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芭蕉の臨終と義仲寺(ぎちゅうじ)  



花屋仁左衛門の屋敷跡は、大阪中央区・御堂筋、地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車。

南御堂の通りを挟んで立っている芭蕉終焉の地の石碑



「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺蔵)より「花屋の病床」

  「花屋」というのは旅籠だとかってに思っていたが、「南御堂と芭蕉」(難波別院)によると「御堂に花を納める出入りの店」だったという。之道(しどう)の家にいた芭蕉の具合がいっそう悪くなったため、急きょこの花屋の離れの貸座敷に移ったようだ。
 末期(まつご)の水を供する時、「その緊張した感じと前後して、一種の弛緩した感じ」のかなで弟子たちの人さまざまなな様子と人生模様が「枯野抄」に描かれている。

 
南御堂の庭にある「 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」の句碑。


「芭蕉の夢」直原玉青筆(難波別院蔵)

膳所の義仲寺
義仲寺の門。門構えが立派。


義仲寺、大津市馬場1丁目にある。

芭蕉の臨終

 芭蕉51歳、元禄7年(1694年)10月12日、御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」の離れで永眠した。
 御堂筋・南御堂前の緑地帯の中に「此付近芭蕉翁終焉ノ地ト伝フ」という銘の石碑が建っている。 碑の右横に昭和九年三月建立 大阪府」とある。

 芭蕉は弟子の酒堂(しゅどう:珍碩)と之道(しどう)の争いの調停のため、大阪にいた。最初は酒堂の家に泊まり、次に之道の家に泊まった。酒堂は、芭蕉から愛された27歳の医者。大阪で刊行して句集に芭蕉の餞別句を掲載していた。芭蕉のお墨付きを得て湖南から大阪に出て行こうとしていた。之道は酒堂より年上で大阪の薬問屋の主人。酒堂に対しては兄の気分で大阪の蕉門を仕切っていた。伊賀上野の芭蕉は之道から酒堂の進出に抗議する手紙を受け、酒堂からも仲裁を頼む手紙を受け取っていた。
 芭蕉は自ら蒔いた種とはいえ、調停のためいやいや大阪に向かわざるを得なかった。芭蕉は途中の奈良で、体調不良ながら良い句をものすることができた。
 菊の香や奈良には古き仏達

 大阪では、酒堂の家に宿をとった。ここでも芭蕉は数回の句会をもっている。その後芭蕉は宿を之道宅に変える。
  秋深き隣は何をする人ぞ

 芭蕉は前年の元禄6年の頃より、体調が悪かったようだ。芭蕉は長旅にも耐える屈強な体力の持ち主のようなイメージがあるが、同時にどこへいっても持病に悩まされていた。
 「下血」という文言があり、切れ痔であったようだ。また『笈の小文』に「積聚(せきしゅう)」の文言もあり、これは胃痙攣をさしている。
 大阪での芭蕉は、酒堂と之道の対立の調停に苦心していた上に、熱を伴った風邪気味だった。請われると断れないまま多くの句会に無理を押して出ていた。蕉風の指導者としての強い職業意識が、病身を押しての句会参加を強いていたのか。
 所思
 此道(このみち)や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮れ

 旅懐
 この秋は何(なん)で年よる雲に鳥

 酒堂は医者だが芭蕉の病状がいっこうに回復しないため大津の医者・木節(ぼくせつ)を呼び寄せた。芭蕉は激しい下痢とともに悪寒、震えが止まらなかった。出された茸を食べ過ぎてたともいわれている。10月1日には20回の下痢が、2日・3日にも30回余りの下痢があったという。
 10月5日、之道宅から南御堂の花屋仁左(右?)衛門の貸し座敷に移った。「不浄を始末する」のは呑舟(どんしゅう)らの弟子たちだった。
 9日午前2時頃、芭蕉は呑舟(どんしゅう)を起こして墨を磨らせた。
 病中吟
 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
(「病中吟」の前書きだが、この句が芭蕉辞世の句とされている。旅枕にて夢の中でも枯野を駆け廻るような、芭蕉らしい生き方がストレートに表現されていてよい句だと思う。)
 「なほかけ廻る夢心」という案もあったようだが、芭蕉はやや重いがしっくりくる「夢は枯野をかけ廻る」をとった。
 芭蕉は「野ざらし紀行」から「おくのほそ道」まで「野ざらし」を旨に一所不住の旅の中で俳諧この一筋の道を歩き続けてきた。山野に死すとも可なりである。山野野垂れ死にのイメージは、旅を人生とする芭蕉の本望でもあったが、それは妄執というものかも知れないとも思っていた。「風雅乞食の旅」といった多少ロマンティクな遊びのイメージもある。
  まだやり残していることがある。軽み俳諧はまだ緒についたばかりだ。まだ死ねない、俳諧の誠を求める旅を続けたい。病んで枯野を駆け廻る夢をみる芭蕉の生き方をよしとしたい。男たるもの、そのような風狂にかけた生き方、いや死に方をしたいものだ。だが、そういうお前は何なのだ。思えば私の芭蕉を追い求める旅は、この句に触発されたからだった。風狂に遊んで決然とこの世をさりたい。だが、やり残しているものがあるのではという想いに揺れ動くままに現世に思いを残すか。心の平穏を願って仏道に身を寄せるか。

 清滝や波に散り込む青松葉

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が芭蕉の辞世的な句と呼ばれているが、この句を詠んだ翌日に芭蕉は落柿舎で詠んだ「清滝や波に塵なき夏の月」を改作していた。辞世が「枯野をかけめぐる」では、現世への妄執が気になったためだろうか。清滝や青松葉は死を前にしての芭蕉の清浄な心境ではあったのだろうが、風狂乞食の「枯野をかけめぐる」は「野ざらし」の末期としてふさわしい、と思う。


 芭蕉の臨終の様子は、其角の『芭蕉翁終焉記』、支考の『前後日記』や路通の『行状記』などにある。肥後の国の僧侶文暁は、芭蕉の終焉前後の様子を門弟や縁者たちの日記と手紙により再構成し、芭蕉臨終記『花屋日記』を創作した。芥川龍之介はこの『花屋日記』を土台にし『枯野抄』を執筆した。

 

義仲寺(ぎちゅうじ)の芭蕉墓 [地図]

 10月12日、芭蕉の遺骸を乗せた舟は夜のうちに伏見まで下り、翌13日の朝、伏見を立って昼過ぎ膳所の義仲寺へ到着した。
  14日には葬儀が行われ、同日深夜になって境内に埋葬された。葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼった。芭蕉の忌日は「時雨忌」などと呼ばれ、旧暦の気節に合わせ毎年11月の第二土曜日に法要が営まれている。(義仲寺案内より)

 芭蕉は生前、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言していたという。

 これがよくわからない。何故、義仲寺なのか。

 境内は有名人の墓や句碑や記念碑が所せましと並んでいる上に、尋ねたときには人が多くものすごく込んでいた。土日は避け、静かに訪れる時間帯をみるのがよいだろう。

義仲寺にある芭蕉の墓
義仲寺にある芭蕉の墓。なぜか三角の墓石。

 芭蕉の墓は、木曽殿の隣に。

 芭蕉の三角形の墓は珍しい。でもなぜ三角形なのだろう。芭蕉はやはりとんがって生きてきたということなのだろうか。それとも芭蕉の「旅笠」だろうか、侘び笠をつけた芭蕉の旅姿のイメージなのだろう。

「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑は、芭蕉の弟子の又玄(ゆうげん)の作。

 芭蕉は、なぜ故郷の伊賀上野ではなく大津・膳所の義仲寺に埋葬するように言い残したのだろうか。日々旅にして旅を住処とすることを覚悟とした芭蕉には、故郷に埋葬されたくない何かがあったのだろうか。それにしても、義仲や義経に限りない愛惜の情を注ぐ芭蕉の心が見つめていたものは何だったのか。

 

芭蕉の墓全景。江戸時代からのものだろうか、しっかりとしたたたずまいで、毎日ケアされているように見える。


 芭蕉辞世の句といわれる「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」の句碑。

 

義仲寺の質素な玄関
義仲寺の質素な玄関。芭蕉が植えられている。

 芭蕉の墓がある義仲寺の周りはぎっしり家が建て込んでいる。かっては琵琶湖に面した景勝の地だったという。資料館の前に芭蕉の葉がいい具合に広がっていた。芭蕉葬送の際に、亡骸の横に芭蕉葉を植えたと言われるが、それにちなんだものか。

芭蕉の葉と花
 門を入ってすぐのところに芭蕉が植えられている。さすが芭蕉ゆかりの寺。芭蕉はバナナと同じ科だとか。

 

義仲寺にある木曽義仲の墓
義仲寺にある木曽義仲の墓。

 芭蕉は、俳文や句としては義仲についてほとんど扱っていない。「更科日記」で木曽を経由していながら、義仲の史跡のようなものを訪ねていない。また、芭蕉が敬愛する西行は、「木曽人は 海のいかりを 沈めかねて 死出の山にも 入りにけるかな (聞書集227)」と詠んで、義仲や源氏にはよいイメージをもっていなかった。その芭蕉がなぜ義仲なのか。
 富山と石川県境にある倶利伽羅峠に「義仲の寝覚めの山か月かなし」の芭蕉の句碑がある。これだけでは、芭蕉の義仲への思い入れの意味がわからない。義仲は頼朝とはそりが合わなかったようだ。 頼朝と敵対して敗れた叔父を庇護したりして頼朝と衝突していた。平家討伐の大義では一致しても、頼朝に派遣された義経により最後を遂げてしまう。だが、芭蕉は、情けの武人義仲を愛した。芭蕉もまた情けの人であったと思う。

 

義仲公墓(木曽塚)

 朝日将軍、木曽義仲の墓所でもある。   
 1180年、義仲は信濃で平氏討伐の挙兵をし、1183年に北陸路、倶利伽羅峠で平氏の大軍を破り、京都にはいった。しかし翌年鎌倉の源頼朝の命を受けた源範頼と義経と争い、大津のこの地で討ち死にした。芭蕉はこの義仲寺にちょくちょく宿泊していた。
 芭蕉は1694年、元禄7年、大阪で逝去したが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言により、この地、儀仲寺に埋葬された。芭蕉は死の床で、亡骸は義仲寺に葬るようにといったというが、なぜ義仲寺なのか。

 平家打倒に立ち上がった木曾義仲(きそよしなか)は、頼朝よりも早く京都上洛を果たした。 数年続いた飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、さらには皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。後白河法皇は義仲には西国の平氏討伐を命じ、頼朝には上京を命じた。


 巴御前の塚といわれる「巴塚」。巴御前の実在は不明だが、不遇の武将義仲にどうしても花を添わせたいという後世の人の熱い思いか。

 木曽・宮ノ越駅の近くの「義仲館」の前にある義仲と巴御前の銅像。

「天正伊賀の乱」
 天正七年(1579年)、織田信長の次男北畠信雄が伊勢に次ぎ伊賀侵攻を開始するや、それまで相反目していた伊賀衆は一致団結してこれを撃退した。 これに怒った信長は天正九年九月、大軍を率いて軍事拠点となる神社仏閣をことごとく焼き払う徹底的な焦土侵攻作戦を展開し、伊賀の地侍たちを殲滅掃討した。その戦闘のすさまじさは今も伊賀人の語り草になっているという。信長に反抗し勇戦した伊賀侍の中に松尾氏の名も見える。 徳川時代に入り、伊勢・伊賀22万石の城主となった藤堂高虎は、融和懐柔策を取り、中世伊賀の豪族名家の後裔を無足人(苗字・帯刀を許される無給の武士)の制度に組み入れた。菊岡如幻の『伊乱記』にことの詳細が記されているが、菊岡如幻は芭蕉の最初の師といわれる。
 芭蕉の松尾家無足人クラスの中世伊賀郷士の後裔であったと思われる。芭蕉の血には郷里を追われた敗残者の血が流れている。時代のなかで郷里を失い敗残していった者たちへの哀惜と共感は、芭蕉の伊賀という出自に関係しているのだろう。


義仲寺にある芭蕉像。芭蕉は普段でも僧のような姿をしていたのだろうか。杉風(さんぷう)の作。芭蕉の実物像に近いといわれている。

芭蕉の像 (小川破笠)

 義仲は京へ引き返し、義経たちを迎え撃つ準備を始める。寿永3年(1184年)、義仲討伐を目指す源範頼・義経の軍勢と雌雄を決する宇治川の戦いで義仲軍は惨敗。京都脱出を計るも、六条河原の戦いでも敗れてしまう。
 生き残ったのは、腹心の今井兼平らわずか数名。態勢を立て直すために北陸へと逃れる途中、近江国粟津(あわづ)に追い詰められ討ち死にした。義仲31歳。今井兼平も自害して果てた。
 義仲が、氷が張った田んぼに馬で乗り入れたところ思わず深く、馬が足を取られて身動きできなくなっているところを矢で射られたという。1184年1月20日の寒い日だった。
  後世の人(頼朝や北条?)の悪口にもかかわらず、義仲の義と情に厚い直線的な生き方が密かに愛された。芭蕉もその一人だった。

 義仲の亡骸は当地に葬られたが、寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となって墓所の辺に草庵を結び供養を続けたといわれる。死後、草庵は「無名庵(むみょうあん)」と命名された。これが義仲寺(ぎちゅうじ)の始まりとされている。
 その後、戦国の頃には草庵は大いに荒廃した。室町末期に近江守護をつとめていた佐々木六角氏がそれを見かねて、再建したという。その頃は石山寺の配下に、近世江戸時代になると三井寺に属することになる。芭蕉が義仲寺を宿舎としたのはこの頃からのようだ。

 芭蕉は、「おくのほそ道」で判官義経や平泉藤原氏、斉藤実盛(さねもり)のゆかりの地で涙を流している。また主君義経に殉じた佐藤一族や和泉三郎を「勇義忠孝」の士として最大限に称えている。他に、「明智が妻」で妻のけなげさと明智の妻への想いのエピソードなどを扱っている。また、芭蕉の弟子には変わり者が多いが、曲水や許六など武術の達人もいた。
 芭蕉は基本的にノンポリな性格で、政治的な理念や立場には興味はない。ただその人の義と情からくる清廉・凄烈な武人たちの生き方に惹かれた。その根っこには芭蕉が生まれ育った伊賀という里の歴史が影響を与えていたのかもしれない。
 芭蕉は士官して武士になり「勇義忠孝」を尽す、そういう生き方をしたかったのかもしれない。芭蕉は結果的には、俳諧のこの一筋の道を歩むことになり、その適性と能力を発揮することになったが、伊賀上野で仕えていた主君良忠が存命だったなら、封建身分制社会の中で俳諧を嗜む「勇義忠孝」の下級武士として、生涯を終えていたのだろう。人の人生はどうころぶかわからないものだ。

 義仲寺は、昭和42年、境内全域が文部省により国の史跡に指定された。史跡は義仲の墓が中心なのか芭蕉なのかは不明。

左の芭蕉像は小川破笠(はりつ)の作。
小川破笠は「青年期は芭蕉庵に出入りし、芭蕉や宝井其角、服部嵐雪といった弟子らその他芭蕉周辺に出入りする人々(一蝶ら)との親しい交流があったらし」く、「師匠であった芭蕉の肖像画を描いているが、芸術性を別にしても「絵の腕が確かな、実際に芭蕉と親しく接していた者による肖似性が高い肖像画」」といわれている。(Wikipedia)

photo by miura 2006.8
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