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芭蕉と西行  



芭蕉が住んでいたと思われる場所深川・芭蕉公園。隅田川と小名木川が交わる辺りに住んでいた。

芭蕉の師、西行

 988年能因法師誕生、1118年西行誕生、1644年に芭蕉生まれる。 芭蕉との間には500年以上の差がある。だが、芭蕉は西行や能因法師を師と仰いでいた。 
  芭蕉は1680年、37歳の冬に日本橋から草深い深川に隠棲する。なぜなのか、原因は諸説とりざたされているが、実際は不明である。この深川隠棲が芭蕉の俳諧に大きな転機をもたらすことになった。
 芭蕉は深川臨川庵で仏頂和尚について禅を学んだといわれる。この頃、仏頂和尚の教えによるものか、荘子・杜甫の漢文や漢詩について学ぶ機会があったようだ。同時に、西行についての書物にもふれる機会があった。
 芭蕉はいつ頃から西行に親しむようになったのだろう。芭蕉が西行の歌を意識した句や言葉を残したのは「野ざらし紀行」「笈の小文」「奥の細道」においてである。


芭蕉公園にある芭蕉の像。
芭蕉は、食事の栄養状態はよくなかったが、ややふっくらした顔つきだったようだ。

 西行の私家集である「山家集(さんかしゅう)」は、文禄3年、1594年に世に出て流布していた。「撰集抄(せんじゅうしょう)」は、芭蕉が生まれた寛永頃に出た。「撰集抄」は作者不明の仏教的説話集で、江戸時代まで西行作と信じられていた。
 同様の説話集で西行伝説を伝番することになった「西行物語」は正保3年、1646年、芭蕉3歳の頃には出ていた。
 西行の弟子の蓮阿が西行より聞き書きした歌論書である「西行上人談抄」は、寛文9年、1669年、芭蕉26歳の時である。
 芭蕉がこれらの本のすべてを読んでいたかどうかはわからないが、「西行物語」や「撰集抄」などの説話集に影響を受けていた。

 西行は芭蕉の敬愛する師ある。芭蕉は「おくのほそ道」で能因法師や西行の後を追いかけ、その歌枕を中心に旅をしたと言われている。芭蕉は先人である西行の何に惹かれたのだろうか。
 芭蕉は深川隠棲を経て、芭蕉になったといわれている。深川隠棲と西行とは直接の関係はないが、西行の漂泊の旅には心惹かれるものがあったようだ。


遊行柳、,心に残る遠景。 芭蕉は旅に出て、こんな風景の中で俳諧を考えた。

遊行柳の先に名もない神社がある。遊行柳はその入り口にあり鳥居がたっている。

田一枚植えて立去る柳かな の石碑。侘びつくした風情が風景とマッチしている。

道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ の石碑。芭蕉の句碑の対面にある大きな柳の木陰にある。

蕪村は、芭蕉の50年後この地をおとずれ句を残している。

 柳散清水涸れ石処

1743年、蕪村28歳の作といわれる。

 深川の芭蕉は、俳諧の誠の道を模索していた。漢詩文などにも新しい表現を求めた。漢詩文の簡潔でテンポのある表現は悪くはないが、和歌に繋がる俳諧表現としてはどうもしっくりこない。芭蕉の求めている表現ではない。

 芭蕉は同時に仏頂和尚について禅の手ほどきをうけていたといわれる。 執着しないことや、捨てることや、一所不住の心などを学んだか。

 この頃、芭蕉は次のような作句5か条を記している。

 一、一句、前句に全体はまる事、古風・中興共可申哉。(古風=貞門・中興=談林)
 一、俗語の遣いやう風流なくて、又古風にまぎれ候事。
 一、一句細工に仕立て候事、不用候事。
 一、古人の名ヲ取出て何何の白雲などと云い捨る事、第一古風にて候事。
 一、 文字あまり、三四字、五七字あまり候而(て)も、句のひびき能候へばよろしく、一字にても口にたまり候ヲ御吟味可有候事。
」(芭蕉38歳、高山伝右衛門宛ての手紙より)

 こだわらないこと、俗語を風流に使うこと、細工をしないこと、古風な言い古された表現に逃げないこと、字余りでもひびきがよければかまわない、など。この作句5か条には、平易な表現で深い意味を表現しようとする西行の作歌態度の影響が色濃く出ているように思う。

 さらに芭蕉は、漂白の歌人西行に倣ったのか、旅に出る。「野ざらし紀行」から始まる芭蕉の旅である。

 

おくのほそ道「遊行柳」

 遊行柳は、 奥州街道の芦野から田のあぜ道を約200m入ったところにある。美しい日本の原風景のひとつにちがいない。遊行柳の根元の田のすぐ横に石碑が立っている。芭蕉の句である。

田一枚植えて立去る柳かな

 西行の「道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ」(新古今集 262)の歌の石碑も芭蕉の句碑と向かい合うように反対側にある。

 芭蕉の句は、緑の柳影にしばしたたずむ西行のイメージを受け取って、田を1枚植え終わった柳の精が立ち去っていくイメージを句にしている。

 芭蕉の「田一枚」は、西行のこの歌と謡曲「遊行柳」があってはじめて、その味がわかるというもの。
 謡曲「遊行柳」は、遊行上人(時宗の開祖、一遍上人のことか)が諸国巡歴している時、白川の関のあたりで老婆に呼び止められ、「道の辺に清水流るる柳かげ」と西行が詠んだ銘木の柳の前に案内され、そのあまりに古ぼけた様子に上人が10回念仏を授けると老婆は消えた。 夜更けに、上人が回向すると再び老婆が現れ、極楽往生できたことを喜び、そのお礼に幽女の舞を舞う、というもの。
 大きな柳の木が2本ある。何代目かの遊行柳なのだろう。この「遊行柳」を楽しみ味わうためには、西行の歌とこの謡曲が、よりどころとなる。
 まっ、なるほどということで、楽しめればよいのだろう。
 遊行柳の立地環境がいい。一面の青い田のなかの柳の木立ちの様子は芭蕉の時代とそれほど違わないかもしれない。


「白河の関」の玄関か。


「白河の関」遠景。
「秋風を耳にのこし、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙(しろたへ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改めし事など、清輔の筆にとゞめ置かれしとぞ。
  卯の花をかざしに関の晴着哉  曾良 」

 

おくのほそ道「須賀川」にて


 等窮から、「先づ白河の関いかに越えつるや」と問われ、芭蕉は 「長途の苦しみ身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず」としながらも、
  風流のはじめやおくの田植うた
とうたった。
 白河の関は歌枕だが、風流を求め俳諧に新風を起こそうとしている芭蕉には、せっかくの大先輩たちの歌だが、この手の歌枕は苦手のようだ。白河の関の辺りで、田植えが行われており、早乙女たちが田植え歌を歌っていた。芭蕉の詩心、風流心が動いた。さすがの歌枕も、芭蕉の風流にはかなわない。いい句だと思う。

 最初の奥州行きで西行は次のように歌っている。
「みちのくにへ修業してまかりけるに、白川のせきにとまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひいでられて名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
   白河の関屋を月のもるかげは 人の心をとむるなりけり (山家集・雑1126)」

 西行の先人である能因法師は平安時代の歌人だが、実際には奥州には行っていないとか、無類の数寄者ぶりなど、いろいろ噂が多い人だった。旅の歌人と評され、二度の奥州下向をはじめ、諸国を旅し、多くの歌枕をまわったとされる。白河の関が有名になったのも、この歌の功績によるものだといわれる。
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 (後拾遺集)」

 白河の関跡。現在は森の中にある。田んぼの緑の中の小高い丘で、右側の山すそに続いている。
 この風景は芭蕉が尋ねたときとほとんど変わっていないのではないか。いや、当時はもっと草深く荒れ果てた風景だったはずだ。みちのくの歌枕をたずねる旅の現実である。だが、それだからこそ先人の労苦がしのばれ旅情も深まるというもの。

 「卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。
と芭蕉はうたっている。
 芭蕉は、先人に敬意をはらいながら、次の風流を求めて旅立つ。


笠島・藤(とおの)中将実方(さねかた)の塚へのアプローチ。この竹藪の中に塚がある。

木の柵の中に塚があるのだが、小さくてよくわからない。これでは、見つけられない。


笠島にて

「 鐙摺(あぶみずり)、白石の城を過ぎ、笠島の郡(こほり)に入れば、藤(とおの)中将実方(さねかた)の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「これより遥か右に見ゆる山際の里を蓑輪・笠島と云い、道祖神の社(やしろ)、かたみの薄(すゝき)、今にあり」と教ふ。このごろの五月雨に道いと悪しく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、

  笠島はいづこ五月のぬかり道

岩沼に宿る。 」
 芭蕉は、残念ながら、五月雨とぬかり道のなかで、笠島を訪ねることがかなわなかった。だが、これが歌枕の現実、芭蕉の句は十分に風流している。
 芭蕉には優秀な助手である曾良がいた。その曾良が、師匠のため下調べを十分にし、道を間違えないように人に訪ねながら歩いていたはず。「かたみの薄」など、どこにでもある。ただの薄なのかかたみの薄なのか、それがわからない。

 「陸奥国にまかりたりけるに、野中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将のなんみ墓と申すはこれがことなりければ、中将とは誰がことぞと、又問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜枯れ枯れの薄(すすき)、ほのぼの見え渡りて、のちに語らむ詞、なきやうに覚えて
 朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて 枯野のすすき形見にぞみる (山家集800・新古今和歌集793)」

 藤原実方は、藤原一門のなかでも由緒ある家柄の生まれで、美貌と風流を兼ね備えた貴公子、源氏物語の光源氏のモデルともいわれている。「歌枕見て参れ」との勅命で各地の名所旧跡を訪ね歩いた。名取郡笠島道祖神の前で落馬し、それがもとでこの地でなくなったと伝えられている。


高館より北上川を望む。北上川は高館を回り込むように蛇行しており、天然の要害となっている。
文治5年(1189年)4月30日、義経主従は高館にて、鎌倉の圧力に抗しきれなかった泰衡の軍により、全員殺害された。義経は妻子を殺害して自害した。義経31歳。あわれ、英雄の最後。
同時に泰衡と反目して義経についた忠衡も討たれた。泰衡は、義経の首を酒浸けにして鎌倉へ送達したが、頼朝は許可なく義経を討伐したことを口実として奥州征伐を奏上した。同年、泰衡が殺害され奥州藤原氏が滅亡した。

平泉・高館にて

「10月12日、平泉にまかり着きたりたるに、雪降り嵐激しく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣河見まほしくてまかり向かひて見けり。川の岸につきて、衣川の城しまはしたる事柄、やう変わりてものを見る心地しけり。汀凍りて取り分寂びければ

取り分て 心も凍みて 冴えぞわたる 衣川見に 来る今日しも」 (西行・山家集1131)

 芭蕉は平泉では、有名な、
五月雨の降りのこしてや光堂
を残している。 十分に名句である。だが、高館では、曾良の句をあげているだけである。
 西行の平泉行きは、東大寺大仏再建の砂金勧進のためではあるが、時代の中で平泉・藤原氏と鎌倉との関係を考えると、身も凍るものを感じざるを得なかったのではないか。
 芭蕉にとって、平泉・藤原氏滅亡、義経親子の運命は歴史である。西行と芭蕉では時代が違う。その違いが歌と句に出ている。


「先高舘にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、 高舘の下にて大河に落入。泰衡が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。さても義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良

 


象潟はかって九十九島と呼ばれていた。文化元年、1804年の大地震で隆起し、以後田畑となって、現在にいたっている。芭蕉が象潟を訪れたのは1689年で、一面は海だった。春の田植の季節には田に水がはられて、島々が水面に浮かび当時をしのぶことができるという。

象潟にて

 象潟にて、芭蕉は次のようにいっている。「先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)を残す。」として、次の句を残している。

象潟や雨に西施がねぶの花


 「花の上こぐ」は、西行の作と伝承された「象潟の桜は波に埋もれて花の上漕ぐ海士(あま)の釣り舟」 によるものだが(西行の作にこの句はない)、能因と西行ともに象潟を訪ねたという記録はない。象潟に来て歌を詠んでほしいという思いがなせるわざか。
  能因は、「世の中はかくも経けり蚶方の海女の苫屋をわが宿にして」(『後拾遺集』)を残し、能因島に3年住んだと言われている。

 芭蕉が読んでいた書の時代的な限界か。芭蕉は先人の跡を偲び、幻影を追うが、歌枕とは不思議なものだ。風景はいっそう趣深く見えてくる。


種の浜
種の浜にて

種(いろ)の浜にて

 「潮染むる ますほの小貝拾ふとて 色の浜とはいふにやあるらん」」(西行・山家集1194)

 芭蕉は、この西行の歌に誘われ、種(いろ)の浜にて小貝を拾わんと、敦賀から舟に乗った。
芭蕉は「おくのほそ道」で、「浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法華寺(ほつけでら)あり。こゝに茶を飲み酒をあたゝめて、夕暮の淋しさ感に堪へたり。 」として、次の句をよんでいる。

  寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵


その他に、同時に西行の俤を踏まえて次の句もよんだ。芭蕉も西行と同じように黒染めの僧衣を着ていたのだろう。ほとんど西行の追いかけに近い。

  衣着て小貝拾はんいろの月



奥の細道むすびの地に建つ芭蕉と木因の像 。

「奥の細道」最後の句

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

 終点の大垣で詠んだものか。この後、芭蕉は伊勢神宮を参り、故郷の伊賀に戻り、近江の膳所や京都の嵯峨野に仮の宿をとりながら、己の俳諧の道を追い求めようとした。
 なぜ、伊勢神宮なのかわからないが、先輩の西行に対する敬意がそうさせたのかも知れない。西行は、伊勢神宮の近くの二見の浦の草庵に、晩年の8年間を過ごしたといわれている。

今ぞ知る二見の浦の蛤を 貝合(かいあわせ)とておほふなりけり」 (山家集138)

 芭蕉の句は、西行のこの歌を踏まえての句であることは多くの研究者が指摘している。
 西行の歌枕を訪ねた「奥の細道」だったが、その旅を終えるにあたって大先輩の西行に挨拶を送っているかのようだ。


小夜の中山にある芭蕉「命なり・・・」の句碑。芭蕉の句も悪くはないが、はやり大先輩の西行の歌がいい。

小夜中山にて


命なりわずかの笠の下涼み (俳諧江戸広小路)
 延宝4年夏。33歳。芭蕉二度目の帰郷の折、小夜の中山での作。

年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 西行(「西行法師家集」476・「新古今和歌集」987)
 この西行の有名な歌の「命なりけり小夜の中山」を踏まえていることはいうまでもない。
 西行は、二度奥州行を敢行している。26歳の頃と69歳の平泉藤原氏への東大寺再興の沙金勧進の旅である。この歌は最晩年の奥州行のさいに小夜中山で詠まれたもの。生きて再び小夜中山を越えることになった存命の感動が「命なりけり」に表れている。芭蕉も小夜中山でどうしても「命なり」と詠まざるを得なかった。

 


伊勢神宮 内宮への入り口。五十鈴川にかかる橋。

伊勢神宮にて。 西行は真言密教や浄土宗や神道などにふれながら、晩年は、伊勢神宮とも親しく交わったようだ。 芭蕉は神道に篤い思いを持っていて何度か伊勢神宮参りをしているが、僧の格好をしているため、境内には入れなかったとある。伊勢神宮が芭蕉の時代、僧の格好をしている人が本当に「神前に入ることをゆるされ」なかったのかどうなのかはわからない。

「笈の小文」 伊勢山田


何の木の花とは知らず匂ひ哉


 この句もやはり、西行の次の歌を俤としているようだ。
 大神宮御祭日よめるとあり
何事のおはしますをば知らねども かたじけなさの涙こぼるる 
 「西行法師家集」に収録されているが、この歌は諸本のうちで延宝二年の板本のみにみられるもので、西行作とはいうにははなはだあやしいもの。芭蕉はこの板本を読んでいたのだろう。
 西行は晩年、 、伊勢国二見浦のあたりに6年ほど住んだ。なぜ伊勢なのか不明だが、源平の戦乱を避けるということだったのかも知れない。芭蕉も師西行に習ってか、伊勢神宮には5回以上訪ねている。上にあげた西行作といわれる歌に触発されたのかも知れない。芭蕉は神仏に篤いが、僧形なため神前には入れなかったと「野ざらし紀行」にはある。

 「高野の山を住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、大神宮の御山をば神路山と申す、大日如来の御垂迹(すいじゃく)を思ひてよみ侍りける
深く入りて 神路の奥を たづぬれば また上もなき 峰の松風」 (西行・千載和歌集)
 大日如来の本地垂迹(ほんちすいじゃく)を思いつつ、神路山の奥深く入ると、この上もなく尊い峰の松風が吹いていた。
 西行が伊勢神宮にこだわったのは、伊勢神宮に祭られている天照大神は盧舎那仏(大日如来)の本地垂迹したものだといわれている。

 芭蕉には次のような面白い句もある。どうして西行が歌を詠うだろうと思ったのだろう。
 「西行谷の麓に流れあり、をんなどもの芋洗ふを見て
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ 

菰(こも)を着て誰人ゐます花の春

芭蕉の元禄3年、47歳の時の句、
「みやこちかきあたりにとしをむかへて
菰(こも)をきてたれ人います花のはる

 芭蕉は、江戸時代まで西行の著と信じられていた「撰集抄」を、座右の銘にしていたようだ。この「撰集抄」では「五百年来昔、西行の撰集抄に多くの乞食をあげられ候」としていて、乞食を詠むことに自信をもっていた。「撰集抄」で扱っている乞食は多くは出家との関連で扱われているもので、いわゆる乞食とはやや異なるのだが。
 
  「こもかぶりを引付の巻頭に何事にや」といった京の連中の非難などあったようだが、乞食に特別の意味を見出していた芭蕉は、平気な顔をしていたようだ。
  「胸中一物(いちもつ)なきを尊しとし、無能無智を至(いたれり)とす。無住無庵、又其次也。」(「移芭蕉詞」より) 「無能無智」が最高で 「無住無庵」がその次だといっている。

 菰を着ていらっしゃいます、と乞食の人に敬語的な表現を使い、明るくも切ない「花のはる」と結んでいる。芭蕉には「菰をきる」ことに憧れのようなものを感じているところがある。芭蕉はみずからもまた「乞食の翁」を自認し、「此の一筋」の道を歩く。


宮ノ越駅の近くの「義仲館」の前にある義仲と巴御前の銅像。


倶梨伽羅峠の「義仲の寝覚めの山か月かなし」の碑


太田神社の参道入り口にある 実盛の兜。当然、石でできたまがい物。

 

芭蕉の義仲好き


 芭蕉は木曽義仲が大好き。自分が死んだら、大津・膳所の木曽殿の側に葬ってほしいと遺言し、そのとおり義仲寺に埋葬された。

 義仲の寝覚の山か月悲し

 この句は、「奥の細道」にはない句だが、倶利伽羅峠に2つの碑が立っている。義仲の「寝ざめの山」とは何なのか、なぜ「月悲し」なのかよくわからないが、義仲をいとおしく思う気持ちは伝わってくる。

むざんやな甲の下のきりぎりす

 加賀小松の「大田の神社」で、木曽義中が奉納したという実盛の甲を見て。

 芭蕉とは逆に、西行は木曽義中がきらいだったようだ。
木曽人は海のいかりをしづめかねて 死出の山にも入りにけるかな (聞書集227)
 山育ちの木曽人は海の怒りを鎮めることができず、碇を沈めて留まることもできず、死出の山にまでもしまってしまった。

 西行は平氏贔屓である。源氏の義仲、京都を混乱に落とし入れた義仲に好感を持つはずがない。また、実家の田仲の荘の所領を奪おうと争った勢力に、義仲が承認の文書を出したらしい。西行の実家にとっても義仲は敵であった。 このことを芭蕉が知っていたら、西行好きになったかどうか。(「芭蕉のうちなる西行」目崎徳衛 角川選書 より)

 だが、江戸時代には平氏・源氏の争いは歴史であって、平氏・源氏のいづれかを贔屓するというような感情はなかったのではないか。芭蕉は、判官義経を悲運の武将という点で贔屓していただけて源氏贔屓というのではないだろう。西行が平氏贔屓で義仲嫌いであっても芭蕉の義仲贔屓は変わらなかったのではないか。芭蕉の好みは、義勇忠孝の悲運の武将であって、義仲も義経も芭蕉好みであった。



奥吉野の西行草庵跡。

西行と芭蕉

とふ人も 思ひ絶えたる 山里の さびしさなくば 住み憂からまし (937)

花も枯れ 紅葉も散りぬ 山里は さびしさをまた 訪う人もがな(557)

 私の山家は、訪れる人さえいないと断念したほどの寂しさです。むしろこの寂しさがなくては住みづらいほどです。 と、これは訪ねて来る人もいないと断念した山里の草庵生活の心境を詠んだもの。
 「下の句は、この孤独の生活にもし「さびしさ」という情趣が無かったなら、さぞつらかろうというものである。涙が悲しみを流してくれるように、「さびしさ」が耐え難い心の憂さを中和してくれるのである。」(「芭蕉のうちなる西行」目崎徳衛著 角川選書)

 


西行庵には西行らしからぬふっくらとした西行像がおさめられている。

 世を捨てて山里の草庵に独り暮らしを始めたが、世と自分と暮らしを「憂し」とする気持ちは癒されない。だが草庵暮らしは身に染みる寂しさをおしえてくれる。その寂しさがいくらかなりとも「憂さ」を癒してくれる。「さびしさなくば 住み憂からまし」である。
 こうした自然との融合は、人の訪い来るを断念したところに与えられた天恵である。西行は「さびしさ」を添えてくれるものは、鳥獣も天然現象もすべて「友」と観ずるに至る。芭蕉のいわゆる「さびしさをあるじ」とする境地である。「独居ほどおもしろきはなし」の境地である。
 西行より芭蕉にいたる数寄の遁世者を貫く中世的諦観には、淡墨一色の中に得も言われぬ甘美なものが流れている。
 西行の心中ふかく抱懐していた理想が端なくもあらわれたのであろう。(「芭蕉のうちなる西行」目崎徳衛著 角川選書)

人の訪れを待ち焦がれつつ満たされぬ時、人の心はおのずから自然に向かう。 西行「山家集」より。

山里にたれをまたこは呼小鳥 ひとりのみこそ住まむと思ふに
谷の間にひとりぞ松も立てりける われのみ友はなきかと思へば
ひとり住むいほりに月のさし来ずは なにか山べの友とならまし

 「二十二日 朝の間雨降。けふは人もなく、さひしきまゝにむだ書してあそぶ。其ことば、
「喪(も)に居る者は悲をあるじとし、酒を飮ものは樂(たのしみ)あるじとす。」「さびしさなくばうからまし」と西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる
 山里にこは又誰をよふこ鳥
 獨住むほどおもしろきはなし。長嘯隱士(ちょうしゅういんし)の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と素堂此言葉を常にあはれぶ。予も又
 うき我をさびしからせよ閑古鳥
 とは、ある寺に獨居て云し句なり」(「嵯峨日記」 芭蕉48歳)


鴫立庵・西行堂の中の西行像。 晩年の西行の心は何をみていたのか。

 

晩年の西行と芭蕉

 高野山に30年、その後、伊勢二見の草庵に6年間住んだ。真言密教や行者山岳修行などを経て、伊勢神宮では本地垂迹説(仏・菩薩が人々を救うために、さまざまな神の姿を借りて現われるという教説)による「思へば神もほとけなりけり」といった境地にいたる。どうやら西行は後年法師や上人といわれながらも、法然や親鸞たちのような厳しい仏門の人ではなかった。西行の一生を貫く思いは、歌への思いと自身の和歌表現へのこだわりだったように思う。
 西行は、自身の和歌については「一首詠み出でては一体の尊像を造る思いをなす」「一句を思ひつづけては秘密の真言を唱ふるに同じ」というようなことをいって、次の歌をあげている。
「山ふかくさこそ心は通ふとも 住まで哀れは知らむものかは」(新古今和歌集)
 仏道について浅学の私には、何が真言でどの言葉が仏像を刻むことになるのか理解を超えていて、何をいっているのかさっぱりわからない。

 

鴨長明が「方丈記」の結びのなかで、
「佛の教へ給ふおもむきは、ことに触れて、執心なかれとなり。いま、草の庵を愛するも、閑寂(かんせき)に着するも、障(さは)りなるべし。いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさん。」として「静かなる曉、この理(ことわり)を思ひつづけて、みづから心に問ひて曰く、「世をのがれて、山林に交わるは、心を修めて、道を行はんとなり。しかるを、汝、姿は聖人に似て、心は濁りに染(し)めり。住家(すみか)は、則ち、淨名居士(じょうみょうこじ)の跡を汚せりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行にだに及ばず。もし、これ貧賤(ひんせん)の報(むくひ)の、みづからなやますか、はたまた、妄心(もうしん)のいたりて狂せるか。」そのとき、心さらに答ふることなし。」 として「執心なかれ」を生きよう、そう生きたいものだとしている。しめの「ただ、かたはらに舌根(ぜっこん)をやとひて、不請(ぶせい)の阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」というのは笑ってしまう表現。
西行は鴨長明より38歳年上だが、西行の和歌への妄執はどうとしたことか。いや、この執念こそが歌聖・西行をうんだというべきなのか。

  西行の晩年は、仏道や神道にしたりつつ、自分の和歌への執念を募らせていく。伊勢神宮に奉納するため自歌合「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」、続いて「宮河歌合」を藤原俊成・定家父子に執拗に判を求めている。西行は自分の和歌に絶対的な自信をもつとともに、当代超一流の歌人、藤原俊成・定家父子に、西行自信作の「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」と「宮河歌合」の批評を頼んでいるのは、やや見苦しくもあり、老人の妄執に近いようにも思うのだが。

 定家の「心深く、詞やすらかにいひくだされて」や俊成の「詞あさきに似て、心ことに深し」という評に納得し、定家の「作者の心深くなやませる」という批評表現をたいへん喜んだという。(「西行の風景」桑子敏雄著 日本放送出版協会)


深川の芭蕉案。


芭蕉記念館の中庭の芭蕉庵。

 芭蕉は仏頂和尚について仏道・禅の手ほどきを受けたといわれている。そこから学んだものは「一所不住」であり、「捨てる」ことであり、「執着しない」ことである。また、「乞食」を尊い生き方とするものであり、「無知無分別」「無能無智を至(いたれり)」とする生き方であ。句作においては、「作為」「私意」を排することであり、「かるみ」の世界である。そして芭蕉の生き方の中心にあったものは「俳諧の誠」を問い続けるということだった。
 深川の芭蕉庵には、弟子から送られた仏像が一体置かれていた。
 芭蕉は、近世・江戸時代前期にあって、中世的な心象を抱いた生きざまだったといわれる。芭蕉の心象は平穏・繁栄の「近世」ではなく、戦乱・無常の「中世的」だといわれるのである。芭蕉が尊敬する宗祇、西行も、明日をも知れぬ戦乱の世を生き抜いていくなかで己の生きざまを見出し、表現を磨いてきた。芭蕉の漂白の思い、捨身無常の思いも、それに連なろうとしたものだろうが、「古人の跡を追わず、古人の求めたるところを求めよ」(「許六離別の詞」より)である。
 芭蕉の「笈の小文」に有名な一文がある。
 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は、一なり。しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」(笈の小文)
 「造化」とは造物主が創った自然のこと。その造化に従い、造化に帰ること。見る心の色は花になり、思う心の色は月となる。大きくは「造化にしたがひて四時を友とす」 る心なしには、俳諧の誠を勤めたことにはならない。
 そうして芭蕉は、「捨てて捨て得ぬ 心地して 」(西行)、「かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごととなす」とし、「無能無芸にして只(ただ)此の一筋 」((笈の小文))俳諧の誠を生きようとした。

 で、私としては、芭蕉の何にひかれるのだろうか。
 芭蕉は350年も前の人である。その芭蕉の俳諧のすごさは、私などが付け加えるものは何もない。ただ、静かに味わい楽しむのみ。
 いまさら「侘び・寂び」や「数寄」でもないと思うのだが、私はそういう芭蕉になぜかひかれてしまう。
 @世を遁れ俳諧の誠の道の追及のため(?)、深川村に隠棲した芭蕉が好き。
 A「旅人と我名よばれん」と一所不住の旅に生きようとする芭蕉の気概が好き。
 B「ゆきゆきて倒れ伏すとも」「乞食行脚」、「捨身無常(しやしんむじやう)の観念、道路に死なん」の覚悟の芭蕉が好き。
 C「はかなき夢か」若き日の思いの蹉跌か、俳諧この一筋を決意する芭蕉が好き。
 D俳諧なぞ「老人の慰み・すさび」とうそぶく芭蕉が好き。
 E俗語をただし「軽み」の新しみを追い求め、風流の新しみを追い続けた芭蕉が好き。

photo by miura 2007.12
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