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日光・黒羽・白河の関へ


 三十日(みそか)、日光山の麓に泊る。主の云ひけるやう、「我名を仏五左衛門といふ。よろづ正直を旨とする故に、人かくは申し侍るまゝ、一夜の草の枕も打ち解けて休み給へ」といふ。いかなる仏の濁世塵土(ぢょくせじんろ)に示現(じげん)して、かゝる桑門(さうもん)の乞食順礼(こつじきじゆんれい)ごときの人をたすけ給ふにやと、主のなすことに心をとゞめてみるに、たゞ無智無分別にして正直偏固(へんこ)の者也。剛毅木訥(がうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質、尤も(もっとも)尊(たっと)ぶべし。

 卯月朔日(うづきついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。往昔(そのかみ)、此の御山を「二荒山(ふたらさん)」と書きしを、空海大師開基(かいき)の時「日光」と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今この御光(みひかり)一天にかゞやきて、恩沢(おんたく)八荒(はつくわう)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏かなり。猶(なほ)、憚(はゞかり)多くて筆をさし置きぬ。
  あらたふと青葉若葉の日の光

日光東照宮への参道
日光東照宮の参道


僧形の芭蕉と曾良

あらたふと青葉若葉の日の光
「憚(はゞかり)多くて筆をさし置きぬ」として、芭蕉は余計なことは何も言わない。この句は最初は、「あなたふと木の下闇も日の光」だった。日光大権現の威光で木の下も明るいという意味だが、これでは句としてはあからさま過ぎて面白くない。「青葉若葉の日の光 」とすることで詩的イメージが鮮明になった。

日光

 芭蕉は自分のことを「桑門の乞食順礼ごとき人」といっている。桑門とは仏門のこと。だが、芭蕉はなぜ僧の格好をしているのか。芭蕉は深川時代に仏頂和尚について禅にふれていたようだ。それが僧形へのあこがれのようなものを芭蕉の内にうんだのだろうが、当時の俳諧師は身分不詳の僧形をするのがはやりだったようだ。
 「おくのほそ道」の旅に出る5年前、芭蕉は「野ざらし紀行」のなかで自分のことを次のように描いている。
腰間に寸鉄をおびず。襟(えり)に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(さずさ)ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗にして髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと 僧侶のこと)の属にたぐへて、神前に入る事をゆるされず。
 芭蕉と曾良は二人とも、仏門の旅装束をしている。だか、芭蕉は「桑門の乞食」の実を発揮して托鉢などをしたという記録はない。曾良は、湯元で「十九日 快晴 。予、鉢に出る。」(「曾良旅日記」)とあり托鉢をしていた。僧形に見合う修行のつもりだったのだろうか、とかくうわさのある曾良のことだから、市中の暮らしぶりや噂などを探っていたのかもしれない。曾良は芭蕉の弟子だが、不思議な人で幕府の隠密だったのではないかという疑いが強い。京都奈良の寺社をしらみつぶしに調査したり、幕府巡検使の用人として九州や隠岐を調査したりしている。そのためか、芭蕉までも隠密の仕事をしていたのではないかと疑われている。(村松友次「謎の旅人 曾良」)

 まっ、そういう話しも一興として次に進もう。

 「僧に似て塵有(ちりあり)。俗にして髪なし。」芭蕉は自覚的に僧形をしていたようだが、自分でもなんだかおかしいな、といった感触をもっていたようだ。
 僧ではないが僧の格好をしている。僧に似ているが世俗の垢にまみれている。俗に生きてはいるがなぜか髪はない。僧にして僧にあらず、士農工商の身分から離れて、俳諧の宗匠という仕事をしている。そういう芭蕉の自負があらわれている。

東照宮の陽明門
東照宮の陽明門

芭蕉の時代からこの陽明門はあったのだろうか。芭蕉のような旅人が陽明門の近くまで来ることはできたのだろうか。
日光東照宮は、 寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築が行われた。芭蕉の旅は元禄二年(1689年)だから、改築から50年余りたっている。当時は神仏習合でお寺と神社が合体していた。


 芭蕉は、こじき坊主の自分を泊めた仏五左衛門を、
唯(ただ)無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ
といいながらも、
気禀(きひん)の清質尤(もっとも)尊ぶべし
として最大級の賛辞を送っている。どうも日光のような神々しいところは芭蕉も苦手なようだ。まぶしいものは、芭蕉の「わびさび」の趣味に合わない。無知無分別、正直偏固、剛毅木訥の仏五左衛門に親しみを感じている。だが、「無知無分別」と「正直偏固」が一人の中に同居するものだろうか。
 「胸中一物(いちもつ)なきを尊しとし、無能無智を至(いたれり)とす。無住無庵、又其次也。」 (「移芭蕉詞(ばしょうをうつすことば)」より) 
 芭蕉が好む人物像、好ましい生き方が表明されているが、同時に作句に向かう姿勢ともなっているようだ。

 [地図]


かさね

 日光を後にした芭蕉たちは「黒羽」に向かう。歩きだした芭蕉たちの眼前には那須野の薄の原の原野が広がっていた。

 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかゝりて直道(すぐみち)を行かんとす。遥(はるか)に一村を見かけて行くに、雨降り日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中(のなか)をゆく。そこに野飼の馬あり。草刈るをのこに歎(なげ)きよれば、野夫といへども、さすがに情(なさけ)しらぬにはあらず。
「いかゞすべきや。されども此の野は縱横にわかれて、うひ/\しき旅人の道ふみたがへん、あやしう侍れば、此の馬のとゞまる処にて馬を返し給へ」と貸し侍りぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名を「かさね」と云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名なるべし  曾良
やがて人里に至れば、あたひを鞍壺(くらつぼ)に結ひつけて馬を返しぬ。

 写真の銅像は、黒羽の芭蕉記念館の前の銅像。訪れたときは記念館は工事中だった。芭蕉が馬に乗り曾良が後についている。この他に「ちいさき者ふたり」がいて、その1人の子の名が「かさね」というのだろう。 曾良は、八重撫子を思わせる「かさね」という名前に感動して句にした。

 蕪村の「奥の細道画巻」がある。蕪村は芭蕉を尊敬しており、「奥の細道」を書写しながらその中に自筆の俳画を挿入して面白い絵巻にしている。現存する「奥の細道画巻」は4種類くらいあり、それぞれ書体にも微妙な変化があり、俳画も異なっている。
 左の画は、蕪村の後の作品の絵で、構成が面白い。上の写真の馬上の芭蕉と曾良の構図とよく似ていて面白い。

「きかざる・いわず・みざる」 の三猿
「きかざる・いわず・みざる」 の三猿



馬上の芭蕉
黒羽の芭蕉記念館の前の銅像。記念館に入りたかったのだが、残念ながら改築、休館中。
蕪村の「奥の細道画巻」に描かれた那須野をいく芭蕉たち
蕪村の「奥の細道画巻」に描かれた那須野をいく芭蕉たち。絵の小さな女の子が「かさね」ちゃんか。

雲巌寺への参道。濃い緑と赤い橋が印象的。
雲巌寺への参道。鬱蒼とした山懐にあり、濃い緑と赤い橋が印象的。


雲巌寺 
[地図]

 西那須野塩原ICを降り、大田原市を経て黒羽にはいる。道がよくわからないまま山の中の雲巌寺に着く。
 ここで芭蕉は、仏頂和尚の山居跡を訪ねた。  仏頂和尚は深川での芭蕉の参禅の師であり、「鹿島紀行」で和尚を尋ねたり交流が深かった。

竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば

 人が生きていくのに、本当は草の庵さえ必要ない。もし雨が降らなかったのならば。ものごとへの執着や物欲をすべて捨て去った仏頂和尚らしい歌。
 芭蕉はこの歌に感動して、和尚の山居跡をたずねた。雲巌寺の本堂の裏手にはすぐ山がせまっている。仏頂和尚の庵の跡は右上の山の中にあったようだ。

雲巌寺のお堂
雲巌寺のお堂。ふたつが重なっている。屋根の姿が美しい。

 「かの跡はいずくのほどにやと、後ろの山によじのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。

 芭蕉はここでどんな山居跡を見たのだろう。「妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし」としている。みちのくの山間の岩にたてむすばれた庵の跡は、庵というにはあまりにも狭く、はかなく、感動、戦慄、涙なしには見られなかった。
仏頂和尚の生き様は、後の幻住庵での芭蕉の生き方や旅の「桑門乞食」姿のモデルになったのだろう。

木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立 

 啄木鳥も修行する和尚に遠慮して庵をつっつかなかったのだろう。夏木立のさわやかなイメージと重なって、とてもいい感じ。

竪横の五尺にたらぬ草の庵
雲巌寺境内の石碑
「竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば」
芭蕉は、今は亡き仏頂和尚の生き方に感動し、その生きざまを慕って雲巌寺を訪ねた。

 芭蕉の、隠棲者に対するいたわりと親愛の情が表現されている。
 風流の隠棲者に対する芭蕉の思い入れは、義に殉ずる武士の生き方とともに、絶大なものがある。芭蕉自身、伊賀上野の殿様の息子に仕えていて、その息子が亡くなったため役目を外されるという不遇を経験したからだろうか。芭蕉の句はやはり百姓や町人のものではなく、武士を解かれた風流人のものか。
 義経をかくまって滅んだ藤原氏三代の棺を納める光堂でも、同じような気持ちを表した「五月雨の降り残してや光堂」という有名な句を詠んでいる。志ならず歴史の闇に沈んでいったものに対する愛借の念は変わらない。

 雲巌寺の庭内にある写真の石碑は、「竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば」 。

 この後、芭蕉たちは「黒羽」に向かう。ここで13日間もこの旅一番の長逗留することになる。
 「黒羽の館代浄坊寺何がしの方」というのは、黒羽藩の城代家老、浄法寺図書高勝(ずしょたかかつ)とその弟、岡豊明は芭蕉を手厚くもてなした。兄は桃雪、弟は翠桃という俳号。芭蕉の門人だったのだろう。ここで、「日を経るまゝに、ひと日郊外(こうがい)に逍遥して、犬追物(いぬおうもの)の跡を一見し、那須の篠原を分けて、玉藻(たまも)の前の古墳をとふ。 」さらに那須野与一ゆかりの「八幡宮」、「修験光明寺」の「行者堂」を訪ねた。

殺生石
殺生石
殺風景な火山性の風景。恐山の賽の河原を小さくしたようなイメージ。芭蕉の時代には今よりもガスの噴出量が多かったのかも知れない。芭蕉同様、別にどうっということもない観光地。


殺生石 
[地図]

 是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、
野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす

 芭蕉には、殺生石より「口付のおのこ」(馬の口を取る男)が句をねだったことの方が印象に残ったようだ。優しいことを言うものだと思って即興の句を作った。動的で絵のように印象的な句。

 殺生石について芭蕉は、「石の毒気いまだほろびす。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどにかさなり死す」と書いているが、死んだ蜂蝶はまったく見かけなかった。
 「硫化水素ガスが発生していますので、非常に危険です。柵の中には絶対に入らないでください。」の看板が立っているが、現在は毒気は弱いようだ。

遊行柳 青田のなかの遊行柳

清水ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の里に有りて、田の畔(くろ)に残る。此の所の郡守戸部某(なにがし)の、「 此の柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此の柳の蔭にこそ立ちより侍りつれ。
  田一枚植て立去る柳かな


遊行柳 
[地図]

 次に芭蕉は、西行が「道の辺に清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ」とよんだ歌枕をたずねる。
 奥州街道の芦野から田のあぜ道を約200m入ったところにある。 みちのくの歌枕の情景として最もぴったりする景色のひとつである。稲穂の波の中に大きな柳の木が2本たっている風景は、すがすがしく美くしい。今も昔も変わらぬ東北のいや日本の原風景のひとつにちがいない。
  近くの中学校の生徒たちがあぜ道で私のような旅人に、「こんにちは」と大きな声をかけてくれたのがうれしい。地元ではこの「遊行柳」を大切に支えているのだろう。地元の学校の先生の指導のせいだろうか、旅人にもしっかり挨拶するし、地域の伝統・文化的なものを大切にする、こういう子供たちがしっかり育ってるのがうれしい。
 「遊行柳」の風景は、芭蕉の「おくのほそ道」の句のイメージが最も残っていているように感じる。私の好きな風景のひとつで、2年続けて尋ねてしまった。

 緑の旅人 西行ならば 歌を詠む

田一枚植えて立去る柳かな
田一枚植えて立去る柳かな」の石碑

 遊行柳の根元の田のすぐ横に石碑が立っている。芭蕉の句である。

田一枚植えて立去る柳かな

 西行の「道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ」の歌と謡曲「遊行柳」があってはじめて、この句の味がわかるというもの。田を1枚植える時間が「しばし」かどうかはさておくとして、芭蕉はそのくらいの時間、この柳の陰で、歌枕の場にたっていることの感慨にしたっていた、ということだろう。

 謡曲「遊行柳」は、遊行上人(時宗の開祖、一遍上人のことか)が諸国巡歴している時、白河の関のあたりで老婆に呼び止められ、「道の辺に清水流るる柳かげ」と西行が詠んだ銘木の柳の前に案内され、そのあまりに古ぼけた様子に上人が10回念仏を授けると老婆は消えた。 夜更けに、上人が回向すると再び老婆が現れ、極楽往生できたことを喜び、そのお礼に幽女の舞を舞う、というもの。
 大きな柳の木が2本ある。何代目かの遊行柳なのだろう。

何代目かの遊行柳
何代目かの遊行柳

 一遍もまた、全国を遊行し念仏を唱えながら踊らざるをえなかった人である。芭蕉は仏門に興味はあったがその道には入らなかった。一遍にも当然関心はあっただろうし近しいものを感じていたのではないか。一遍が踊る念仏なら、芭蕉は野ざらし風狂の俳人を自認しているのではないか。一遍は踊りながら、芭蕉は野ざらしを心に、何かを求め続けた。一遍は踊念仏による救済のあり方を、芭蕉は俳諧における風流の誠の心を求めて。だが、風流の誠とは何か。

 このあたりに、蕪村の句碑があるということだが、みつけられない。「柳散清水枯石処々」 (やなぎちり しみずかれ いしところどころ)。芭蕉没後22年後に蕪村が生まれた。蕪村が遊行柳を訪ねたころには、柳散り、清水枯れ、石ごろごろといった状態だったことがわかる。 ところで、芭蕉が訪ねたころの遊行柳はどうだったのだろうか。
この芦野のあたりは柳の木が目に付く。街道ぞいに柳の木が植えられていて「柳街道」とあった。もともと柳の多い土地がらだという。

道の辺に 清水流るる柳かげ
道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ」の西行の歌碑

 西行の歌碑。平成の時代にあってはこの石碑はしぶい。

 道の辺に 清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ

 芭蕉は西行の俤を求めて奥州行をしていようでもある。僧の格好をした西行と芭蕉が柳の陰でしばし休んでいるような情景が、時代を越えて伝わってくる。二人は何を語らっているのだろうか。
 「柳かげにしばし」やすんで、早乙女たちが田植をしているのをながめ、「早乙女たちの田植え姿はいいものだネ。風流に見とれるばかりじゃなく、わたしたちも田植などやってみましょうか」、「いやもう年ですから止めておきましょう」などといいながら、やがて田植が終わり、早乙女たちが他の田に移っていくと、「それでは私たちもまいりましょうか」といって立去っていくのだった。
 風流の人は早乙女たちの田植を鑑賞する。風狂の俳人は自ら田植をする。芭蕉はここで早乙女たちと並んで田植をしたかったのではないか。
 1枚の田を田植えして立ち去ったのは誰か。早乙女か柳の精か。柳の精に身をかりた芭蕉か。風流人のかなしさのようなものがにじんでいる。

遊行柳へのアプローチのあぜ道
遊行柳へのアプローチのあぜ道

 遊行柳へのアプローチのあぜ道。
 蕪村が訪ねた江戸中期には、柳散り、清水枯れ、石ころころの状態だったようだが、遊行柳は左の写真のように見事に再生されているが、清水はない。その代わりきれいな農業用水が勢いよく流れていた。大きな柳が左右に2本、幽女の舞のように見えなくもない。石の鳥居は遊行柳の先の山あいにある小さな神社のもののようだ。

 私の場合、芭蕉のおっかけはもっぱら下の愛用バイク。クリックすると大きくなる。芭蕉の旅も馬をよく使っていたようだから、現代の馬 バイクでも許されるだろう。歩いている人、ごめんなさい。

白河の関跡
白河の関跡

 

白河の関 [地図]

 心許(こころもと)なき日かず重なるまゝに、白河の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。中にも此の関は三関の一にして、風騒(ふうさう)の人心をとどむ。秋風を耳にのこし、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙(しろたへ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改めし事など、清輔の筆にとゞめ置かれしとぞ。
  卯の花をかざしに関の晴着哉  曾良
「古関跡」
白河藩主松平定信が建てた「古関跡」の碑

 白河の関は大化の改新以降7・8世紀〜12世紀頃まで設けられていたらしい。奥州との行き来が盛んになるにつれ、街道は西の方に移っていき、古い街道はいつしかその使命を終えたようだ。

 白河藩主松平定信が1800年に、この場所を白河の関とし、「古関跡」の碑を建てた。芭蕉のおくのほそ道の旅は1689年だから、この碑はまだ立っていなかった。関跡としてもほとんど整備されていなかったはずだから、芭蕉たちはどうやって関跡を見つけたのだろう。曾良の苦労があったのだろう。

 「みちの国へ修行してまかりけるに、白河の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が「秋風ぞ吹く」と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
白河の 関屋を月の もる影は 人の心を 留むるなりけり (1126) 」 (西行「山家集」)


平兼盛・能因法師・梶原景季 3人の歌碑

 西行もまた、能因をものすごく意識している。いや、能因の歌枕を追いかけての旅というのがあたっているようだ。

能因法師の歌
都おば霞とともにたちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関

 そして芭蕉が「おくのほそ道」で西行の後を追う。さらに現代の野次馬たちが。
 
 左の石碑は3人の歌人の歌が達筆にかかれている。こういう達筆にはまいってしまう。

「便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと 平兼盛
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 能因法師
秋風に草木の露をはらわせて君が超ゆれば関守もなし 梶原景季」

卯の花をかざしに関の睛着かな
「心許なき日かず重なるままに、白河の関にいたれば・・」の記念碑

 左写真は、 「心許なき日かず重なるままに、白河の関にいたれば・・」の記念碑。 森の中にある。芭蕉もいちおう、白河の関にたった感慨を名文調で表現したが、句はよんでいない。
 曾良の「卯の花をかざしに関の睛着かな」をあげているだけ。 江戸時代には、この関はなかったし、ここ以北を異境とする感覚はなくなっていただろう。ここでの芭蕉の句はない。

「『白河の関いかにこえつるや』と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばわれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかいう思ひめぐらさず。」としながらも、
「風流の初めやおくの田植うた
と詠った。曾良がうまい句を作ったが、芭蕉はなぜか「風流や・・・」と白河の関のあたりの田植歌を聞いて風流の旅のはじまり、と感じたままを詠んだ。芭蕉の風流心がみちのくと都とのありきたりの表現に納得せず、この句しか許さなかったのだろう。この旅への芭蕉の心意気があらわれている。

芭蕉・曾良像
白河の関跡近くの公園にある芭蕉・曾良像

 草に埋もれた白河の関跡に立って、芭蕉は何かをつかんだのではないか。
古人の跡を追わず、古人の求めたるものを求めよ」。
 いよいよおくのほそ道、風流の旅の一歩と覚悟を決め、その風流を歌枕の白河の関ではなく、聞こえてきた田植歌に感じた。この芭蕉の感性と覚悟がすばらしい。
 「風狂の狂客、狂風を起こす」(一休) この軽さは芭蕉が「野ざらし」の自分をとりもどした心の軽さの顕れではないか。みちのくの旅の「旅心定まりぬ」である。

 白河の関跡近くの公園にある芭蕉・曾良像。2人とも小さいく子供のような可愛らしい感じ。子供でもわんぱく小僧といった感じ。「風狂の狂客」にふさわしいようでもあり、やや離れているようでもあり。
 公園の中に、昔の白河の関を再現した建物がある。

白川の関跡の遠景
白河の関跡の遠景
 白河の関跡。現在は森の中にある。田んぼの緑の中の小高い丘で、右側の山すそに続いている。
 この風景は芭蕉が尋ねたときとほとんどかわっていないのではないか。いや、当時はもっと草深く荒れ果てた風景だったはずだ。みちのくの歌枕をたずねる旅の現実である。だが、それだからこそ先人の労苦がしのばれ旅情も深まるというもの。

 「卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。
と芭蕉はうたっている。
photo by miura 2005.9 mail:お問い合わせ 千住〜八島
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