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芭蕉の臨終と義仲寺(ぎちゅうじ) |
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| 花屋仁左衛門の屋敷跡は、大阪中央区・御堂筋、地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車。 南御堂の通りを挟んで立っている芭蕉終焉の地の石碑 ![]() 「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺蔵)より「花屋の病床」 膳所の義仲寺 義仲寺、大津市馬場1丁目にある。 |
芭蕉の臨終 芭蕉51歳、元禄7年(1694年)10月12日、御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」の離れで永眠した。 芭蕉は弟子の酒堂(しゅどう:珍碩)と之道(しどう)の争いの調停のため、大阪にいた。最初は酒堂の家に泊まり、次に之道の家に泊まった。酒堂は、芭蕉から愛された27歳の医者。大阪で刊行して句集に芭蕉の餞別句を掲載していた。芭蕉のお墨付きを得て湖南から大阪に出て行こうとしていた。之道は酒堂より年上で大阪の薬問屋の主人。酒堂に対しては兄の気分で大阪の蕉門を仕切っていた。伊賀上野の芭蕉は之道から酒堂の進出に抗議する手紙を受け、酒堂からも仲裁を頼む手紙を受け取っていた。 芭蕉は前年の元禄6年の頃より、体調が悪かったようだ。芭蕉は長旅にも耐える屈強な体力の持ち主のようなイメージがあるが、同時にどこへいっても持病に悩まされていた。 旅懐 酒堂は医者だが芭蕉の病状がいっこうに回復しないため大津の医者・木節(ぼくせつ)を呼び寄せた。芭蕉は激しい下痢とともに悪寒、震えが止まらなかった。出された茸を食べ過ぎてたともいわれている。10月1日には20回の下痢が、2日・3日にも30回余りの下痢があったという。 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が芭蕉の辞世的な句と呼ばれているが、この句を詠んだ翌日に芭蕉は落柿舎で詠んだ「清滝や波に塵なき夏の月」を改作していた。辞世が「枯野をかけめぐる」では、現世への妄執が気になったためだろうか。清滝や青松葉は死を前にしての芭蕉の清浄な心境ではあったのだろうが、風狂乞食の「枯野をかけめぐる」は「野ざらし」の末期としてふさわしい、と思う。
義仲寺(ぎちゅうじ)の芭蕉墓 [地図] 10月12日、芭蕉の遺骸を乗せた舟は夜のうちに伏見まで下り、翌13日の朝、伏見を立って昼過ぎ膳所の義仲寺へ到着した。 芭蕉は生前、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言していたという。 これがよくわからない。何故、義仲寺なのか。 境内は有名人の墓や句碑や記念碑が所せましと並んでいる上に、尋ねたときには人が多くものすごく込んでいた。土日は避け、静かに訪れる時間帯をみるのがよいだろう。 |
![]() 義仲寺にある芭蕉の墓。なぜか三角の墓石。 |
芭蕉の墓は、木曽殿の隣に。 芭蕉の三角形の墓は珍しい。でもなぜ三角形なのだろう。芭蕉はやはりとんがって生きてきたということなのだろうか。それとも芭蕉の「旅笠」だろうか、侘び笠をつけた芭蕉の旅姿のイメージなのだろう。 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑は、芭蕉の弟子の又玄(ゆうげん)の作。 芭蕉は、なぜ故郷の伊賀上野ではなく大津・膳所の義仲寺に埋葬するように言い残したのだろうか。日々旅にして旅を住処とすることを覚悟とした芭蕉には、故郷に埋葬されたくない何かがあったのだろうか。それにしても、義仲や義経に限りない愛惜の情を注ぐ芭蕉の心が見つめていたものは何だったのか。 |
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芭蕉の墓全景。江戸時代からのものだろうか、しっかりとしたたたずまいで、毎日ケアされているように見える。
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![]() 義仲寺の質素な玄関。芭蕉が植えられている。 |
芭蕉の墓がある義仲寺の周りはぎっしり家が建て込んでいる。かっては琵琶湖に面した景勝の地だったという。資料館の前に芭蕉の葉がいい具合に広がっていた。芭蕉葬送の際に、亡骸の横に芭蕉葉を植えたと言われるが、それにちなんだものか。
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![]() 義仲寺にある木曽義仲の墓。 芭蕉は、俳文や句としては義仲についてほとんど扱っていない。「更科日記」で木曽を経由していながら、義仲の史跡のようなものを訪ねていない。また、芭蕉が敬愛する西行は、「木曽人は 海のいかりを 沈めかねて 死出の山にも 入りにけるかな (聞書集227)」と詠んで、義仲や源氏にはよいイメージをもっていなかった。その芭蕉がなぜ義仲なのか。
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義仲公墓(木曽塚) 朝日将軍、木曽義仲の墓所でもある。 平家打倒に立ち上がった木曾義仲(きそよしなか)は、頼朝よりも早く京都上洛を果たした。 数年続いた飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、さらには皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。後白河法皇は義仲には西国の平氏討伐を命じ、頼朝には上京を命じた。 |
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巴御前の塚といわれる「巴塚」。巴御前の実在は不明だが、不遇の武将義仲にどうしても花を添わせたいという後世の人の熱い思いか。 木曽・宮ノ越駅の近くの「義仲館」の前にある義仲と巴御前の銅像。 「天正伊賀の乱」 天正七年(1579年)、織田信長の次男北畠信雄が伊勢に次ぎ伊賀侵攻を開始するや、それまで相反目していた伊賀衆は一致団結してこれを撃退した。 これに怒った信長は天正九年九月、大軍を率いて軍事拠点となる神社仏閣をことごとく焼き払う徹底的な焦土侵攻作戦を展開し、伊賀の地侍たちを殲滅掃討した。その戦闘のすさまじさは今も伊賀人の語り草になっているという。信長に反抗し勇戦した伊賀侍の中に松尾氏の名も見える。 徳川時代に入り、伊勢・伊賀22万石の城主となった藤堂高虎は、融和懐柔策を取り、中世伊賀の豪族名家の後裔を無足人(苗字・帯刀を許される無給の武士)の制度に組み入れた。菊岡如幻の『伊乱記』にことの詳細が記されているが、菊岡如幻は芭蕉の最初の師といわれる。 芭蕉の松尾家無足人クラスの中世伊賀郷士の後裔であったと思われる。芭蕉の血には郷里を追われた敗残者の血が流れている。時代のなかで郷里を失い敗残していった者たちへの哀惜と共感は、芭蕉の伊賀という出自に関係しているのだろう。
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義仲は京へ引き返し、義経たちを迎え撃つ準備を始める。寿永3年(1184年)、義仲討伐を目指す源範頼・義経の軍勢と雌雄を決する宇治川の戦いで義仲軍は惨敗。京都脱出を計るも、六条河原の戦いでも敗れてしまう。 義仲の亡骸は当地に葬られたが、寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となって墓所の辺に草庵を結び供養を続けたといわれる。死後、草庵は「無名庵(むみょうあん)」と命名された。これが義仲寺(ぎちゅうじ)の始まりとされている。 芭蕉は、「おくのほそ道」で判官義経や平泉藤原氏、斉藤実盛(さねもり)のゆかりの地で涙を流している。また主君義経に殉じた佐藤一族や和泉三郎を「勇義忠孝」の士として最大限に称えている。他に、「明智が妻」で妻のけなげさと明智の妻への想いのエピソードなどを扱っている。また、芭蕉の弟子には変わり者が多いが、曲水や許六など武術の達人もいた。 義仲寺は、昭和42年、境内全域が文部省により国の史跡に指定された。史跡は義仲の墓が中心なのか芭蕉なのかは不明。 左の芭蕉像は小川破笠(はりつ)の作。 |
| photo by miura 2006.8 | |