西行の年譜と私の気になる歌(茶色)芭蕉メニューへ

1118年 元水元年 1歳 西行(俗名佐藤義清(のりきよ))生誕。
父は左衛門尉(さえもんのじょう)康清(やすきよ)、母は監物(けんもつ)源清経(きよつね)の女(むすめ)。源清経は今様の達人で、「梁塵秘抄口伝集」にもみえる。母は諸芸にすぐれていたといわれる。祖父の季清は検非違使(けびいし)で、代々武官の家柄。
佐藤氏は紀伊国田仲庄(紀ノ川沿岸(紀ノ川市)、粉河(こがわ)寺の南西に位置した肥沃な農地。上流は吉野川。)の預所(あずかりどころ)を代々務めた家だった。田仲庄は摂関家(徳大寺家)の所領で、佐藤氏はこの荘園の在地領主として経営をまかされていた。
鳥羽天皇女御藤原璋子(たまこ・しょうし)が中宮となる(鳥羽天皇16歳、璋子18歳)。
佐藤康清検非違使尉となる。この年、平清盛生まれる。
1119年 元水二年 2歳 中宮璋子が皇子顕仁(後の崇徳天皇)を生む。
璋子は幼女の頃から白河上皇に寵愛されており、鳥羽天皇の中宮になったものの、顕仁(後の崇徳天皇)の父は白河上皇であったろうとされていた。白河上皇と中宮璋子との関係は白河上皇の崩御まで続いたという。このことが後の崇徳天皇と鳥羽上皇との確執となり保元の乱への遠因となっていく。
1123年 保安四年 6歳 鳥羽天皇、崇徳天皇に譲位。
1124年 天治元年 7歳 藤原璋子が院号を宣下される(待賢門院(たいけんもんいん))。
1126年 大治元年 9歳 待賢門院璋子が皇女絢子(後の統子・上西門院)を生む。
藤原清衡が中尊寺金色堂・三重塔を建立。
1127年 大治二年 10歳 待賢門院璋子が皇子雅仁(後の後白河天皇)を生む。
1129年 大治四年 12歳 平忠盛が山陽・南海の海賊を従える。武士団が力をつけてきた。
白河法皇崩御。鳥羽上皇の院政始まる。
待賢門院璋子が皇子本仁(後の覚性法親王)を生む。
1131年 天承元年 14歳 鳥羽上皇が高野山大伝法院供御幸。
1132年 長承元年 15歳 内舎人(うどねり)になることを申請する(除目申文抄(じもくもうしぶみしょう))。
この頃、徳大寺藤原実能(さねよし)の家人となるか(古今著聞集)。
平忠盛が鳥羽上皇のために得長寿院千躰観音像(三十三間堂)を建てる。忠盛は内昇殿を許される。
1133年 長承二年 16歳 鳥羽上皇が、藤原長実の女(むすめ)得子(なりこ)、後の美福門院(びふくもんいん))を後宮に入れる。鳥羽上皇は中宮の待賢門院璋子ではなく、得子を寵愛していた。
法然生まれる。
1135年 保延元年 18歳 私財寄付の成功(じょうごう)により兵衛尉(ひょうえのじょう)となる(長秋記)。
義清は徳大寺藤原実能の働きもあり、鳥羽上皇にも近づけたようだ。義清の蹴鞠(けまり)や騎乗や弓矢の才能が評価されたのだとも。義清の田仲庄は徳大寺家の知行地で、その関係で徳大寺実能の妹、待賢門院璋子とも彼女に仕える女房たちとも浅からぬ縁があったようだ。
1137年 保延三年 20歳

義清はこの頃、鳥羽院の下北面(げほくめん)として(参軍要略抄)、鳥羽離宮の安楽寿院御幸に供奉する(山家集(さんかしゅう))。
義清には、妻、一男(隆聖)、一女ありと伝える(尊卑分脈、発心集)。
平清盛は西行と同じ年に生まれ、同じく鳥羽院の北面の武士をしていたようだ。(西行と清盛の関係はどうだったのだろうか。)

1139年 保延五年 22歳 この頃、西住と法輪寺の空仁を訪れ、連歌・詠歌する(残集)。
藤原得子(美福門院得子)、鳥羽上皇の皇子体仁(後の近衛天皇)を生む。
(義清は鳥羽院に仕える身であり、待賢門院璋子と美福門院得子との関係が皇位をめぐる争いから険悪なものになっていくことが予感できただろう。また、天皇や上皇の親衛隊である北面の武士の時代から、地方豪族の武士団が力をつけて台頭し、武士の時代がすぐそこまできていた。)
待賢門院璋子

花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける(山家集68、以下山家集を省略)
花を見ると特に理由があるわけではないが、心の中がくるしくなる。
都にて月をあはれと思ひしは数よりほかのすさびなりけり(418)
都で月を美しいと思ってみていたが、旅で見る月に比べたら、ほんの慰みほどの価値しかないことであるなあ。
葉隠れに散りとどまれる花のみぞしのびし人に逢ふ心ちする(599)
葉陰から散り残った桜花を見つけた時のうれしさは、密かに逢いたい思ってる人に逢えたかのよう。
知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは(617)
知らなかった、遠い空の彼方に見た月が忘れられず、涙で濡れた私の袖に宿すことになるとは。
あはれとも見る人あらば思はなむ月のおもてにやどす心を(618)
月を見たら、せめて私をあわれと思ってほしい。あなたに逢いたいのに月を見ることしかできないのだから。
弓はりの月にはづれて見しかげのやさしかりしはいつか忘れむ(620)
上弦の月のかすかな明かりのもとであなたを見ました。優雅な美しさはいつまでも忘れられないでしょう。
面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて(621)
別れてもあなたのことが忘れられない。あなたの名残惜しそうな様子を月明かりの中で胸に刻んできたから。
もの思ふ心の丈ぞ知られぬる夜な夜な月を詠(なが)め明かして(624)
物思う私の心の深さに気付かされてしまった。毎夜、朝まで月を眺め明かしているうちに。
嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな(628・千載集・百人一首)
嘆けといって月が物思いにさせるのか。そうではないのに、月のせいにしたそうに(月にかこつけたそうに)私の涙が溢れ出る。
数ならぬ心のとがになし果てじ知らせてこそは身をも恨みめ(653)
あなたが私に冷たいのは、すべて私の思いが足りないせいにするのはやめにしよう。この思いをまず打ち明けて、それから我が身の取るに足りなさを嘆けばいいじゃないか。
さまざまに思ひみだるる心をば君がもとにぞ束(つか)ねあつむる(675)
あなたのせいで千々に思い乱れる私の心を、結局はあなたのもとにまた集めてまとめることになるのです。
今ぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとての情けなりけり(685)
今になってわかった。思い出してと約束してくれたのは、忘れようと心に決めた上でのせめてもの思いやりだったのだと。
あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来ん世もかくや苦しかるべき(710)
ああ、現世は仕方がない、どうとでもなればいい。でも来世でもやはりこんなに苦しいのだろうか。
わが宿はやまのあなたにあるものをなにに憂き世を知らぬ心ぞ(716)
西方浄土がそうであるように、私の山家は山の向こうにあるのに、こちら側にあるこの世をが憂き世であることをどうして私の心は理解できないのだろうか。
ながらへんと思ふ心ぞつゆもなきいとふにだにもたへぬ憂き身は(718)
この世に生き長らえようという気持ちはつゆもない。我が身にはつらいことばかりあって、厭世の心を持つには値しないのだから。
思ひ出づる過ぎにし方をはずかしみあるにもの憂きこの世なりけり(719)
出家前の過去を思い出すと恥ずかしくなって、この世に生きているのが辛くなってしまう。

1140年 保延六年 23歳

世にあらじと思ひ立ちける頃、東山にて、人々、寄霞述懐といふことを詠める
空になる心は春のかすみにて世にあらじとも思ひ立つかな(723)
そぞろになった私の心は春霞が立つ空のようだったので、そのまま私は世を遁れようと思い立った。
同心を
世をいとふ名をだにもさは留め置きて数ならぬ身の思ひ出にせん(724)
この世を穢土と厭離したという私の噂だけはそのままこの世に残し、取るに足りないわが人生の思い出としよう。
いにしへ頃、東山に阿弥陀房と申しける上人の庵室にまかりて見けるに、なにとなくあはれにおぼえて詠める
柴の庵と聞くはいやしき名なれども世に好もしき住居なりけり(725)
柴の庵と聞くと貧弱な名前ではあるが、実際に見てみると出家者の住いは実に感じがいい。
世を遁れける折、ゆかりありける人の許へ言ひ送りける
世の中を背きはてぬと言ひ置かん思ひ知るべき人はなくとも(726)
世俗からの出離断行をこの俗世に言い残しておこう。誰もわかってくれないだろうが。
世を遁れて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて
鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかに成行我が身なるらん(728)
都を出て憂き世を振り捨てて鈴鹿山を超えてきたが、明日の我が身はどうなるというのだろうか。
疏の文に悟心証心々
まどひ来て悟り得べくもなかりつる心を知るは心なりけり(875)
煩悩に迷い続けて生きてきて、悟ることができなかった私の心の愚かさを、本当に知っているのは私の心だけなのである。
鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ(玉葉集18)
捨ててしまうのは惜しいと思う気持ちもあるが、実際、惜しいと思うようなこの世ではないだろう。この世を捨て我が身を捨てて出家してこそ、我が身を助けることになるのではないか。
世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ(「新古今集」)
世の中は諸行無常、散る花のようなもの。同じようにやがては散る花の我が身は、さてどうしようか。

出家する(台記、百錬抄)。出家10月15日は現行暦で12月3日。
鞍馬寺に身を寄せたが、年の内に東山の双林寺に庵を結んだか。
「そもそも西行は、もと兵衛尉(ひょうえのじょう)義清也。重代の勇士たるを以て、法皇に仕ふ。俗時より心を仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世す。人これを嘆美する也」(藤原頼長の日記『台記』)西行と号し、法名は円位(えんい)、房号は大宝房、大本房とも(台記、尊卑分脈、宝簡集)。
この年、息男(隆聖)生誕(東寺血脈)。

鳥羽上皇の皇子覚性出家(仁和寺御室)。

すさみすさみ南無ととなへしちぎりこそ奈落が底の苦にかはりけれ(聞書集223)
気ままに戯れて「南無」と唱えた仏菩薩との因縁こそは、奈落の底の苦しみに代わるものだった。

1141年 水治元年 24歳 この頃、東山寺(何寺か不明)に寄住し、鞍馬に籠り、まもなく嵯峨に草庵を結ぶ(山家集。山家心中集)。
嵯峨野・西行の井戸
鳥羽上皇出家。崇徳天皇、鳥羽上皇の意により近衛天皇に譲位。崇徳天皇は鳥羽上皇に騙されて近衛天皇に譲位。
鳥羽上皇は、美福門院得子生まれの近衛帝(体仁)を崇徳天皇の皇太子ということにして帝位につけ、院政をひくようにさせるからと騙して譲位させながら、実は「皇太弟」と宣命に書きこんで、自分は院政の座におさまったまま(「愚管抄」)。(上皇になって院政をひくためには天皇は「皇太子」でなくてはならない。)

夜もすがら月こそ袖にやどりけれ昔の秋を思ひ出づれば(351)
涙の袖に一晩中宿っていたのは月だった。出家前に見た秋月を思い出したりしていたので。
さびしさに堪(た)へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(513)
私の山家も冬になるとあまりにも寂しいから、このような寂しさに我慢できている人がもう一人いたらいいな。庵を並べて住んでみたい。
花も枯れ紅葉も散りぬ山里はさびしさをまた訪ふ人もがな(557)
私の山家は、春の花も枯れ、秋の紅葉ももう散らない冬になると、寂しさ以外の何もない。この寂しさを見たくて山家を再訪しようという人がいるといいな。
身の憂さを思ひ知らでややみなまし背く習ひのなき世なりせば(908)
我が身の拙さを自覚しないままで終わったであろう、恋を知らない少年のように。出家という習慣がこの世になかったならば。
身の憂さの隠れ家にせん山里は心ありてぞ住べかりける(910)
出家して我が身の拙さを自覚したら、山里にその身を隠そう。そこでは心ある生活をすべきなのだ。仏道を求める道心があり、山里の風情を愛する詩心もある。
捨てたれど隠れて住まぬ人になればなほ世にあるに似たるなりけり(1416)
世を捨てて出家はしたけれど、すっかり隠遁したわけではないので、まだ在俗している人と似たようなものだ。
世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬわが身なりけり(1417)
出家はしたのにまだ世俗を捨て切れていない気がする。修行の旅に出ようという決断もできていないまま、私はしがみつくようにまだ都にいる。

1142年 康治元年 25歳 源盛行と妻の津守嶋子が土佐国に配流。待賢門院璋子の内命をうけて美福門院得子を呪詛したというのが罪状。源盛行夫妻は待賢門院璋子に仕えていた。
待賢門院璋子、仁和寺金剛院に出家。藤原隆信生誕。
藤原実能邸に婿として同居していた藤原頼長を訪れ、地筆一品経(いっぽんきょう:「法華経」を28人の人士が28章を分担して書経する)書写を勧進し、頼長は不軽品を承諾する(台記)。
1143年 康治二年 26歳

この年の春、初回の奥州の旅に出発。10月平泉に到着、翌年3月出羽国へ越える(山家集)。
秋、ものへまかりける道にて
心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮(470)
心なき身にもあわれさが身にしみて感じられる。鴫が飛び立つ沢に秋の夕暮れが訪れる。
みちのくににて、年の暮によめる
つねよりも心ぼそくぞ思ほゆる旅の空にて年の暮れぬる(572)
例年以上に心細く感じられる。旅先でひとり年を送るのは。
道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ(新古今集262)
道の側に清水が流れる柳の陰があった。しばらくの間その柳陰にたたずんで休んでいこう。
「道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」の西行の歌碑・遊行柳
みちの国へ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が「秋風ぞ吹く」と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
白川の関屋を月のもる影は人の心を留むるなりけり(1126)
秋風が吹くころにここ白河の関に来たという能因は、関屋に漏れ入る美しい月光に迎えられて、すっかり心惹かれたことだろう。
陸奥国にまかりたりけるに、野中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将のなんみ墓と申すはこれがことなりければ、中将とは誰がことぞと、又問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜枯れ枯れの薄(すすき)、ほのぼの見え渡りて、のちに語らむ詞、なきやうに覚えて
朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る(800)
不朽の名声だけを残して、実方中将はこの枯野に骨を埋めたというが、その形見に枯野の薄があるばかりだ。
笠島、竹藪の先に中将実方朝臣の墓と言われる場所がある。
10月12日、平泉にまかり着きたりたるに、雪降り嵐激しく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣河見まほしくてまかり向かひて見けり。川の岸につきて、衣川の城しまはしたる事柄、やう変わりてものを見る心地しけり。汀凍りて取り分寂びければ
取り分て心も凍みて冴えぞわたる衣河見にきたる今日しも(1131)
心の底まで凍りつくような凄絶な風景である。衣川を是非とも見たいという念願はかなえられたが、それにしても今日は格別に寒い一日だ。
高館からみた北上川。衣川が合流している。
聞きもせず束稲(たばしね)山の桜花吉野のほかにかかるべしとは
(1442)
聞いたこともなかった。束稲山は全山が桜が満開でとても美しい。吉野山以外にもこんなところがあったなんて。

1145年 久安元年 28歳 春日局、鳥羽上皇の皇女頌子を生む。
待賢門院璋子崩。
1146年 久安二年 29歳

前年に没した待賢門院を偲び、待賢門院堀河と贈答歌を交わす(山家集)。
侍賢門院かくれさせおはしましにける御あとに、人々またの年の御はてまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀河の局の許へ申し送りける
たづぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君がゆくへを(779)
尋ねても風の便りにも聞くことはないでしょう。花のようにはかなく散ってしまった女院の行方については。
返し
吹く風のゆくへ知らするものならば花と散るにもおくれざらまし(780)
もしも女院の行方を知らせてくれるものならば、花の散るように亡くなられた女院にお供いたしましたものを。

この頃、吉野山に草庵を結ぶか(山家集)。
吉野の西行庵
なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山(1062)
春が立ったと聞いたその日から、どういうわけか吉野山が気になって仕方がない。どういう霞がたっただろうか、花は咲いただろうか、と。
おしなべて花の盛りになりにけり山の端ごとにかかる白雲(64)
どこもかしこも花盛りだ。どの山端にも白雲がかかって見える。
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき(66)
吉野山の花を遠望したその日から、花が気になって落ち着かない。
あくがるる心はさてもやまざくら散りなんのちや身にかへるべき(67)
花が咲くと花恋しさに、私の心は身からさ迷い出てしまう。せめて山桜が散ったあとは、この身に帰ってくるのだろうか。
花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける(68)
花を見ると、何が理由というこわけではないが、心の中が苦しくなる。
花に染む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふわが身に(76)
花に執着する心がどうして残ってしまったのか。出家してあれほどしっかり世を捨てきったはずの私の身に。
今よりは花見ん人に伝へおかん世を遁れつつ山に住まへと(86)
私のように出家していると、花恋しさも普通じゅなくなるから、花をみようとする人に今のうちから遺言しておこう。花を見るなら出家遁世して山に住みなさいと。
しづかならんと思ひける頃、花見に人々まうで来たりければ
花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがにはありける(87)
花を見ようとする人が大勢やってくることだけが惜しむべきことに桜の欠点である。
山路落花
散り初むる花の初雪降りぬれば踏み分けま憂き志賀の山越え(105)
散り始めた花が初雪のように降っているので、それを踏みわけながら志賀の山越えをするのはもったいなくてつらい。
いかでかは此世の外(ほか)の思ひいでに風をいとはで花をながめん(108)
この世の来世への思い出に、なんとかして風の心配なしに花を見ていたいものだ。
春風の花の吹雪に埋もれて行(ゆき)もやられぬ志賀の山道(113)
春風が吹き散らした花吹雪に一面埋もれてしまったので、その雪を踏むのが惜しくて志賀の山道は行くに行けない。
憂き世には留め置かじと春風の散らすは花を惜しむなりけり(117)
この世は憂き世だから長居は無用と春風が花を散らすのは、本当は花を愛惜する心からなのだった。
もろ共に我をも具して散りね花憂き世をいとふ心ある身ぞ(118)
散るのなら私も一緒に連れて散ってしまえ。花よ。私にはこの世を厭離する心かある。お前と生死をともにする資格があるのだ。
思へただ花の散りなん(なからん)木のもとに何をかげにて我身住なん(119)
思ってもみよ。花がなくなった木の下に住み続けるのに何を頼りにできるというのか。
ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ(120)
ずっと見続けてきて、花にもひどく馴れ親しんだ。だから見るだけだったのに、花が散るという別れが来るのは何とも悲しい。
惜しめども思ひげもなくあだに散る花は心ぞかしこかりける(121)
散るのを惜しめ、などとは思う様子もなくはかなく散る花は、きっと畏れ多い心の持ち主なのだ。
梢ふく風の心はいかがせんしたがふ花の恨めしきかな(122)
梢を吹く風の心はどうしたらよいのか。どうしようもない。(人の心には従わず)風には従って散っていく花が恨めしいよ。
いかでかは散らであれとも思ふべきしばしと慕(した)ふ歎き知れ花(123)
いつまでも散らないでいて欲しいなどとどうして思うものか、そうは思わないが、もう少し一緒にいたいとお前を慕う私の恋心を知ってくれ、花よ。
木のもとの花に今宵は埋もれて飽かぬ梢を思ひあかさん(124)
木の下に降り注ぐ花に埋もれて、いつまで見ていても見あきない梢の花を一晩中恋しがっていよう。
木のもとに旅寝をすれば吉野山花のふすまを着する春風(125)
木の下で旅寝をすると、吉野山では春風が花びらの夜具を着せてくれる。
雪と見えて風(影)に桜の乱るれば花の笠きる春の夜の月(126)
桜が月明かりに乱れ散るのが雪のように見えたので、春の夜の月は花の笠を来て朧のように霞むのだ。
散る花を惜しむ心やとどまりてまた来(こ)ん春の種になるべき(127)
花が散るのを惜しむ私の心は木の下に宿って、また春が来てまた花が咲く種になるのだろう。
夢中落花といふことを、せか院の斎院にて、人々よみけるに
春風の花を散らすと見る夢はさめても胸の騒ぐなりけり(139)
春風が花を吹き散らすと見た夢は、見ている間も苦しかったが、覚めてからも胸騒ぎが治まらない。
風前落花
山桜枝きる風の名残りなく花をさながらわがものにする(140)
山桜の枝を切りつけるように激しく吹く風は、跡形もなく散らし尽して、花をそっくり全部自分のものにしている。
うかれ出づる心は身にもかなはねば如何なりとても如何にかはせん(912)
そんな山里の和歌的風情にも満足できなくて、心は外に浮かれ出ようとする。身の拙さを思い知らされたあとだけに、どうしようにもなすすべもない。
吉野山花の散りにし木の下にとめし心はわれを待つらん(1453)
吉野山の桜が散るのが名残惜しくてならなかった心を、私は樹下に残してきた。また春が来てその心を私を待っているきがする。
吉野山桜が枝に、雪散りて花遅げなる年にもあるかな(新古今集79)
吉野山の桜の木の枝に雪が降り散っている。今年は花の咲くのが遅くなる年になるのだなあ。
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ(新古今集86)
吉野山を尋ねた。去年残してきた道しるべとは別の道を行って、まだ見たこともないような桜の花を探してみよう。

1147年 久安三年 30歳 この年頃、奥州の旅に出発したという説もある。
源頼朝生まれる。
1149年 久安五年 32歳

この年頃、高野山に入山するか(山家集)。以降30年ほど拠点とする。
高野山・奥の院へ
もの思ふ心のたけぞ知られぬる夜な夜な月をながめあかして(624)
物思いをする私自身の心の深さに気付かされてしまった。毎夜、朝まで月を眺め明かしているうつに。
ともすれば月すむ(見る)空にあくがるる心の果てを知るよしもがな(647)
ややもすると月が澄む空に浮かれ出る我が心ではあるが、この心がついにはあなたにたどり着きたいと願っていることを知ってもらう手立てがあればと思う。
同行に侍りける上人、例ならぬこと大事に侍りけるに、月の明かくてあはれなりければ、詠みける
もろともに眺め眺めて秋の月ひとりにならんことぞ悲しき(778)
この月を見るときはいつも一緒だった。しかしこれから私一人になってしまうかと思うととてもかなしい。
とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし(937)
私の山家は、訪れる人さえいないと断念したほどの寂しさです。むしろこの寂しさがなくては住みづらいほどです。
ひとり住む庵に月のさしこずばなにか山辺の友にならまし(948)
一人で住む私の山家に、心澄ませている私のように澄んだ月が射し込んでこなかったなら、何が山家の友になったことだろう、
大峰の深仙と申す所にて、月を見て詠みける
深き山にすみける月を見ざりせば思ひ出もなきわが身ならまし(1104)
大峯山中、深仙の宿で澄んだ月を見る。聖域の中でも最も深い神秘の地で、この神聖な光に触れることがなかったら、私にはこの世ら思い出など何もないと言っていいだろう。
三重の滝を拝みけるに、ことに尊くおぼえて、三業の罪もすすがるる心地しければ
身に積る言葉の罪も洗は(顕)れて心澄みぬる三重(みかさね)の滝(1118)
身に積もった罪も、和歌を詠む罪も滝行によって顕現し、洗い流された。三重の滝を拝むと心の罪までも濯(すす)がれるようだ。
心から心にものを思はせて身を苦しむるわが身なりけり(1327)
物思いの苦しさを心にさせたもの私だったし、そのせいで身を苦しめているのもやはり私自身であった。
無常の歌あまた詠みける中に
何処(いづく)にか眠り眠りてたふれ伏さんと思ふ悲しき道芝の露(844)
私はいったいどこで眠りこけ、どこで行き倒れるかわからない。道芝の露を見ると自分もいつかをこのようにはかなく消えるのかと悲しくなってしまう。
観心
闇晴れて心の空に澄む月は西の山辺や近くなるらん(876)
闇夜を晴らし、心の闇をも晴らして、私の心を月のように澄ませてくれる月を一晩中見ていると、やがて月が西の浄土に近づいていくように感じる。
いかでわれ清く曇らぬ身となりて心の月の影を磨かん(904)
何とかして私は曇りのない清らかな身になって、心に月の光を宿し、さらに光を美しく磨きあげたいものた。


1150年 久安六年 33歳 この年頃、藤原公能(実能の息男)に「久安百首」の歌稿の下見を頼まれる(山家集)。
1151年 仁平元年 34歳

崇徳上皇の勅撰による「詞花和歌集」に「よみ人しらず」として一首入集する。崇徳は在位中から頻繁に歌会を催していた。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳を中心に展開していた。
身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ(「詞花和歌集」巻第十雑下読人不知として)
身を捨てる覚悟で出家した人は本当に身を捨てているのだろうか、本当は身を捨てない人こそ、実際には捨てているのではないだろうか。
出家以前の作か。

1153年 仁平三年 36歳 この年頃、右大臣源雅定に出家を勧める(山家集)。
1154年 久寿元年 37歳 源雅定出家。
1155年 久寿二年 38歳 慈円生誕。鴨長明生誕。
近衛天皇崩、後白河天皇復活。崇徳上皇の子で徳子の養子、重仁親王は皇位から外され、徳子の子、後白河が天皇となった。これにより崇徳上皇の院政は完全についえることになった。
この時期の皇室系図は次のとおり。(数字は天皇の代)
白河(72)--堀川(73)--鳥羽(74)--崇徳(75)
├後白河(77)---二条(78)--六条(79)
└近衛(76)└高倉(80)-------安徳(81)
└後鳥羽(82)
この年頃成立した寂超撰「後葉和歌集」に一首入集する。
この年以降、近衛天皇の墓に詣でる(山家集)。
1156年 保元元年 39歳 鳥羽法皇が崩じ、保元の乱が起こる。地位をめぐる確執から後白河天皇と兄の崇徳上皇が対立し、それに藤原氏内部の摂関争いが結び、双方の武力衝突に至った政変。
武家の参画により争いは1日で終わり、多数の武家を見方につけた天皇側の勝利に帰した。貴族階級の無能の暴露、清盛らの武家政権への一歩となる。

高野山を下山した西行は、鳥羽法皇の遺骸を移した安楽寿院に参じ、葬送にしたがう(山家集)。
一院崩れさせおはしまして、やがての御所へ渡しまゐらせける夜、高野より出であひてまゐりあひたりける、いと悲しかりけり。この、後おはしますべき所御覧じ初めけるそのかみの御供に、右大臣実能、大納言と申しける候はれけり。忍ばせおはしますことにて、また人候はざりけり。その御供に候ひけることの思ひ出でられて、折しも今宵にまゐりあひたる、昔今のこと思ひつづけられて詠みける
今宵こそ思ひ知らるれ浅からぬ君に契りのある身なりけり(782)
御葬送の今夜こそは実感されました。生前にも安楽寿院の検分に供奉いたしましたが、実際にそこにお入りになるその日に上京いたしましたのは、前世からの深い因縁を院との間にいただいていたのです。
西行は、保元の乱の敗れ仁和寺北院に蟄居させられた崇徳院の許に馳せ参じ、兼賢阿闍梨と面会、詠歌する(山家集)。
世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪おろして、仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨出であひたり。月明かくて詠みける
かかる世に影も変わらず澄む月を見るわが身さへ恨めしきかな(1227雑歌)
崇徳上皇御謀反御出家という大事件が起こるこの世の中に、いつもと少しも変わらず月が美しく澄んでいる。そんな月を美しいとみる私自身までが我ながら恨めしい限りである。
藤原頼長没。崇徳院が讃岐に配流。
西行は、かって鳥羽上皇に仕える北面の武人であったが、鳥羽上皇の中宮であった待賢門院璋子とその子崇徳院との間に、いかなる形でか心通わす出会いがあったようだ。
後白河天皇の乳母の夫で学者でもあった藤原通憲(信西)が力を増す。保元の乱の戦後処理では、源義朝にはその父を、平清盛にはその叔父と5人の子供を殺させた。
後白河天皇は、藤原信頼を登用し信西への対抗勢力とした。

1157年 保元二年 40歳

藤原実能没。
讃岐にて、御心ひきかへて、後の世の御勤め暇なくせさせおはしますと聞きて、女房の許へ申しける。この文を書き具して、「若人不嗔打、以修忍辱」
世の中を背く便りやなからまし憂き折節に君逢はずして(雑歌)
修行のきっかけが見つからなかったかもしれませんよ。あんなにひどい目にもしお逢いにならなかったならば。
これもついでに具してまゐらせける
あさましやいかなるゆゑの報いにてかかることしも有る世なるらん(1231雑歌)
何とも呆れてしまう。前世からの因縁によって天皇に生まれついた方が、配流の憂き目にあうなんて、そんな有りえないことがこの世に起こってしまうなんて。
ながらへてつひに住むべき都かはこの世はよしやとてもかくても(1232雑歌
どんなに長生きしても永久に都に住むことなどできないのですから、現世はどうでもよいじゃありませんか。それより来世の幸福をお祈りください。
まぼろしの夢をうつつに見る人は目も合はせでやよを明かすらん(1233雑歌)
この世が夢、幻にすぎなかったことを自身の現実として見てしまった人は、夜になっても眠れない苦しい日々が続くのでしょうね。
かくて後、人のまゐりけるに付けて、まゐらせける
その日より落つる涙を形見にて思ひ忘るる時の間もなし(1234雑歌)
院御遷幸のその日から、悲しみの涙を流しては院を思い出しています。片時も忘れたことがありません。

1158年 保元三年 41歳 前年没した父実能の喪服中にに母も亡くした藤原公能を、高野より弔問し、出家を勧める(山家集)。
後白河天皇、二条天皇に譲位。後白河院政始まる。
1159年 平治元年 42歳 この年の春、菩提院前斉宮(亮子内親王)へ別れの挨拶をして、秋にかけて厳島参詣の旅に出るか(山家集)。
この年、藤原成通に出家を勧める(山家集)。
藤原成通出家。
源義朝・藤原信頼が挙兵し、平治の乱起こる。信頼と信西、義朝と清盛の争い。信西は自刃し、信頼は処刑され、義朝は家来に討たれた。清盛が勝ち、以降、平家隆盛の時代に入る。
1160年 永暦元年 43歳 平清盛、年来の宿願により厳島下向。美福門院崩。
源頼朝、伊豆に配流。

美福門院の遺骨を高野山に迎えて詠歌する(西行上人集)。
1161年 応保元年 44歳 この年に供養された覚性法親王の紫金台寺の歌会に以降、幾度が参加する(仁和寺諸院家記、山家集)。
1162年 応保二年 45歳

中宮藤原育子の貝合に和歌を代作する(山家集)。
藤原成通没後、その遺族や藤原範綱と贈答歌を交わす(山家集)。
藤原定家生誕。
新院讃岐におはしましけるに、便りにつけて、女房の許より
みづぐきの書き流すべきかたぞなき心のうちは汲みて知らなん(1136)
何と書いたらよいのかわかりません。この悲しみをお伝えできない私の心中をお察しください。
かへし
ほど遠み通ふ心のゆくばかりなほ書き流せみづぐきの跡(1137)
あまりにも遠くへ行ってしまわれたので、お会いすることもかないません。せめて心だけでも通うことができればと思います。どうぞお心が晴れるまでお手紙だけでもお書きいただければと思います。

1164年 長寛二年 47歳 隠岐にて崇徳上皇崩。
平清盛とその一族が法華経を書写し、厳島神社に納める(平家納経)。
崇徳院崩御以前に、その女房(実は崇徳院)と和歌を贈答する(山家集)。
1165年 永万元年 48歳

二条天皇六条天皇に譲位。二条上皇崩。
二条上皇崩後五十日の忌明けに墓参し、上皇に仕えた三河内侍(藤原為業女)贈答を交わす(山家集)。
五十日の果てつ方に、二条院の御墓に御仏供養しける人に具してまゐりたりけるに、月明かくてあはれなりければ
こよひ君死出の山路の月を見て雲の上をや思ひ出づらん(792)
忌明けの今夜、この美しい空の月を我が君は冥界に赴く途次に御覧になって、生前の宮中のことを思い出されているのであろう。
七月十五夜、月明かかりけるに、船岡にまかりて
いかでわれ今宵の月を身にそへて死出の山路の人を照らさん(774)
なんとかして今夜の月の円満を我が身に取り込んで、死者の霊を救済したいものだ。

1166年 仁安元年 49歳 二位の局、藤原朝子没。
藤原朝子は、鳥羽天皇の中宮待賢門院に仕え、後に同じく待賢門院に仕えていた藤原通憲(信西)と結婚、その後、待賢門院の子である雅仁親王(後白河天皇)の乳母(めのと)をつとめ、後に従二位に叙せられ、紀二位とも呼ばれた。
信西(藤原通憲)の正室・紀二位藤原朝子の没後、西行はその子脩範らと詠歌する(山家集)。西行は二位藤原朝子とも信西とも親しくしていたと思われる。
1167年 仁安二年 50歳

賀茂社に参詣して後、西国の旅に出発する(山家集)。(仁安三年に出発という説もある。)
同道した西住は先に都へ帰る(山家集)。讃岐に渡り、崇徳院白峰御陵、弘法大師誕生の善通寺をめぐり、九州までいったらしい(山家集)。
この年以前、大宮の藤原顕広(後に俊成に改名)邸にて寂然、西住らと歌会を催す(聞書集)。
平清盛、太政大臣に任。
この年、「山家集」の原型を顕広に送るか。
白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて
よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん(1355)
上皇よ、もう今となっては、崩御なされた後となっては、たとえ昔のまま玉座にあられたとしても、それが何になりましたでしょう。
長らへて終に住むべき都かはこの世はよしやとてもかくても(1232)
どんなに長生きしても永久に都に住むことなどできないのですから、現世はどうでもよいじゃありませんか。それより来世の幸福をお祈りください。
秋の末に、寂然高野にまゐりて、暮の秋に寄せて思ひを述べけるに
馴れ来にし都もうとくなり果てて悲しさ添ふる秋の暮かな(1045)
昔馴染んだ都のこともすっかり忘れてしまった。秋も深まってくるとますます悲しくなってくる。

1168年 仁安三年 51歳

崇徳院の白峯御陵に詣で、普通寺に草庵を結び越年。
同じ国に、大師のおはしましける御辺りの山に、庵結びて住みけるに、月いと明かくて、海の方曇りなく見えければ
曇りなき山にて海の月見れば島ぞこほりの絶え間なりける(1356)
大師ゆかりの神聖な山に登って海に出た月を見ると、海面は神々しい月光によって氷のように冷たく澄んでいて、所々に氷が途切れて見えるのは瀬戸内海の島々であった。
住みけるままに、庵いとあはれにおぼえて
今よりはいとはじ命あればこそかかるすまひのあはれをも知れ(1357)

これからは俗世を厭離するのはよそう。命があったからこそ、こうして大師の修行にあやかりながら、浄土そのもののような草庵の感慨にひたることもできるのだから。
庵の前に、松の立てりけるを見て
久(ひさ)に経てわが後の世をとへよ松跡しのぶべき人もなき身ぞ(1358)
大師同様に永遠の命を生き続けて、私の後世を弔ってくれ、松よ。私は大師の跡を慕ってここまで来たが、私を偲んで来るような人は誰もいないのだから。
ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならんとすらん(1359)
私は一所不住の遁世生活なので、こんなに住み心地のよい草庵も住みずらくなって出ていくかもしれない。そうしたら松はまたひとりになってしまうのだろうか。
雪の降りけるに
松の下は雪降る折の色なれやみな白妙に見ゆる山路に(1360)
雪が積もらない松の木の下だけは雪が降る時の空と同じ緑色のままなのだ。見渡す限りの山路は白一色なのに。
雪積みて木も分かず咲く花なれやときはの松も見えぬなりけり(1361)
どの木にも雪が積もって区別なく花が咲いたようになったので、常緑の松も見わけがつかなくなってしまった。
花と見るこずゑの雪に月さえてたとへん方もなき心地する(1362)
月光が冴え返ると、松の梢の雪が花に見える。例えようもない絶景である。
まがふ色は梅とのみ見て過ぎゆくに雪の花には香ぞなかりける(1363)
色が似ているので梅が咲いたと思って通り過ぎたが、白い花と見たのは雪で、何の香りもなかった。
折しもあれうれしく雪の埋むかなかき籠りなんと思ふ山路を(1364)
ちょうどいい時に雪が降って山路を埋めてくれてうれしい。しばらく山籠りしようと思っていたところだった。
なかなかに谷の細道埋め雪ありとて人の通ふべきかは(1365)
いっそ谷の細道を埋めてしまえ、雪よ。道があるからといって人が通ってなど来ないのだから。
谷の庵に玉の簾をかけましやすがる垂氷の軒を閉ぢずば(1366)
私の侘びしい谷の庵に美しい玉簾(すだれ)をかけることなどあっただろうか。軒を閉ざすように氷柱が垂れさがったりしなかったなら。

真言宗開祖弘法大師空海の遺跡を巡礼する(山家集)。
高倉天皇即位。平清盛、出家。

1171年 承安元年 54歳

後白河法皇熊野に御幸。
修行の途次に住吉社に参詣、後白河院の御幸に際会し、詠歌する(山家集)。
斎院頌子内親王の退下後、斎院宣旨の局と贈答歌を交わす(山家集)。
この頃、高野入山した崇徳院第二皇子・元性の庵室は別所の西少田原にあり、そこで寂然らとしばしば歌会を開く(山家集、雲葉集、平安遺文題跋編)。
この年より数年の間に自撰秀歌撰「山家心中集」成立するか。
天王寺へまゐりけるに、雨の降りければ、江口と申す所に宿を借りけるに、貸さざりければ
世の中を厭ふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな(752)
世俗を穢土と厭離して、現世の執着を捨て去ることはさすがに遊女のあなたには難しいでしょうが、一時の雨宿りを恵むことまでもあなたは惜しむのですか。ちょっと宿を貸してくださいな。
返し遊び妙(たえ)
家を出る人とし聞かば仮の宿に心とむな思ふばかりぞ(753)
あなたが出家のかたと伺ってお断りしたまでです。現世の執着であれ、一時の雨宿りであれ、出家のあなたには仮のものならそのまま御放念になるのがよろしいかと思ったまでです。

1176年 安元年 59歳 1175年か、源空(法然上人)浄土宗を開く。
藤原俊成出家(釈阿)。安元の大火。
1177年 治承元年 60歳

西行の勧進により高野山東別所蓮華乗院を壇上に移し、長日不断の談義所とする(I高野春秋)。京都大火。
鹿ケ谷事件起こる。平清盛が平氏打倒の陰謀を知り、藤原成親・成経・師光ら後白河院の近臣を捕らえ処罰した。藤原清輔没。

春日局、紀伊国南部庄を西行の沙汰とする(宝簡集)。
もろともに眺め眺めて秋の月ひとりにならむことぞ悲しき(778)
この秋の月を見るときはいつも一緒だった。しかしこれから私は一人になってしまうのかと思うととても悲しい。
春ごとの花に心をなぐさめて六十(むそじ)あまりの年を経にける(聞書集132)
毎年の春の花に心を慰めて、60年余りの年を過ごしてきたことよ。

1178年 治承二年 61歳 藤原公重没。
1179年 治承三年 62歳

この頃成立した「治承三十六人歌合」で西行は九番右の作者となる。
この頃、嵯峨の旧庵に仮寓して寂蓮と親交し、「たはぶれ歌」を詠作するか(簡書集)。
うない子がすさみに鳴らす麦笛の声に驚く夏の昼ぶし(聞書集165)
垂れ髪をうなじでまとめている子供が気ままに吹き鳴らす麦笛の声にはっと目覚める。夏の昼寝。
平清盛、後白河法皇の院政を停止し、鳥羽に幽閉、近臣を解官する。源頼政出家。

1180年 治承四年 63歳 福原遷都
伊勢国二見浦に草庵を結ぶ。
福原遷都を伊勢国二見浦の草庵にあって聞き及び、詠歌する(西行上人集、西行上人談抄)。

源頼朝、伊豆に挙兵。木曽義仲も信濃に挙兵。
平重衡、南都を焼く。東大寺の蘆遮那仏・大仏が焼け落ちる。

高野の山を住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、大神宮の御山をば神路山と申す、大日如来の御垂迹(すいじゃく)を思ひてよみ侍りける
深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風(千載和歌集)
大日如来の本地垂迹(ほんちすいじゃく)を思いつつ、神路山の奥深く入ると、この上もなく尊い峰の松風が吹いていた。
伊勢にまかりたりけるに、大神宮にまゐりて詠みける
榊葉に心をかけん木綿四手(木綿垂)(ゆふしで)て思へば神も仏なりけり(1223)
榊葉に神前に垂らす木綿四手を掛けて、心をこめて祈願しよう。伊勢の神は天照大神であるが、その本地は大日如来だといわれていて、私の信仰する仏と同じなのだから。
伊勢神宮イメージ

1181年 養和元年 64歳

高倉上皇崩。後白河院政復活。平清盛没。
中宮平徳子院宣下(建礼門院)。
養和の飢饉、前年の干ばつにより餓死者が大量発生。
次の歌は西行晩年の作とされているが、いつのものか不明。

願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃(77)
願わくば、釈迦の命日と同じ2月25日、桜が満開で月も満月のその日に死にたいものだ。
仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば(78)
仏には桜の花を奉りなさい。もし私が成仏して来世の冥福を祈ってくれるなら。

1182年 寿永元年 65歳 この年、京都飢饉、餓死者多数。
1183年 寿永二年 66歳 後白河法皇、藤原俊成に「千載和歌集」選集を下命。
平家、安徳天皇を奉じて西海へ落ちる。
後鳥羽天皇、践祚(せんそ:天子の位を受け継ぐこと)。

大祓(おおはらえ)祝詞に依拠して源平争乱の罪汚れが祓われることを伊勢神宮に祈念する数百を詠み、「地獄絵を見て」連作もこの時期の前後に詠作したか(聞書集)。
見るも憂しいかにすべき我が心かかる報いの罪やありける(聞書集198)
見るのもつらい。どうしたらよいのか、つらく思う私の心を。このような報いの因となる罪があったのだろうか。

1184年 元暦元年 67歳

世の中に武者起こりて、西東北南、いくさならぬ所無し、うち続き人の死ぬる数聞く夥(おびただ)し、まこととも覚えぬ程なり、こは何事の争ひぞや、あはれなる事のさまかなと覚えて
死出の山越ゆる絶え間はあらじかし亡くなる人の数続きつつ(聞書集225)
死出の山を越える死者の絶え間はあるまい。これほど亡くなる人の数が続いては。
木曽義仲の敗死、一の谷合戦。
木曽義仲の敗死を伊勢で仄聞(そくぶん)し、批評的に詠歌する(聞書集)。
木曽と申武者死に侍りにけりな
木曽人は海のいかりを沈めかねて死出の山にも入りにけるかな(聞書集227)
山育ちの木曽人は海の怒りを鎮めることができず、碇を沈めて留まることもできず、死出の山にまで入ってしまった。

1185年 文治元年 68歳 屋島の戦い。平家、壇の浦に滅亡。
義経が頼朝に腰越状を送る。
後白河法皇、義経に頼朝追討の命。
後白河法皇、頼朝に義経追捕の命。

西行、平宗盛・清宗父子が近江で斬られたことを聞き、哀悼歌を詠む(西行上人集)。
1186年 文治二年 69歳

東大寺再興の沙金勧進のため、再度奥州の旅に出発し、鎌倉にて源頼朝と会談する(吾妻鏡)。頼朝は西行に歌道や弓馬についていろいろ尋ねた。西行は歌道についてはほとんど何も話していないが、流鏑馬について教えたという。西行の佐藤家は、平泉の藤原家と遠縁の関係。
大磯・鴫立庵の円位堂(西行堂)
旅立つ以前に、藤原定家・藤原家隆・藤原隆信・藤原公衝・寂蓮らに「二見浦百首」を勧進し、伊勢において「聞書集」「残集」成立するか。
恋しきをたはぶれられしそのかみのいはけなかりし折の心は(聞書集174)
恋しいのを冗談ごとにあしらわれた、その昔の幼かった時の心といったら。
うなゐ子がすさみにならす麦笛のこゑにおどろく夏の昼臥し(聞書集165)
垂れ髪をうなじでまとめている子供が気ままに吹き鳴らす麦笛の声にはっと目覚める。夏の昼寝。
竹むまを杖にも今日はたのむかなわらは遊びを思ひ出でつつ(聞書集167)
竹馬を年老いた今日は杖にとも頼ることだなあ、子供の遊びを思い出しながら。
昔せし隠れ遊びになりなばや片すみもとによりふせりつつ(聞書集168)
このまま昔した隠れ遊びの子供になってしまいたいなあ、草庵の片隅あたりに物に寄りかかって横になっていながら。
なべてなき黒きほむらの苦しみは夜の思ひの報いなるべし(聞書集208)
並大抵ではない黒い炎の中の苦しみは、夜の邪悪な思いの業火の報いに違いない。
こころをおこす縁たらば、阿鼻の炎の中にてもと申す亊をおもひいでて
ひまもなきほむらのなかの苦しみも心おこせば悟りにぞなる(聞書集213)
絶え間ない炎の中の苦しみも、それを機縁として仏道に発心すれば悟りになるのだ。
おろかなる心のひくにまかせてもさてさはいかにつひのおもひは(聞書集216)
愚かな心の引くままに、よし身をまかせたとしても、さてそれではいったいどうなるのだろうか。
あづまのかたへ相識りたる人のもとへまかりけるに、小夜の中山見しことの昔になりたるける思ひ出でられて
年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山(「西行法師家集」113)
年をとってまたこの山を越えるであろうと思ってもみただろうか。命があってのことだなあ。小夜の中山を越えるのは。
小夜の中山峠の西行歌碑
風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな
(「西行法師家集」85)
風になびく富士山の噴煙は空に消えて行方もわからない。その煙にも似て行方のわからない私の思いよ。
西行は平泉で藤原秀衡に会い勧進の目的を果たした。秀衡は砂金を鎌倉に届け、鎌倉はこれを後白河政庁に届けた。

1187年 文治三年 70歳

源義経、陸奥に逃れる。
10月、秀衡病没。

この年、伊勢神宮に奉納するため自歌合「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」、続いて「宮河歌合」を結番し、藤原俊成・定家父子に判を求める。
俊成の評「詞浅きに似て心ことに深し」。

 

1188年 文治四年 71歳

奏覧された藤原俊成撰「千載和歌集」に「円位」の作者名で十八首入集する。
西行は、おもしろくて、しかも心殊に深く、ありがたく出で来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人とおぼゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず、不可説の上手なり。」(「後鳥羽院御口伝」)

 

1189年 文治五年 72歳 4月、源義経、藤原秀衡の息子泰衡に討たれる。
5月、頼朝、泰衡を討つ。秀衡は幕府に寝返った部下に斬られたようだ。
頼朝、奥州平定、平泉藤原氏滅亡。

山深くさこそ心は通ふとも住まで哀れはしらむものかは(「新古今和歌集」)
心を山の草庵の隠遁に通わせるだけでなく、そこに住んでみなければ本当の哀れは知りえないものだろう。
この年、藤原定家が「宮河歌合」への加判を遅延していたのに対して、父俊成へ督促状を送る(御物円位仮名消息)。
定家は加判を終え、弘川寺で病臥する西行の許へ届けた。
「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいかさまにせん」に対する定家の評「作者の心ふかくなやませる所侍れば」に、西行は驚喜した。
これに対して西行は返状を書く(定家卿に贈る文)。
この年の秋頃、比叡山無動寺に慈円を訪問する(拾玉集)。

 

1190年 建久元年 73歳

二月十六日(現行暦で3月30日)、河内国弘川寺に入滅するという(長秋詠藻)。「西行物語」に語られる京都の雙林寺に入滅するという説も有力。雙林寺には西行の房が当時実在した(荒木田水元集)。

年譜はおもに平凡社「別冊太陽西行」、岩波新書「西行」高橋英夫著、講談社文芸文庫「西行論」吉本隆明著、
新潮文庫「西行」白洲正子著、学研M文庫「西行」井上靖著、その他の資料を参考にした。
歌の後につけた数字は「山家集」の番号で、年代は歌の内容からみて筆者がかってに推定したもので、ほとんど正確ではない。
歌の現代語訳は、主に「和歌文学大系21山家集/聞書集/残集」久保田淳監修・明治書院を参考にした。