この不思議なる事実。僕があらゆる俳句を理解し得ず、俳句を本質的に毛嫌いしながら、一人例外として蕪村を好み、彼の俳句だけを愛読したという事実は、思うにおそらく、蕪村の情操における特異なものが、僕の趣味性や気質における特殊な情操と密に符合し、理解の感流するものがあったためであろう。そしてこの「蕪村の情操における特異性」とは、第一に先ず、彼の詩境が他の一般俳句に比して、遥かに浪漫的の青春性に富んでいるという事実である。
・・・
蕪村の俳句は「若い」のである。丁度万葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であったように、蕪村の俳句がまた、近世の日本における最も若い、一の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言うのは、人間の詩情に本質している、一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指しているのである。
芭蕉と蕪村とは、この点において対蹠的な関係を示している。もちろん本質的に言うならば、芭蕉のポエジイにもまた、真の永遠的の若さがある。――すべての一流の芸術は本質的に皆若さを持っている。その精神に「若さ」を持たない芸術は、決して真の芸術ではない。特に詩においてそうである。――しかしながら芭蕉は、趣味としての若さを嫌った。西行を好み、閑寂の静かさを求め、枯淡のさびを愛した芭蕉は、心境の自然として、常に「老」の静的な美を慕った。「老」は彼のイデア――美しきものの実体観念――だった。それ故に彼の俳句は、すべての色彩を排斥して、枯淡な墨絵で描かれている。もちろん僕らは、その墨絵の中に訴えられている、詩人の深い悩みと感傷とを感ずる故に、それは決して非情緒的ではないけれども、趣味としての反青春的|風貌を感ずるのである。しかるに蕪村は、彼のあらゆる絵具箱から、すべての花やかな絵具を使って、感傷多き青春の情緒を述べ、印象強く色彩の鮮やかな絵を描いている。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
懐旧
遅き日のつもりて遠きむかし哉
春の長閑(のどか)な日和(ひより)の中で、夢見心地に聴く子守唄の思い出。(朔太郎)
「蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に咏嘆していることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。この句の咏嘆しているものは、時間の遠い彼岸における、心の故郷に対する追懐であり、春の長閑な日和の中で、夢見心地に聴く子守唄の思い出である。そしてこの「春日夢」こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹き鳴らす「詩人の笛」に外ほかならないのだ。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
閣に座して遠き蛙をきく夜哉
みじか夜やいとま給る白拍子
若竹やはしもとの遊女ありやなし
白梅や誰(た)が昔より垣の外
(白梅やいつの頃より垣の外)初案
垣の外に白梅が咲いている。いつの頃からだろうか。垣の外の白梅とは何なのか。どうして垣の内ではなく外なのか。「垣の内」ではなく「垣の外」という表現に俳趣が出ていて、いい味をしているということか。蕪村のいう白梅は、思いを遂げられなかった女性や、遠き日の母の面影かもしれない。昔から垣の外で、自分を待っている女性が立っているような気がする。蕪村のリリシズムはどこすらきているのか。朔太郎のいう郷愁か。
陽炎や名もしらぬ虫の白き飛
「白き飛」ぶ名もしらぬ虫、陽炎。蕪村は何を見ていたのか。陽炎のかなの乾いた虫の飛ぶイメージは幼き日の「白い詩情」か。見上げた白い空。春の日の白い思い出のイメージ。
居眠りて我にかくれん冬ごもり
ひきこもりのような、冬籠り。蕪村60歳。俳諧や絵に飽きたのか人生に疲れたのか、蕪村はかくれんぼや冬籠りが性に合っているようだ。居眠りしている我に隠れるとは何か。無意識の我かまどろみの夢中か。
狐火や髑髏(どくろ)に雨のたまる夜に
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| 1776年 |
61歳 |
安永五年 |
金福寺境内に芭蕉庵再興を企て、写経社会を結成。
「飲中八仙画冊」(右の画)
娘「くの」結婚。
蕪村七部集「続明鳥」成る。
「三冊子」出版。
蕪村の「磊落」の俳風(尾形仂)
池大雅没。
アメリカ独立宣言
梅咲ぬどれがむめやらうめじややら
梅咲て帯買室の遊女かな
人間(ひとあい・にんげん)に鶯啼や山ざくら
「むめ」と「うめ」、なんとなく面白い。
「人里離れた深山の奥、春昼の光を浴びて、山桜が咲いている」(萩原朔太郎)
静けさに堪えて水済たにしかな
夜桃林を出てあかつき嵯峨の桜人
花を踏し草履も見えて朝寝
春風駘蕩、朝寝も楽しい。昨日は花野を歩いたきた。
夕立や草葉をつかむ村雀(群雀)
夕立と強風、吹き飛ばされまいと必死で草葉にしがみつく雀を見てしまった。画家としての写生的・絵画的な表現ということだが、蕪村の雀たちの観察の眼があたたかい。
ぼたん切て気のおとろひし夕かな
庭先に咲いていた牡丹を切った。美しく妖艶な牡丹の気が衰え、私の気も牡丹といっしょに衰えたような気がした夕べ。
折釘に烏帽子(えぼし)かけたり春の宿
烏帽子を被るのは王朝の官人。折釘がむき出しになっている宿は貧しい遊女の里か。色っぽい古典趣味か。
若竹や橋本の遊女ありやなし
雪月花つゐに三世のちぎりかな(年次不詳)
雪月花の風雅により、ついに結んだ過去・現在・未来の三世にわたる主従の縁牛若丸に従う弁慶の画。風雅の交わりもこれと同じようなものという寓意か。右画:蕪村「雪月花」
月今よひあるじの翁舞出よ
「月今よひ」が生きている。月の宴の「あるじ」とは誰か。そんな気にさせる今宵の月よ。
盗人の首領歌よむけふの月
今日の月をみれば、無粋な盗人の首領も歌を詠む。
巫女(かんなぎ)に狐恋する夜寒哉
巫女に恋する狐、そんな夜寒。蕪村的な不思議で甘美な夜寒の世界。
かんこどり可もなく不可もなくね(音)哉
みじか夜や小見世明たる町はずれ
夕立や草葉をつかむ村雀
我を慕ふ女やはある秋のくれ
いい年をした蕪村が何をいっているのか。秋の暮れで人寂しいのか。
さびしさのうれしくも有秋のくれ
秋の暮れの「さびしい」は「うれしい」。これぞ俳諧の王道。それにしても、老人に寂しさはつきものだが、それを楽しむうれしさとの間を行き来する。
去年より又さびしいぞ秋の暮
晩年の蕪村はさびしがり屋さんか。人生の暮れ、特に身の回りの不幸などがあると、老人はどうしてもさびしい。さびしさに振れてしまう。寂しさとうれしさのどちらにウエイトを置くか。「憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥」「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」(芭蕉)
芭蕉去りてそののちいまだ年くれず
「笠着てわらじはきながら」という前書きがある。「年暮ぬ笠きて草鞋はきながら」(芭蕉「野ざらし紀行」)どうしても自分は芭蕉にはなれないし及ばない。蕪村は芭蕉を尊敬し「芭蕉に帰れ」の蕉風復活を提唱した。敬慕する芭蕉、だが、芭蕉去りてそののち芭蕉なし。自身を含めて。
右画:画の右は蕪村自筆の句、左の住吉の遊女の絵は弟子の月渓によるもの。初めてこの絵を見たときはてっきり蕪村の絵かと思ったのだが。蕪村は女好きだが、女性を主題とした絵は描かなかった(ようだ)。こんな色っぽい女性は蕪村は描かない。狂女も描かなかった。どうしてだろう。
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| 1777年 |
62歳 |
安永六年 |
「夜半楽」に「春風馬堤曲」
「殿河歌」「老鶯児」三部作を発表。
(萩原朔太郎の「春風馬堤曲」評、「郷愁の詩人与謝蕪村」より。
「附録 芭蕉私見」)
「北寿老仙をいたむ」発表か。
「君あしたに去りぬ
ゆうべの心千々に何ぞ遥かなる。
君を思うて岡の辺べに行きつ遊ぶ。
岡の辺べなんぞかく悲しき。
この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る鮮新な、浪漫的ろうまんてきな、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
この頃、「蕪村自賛像」(「歯あらはに筆の氷を噛夜かな」)。(本ページの右下の画)
梅遠近(をちこち)南(みんなみ)すべく北すべく
野に出たら梅がさいている。あっちにもあるこっちにも咲いている。南に行こうか北へ行こうか。「あちこち」は蕪村の好きな表現。
歳旦をしたり顔なる俳諧師
春雨やもの書ぬ身のあはれなる
水に散りて花なくなりぬ岸の梅
やぶ入や浪花を出て長柄川
藪入りで浪花を出て長良川まで歩いてきた。家はもうすぐ近く。藪入り・長良川、馬堤へ。このイメージは蕪村の追憶、郷愁。「春風馬堤曲」の初めの句に採られている。
春風や堤(つつみ)長うして家遠し
「春風馬堤曲」のなかでとられている句。蕪村の故郷への幼き日の主要なイメージか。はやる気持ちと家路への長い堤。
一軒の茶見世の柳老にけり
春草道三叉中に捷径(しょうけい)あり我を迎ふ
たんぽぽ花咲り三々五々五々は黄に
昔昔しきりにおもふ慈母の恩
故郷春深し行行て又行行く
以上「春風馬堤曲」のなかでとられている句。
春雨やもの書ぬ身のあはれなる
さくら狩美人の腹や滅却す
又平に逢ふや御室の花ざかり(年次不詳、この年あたり)
又平は大津絵の絵師で、近松門左衛門作「傾城反魂香」に登場する人気者の吃音絵師、浮世又平のこと。酒好きで踊れば吃らずに喋られるという。右の画はそんな人のよさそうな又平が酔って踊っている姿か。
歩行歩行(ありきありき)もの思ふ春の行衛(ゆくえ)かな
春の陽気に誘われてここまで歩いてきた。我が思念は深い。どこまでも歩いて行く。
兵庫に遊ぶ。
娘「くの」離婚。
灌仏やもとより腹はかりのやど
灌仏は、4月8日、釈迦の誕生日を祝う法会。腹は借りもの。仮の腹から出て仮の世を生きて死んでいく。釈迦も人も同じこと、人生仮の宿り。
衣更母なん藤原氏也けり
「衣更母なん藤原氏なんめり」という別句がある。「なんめり」のほうが面白い。蕪村の貴族的血統的趣味は遊びだろう。蕪村の句には平安貴族的趣味の表現がいくつかある。烏帽子・御所・平安城など。
こもり居て雨うたがふや蝸牛
朝比奈が曽我を訪ふ日や初がつを
麦秋や狐ののかぬ小百姓
麦秋(ばくしゅう)とは、麦の穂が実り収穫期を迎えた初夏の頃の季節のこと。実景ではないだろうが、畑に狐が居座ってのかない。それをなすすべなく、ぼぉーとして見ているお百姓さん。いや、のかぬキツネはお百姓さんの頭の中なのか。
金屏のかくやくとして牡丹哉
鮒ずしや彦根の城に雲かかる
酒を煮る家の女房ちよとほれた
暑中、酒を腐らせないように煮る家の女房にちょっと惚れたよ。
さみだれや大河を前に家二軒
裸身に神うつりませ夏神楽
二人してむすべば濁る清水哉
意味不明。一人で住んでいれば清水も澄んできれいな水を飲めるが、二人で住んで清水を飲もうとすると濁ってしまう。だから恋というのは、とうことか。
三径の十歩に尽きて蓼の花
隠者の住む小庭、十歩も歩けば行き止まり。そこに蓼の花。
花守は野守に劣るけふの月
花守には華やかさが、野守には侘びがある。野守には花守にない楽しみがある。今日の月はとりわけ美しく情趣深い。
月見ればなみだに砕く千々の玉
さればこそ賢者は富ず敗荷(やれはちす)
だらかこそ賢者は金持ちにはならない、破れた蓮。賢者や君子は富まないというのは「論語」か。蓮は君子のイメージ。「さればこそあれたきままの霜の宿」(芭蕉)
身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏
この時、蕪村の妻は健在だったはずだが。
鬼灯(ほほづき)や清原の女(め)が生写(しょううつ)し
人は何に化るかもしらじ秋のくれ
化けるのは狐やタヌキばかりではない。人も何かに化けるかもしれない。
恋さまざま願の糸も白きより
織女・牽牛伝説の願いの糸。恋も最初は純白だがそののちいろいろな色に染まっていく。蕪村の人生経験か。
木曽路行ていざ年寄ん秋独り
「けふばかり人も年よれ初時雨」芭蕉
葱(ねぶか)買て枯れ木の中を帰りけり
葱はながねぎのこと。
「古く、懐かしく、物の臭いの染みこんだ家。赤い火の燃える炉辺。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活!
この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調している。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛しているのである。芭蕉の俳句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接実感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花
金福寺の芭蕉庵と碑。蕪村たちが建立した(天明元年)。枯れ尾花そよぐ芭蕉碑のそばで眠りたいものだ。師と仰ぐ芭蕉への熱い思い。私はとうとう芭蕉にはなれなかつた。だが、師と並ぶほどのものを為し得たのだろうか。蕪村の句は時代を越えて飛んでいただろう。江戸時代の当時の人々の蕪村評価は低かったようだが、明治以降、蕪村は芭蕉にはならなかったことにより、その詩的表現の現代的評価は高い。
洛東ばせを庵にて
冬ちかし時雨の雲もここよりぞ
蒲公(たんぽぽ)のわすれ花有路の霜
「わすれ花」は季節外れに咲いている花のこと。霜がおりる季節なのに、季節外れのたんぽぽが咲いている。
焼火(たきび)して鬼こもるらし夜の雪
たたずみて女ささやく師走かな
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| 1778年 |
63歳 |
安永七年 |
「野ざらし紀行図」、「奥の細道図巻」成る。
(右画2点)

春風のつまかえしたり春曙抄(しゅんしょせう)
「つま」「春曙抄」が何のことかわからなかった。「つま」は本のページの端のつまむところ。春曙抄(しゅんしょしょう)は「枕草子春曙抄」のことで枕草子の江戸時代の注釈本らしい。「春はあけぼの」で始まる枕草子の解説本を春風がベージを返して吹き抜けていくさま。さすが蕪村、こういうセンスは近代現代青年のものだと思うのだが。江戸時代中期、蕪村はまるで愁い深いもの思う文学青年のよう。
しら梅や北野の茶店にすまひ取
大津絵に糞落しゆく燕かな
足よはの宿とるため歟(か)遅桜
「足よは」は女性や老人、子供を指すようだ。足の弱い女性のためか宿に遅桜が咲いている。
我帰る路いく筋ぞ春の艸(くさ)
蕪村は故郷に帰る道がみつけられない。ただ春の草むらだけが故郷を偲ばせる。
菜の花や鯨もよらず海くれぬ
行春や白き花見ゆ垣のひま
蕪村の「白き」は何か若き日の「カラカラ」とした特別のイメージと結びついている。
「この句もまた、蕪村らしく明るい青春性に富んでいる。元来日本文化は、上古の奈良朝時代までは、海外雄飛の建国時代であったため、人心が自由で明るく、浪漫的の青春性に富んでいたのであるが、その後次第に鎖国的となり、人民の自由が束縛されたため、文学の情操も隠遁的、老境的となり、上古万葉の歌に見るような青春性をなくしてしまった。特に徳川幕府の圧制した江戸時代で、一層これが甚だしく固陋となった。人々は「さび」や「渋味」や「枯淡」やの老境趣味を愛したけれども、青空の彼岸に夢をもつような、自由の感情と青春とをなくしてしまった。しかるに蕪村の俳句だけは、この時代の異例であって、そうした青春性を多分に持っていた。前出した多くの句を見ても解る通り、蕪村の句には「さび」や「渋味」の雅趣がすくなく、かえって青春的の浪漫感に富んでいる。したがって彼の詩境は、「俳句的」であるよりもむしろ「和歌的」であり、上古奈良朝時代の万葉集や、明治以来の新しい洋風の抒情詩などと、一脈共通するところがあるのである」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
蕪村は妻子のいる身で老いらくの恋。京都の祇園の美人芸者、小糸に夢中、書簡に再三再四あらわれる。友人の忠告で彼女と別れるというのだがそれを残念に思って、次の句を詠む。
逢ぬ恋おもひ切ル夜やふくと汁
蕪村も友人から「ほどほどにしなさいよ」といさめられたらしい。それでも性懲りもない蕪村は、「これっきりにしよう」と多少の後悔と決意とともにフグ汁を飲むのだった。
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| 1779年 |
64歳 |
安永八年 |
連句修行のため檀林会を結成。
垣越しにものうちかたる接木哉
うめちるや螺鈿(らでん)こぼるる卓(しよく)の上
梅のはなびらと卓上の螺鈿の交差。蕪村の美意識が光る。
しら梅や北野の茶店にすまひ取
桃尻の光りけふとき蛍哉
蛍が尻を光らせて去るのを寂しく思う、という意味で小糸への思いを重ねたもの。結局、小糸との親密な関係の天明三年四月まで続いた。いくつになっても青春している、蕪村の一面ではある。蕪村はその年の12月に逝く。

平賀源内没。
「夜色楼台図」(右・部分)
蕪村らしい斬新な意匠。雪ふる京都の夜。 これを墨絵で表現する筆力、家々の明かりとして紅を指している。
巡礼の宿とる軒や猫の恋
「巡礼の宿とる軒」と「猫の恋」がどう関係するのか。恋する猫は、ニャンゴロゴロとうるさい、騒々しい。
やぶ入りの宿は狂女の隣哉
藪入りの途中の宿では、狂女の隣の部屋だったよ。蕪村は狂女に何か特別の思いを寄せている。彼はなんとなくうれしそう。
大津絵に糞落しゆく燕かな
眠たさの春は御室の花よりぞ
洟(はな)たれて独碁をうつ夜寒かな
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| 1780年 |
65歳 |
安永九年 |
蕪村七部集「桃季(ももすもも)」成る。
「紅白梅図屏風」この頃の作か。(右の画)
妹(いも)が垣根三味線草(さみせんぐさ)の花咲きぬ
妹:どうも芸者、小糸のことらしい。小糸の三味線がかけられている。蕪村もいい年をしてなかなかのもの。三味線草:なずな,ぺんぺん草のこと。「老いが恋わすれんとすればしぐれかな」といったさもありなんの句がある。蕪村の作かどうか不明らしい。
花に来て花にいねぶるいとまかな
「花に来て」は「花見に来て」ということ。花見にきたのに、眠くなって寝てしまった、ああ安らぎの時よ。この気持ちよくわかる。
花に来て花にいねぶるいとま哉
花を蹈し草履も見えて朝寝哉
花(華)見戻り丹波の鬼のすだく夜に
嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮し
ゆくはるや同車の君のささめごと
これはどういう状況なのだろう。いやらしさがにじみ出ている。行く春、同車の君と愛のささやき。平安貴族絵巻の一場面のようでもあり、現代社会のありそうな風俗場面のようでもあり。ささめごとは「私語」と書く。
掴(つか)みとりて心の闇のほたる哉
掴み取ったのはこころの闇か蛍か。手の中の蛍のかすかな光を見たら、己のこころの闇をしった。蕪村がみた心の闇は何だったのか。
花はいさ月にふしみの翁かな
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| 1781年 |
66歳 |
天明元年 |
「富嶽列松図」(右・部分)
金福寺の芭蕉庵落成。蕪村とその一門による。(右の写真)
昼舟に狂女のせたり春の水
狂女と舟と春の水。蕪村的甘美的世界。
足よはのわたりて濁る春の水
公達に狐化けたり宵の春
芭蕉庵会
畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ
春水(しゅんすい)や四条五条の橋の下
うたた寝のさむれば春の日くれたり
うたた寝から覚めて、ぼんやりしていると、春の日が暮れてしまった。
隅々に残る寒さや梅の花
春とはいえ寒さが厳しい。「隅々に残る」という寒さの表現がいい。それでも梅の花がしっかりとつつましく、清楚に咲いている。
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| 1782年 |
67歳 |
天明二年 |
金福寺芭蕉庵にて芭蕉忌。
(右の図:蕪村筆芭蕉翁立像図
「人の短をいふことなかれ
己が長をとくことなかれ
もの云へは唇寒しあきの風」)
蕪村七部集
「蕪村の俳句の特色として、人々の一様に言うところは、およそ次のような条々である。
一、写生主義的、印象主義的であること。
一、芭蕉の本然的なのに対し、技巧主義的であること。
一、芭蕉は人生派の詩人であり、蕪村は叙景派の詩人である。
一、芭蕉は主観的の俳人であり、蕪村は客観的の俳人である。
「印象的」「技巧的」「主知的」「絵画的」ということは、すべて客観主義的芸術の特色である。それ故に以上の定評を概括すれば、要するに蕪村の特色は「客観的」だということになる。そしてこれが、芭蕉の「主観的」に対比して考えられているのである。
・・・
ところで一般に言われる如く、蕪村が芭蕉に比して客観的の詩人であり、客観主義的態度の作家であることは疑いない。したがってまた「技巧的」「主知的」「印象的」「絵画的」等、すべて彼の特色について指摘されてるところも、定評として正しく、決して誤っていないのである。しかしながら多くの人は、これらの客観的特色の背後における、詩人その人の主観を見ていないのである。そしてこの「主観」こそ、正しく蕪村のポエジイであり、詩人が訴えようとするところの、唯一の抒情詩の本体なのだ。人々は芭蕉について、一茶について、こうした抒情詩の本体を知り、その叙景的な俳句を通して、芭蕉や一茶の悩みを感じ、彼らの訴えようとしている人生から、主観の意志する「詩」を掴んでいる。しかも何と不思議なことに、人々はなお蕪村について無智であり、単に客観的の詩人と評する以外、少しも蕪村その人の「詩」を知らないのである。そしてしかも、蕪村を讃して芭蕉と比肩し、無批判に俳聖と称している。「詩」をその本質に持たない俳聖。そして単に、技巧や修辞に巧みであり、絵画的の描写を能事としている俳聖。そんな似而非詩人の俳聖がどこにいるか。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
春雨や暮なんとしてけふも有
春雨が降り続いている。暮れようとして暮れない。昨日も今日もそうだった。人生の暮れ。なかなか暮れきらない。春雨のなか、今日もまた生きて有り。「暮なんとしてけふもあり」とは何か。
春雨やものがたりゆく蓑と傘
春雨のなか、蓑を着た男と傘をさした女が物語りながら歩いていく。なにかロマンチック。いや、雨のかな蓑と傘が本当に、物語り歩いていったのかもしれない。
春雨に下駄買泊瀬の法師かな
春雨の中、長谷寺の法師が愛しい人のため下駄を買った。下駄は遊女が好んで履いた。蕪村はこんな人間くさいのが好き。
みよしののちか道寒し山ざくら
花散月落て文ここにあらありがたや
花が散り月が落ちて幾星霜、文を新たに書き加えた。ありがたいことだ。
花ちりて身の下やみやひの木笠
「花ちりて」は失意の比喩か。「身の下やみ」は心の闇か。「ひの木笠」は「吉野にて桜見せふぞ檜の木笠」(芭蕉)か。でどういうことになるのか。
ゆく春や逡巡として遅ざくら
春も終わりなのにまだ咲いている桜があるよ。逡巡している桜、遅桜。蕪村自身の逡巡がどうしても句になるか。
淋し身に杖わすれたり秋の暮
淋しい老いの蕪村。杖を忘れてしまった、秋の暮れ。
ひとり来て一人を訪ふや秋のくれ
甲斐ヶ嶺(かいがね)や穂蓼(ほたで)の上を塩車
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| 1783年 |
68歳 |
天明三年 |
義仲寺の襖絵を描く。
芭蕉百回忌追善俳諧に出座。
蕪村七部集「五車反古」成る。
紅梅の落花燃らむ馬の糞(くそ)
公達(きんだち)に狐化けたり宵の春
山吹や井手を流るる鉋屑(かんなくづ)
蕪村は夢をみていたのだろうか。川沿いに山吹が咲いている。その川を鉋屑が流れてきた。それだけの句。なんか変な春風駘蕩。
我影を浅瀬に踏てすずみかな
桜なきもろこしかけてけふの月
鬼すだく露のやどりやのちの月
西行の夜具も出て有紅葉哉
「西行の夜具」とは、「西行の頭をかち割ってやろう」と息巻いていた高尾・神護寺の文覚上人が、その西行を宿泊させたという故事による。それほど絢爛の紅葉かな。
やぶ入のまたいで過ぬ几巾(いか)の糸
花に暮て我家遠き野道かな
うぐひすや何ごそつかす藪り霜
妻も子も寺で物くふ野分かな
しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり
蕪村辞世の句とされる。白梅は何をイメージしているのか。白梅とはだれなのか。母の面影か恋人か。白梅に語り、白梅に親しむ。いっしょに過ごして朝を迎えた。もうすこしでそちらへ行きます、そんな感じかもしれないが。白梅に朝日があたり、神々しさに包まれ、何か満ち足りたような、あきらめて何かを悟ったような、そんな蕪村の心持ちが感じられる。
「しかしこうした句は、印象の直截鮮明を尊ぶ蕪村として、従来の句に見られなかった異例である。かつどこかスタイルがちがっており、句の心境にも芭蕉風の静寂な主観が隠見している。けだし晩年の蕪村は、この句によって一の新しい飛躍をしたのである。もしこれが最後の絶筆でなかったならば、更生の蕪村は別趣の風貌を帯びたか知れない。おそらく彼は、心境の静寂さにおいて芭蕉に近づき、全体としての芸術を、近代の象徴詩に近く発展させたか知れないのである。そしてこの臆測は、蕪村の俳句や長詩に見られる、その超時代的の珍しい新感覚――それは現代の新しい詩の精神にも共通している――を考え、一方にまた近代の浪漫詩人や明治の新体詩人やが、後年に至って象徴的傾向の詩風に入った経過を考える時、少しも誇張の妄想でないことを知るであろう。」(萩原朔太郎「郷愁の詩人与謝蕪村」)
蕪村が畏敬していた芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」とは、表現意識がずいぶん異なっている。言葉のうえでは真逆の表現のように見えるが、二人の表現者の心象は揺れ動く表裏の関係のように思う。
晩秋頃、持病が悪化し、妻子や弟子たちの必死の看病にも関わらず、逝去。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明のこと。
死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。
遺骨は遺言通り、芭蕉碑のある金福寺(こんぷくじ)に葬られた。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
蕪村の句は、生涯2,800余りと言われる。
天明の大飢饉
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<年次不詳の句> |
春風のつまかへしたり春曙抄
やぶ入りのまたいで過ぬ几巾(いか)の糸
袷(あわせ)着て身は世にありすのすさび哉
骨(こつ)拾ふ人にしたしき菫かな
昔の葬送は、野辺で夜に火葬し(野辺送り)、翌朝に骨揚げにいくという風習だった。
その野辺には菫が咲きそっている。春の野、野辺に咲くすみれのやさしさ、親しみ、添わしさ。「春の野にすみれつみにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜ねにける」(万葉集・山部赤人)
これきりに径(こみち)尽たり芹の中
蝸牛(ででむし)のかくれ顔なる葉うら哉
出る杭のうつつなき身やかたつぶり
鬼老て河原の院の月に泣ク
鬼すだく戸隠のふもとそばの花
庵の月主を問へば芋掘ニ
書つづる師の鼻赤き夜寒かな
美人泣浅茅(あさぢ)が宿やしかの声
又平に逢ふや御室の花ざかり
朝顔にうすきゆかりの木槿(むくげ)哉
雪月花ついに三世のちぎりかな
袷(あわせ)着て身は世にありのすさび哉
河童(かはたろ)の恋する宿や夏の月
秋の燈(ひ)やゆかしき奈良の道具市
己が身の闇より吼(ほえ)て夜半の秋
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