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千住・草加・八島へ


睦ましきかぎりは宵よりつどひて、舟にのりて送る。千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷(ちまた)に離別の涙をそゝぐ。

  行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)

 これを矢立(やたて)の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと見送るなるべし。

墨田川に掛かる千住大橋
国道4号線、日光街道。墨田川に掛かる千住大橋。千住側から。

蕪村は16巻あまりの「奥の細道画巻」を残している。この俳画がそれぞれ少しずつ違っているが、どれもすばらしい。 そこから千住での人々の見送りの様子。芭蕉の旅への心意気が顔にでている。

行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)
行く春を惜しんで、鳥が鳴き魚も涙を流している。もう生きて戻れないかもしれない。見送りに来た人も別離を悲しんで涙を流している。ややパターン化された表現か。

 元禄2年(1689年)、芭蕉46歳。「おくのほそ道」の旅に出る。

 国道4号線、日光街道。墨田川に掛かる千住大橋を渡ったすぐ左手のたもとに小さな公園がある。奥の細道のルートマップや、芭蕉の記念碑があるが、風情とは無縁のたたずまい。浮浪者が一人、梅雨明け間近の空の下でぼんやりと座っていた。隅田川とは数メートルの高いコンクリートの土手で仕切られていて隅田川の眺望はない。残念。芭蕉の想いに浸ろうにも、公園内の記念碑は半分草に埋もれ、休む場所もない。公園の入り口に案内板がある。絵入りのわかりやすい資料で、江戸時代の千住付近の雰囲気がよくわかって興味深い。
 かっては隅田川はここまでで、ここから上流は荒川になったという。人々はここまで芭蕉についてきて、見送ったようだ 。
 出立は陰暦の3月27日(陽暦の5月16日)だったようだ。曾良日記では3月20日(廿日)となっているが。
[地図]

 公園には芭蕉の「千住というところにて船をあがれば、・・・」のりっぱな石碑がある。石碑の下半分は草に覆われて文字が読みづらくなっていた。左下の写真。

 健脚の芭蕉ではあったが、身体が弱かったという。アレルギー体質で、慢性的な気管支炎や消化器系の病気をかかえていたようだ。

千住大橋のたもとの公園
千住大橋のたもとの公園。芭蕉の案内板がある。


旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る

 これは芭蕉の臨終の句といわれているものだが、芭蕉の旅は常にこうだった。病弱の芭蕉にとって、おくのほそ道のみならず、旅はすべては命がけの旅だった。旅に死すとも本望、という思いがあったのにちがいない。命がけの旅に芭蕉を駆り立てたものは何だったのか。先人の能因や西行の「歌枕」をたずねるという直接の目的があったが、旅に出ずにはおれない何があったのだろうか。

 「おくのほそ道」の5年前の「野ざらし紀行」に次のような文がある。
武蔵野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、
しにもせぬ旅寝の果てよ秋の暮
」(「野ざらし紀行」)

千住大橋のたもとの公園内にある「おくのほそ道」碑文
千住大橋のたもとの公園内にある「おくのほそ道」碑文。

 「野ざらし」は野に朽ちゆく骸骨のイメージだろうか。病弱な芭蕉にとって「旅」は死と隣り合わせだった。
 そして、旅の終わりの句。

夏衣(なつごろも)いまだ虱(しらみ)をとりつくさず


 旅が終わっても芭蕉の心はまだ旅の中で夢遊している。
「ここに草鞋をとき、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ、
年暮れぬ笠きて草鞋はきながら

 風流の誠を追い求めての旅なのか、ほとんど放浪性癖に近い旅なのか。


旧日光街道は草加の綾瀬川にそっていた。現在は気持ちの良い公園が綾瀬川にそっている。

草加の綾瀬川

 現在の国道4号線の東側にある旧日光街道は、草加の綾瀬川にそっていた。綾瀬川のほとりの街道筋は、松並木の公園として整備され、市民の憩いの場となっている。川沿いの緑の松並木が美しい。
 街道筋は綾瀬川沿いに「札場河岸公園」となっていて、入り口に芭蕉の銅像がある。俳句の碑がいくつもあって、市民に親しまれていることがわかる。
 芭蕉も弟子の曾良といっしょに重い荷物を担いで、この道を歩いたのだろうか。
[地図]

綾瀬川のほとりにたつ芭蕉の銅像
綾瀬川のほとりにたつ芭蕉の銅像。なかなか渋くてかっこいい芭蕉。
「生きて帰れないかも知れない」と江戸を振り向く芭蕉
「生きて帰れないかも知れない」と江戸を振り向く芭蕉。

行き行きて倒れ伏すとも萩の原  曾良

  これは曾良の句で「おくのほそ道」の中山での芭蕉との別れの際の句だが、この思いは同時に芭蕉の真情だったにちがいない。
 芭蕉は、病身をおして先人の生きた証の場所に立会い、自身の実存を確かめ存命のよころびに感動する。我が身と心を野ざらしにし、その果てに見えてくるものは何か。芭蕉は何を求めようとしていたのだろうか。

古人の跡を求めず。古人の求めたるところを求めよ」(芭蕉「許六離別の詞(柴門ノ辞」より)。
 古人を慕って歌枕をたずねつつも芭蕉は、乞食僧すがたで風雅の道を歩んだ古人の心を求めた。芭蕉は自分のことをもまた「乞食」と呼んでいる。「桑門の乞食」や「乞食の翁」という規定は芭蕉の生き方や旅に対する想いや覚悟だが、崇拝する西行の真似でもあったのだろうか。それをいっぽうでは「風流」や「風雅」として楽しんでいるふうでもある。「桑門の乞食」を気取ってはいるが托鉢はしていない。だが、この銅像の芭蕉の顔は厳しくさびしい。

野ざらしを心に風のしむ身かな

  「野ざらし紀行」の最初の一句。覚悟はしてもさすがに旅の風は身にしみて寒く、厳しい。

 綾瀬川のほとりにたつ芭蕉の銅像。同行していた曾良がいないのが、ちょっとさびしい。このやせこけた芭蕉像がもっとも都会的に洗練されいるように感じるが、深川のふっくら芭蕉に比べるとややカッコよすぎる気もする。

 芭蕉の銅像を拡大したもの。
 芭蕉は寂しげな表情で江戸の方角を向いている。今生の別れとなるかもしれないという想いで、江戸の方を振り返ったのだろうか。 芭蕉の像は、もう二度と戻ってこれないだろう、という顔をしている。

 ことし元禄二とせにや、奥羽長途(ちょうど)の行脚(あんぎゃ)、たゞかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨(うらみ)を重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬさかひ、もし生きてかへらばと定めなき頼みの末をかけ、其の日漸(ようや)く早加といふ宿にたどり着きにけり。
旧日光街道、「日本の道100選」
旧日光街道、「日本の道100選」。
痩骨(そうこつ)の肩にかゝれる物まづ苦しむ。只身すがらにと出で立ち侍るを、紙子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちす)てがたくて、路次(ろし)のわづらひとなれるこそわりなけれ。

 石碑には上の一文が刻まれているが、風化のためか読みづらい。
 この道は旧日光街道で「日本の道100選」のひとつ。それを記念した石碑もたっている。

碑文「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」
碑文「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」

 碑文「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」
 交通量の多い道路際に立っている。昔は千住を出ると草加まで葦の原が続いていたという。今はその俤はない。


 「無能無芸にして只此一筋」という芭蕉は、俳諧の道一筋に生きようとした。「日々旅にして旅を栖(すみか)とす」る芭蕉はそのような生活=旅の中から新しい俳句の境地、俳諧表現を生み出そうと苦闘した。俳諧のまことを求め、一所不住、住居不定をちかい、たよるは風狂の精神のみ。
栖(すみか)をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の憂ひもなし」(笈の小文)
 庵も売り払って旅に出た。失うべきものは何もない。ただ求めるものは風雅のまことのみ。

「笈の小文」の序文より
百骸(ひゃくがい)九けいの中に物有。かりに名付けて風羅坊(ふうらぼう)という。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終(つひ)に生涯のはかりごととなす。ある時は倦(う)んで放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、これが為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫らく学んで愚を曉(さとら)ん事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無芸にして只此(ただこの)一筋に繋(つな)がる。 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道(かんどう)するものは一つなり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
 神無月の初め、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
 旅人と我名よばれん初しぐれ
  又、山茶花(さざんか)を宿やどにして
百骸九けい=多くの骨と九つの穴、つまり肉体のこと。物=こころのこと。
風羅坊=風に破れやすいうすもの。芭蕉の別号。

小渕山観音寺にある「ものいへば」の石碑
小渕山観音寺にある「ものいへば」の石碑。しぶい。

 4号線・日光街道ぞいにある小渕山観音寺。建物はりっぱだが、全体にくたびれてきている。境内に芭蕉の句碑がある。

ものいへば唇さむし秋の風

という芭蕉の句がある。「おくのほそ道」には収録されていないが、味のある句。俳諧の宗匠として苦労も多かったのだろう。いろいろな意味に解されそうだが、話しただけでも唇が寒くなるような厳しい寒さ、程度の意味でよいのでは。それにしても、さむくなるような石碑だが、誰が書いた文字か風情がある。これもまた「風流」か。

法音寺の芭蕉の句碑「道ばたのむくげは馬に喰われけり」。
法音寺の芭蕉の句碑「道ばたのむくげは馬に喰われけり」。

 法音寺の芭蕉の句碑。
道ばたのむくげは馬に喰われけり

 「のざらし紀行」の小夜の中山(静岡県掛川市日阪付近)越えをするさいに馬上から詠んだ句。

山路きて何やらゆかしすみれ草

という句も同時に詠んでいる。立派な解説板に下のような芭蕉の絵があった。

宮さびたたたずまいの大神神社
宮さびたたたずまいの大神神社 。

室の八島

 日光街道から壬生通りに入り、いろいろ探し回ってようやくたどりついた。
 「室の八島」があった(?)大神神社。境内は宮さびて、身にしみて寂しい。芭蕉が訪れた頃は、立派な社だったのだろう。

[地図]

「糸遊」の句碑
「糸遊」の句碑。すぐ右が「室の八島」。

 湧き水があり、その池の中に8つの島がある。そこから水蒸気が立ち上るということで有名だったらしい。8つの小さな島に小さな社がある。その入り口に芭蕉の碑が立っていた。

糸遊に結つきたる煙哉

 芭蕉の句だが、「おくのほそ道」にはない。「糸遊」はかげろうや風に流されるくもの糸のことらしい。この句が八島とどう関係するのか不明。

 どうも「室の八島」とは歌枕という幻想であるようだ。

 
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