なぜ学ぶのか
1. なぜ勉強しなければならないのか
2. 学ぶことの個人的な理由
3. 学ぶことの共同体的・集団的な理由
4. 「なぜ学ぶのか」~実現すべき自己とは何か~
5. 学ぶことの法的な規定をみると
3. 学ぶことの共同体的・集団的な理由
人は個人の幸せや成功のためだけに学ぶのではない。国家・社会を離れたころで個人の生活は成り立ちえないので、個人が学習するのは国家・社会のため以外にはありえない、ともいえる。しかし個人の目的を国家や社会の要請に同化させるのは無理な飛躍があり、多くは欺瞞であり幻想であるが、次世代への知識や技術や文化の伝承というのは説得力がある。
自分のためだけではなく、集団や他の人の幸せのために勉強する。
集団として生きのびるため、知識・知恵、技術・経験を継承させるため。
社会や共同体の発展と平和と幸福のため、それが次世代に引き継がれていくようにするため。
「国家及び社会の形成者として必要な資質」の育成のため。
義務としての教育だけでは、子供のやる気がでない。別の動機づけが必要である。個性や自主性や主体性が尊重され、「生きる力」が求められる教育の現状のなかで、 家庭環境や学習に向かう姿勢の差によって学習環境格差や学力格差が目立ってきている。
なぜ働かなければならないのか。なぜ生きなければならないのか。

個人的に、わからないことについて知りたいという原初的な知的好奇心から勉強できる人がいる。それは個人の特性でもあるが、人間の本来的な欲求でもある。人間は他の動物に比べかなり行動的で活動的だといわれる。だから人類はアフリカの大地溝帯のあたりで発生し、400万年をかけて世界隅々までグレートジャニーを行って現在に至っている。行動力とともに、知らないことを極めたい、未知の何かを見つけたいといった知的好奇心、いや冒険心や探検心がないと、人間は世界を制覇することはできなかったたろう。おそらく、安定した生活をすて生命の危険をも顧みず、こういった冒険に自らを投げ入れてきたのだろう。こういった能力や特性は人間の類としての本性的なものなのだろう。人間というのはつくづく不思議な生き物なのだと思う。

国家や社会のためとかいったことではく、家族や愛する人やあの人たちのためなら勉強できるのではないか。それは同時に自分のためでもあるのだが、その一番に他の人の幸せのためにをもってくるのがいい。自己保存的な志向と対他的な志向、この2つが学習へ向かうより根源的な原動力になるのではないか。

自分のために、自分の利益や金銭のために勉強するとか働くとかは、生き方として卑小でつまらない。国家や社会ましてや会社のために勉強するというのは、そういう生き方もあるのだろうが、どこか虚偽のにおいがするし虚妄のようにも思う。自分の幸せのためよりも、他の人の幸せのために、隣人の幸せのために一生懸命に勉強せよ。医者になって人の命を救う、教師になって子供の将来の幸せのために指導する、喜ぶ笑顔のために手荷物を届ける、食べる人のおいしいという顔を見たいために料理をつくる、困っている人を助ける福祉や介護の仕事をしたい、作物をつくりたい、草や木を育てたい、自然に触れる仕事がしたい。それが類としての人間の生き方であり働き方であり学び方であると思う。これは強制ではない。子供たちは、この類としての要請をどこかでしっかりと内面化する必要がある。

人間は社会的なものであり、共同体との関係なしには生きていけない。だから個人のために学び働くよりも、所属している集団や共同体のために学び働く。個人は集団や共同体の中で、そうすることが期待される役割を自覚し、引き受け、その役割のために学び働く。仕事がそうであるように勉強も、他の人の幸せの為にするものである。

だが、時の政府が体現する国家や所有者・経営者の会社のためではない、もっと理念的な公共のために、共通の利益のために、類として全体的な幸福とバランスのとれた発展のために学び働くのではないか。具体的には、自分の成長を願う家族や隣人のために先生や周りの友人のため、一緒に働く友のため、その期待に応えるためというかたちでの学習動機の発現があってもよいと思う。