なぜ学ぶのか
1. なぜ勉強しなければならないのか
2. 学ぶことの個人的な理由
3. 学ぶことの共同体的・集団的な理由
4. 「なぜ学ぶのか」~実現すべき自己とは何か~
5. 学ぶことの法的な規定をみると
2. 学ぶことの個人的な理由
なぜ勉強しなければならないのか、その理由を求めると次のような回答が出てくる。
よい大学に入り、よい会社に入り、高収入を得て安定した生活おくるため。
人間の自由の多くはお金で買える。そのお金を儲けるため。
自分の能力を拡張して、やりたいことがやれるより大きな「自由」を得るため。自己実現のため。
光り、輝くため。自分の人生をより楽しく、意義のあるものにするため。より豊かで充実した人生にするため。
知的好奇心から。わからないことについて知りたいという純粋な欲求から。
義務からではなく学びたいものを学びたいように学ぶ。やりたいことをやる。
大人になっても日々学習。生涯学習・知識基盤社会では当然のこと。
学びとは、学習であり、「学んで習うこと」である。そこには自主性や主体性がある。それに対して勉強は、学習に対して「強いられて勉める」といったニュアンスがある。「学び」には「習う」より知識や技能や方法についての主体的な探究意欲が感じられる。教育といったレベルで考えるなら「学習」という言葉がふさわしく、それが子供の個人的なレベルでは「学習」が「勉強」という形で発現するように思う。ここでは適宜、学習と勉強を使う。

なぜ勉強しなければならないのか。この問いへの解答は簡単で自明のようにも思われるが、考えを進めていくと直ぐ壁にぶつかる。この問いは、なぜ働くのか、なぜ生きるのかという問いに直結していることがわかる。だから、親も子も余計なことは考えずに「義務教育だから」、「黙って勉強しろ」という言い方ですませようとする。
子供は素直に勉強への動機づけを自分で会得する場合もある。病気で苦しんでいる人を助けるお医者さんにあこがれて、自分も勉強して立派な医者になりたいと思う人もいる。たくさんの人を乗せて安全に正確に電車を運行する運転手なりたいと思う人もいる。素晴らしい建物を設計したり建築したりする職業に憧れて建築士になりたいと思ったり、自分の技術で家を建てられる大工さんに憧れたり、やさしかった看護師さんになろうと決意したり、人それぞれの動機により将来の職業を考え、その目標に向かって勉強に励むということもあるだろう。このような将来の仕事を夢みて勉強するというのが、本来的な勉強であり学習なのだろうと思う。だが、実際は将来のやりたい仕事から勉強に励むという動機付けの子供はそう多くはないのではないか。どうしても言えといわれれば、仕方なく答えることはあっても、多くの子どもは漫然と将来の希望も就きたい職業もなく、義務教育としての勉強に耐えているのではないか。それは社会経験の少ない子供たちにあっては致し方ないことなのだろう。

安定志向は親の期待か子の願望か。いずれにしても先の見えない不安な時代なあっては安定志向は必然的な動機ではあるだろう。「お金を儲けるため」というストレートで率直な学習動機は、資本主義社会では極めて正常な原則だろう。それをテコにした自由の拡張や自己実現ややりがい、充実した人生といった価値の実現は人生を自分のものとして積極的に生きようとする人には当然のことであろう。それは資本主義社会にあっては、経済社会を動かし進展させる原動力になるものなのだろう。
そういった生き方や学習への動機づけは、否定できるものではないが、なにか寂しいものを感ずる。実現したい何かがあるのに、そのための生活資金の確保や軍資金稼ぎやさらにはお金儲けを目的とした仕事に邁進するのは、目的と手段の逆転というか本末転倒、玩物喪志になってしまう。貧しい生活から抜け出すためやよりよい生活や人生のために資格取得や技術取得を目指して努力し、勉強するというのはよいが、金儲けが自己目的化して拝金主義に陥る人の人性は悲しい。

義務教育で勉強への立派な動機づけがあっても、子供の側からのその動機や必要性の受容がないと勉強はすすまない。資本主義であるから、人間の労働力が原初的な商品価値であることに変わりはない。一生懸命に勉強し、よい大学に入り、よい会社に入るということは自分の商品価値を高めることであり、端的には自己の労働力としての価値を高く売ることができるということである。だから親は子に、安定した生活と高収入を得るために、よい大学・よい会社・よい仕事に就けるようにと、勉強しなさいという。
自己の労働力を商品として売るにしても、それを元手に事業を起こすにしても、それはより高い付加価値を生み出せるかどうかということであり、具体的には高い給与・報酬をもらえるかどうか、売上をあげ利益を出せるかどうか、ということである。現代社会は、人の労働力を商品として販売したり、労働により製品をつくり商品として販売することによってお金を稼ぐしか、生活を維持できないのか。晴耕雨読のような生活もできなくはないだろうが、すべての人に勧められることではない。

勉強する目的が、なぜ仕事をするのかと同様に、お金を稼ぐためというのでは哀しい。資本主義社会は、人間生活のかなり多くの部分が商品となりお金で買うことができる。この社会で生活するためにはお金が必須である。それはよくわかる。
勉強するのは、自分のより大きな自由を確保するためであるという言い方がある。職業選択の自由もあれば自分の能力や適性に合わせて職種も選ぶことができる。要するに、将来の仕事の選択の幅を広げ可能性を広げることができるということである。確かに、人間としての自由の拡張は魅力的で勉強の大きな励みになる。自由な生き方をするためには、学ぶための方法をしっかりと身に着け、自分の自由を実現するための必要な情報を集め技能を習得し、課題を解決し、方略を実行する能力をもっていなくてはならない。だが人間的な自由の実現の多くもお金で買えるという現実があるのも事実である。われわれが常に学習し勉強し続けるのは、その2つを同時に実現するということであろう。