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俳句徒然日記2019年


2019年1月3日

孫の陽菜が来た

孫の優志は風邪で寝ているが陽菜が遊びに来た、うれしい。これで安心して逝ける。そんなふうに正月から思うのはおかしなことなのか。
残されている時間はもうそれほど長くはないと思うのだ。時間の流れの中で取り返しようもなく確実に限定された自分がいる。陽菜の笑みをしっかり胸に刻んでおこう。

孫が来てうれしかなしいお正月

 

1月20日

世界は存在しない

マルクス・ガブリエルは、世界は存在しないという。仏陀の教えは、自己など存在しないも同然だという。世界や自己などあってもなくてもどうでもよいではないかということか。たしかに、世界のような全体性はなくてもよいが、日常世界の自己とは容易に縁が切れそうもない。「意味の場」とは何か。意味の場もまた無限に多様なのではないか。
存在しないも同然のものをあれこれと悩むのは煩悩のせいか。はたまた尽きせぬ欲望のせいか、人間の本性のなせる業か。

世界は存在してもしなくても生きていける

時代は、視界不良の混迷世界にあって、新しい生き方、自己認識の方法を探しているようだ。新実在論という。存在するものは理性的か。相対主義に陥らず、新しい価値を提示できるか。
なぜかここのところ、ガブリエルが気になって、いろいろと凝っている。

 

1月31日

今年古稀

今年の11月で古稀を迎えることになる。すでに身体は死に向かって準備を始め、身構えようとしている。死の受け入れは一種の本能のようなものかも知れない。

あきらめの心も弱くて古稀になる

40年通いて懐かしホームのベンチ

夕飯を食べると言って古稀40年

 

2月9日

人は集団幻想を持ちたがるものだ

人類はずっと巨大な集団幻想の虜となっていたのかもしれない。形而上学がその集団幻想の最たるものだという。人類は幻想によって世界を理解していると思ってきた。ガブリエルがそういうと、そうかもしれないと思ってしまう。人類は幻想を共有することで生き残る力としてきた。幻想は生きるすべなのだろう。

なんとなくわかった気にさせる共同幻想論

古稀にてもガブリエルするなり春の雪

世界などあってもなくてもガブリエル

意味の場の相対論で生きられるか

 

2月9日

梅見は老人のたしなみか

この季節になるとどうしても、弁当をしょって梅見に出てしまう。四季の移ろいに身をまかせて、今年もいっしょに生きていく。梅見、あと2回はいくだろう。

白梅や思いのままの月宮殿

儲けるのがそんなにえらいか資本主義

煙草すえばプッと屁をこく女房かな

しぼむまで生きていようよ梅の花

白梅や体力と知力気力を振り絞れ

 

2月23日

 

人間も物理法則に従うか

重さ・質量をもった物体はお互いに引き合うものだという。それが重力というものらしい。(万有引力)
柔らかいものどうしがぶつかると融合するが、固いもの同士がぶつかるとそれぞれ崩壊する。柔らかく、大きくなれば、引き付けることができ、融合することができる。

人間の意識は自由か。人間も動物種という自然原則に従うから、物理法則から自由であるはずはない。意識は自由であっても身体と行動は制約を受ける。

乾坤はつよさやさしさの引力かな

ひかりを曲げひかりを飲み込む重力かな

 

3月3日

「マイ仏教」徒

自分探しの小乗仏教に対して、自分を捨てて利他を目指すのが大乗仏教だという。(みうらじゅん「マイ仏教」)
釈迦は悟ってからも、自分の教えを他の人に説教することに躊躇していたらしい。教団を作って布教することなどは考えてもいなかった。だが釈迦は、人々の救済のため、利他のために教えを説くこと決意する。自己への執着から解放され、人々の救済と幸せへの道を説くことになる。
だが、人間の生きざまはきれいごとでは済まされない。自己愛あり、利他行動あり、所属教団愛あり、リアル原始仏教徒たちは何を考えていたのか、気になる。仏教は仏陀が発祥だが、一神教のような仏陀個人への崇拝のようなものは弱い。イエス生誕400年前では、仏陀個人の生き様にまつわるキャラやエピソードの風化も早まってしまったのかもしれない。原始仏陀教ではないが、自己流仏教もありか。

なるほどのしからば我もマイ仏教

 

3月3日

佐渡島は老人住まう過疎地なれば

佐渡はトキの住む環境として適しているらしい。嬉しいことなのか悲しいことなのか。私が小学坊主で野山を走り回っていたころ、自生のトキをみたような気がする。

佐渡島人は滅んで自然栄える

遠き日の青い空に白金北

月曜日とりわけ雨の朝は鬱

ストレスを言い訳にして煙草かな

 

3月6日

ふと、そしていつも思う私の吃音

つまりどもり。小さい時からこれには悩まされてきた。この不思議な人には言えない特性とずっと付き合ってきた。そのため、ずっと教科書の朗読や人前で話すことが苦手だった。私この特性はどこから来ているのだろう。
小学生の時から、うまくしゃべれない自分の吃音を意識していた。そのため授業中でも先生の口移しのようなことをブツブツ言っていたようだ。先生に注意され、怒られてばかりいたから、そうなのだろう。その反動のせいか、中学・高校と私の人生は思うとおりにしゃべれない苦痛で暗かったように思う。この吃音のせいで、私の人生、ずいぶん誤解だらけで、損をしてきたと思う。
人と交わるのは嫌いではないのだが。うまくしゃべれない、自分の意志を伝えられない。演歌のように歌うと何故かどもらない、気持ちよく歌える。だから般若心経を大きな声で唱え、歎異抄を朗読する。いくらか気が休まる。
老いてきて吃音はだいぶ軽減してきたようだ。死んだおやじもそうだった。やはりDNAが関係しているのだろう。私は死ぬまでこの特性と付き合っていくことになりそうだ。
まぁ、人間ってそんな不思議な生き物なのだろう。仕方がない。

3月16日

ある教授の女子大での授業

受講者の「知性を90分間アクティブにできるかどうかが勝負」だという。面白く、興味深く、飽きさせないこと。
いゃあ、大学の先生って、大変なエンタテイナ力が必要なのだ。私の場合なら、すぐに投げ出してしまう。

 

3月30日

老いていく親と引きここもる子の孤独と貧困


ひきこもりは個人の問題か社会のせいなのか。なんだろうこの社会は。シングルマザーの貧困化が問題になっている。シングルママが外で働くのは養育と仕事を両立させなければならない。今の日本の社会では、容易ではない。生活の為、働く気があり、働いているのに生活が成り立たない。そんな社会は国民のための社会ではない。もっと厚い支援が必要ではないのか。子供は社会の財産であり希望だ。

 

4月7日

GSの蘇りし四月の鼓動

今年で辞めるか、続けるか。それが問題だ。辞めようと思ってはまた思い直す。バイクを辞めるということは、生きていること、男であること、そして青春を、風になることを辞めることだとも思う。
バイクは役に立たない道楽的趣味。夏炉冬扇。当然なくても生活には差し支えない。
それを言うなら、酒もタバコも車もいらない。人間というのはどうしてもなくてもよいものに拘るのだろうか。健康に良くないことや、やらなくてもよいことや、やたら過剰なことをしたがるものだ。

老いてなをなんにもいえないバイク乗り

動体視力落ちてそろそろ卒業か

4月9日

風流のいたりて梨木雪見桜

なぜか渡良瀬鉄道に乗って花見に来た。来てみれば季節外れの雪景色。梨木の温泉宿に向かうも雪は本降りになるばかり。
渡良瀬の電車に乗る頃から雪がちらほらしていて楽しかった。進むにつれて深くなっていく雪景色。バスに揺られながら風流を楽しむ。
宿から外を見ると完全な雪景色の墨絵の世界。古来、日本人は雪月花を愛でてきた。ああ風流だなあ。

梨木湯や桜の花に雪降り積む

梨木湯や古来の美意識雪月花

町内の山歩きクラブ・四季の会の例会のような集まりなので、いろいろな個性をもった人が多い。こういう集団の旅も悪くはないが、ひなびた宿はやはり一人旅に限る。

4月9日

五月待つつつじの花のいじらしさ

土曜日に座ってみる車窓の楽しさ

通勤電車人はみな精神で生きている

4月17日

そんなふうに過ぎてしまった人生

死んでくれろと言われたら一緒に死んでもいいと思っていたかもしれない。

通り過ぎてきた女性たちよ。うまく出会うことのなかった女性たちよ。私を振った女性たちよ。君らの人生に幸多かれ。

 

4月23日

ああ、フェイクの日本どこへいく

官僚や大臣の内実を伴わない空疎な言葉。
日本語の言葉が虚ろなものになってしまう。
言葉の実体との乖離、非実体化。人は言葉を聞かなくなる。言葉でしか分かり合えない人の世で、平気で偽りの言葉を並べる人たち。言葉の文化の破壊者。自己正当化の強弁、嘘のような話の垂れながし、話のすり替え、奢った態度、権勢を笠に着た口振り。
長期政権の怠惰とおごり、極まれり。阿部、菅、取り巻き官僚たち、彼らに政権を任せるのは日本人として許せるのか。日本は頭から腐ってきている。ああいやだ。
日本の民主主義と人の自由と言葉の文化はどこへ行ってしまうのか。

 

 

5月3日

生老病死は人の定め

生物としてみれば、人はみな、生まれ、子を遺し、病んで死んでいくというサイクルのなかで存在している。私はすでにやるべきことはやってしまったのだろうか。
死ぬまではこの世に生を受けた人として、精いっぱいこの生をいきる勤めがあると思う。

45歳で重度大腸癌から生き返ったという個人タクシードライバーの話は、過酷な乗り越えてきた人の、生きて在ることの喜び満ちていて、面白かった。
そうなのだ、健康で生きてあるだけでも人は幸せだと思わなげればならないのかもしれない。

 

5月5日

体内時計のリズムが必要

生命はそのうちに体内時計を持つと言う。それはコンピューターが体内時計すなわちヘルツを持っているのに似ている。クロック周波数のような時間意識があるようだ。体内時計が狂うと糖尿病になるのだという。インスリンの量をコントロール出来なくなるから。
生命はリズムをとって生きている。それは呼吸なのか心臓の鼓動なのか。なるほど生き物や動くものやコンピュータには体内時計のリズムが必要なのだ。リズムを意識して生きること。


5月11日

アフガン弥勒の微笑街道

なぜ仏たちは微笑んでいるのか。
人々は古来、仏たちの微笑みに、心癒されてきた。人々は幸せな暮らしをおくれていたから仏を微笑ませたのか。人々は暗く不幸な生活の中で、弥勒の微笑に夢をみようとしたのだろうか。
仏教の仏さんの顔は、総じてやさしい。キリスト教の神さんの顔は、苦渋に歪んでいる。

 

5月16日

老いた労働者

信号機のない交差点を、現場労働で汚れたなりの老人が、足を引きずりながらようやく渡リ終えた。それをじっと見続けていた。その境涯を思い自分の人生を顧みた。無性に哀しかった。60は越えているいるはずだが、老いてなお身を粉に働かねばならないのか。

チャラチャラとチャラく仕事に出でゆく我は

ジョッギング確かにチャラいわが人生

ノウテンらくてん我が本領

なんとなく人とは違うわが思い

他人と 同じのは嫌だと思う心象はおかしいのか。
外す、ずらす、超える、変えたい、変えてやりたいという欲求。飛躍、超越、超克、超出、弁証法?
いまだ青春の総括ならず。

6月12日

今年もまた開成町へ

老いを感じて開成町へ。今年の紫陽花はいかに。やや小粒で色浅い。

紫陽花の横のチソの葉美しくて

よく見れば紫陽花のなかにもまた宇宙

開成のブルー紫陽花やブルーヘブン

道端の花には花のその世界

五月雨やこうべ垂れたる菖蒲園

五月雨にホトトギス鳴きて花しょうぶ

車窓から見とれてしまった梅雨緑

蘇れ若き日の思い梅雨晴れ間

日曜はごろごろごろごろ時代劇

7月3日

 

人生仕事家庭に飽いてもしょうがない


自分ってだれ 自己遊離感 枯れ紫陽花

ポートフォリオはいかが。
仕事を離れると自分が何者なのかわからなくなる。
私は、どこから来たのか。何者なのか。それほど遠くない年月を過ごしたら、私はどこへ行こうとしているのか。
しかし、この自己遊離感は病気かしら

7月14日

生前後家楽

上野千鶴子先生がそう言っている。
バイキング社会では、男たちは海賊に行っているので、女たちが社会を仕切ってのびのび生きていたらしい。上野先生は男社会との闘いに疲れているようだ。

日曜はごろごろごろごろ時代劇

さすが上野先生。ますます、なんか親しみが。こういう戦う女性は嫌いではない。

 

7月28日

あさひジャズ祭り

いつものように梅雨明けの日曜日、ビールを片手にジャズの夕べを楽しむ。でもなんか、年のせいかしみじみ哀しい。

ジャス祭りトロンボーンが吠えて梅雨明ける

もうこうなりゃ死ぬまで生きるぜミッキーカーチス

老醜をさらすは勇気か未練花

わたし的にはそれでもよいと思ってる

居直って生きるのは嫌いではない

元気をだし心意気で生きている

 

8月14日



お盆の墓参りで、気になる「納大乗妙典六十六部日本廻國」

向かって左の石碑の句

「嘉永七寅年 當所 六郎兵衛
全国西國秩父坂東四國八十八番
四月吉祥日 隠居 數斗」

向かって右の石碑の句

「天下和順 日月清明
行者 數斗
納大乗妙典六十六部日本廻國」

佐渡市城腰、私の先祖の墓、というより記念碑のようだ。「六郎兵衛」はわが屋号、「隠居」にして「行者 數斗」が先祖らしい。
「嘉永七寅年」は、調べてみると、将軍慶喜の時代。6年には小田原地震で小田原城が大破し、ペリーが浦賀沖にすがたを見せ、7年(1854年)には日米和親条約が締結され、伊賀上野地震や安政東海地震、安政南海地震が続いた。そのため安政7年から安政に元号を変えたりした。嘉永7年は安政元年、そんな大動乱の時代だった。

「行者」とは何者なのだろうか。「納大乗妙典六十六部日本廻國」とはどういう意味なのか。日本全国を回って大乗妙典66部を納めてきたということなのか。

亡き親父の話では、全国行脚(放浪)の乞食坊主だったのではないか、とのこと。しかし、我が先祖は何を考えて、「納大乗妙典六十六部日本廻國」をしていたのか。興味がつきない。
それにしても立派な記念碑ではある。私の先祖にそのような男がいたのか。感動のようなものを覚える。


8月24日

宿命を生きる若者

土井隆義氏が朝日新聞で、こんなことを言っている。
現代の若者層では、貧困率は上昇し、努力しても報われないっていう意識は高まり、生きていれば良いことがあると思うという意識は低下している。
しかし同時に特に若者の幸福感や生活満足度は上昇している。これはなぜなのか。
より良い未来の代わりに、過去すなわち伝統、民族、生得的な属性などに若者が拠り所を見出しているということである。
こうした自らの宿命を受け入れて生きる若者は、貧しさや不遇な状況に追い込まれても、自己責任主義や努力主義の規範をも内面化しているため、人生の期待値そのものを下げてしまい、社会への反発を抱きにくい。

こういう若者が増えると、日本も終わってしまう。古代ローマが、戦争は傭兵に、労働は奴隷にまかせ、飽食と娯楽とセックスに溺れて、国をなくしてしまった。
私は個人より国家を上に置くものではないが、個人の自由意志はどうしても共同体を目指してしまう。

 

9月8日

宇宙人まぎれなく人もまた宇宙人

起源は炭素の繋がり、隕石に乗ってやって来た。
生命の元、炭素は隕石に乗ってやって来た。
地球の人類は、平均的な生き物なのかかなり特異な種族なのか。いずれにしても、かけがえのない宇宙船・地球号、人類を乗せてどこへ行く。
怖いのは、愚かな自己破壊願望。人類の集団自殺。人間は、愚かなのか賢いのか、どちらだろう。

 

9月10日

優君と同じ斜に構える我が本性

ものごとに、どうしても斜から入ってしまう。
人の言う事を素直に聞かない。先生の言う事を聞かない。
どうしても、自分のスタンスを変えようとしてしまう。
私の場合、吃音と関係があるかも知れない。

何回通っても
一時間待っても呼ばれない緑内眼科

白内障の施術を終え、今度は眼圧がやや高く緑内障の気があるという。老人には、どんな病名でも付けられる。

 

9月14日

走りきて薄紅やわらか芙蓉の花

メガネをつくりなおしたが、まだ合わない。世の中が曲がって見えて、おまけにずれている。私の目はこれからどうなるんだろう。見えるだけでもまだマシと思わなくてはならないのだろうか。 だから走ろう、身体を動かそう。

ものが曲がって見えて疲れ果てて秋の暮れ

 

10月1日

ことしも仕事が増えそうだ SEMとSKP


雨傘や香港の若者の頬に涙

君らの悲しみ君らの怒り10月1日

香港や50年前に見たような 青年たちの絶望

香港のデモする若者たちの姿はかなしい。精神の自由をしるものにとって、思想や行動や表現の自由を制限されることは、ほとんど死を意味する。その危機を感じる青年たちの感性は正しい。

 

10月5日




走りきて赤そば畑や箕輪町

赤蕎麦は食べるにあらず見て楽しめ

赤蕎麦はヒマラヤ・ネパールが原産。一般の蕎麦より背が低く、やせた土地でも育ち、収穫は1/3程度ということ。ここ信州・箕輪町では高嶺ルビーという。
畑の横の森の中に蕎麦屋さんがあった。赤蕎麦を賞味してみた。まぁ、そんなものか。

 

時間が面白いらしい。
人は何故、生まれ病んで老いて死んでいくのか。それにどんな意味があるのだろうか。
植物や昆虫の小さな部品の世界の中に広大な世界が見えてくる。深くハマればハマるほど面白くなってくる、らしい。
それぞれの宇宙。花には花の宇宙、人には人の宇宙。 

10月9日

今年古希「根岸の里の侘び住まい」
人生一酔の夢、か。
季語がなくても、575定型でなくても、平気。ことばが紡ぐ情感があれば、それだけでいい。俳句は、他の人に理解してもらう必要があるのかどうなのか。

自分のこと大事の人は、他人の痛みに無関心。
若者たちの生活の不安と将来への絶望。
社会の矛盾に目をつむる者は権力構造に加担する者だ。 私は70億人もいるという事実をよく理解すること。70億分の1という人生の現実、これを理解できるのか。
いくら自由意識があっても、私は他人にはなれない。 

 

11月6日

古希がきて一人つぶやくおめでとう

入れ歯5年 物が曲がって見えて5年

古希は目出たいか。70年も生きてきたことは、誰も言ってくれないので、自分で言う、おめでとう。
記憶が弱くなって5年、曲がり角の65歳。もう暮れかかっている。1本の木まっすぐなればその一生いかに 。

 

11月13日

病院に馴れてどうあれ秋の風

どうわたしきれい寂しげに紅葉狩り

紅葉よ人を楽しませるために生きてきたのか

人間は矛盾の多い生き物だ。 やたら何なにだと否定的な言辞を叫ぶのは、自分がその何なにだから、と言うことが多い。

 

12月8日

冬の日や命を削るバイク乗り

冬の日に遊びをせんとやバイク乗り

こんな句を作ったことがあるような。しみじみ思う、命を削るこの緊張感。これがたまらないのだ。 なぜ人は命を削る緊張感に身を任せるのか。やはり遊びが人の性なのか。避けられないホモルーデンス。
人は、鳥になりたいのか、瞬間移動のスーパーマンのか。それとも放浪癖の本性か。とにかく、誰よりも早く、素早く、うまくありたい。自分の万能性を感じたいのだ。
バイクを駆り句を詠み紅葉を愛でる、言うことなしの我が人生かな。
そんなふうにして時間が流れ、日が暮れて、老いて死んでいく。 このバイクとの付き合いも、あと1年はないかもしれない。


凍てる朝青年に席を譲られいい気分

中央の席に座ろうとして青年に先を越され、別の席の青年から固辞しつつも席を譲られた。いろいろな青年たちよ、人生面白いよ。

月曜日うれしかなしも古希の冬


12月14日

小人さん達が仕事をしている。

調子はどうと声をかければ、みんなそれぞれ自分の受け持ちの仕事をチェックをして状況報告してくれる。私の内の小人さん達に助けられて、私は1個の人間として自立して生きていける。小人さんたち、ウゥーン70年間ありがとう。

黄昏て人生の秋に立たずめり

何か面白いもの探し 多治見市のタイルミュージアムの外観。こういう生物的カーブになにか郷愁を感じる。

とんからりん久しく音無し師走かな

若かりし頃の不安神経症の記憶

あの頃の私は何者だったのだろうか。栄養の偏りか、風邪による体調不良か、精神の病か。

 

12月

ガブリエルの「私は脳ではない」

今年の初めに、ガブリエルの「世界は存在しない」を読んだ。続けて「私は脳ではない」ということになる。私は誰でどこにいるかわからないし、世界は存在しない、という。
あらゆる決定論を排し、自由意識を信じる。人間精神の自由こそ哲学のめざすべきものというガブリエルに賛同する。しかし、人間の「自由」のために、「私は脳ではない」という本を書かねばならないのか。「私」は身体的、物理的「脳」の制約から自由ではないが、「私」は「脳」には存在しない。
サルトル的自由は、レビ・ストロースの構造主義に足元をすくわれて、悔しい思いをした。ガブリエルの自由は、もう一度、現代における人間精神の自由の復権を主張しているのだと思う。
なにか安心したような気分だが、ちょっと物足りない感じもする。

12月28日

坊主頭にまた近づいた古希正月

五分刈りにまた近づいた古希の冬

五分刈りのバリカン悲し古希の冬

12月29日
秩序や規則に従いたくなる人と反抗したくなる人がいる。サルトルは革命的人間を示した。私はカミューの反抗的人間よりサルトルの生き方が優れていると思った。 今振り返ってみると私はいつの時代にあっても反抗的人間だったのだろう。秩序に対して反抗し、別のものを作っていこうとする人間と、それに従う人間がいる。その中間で右往左往する人間もいる。状況をどのようなものとして感受するかにかかっているのだと思う。 この3つの態度は人間の本性のようなものかもしれない。

 

   

photo by miura 2019. mail:お問い合わせ  

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