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芭蕉と伊賀上野 



三重県伊賀市上野赤坂町304。 国道136号線沿い。

芭蕉の生家

 伊賀市駅を出て線路を渡るとすぐ国道136号線につきあたる。右に曲がって国道沿いを10分ほど歩くと左手に芭蕉生家がある。
 芭蕉は、1644年・正保元年に伊賀国(現在の三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。2男4女の3番目で、兄半左衛門のほかに姉1人妹3人がいた。
 芭蕉の幼名は金作、通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初めは宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。
 松尾家は、農業を生業としていたが、苗字を持った郷士といった家柄だったようだ。
 左の写真が芭蕉の生家ということになっているが、当然、当時のものが残っているはずはない。

釣月軒
この釣月軒で初めての句集「貝おほひ」を執筆した。

釣月軒(ちょうげつけん) [地図]

 釣月軒は芭蕉の生家の裏隣にある。
 芭蕉13歳の時に父が死去、兄の半左衛門が家督を継ぐ。芭蕉はどういう縁か、伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えることになった。良忠は2つ年上だったがともに北村季吟に師事して俳諧のを習ったようだ。実際、なぜ郷士の子が採用されたかは不明。役職は「台所用人」=料理人だが、採用当初は良忠の近習、俳諧仲間だったようだ。「台所用人」という役職は、良忠死去後の役職で、生前は近習といったところか。

 芭蕉はこの釣月軒で初めての句集「貝おほひ」を執筆したという。帰省したときには、ここで寝起きしたらしい。
 芭蕉の葉が何本か植えられていた。 釣月軒の左側に石碑がある。

古里や臍(へそ)のをに泣くとしのくれ

 

芭蕉40歳、母の臨終に立ち会うことができなかった。上の句は翌年伊賀に戻り母の供養をした時の句。

 「伊賀線・上野市」という駅がある。関西本線の伊賀上野駅から出ている支線で、2つ目の駅である。その駅前に左のような芭蕉像が天高くそびえている。親しみというより、胸を張って立派である。このような芭蕉像は全国でも珍しい。伊賀市の人の誇りのようなものを感じる。

蓑虫庵 への門がまえ
蓑虫庵 への門がまえ。伊賀市上野西日南町1820にある。

蓑虫庵(みのむしあん) [地図]

 写真は、芭蕉門下の伊賀連衆で伊賀蕉門の第一人者である服部土芳の庵「蓑虫庵(みのむしあん)」の門。芭蕉はここを訪れ、
みの虫の音をききにこよ草の庵
と句を送った。それから「蓑虫庵」とよばれるようになったという。
 服部土芳は藤堂(津)藩の伊賀付の藩士。『野ざらし紀行』の旅のおりに、蕉門に入ったようだ。30歳の若さで藤堂藩士を引退し、生涯妻帯せず俳諧一途の生涯を送った。
 土芳はこの蓑虫庵で、「蕉翁句集」や「三冊子」などを執筆した。芭蕉も帰省の折にはこの草の庵で俳諧談義などをしていたのだろうか。芭蕉亡き後は、伊賀蕉門の第一人者になる。
 そうした人柄にふさわしく,技巧を廃した素直な作品が多い。篤実な性格で松尾芭蕉の最も忠実な門人のひとりとして知られている。土芳の著した『三冊子』は,芭蕉の俳論を伝える資料として高く評価されている。

蓑虫庵
蓑虫庵 当時を再現しようとしたのか、素朴な味わいがある。

 樹木の中の草庵が「蓑虫庵」。芭蕉翁五庵のひとつで、現存する唯一の庵。

 


 敷地の中の「芭蕉堂」。
 大津・義仲寺の芭蕉堂に習って建立したものという。堂内には芭蕉像が安置されている。

上野公園にある芭蕉記念館
上野公園にある芭蕉記念館

芭蕉翁記念館 [地図]

 伊賀市役所を過ぎ、お城へ向かう坂の途中、上野公園内にある。芭蕉の句の掛け軸がたくさん展示されていた。じっくりと堪能したかったが、残念ながら時間がなかった。蕪村の奥の細道屏風の絵が面白い。許六の芭蕉画もいい。写真を撮りたかったが、残念ながら撮影禁止。気に入ったので是非、と頼んだが、入り口の芭蕉銅像ならOKということ。銅像ではまったくその気がおこらない。

 左下の写真は、記念館の前の池。よく見ると大きなおたまじゃくしがたくさん泳いでいる。蛙がどう飛込むかを観察するためにかっているのか、さすが風流なことだと思って、受付の女性に聴いてみた。蛙やおたまじゃくしは自然に自生したものという。

芭蕉記念館の正面左横にある蛙飛び込む池
芭蕉記念館の正面左横にある蛙飛び込む池。


 私は小さいときに蛙が「ポチャン」と飛込むのを確かに聞いていたというと、受付の女性から「蛙は飛込みません」と何度も念をおされた。それが証拠にと、次の句を見せられた。
 「古いけや其後飛こむかはづなし」。よくわからないが、蛙の種類により飛込む蛙もいるらしい。脅かしたりするとあわてて飛込むこともあるらしい。
 蛙が飛込むのは、春になって冬眠から覚めた一種の求愛行為だという人もいる。

伊賀上野城の立派な石垣
伊賀上野城の立派な石垣

伊賀上野城のお堀 [地図]

 お城もよいが、高い内堀からの石垣がいい。約30mの高さで日本一高い石垣だという。大阪城や熊本城にも高い石垣があり、どうなのかなと思うが。
 黒澤明の映画「影武者」でもこの石垣の場面が使われたとか。石垣の上には手すりもないので眺めとスリルは満点。戦国の時代の石垣のリアリティが伝わってくる。
 伊賀というと、芭蕉よりも伊賀流忍者のほうが有名のようだ。近くに「伊賀流忍者博物館」があり、親子連れが多い。

 芭蕉の時代には、この城はあったと思うが芭蕉との関係はほとんどないようだ。「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」というように、仕官して立派な武士になることを願ったこともあった芭蕉には、伊賀上野は古里であると同時に辛い場所でもあっただろう。

伊賀上野城の天守閣
伊賀上野城の天守閣。やや小さいが品がある。


伊賀上野城の天主閣

 現在の伊賀上野城(雅名白鳳城)は、昭和10年(1935)川崎克氏が私財を投じ、3年の歳月をかけて往時藤堂高虎が築いた基台に木造建築により模擬復興したもの。
 家康は関ヶ原の戦いの後、伊賀・伊勢両国の城主として、伊予から藤堂高虎を移した。
 藤堂高虎は、地山を利用して濠を深くし、30mの高石垣で囲み五層の大天守を築いたが竣工直前に暴風雨のため天守が倒壊してしまった。そのうち大坂夏の陣で豊臣方が滅亡したのと、いわゆる武家諸法度によって諸大名の城普請が禁止されたので、この城は再びたてられることがなく明治維新を迎えた。

さまざまの事 思い出す 櫻かな

 貞亨5年・元禄元年、芭蕉45歳。杜国との「笈の小文」の旅の途中、郷里の伊賀上野に帰った時の作か。
 支考の前書きとして、「おなじ年の春にや侍らむ、故主君蝉吟の庭前にて」とある。芭蕉の前書きは「探丸子のきみ別墅(べっしょ)の花見もよほせ給ひけるにまかりて、ふるき事抔(など)思ひ出侍る」。
 芭蕉の脳裏に去来するものは何だちったのか。主君良忠との日々はどんなものだったのか。郷里での思いはいつの時代でも重い。
 私が作ったといっても通用するような句だが、芭蕉の句ということが重い。

上野公園内にある俳聖殿
上野公園内にある俳聖殿


俳聖殿(はいせいでん)[地図]

 所在地は、三重県上野市丸之内117−4(上野公園内)
 芭蕉翁の旅姿をあらわしているという。昭和17年(1942)芭蕉翁誕生300年を記念して故川崎克氏が私費を投じて建設したもの。味のあるかたちだが、蛸が泳いでいるようでいまひとつピンとこない。
 上の丸い屋根は旅笠、下の八角形の庇(ひさし)は袈裟(けさ)、それを支える柱は行脚する翁の杖、「俳聖殿」の木額は顔をアレンジしているという。
 毎年10月12日の芭蕉逝去の日、当俳聖殿前にて上野市主催の芭蕉祭が催される。

   
photo by miura 2006.8
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